たとえ信心深い人であっても、宗教に疑いをいだく決定的な瞬間というものがある。

たとえば、ドストエフスキーの未完の遺作「カラマーゾフの兄弟」の中に、イエスを拒絶する、有名な「大審問官」の章がある。さらに、その前章「反逆」には、次男イヴァンによる「神の存在そのものの否定」が描かれている。その内容は、非常に説得力のあるもので、同様の内容はホロコーストの生存者エリ・ヴィーゼルの自伝「夜」にも見られる。

エリ・ヴィーゼルはアウシュヴィッツに収容された時、15歳の少年だった。彼が体験したエピソードの一つに、次のようなものがある。


その美しさから、ナチスの将校や憲兵隊に可愛がられ、アウシュヴィッツ収容所の中でも特別扱いされて、そのおかげで収容所内を自由に動き回れたユダヤ人の利発な少年が、収容所で衰弱していく人々に、密かにパンを配ってまわっていた。しかし、ある日、この少年が、見せしめのために殺されて、その死体は絞首台に吊され、ぶら下げられた。

その死体を見た一人の男が「いったい神はどこにおられるのだ?」と呟いた。そして、それを聞いたエリ・ヴィーゼルは、自分の心の中で、誰かの声がその男に答えているのを感じた。「どこだって?ここにおられるーここに、この絞首台に吊るされておられる…。」


名著「夜」の中でも、最も印象的なシーンである。

上記の出来事、つまり、虐げられている善良で罪のない者たちを助け、唯一の希望となっていた、勇敢で慈悲に溢れた存在を、無慈悲に処刑するーこれが、神の計画の一部だと言うのなら、そのような邪悪な存在を、私は神と呼ぶことはできない。そんなものがいるとしたら、それは、人の運命をもてあそぶ〝存在X〟に過ぎない。

人類の歴史を裏から支配する全能なる存在の計画があるなどとしたら、ホラーでしかない。

だから、私は神の存在を信じることができないのだ。

まさにニーチェが言うように「神は死んだ」ということなのだろう。


仏教でも、親より先に死んだ子どもの霊は、親不孝の大罪を為したので、成仏することができず、三途の川を渡ることができないので、賽の河原で石積みをしなければならないなどと理不尽なことを言う。

しかし、この子どもたちが、どんな罪を犯したと言うのだろうか。「親を悲しませた罪」とは言うが、それでは、親の虐待で亡くなった子どもの場合はどうなのだ。真夏のパチンコ屋の駐車場で、閉め切った車の中に放置されて、親がパチンコに夢中になっている間に脱水症状で命を落とした子どももいる。罪があるのは親であって、子どもに罪はないだろう。

飢えた人たちにパンを配って処刑されたアウシュヴィッツの少年は、どんな罪を犯したというのか。彼こそは生ける天使であった。邪悪なる者たちの手によって理不尽に命を奪われた天使に何の罪があったというのだ。


病気で亡くなる子どもたちも、「途上国でなければ、親が貧乏でなければ助かった」という場合が少なくないだろう。そうすると、そもそも、生まれた場所が間違っていたということになる。しかし、子どもは生まれ落ちる場所を選べない。それなのに、なぜ、間違った場所に生まれたことが子ども自身の罪になるのか。

生まれつき障害を持って生まれ、ほとんど世の中のことを何も知ることなく、ただ家族の愛情に包まれて、およそ、この世の穢れをほとんど知らず、罪を犯す事なく、早逝した霊もあるだろう。

汚れなき障害児たちに何の罪があると言うのだろうか。むしろ、生きている我々の方が、はるかに罪が深いのではないか。

罪なき者たちに罪を押しつける無法がまかり通る。

あの世ですら、そんなパワハラが起こるというのなら、もはや、私は、神の教えも仏の教えも信じられない。


世界は差別と不平等でできている。だから、人間のつくった宗教の教えにも、差別と不平等の刻印がある。

例えば、ヒンズー教では、カーストによる身分差別が認められている。最上級のカーストであるバラモンに生まれた者は、前世で功徳を積んだために魂が清浄であり、そのおかげで、今世でも最上級のカーストに生まれることができたのだという。一方で、最下級カーストの不可触民は、前世の悪行のせいで魂が穢れており、そのために今世でも最下級カーストに生まれることになったというのだ。彼ら不可触民の魂の穢れはひどいので、近寄ると、こちらの魂も穢れてしまう。それが嫌なら、不可触民には絶対に触れるなと言うのだ。


こうした身分制度を固定化する価値観は、インドに侵入したアーリア人がドラヴィダ人支配を恒常化するために生み出した支配階級に都合の良い考え方だ。

当時、インドを征服し、支配者となったアーリア人は、金髪碧眼、白い肌を有する自分たちは、霊性から高貴な生まれながらの貴人であり、土着の先住民である黒髪黒眼、浅黒い肌のドラヴィダ人は、霊性から卑しい穢れた民で、奴隷にふさわしいと考えたのだ。

しかし、このインドのヒンズー教の教えは、日本の仏教にも大きな影響を与えている。

日本のお坊さんも、現世で金持ちに生まれた人、優れた才能を持って生まれた人は、前世で功徳を積んだおかげだという。逆に、今世で不幸な人、貧困や病いや孤独や虐待に苦しむ人、障害者や才のない人は、前世の行いが悪かったからだと説くのだ。


しかし、ガンジーは、豊かな商人の家に生まれたが、自宅の便所掃除をしている不可触民の姿が見えた時に、優しい母親から「あの人たちを見てはいけません」と言われて、ショックを受けたという。そして、イギリスで弁護士資格を得て、インドに帰ってきたガンジーは、一族の反対をおしきって不可触民の娘を養女とした。ガンジーは「不可触民と呼ばれる人々は、最も困難な環境で魂の修行を続けているという点で、最も神の御心にかなった清浄な魂を持つ人々だ」と述べた。

しかし、そう教え諭していたガンジーも、頑迷な者たちの逆恨みによって暗殺されてしまった。その立派な優しい教えも、現在、インドでは見向きもされない。ガンジーの銅像も、倒されて打ち捨てられ、苔むして朽ちていくのみだ。


教えが正しいから広まるのではない。教えが人を幸せにするから広がるのでもない。より優れた教えが残るのでもない。

類が友を呼び、悪貨が良貨を駆逐し、さながら時間の経過とともにエントロピーが増大するように、混乱と狂気が蔓延していく。ただそれだけのことだ。

マルクスの言葉で、唯一正しかったのは「宗教はアヘンである」という言葉かもしれない。

人は精神的な危機に陥ると、容易に共同幻想という狂気に依存するようになる。そして、その依存は、アヘンのように禁断症状を伴うようにもなる。

宗教の薬害は、麻薬同様に深刻であり、その被害は甚大なものとなる。


いったい宗教に何の意味がある?

ただ人心を惑わし、人の心を頑なにし、より多くの混乱と対立と悲劇と犠牲者を生み出すだけではないのか。

ちょうど、パレスチナやイランとイスラエルの紛争が終わることがないように、宗教は終わりなき争いを生み出す元凶に過ぎないのではないか。