江戸時代までの庶民であれば、ごく当たり前の感覚で理解できたのが、令和の現代人には意味が分かりにくくなっている〝ことわざ〟が沢山あります。


袖擦り合うも他生の縁(そですりあうもたしょうのえん)

『袖擦り合う』というのは、道ですれ違うときに、互いの袖が触れ合うことです。単に、道が狭いとか混んでいたからとか急いでいたから、とかの理由ではなく、「そうなったのも、ひとつの『縁(えん)』なのですよ」という教えです。

『縁』というのは、「物事の関わり・つながり」を意味する仏教用語です。主に「人と人との出会いを生じさせる原因となる要素や関係性の複合作用」の意味で使用されます。「物事が起こる理由・起因」という意味でも使用されます。

関連する用語で『因縁(いんねん)』という言葉がありますが、これも「『物事を起こす直接の原因である〝因〟』と『その因を助ける間接の条件である〝縁〟』という二つの力によって、この世の全ての事象は起こるのだ」という仏教思想を背景として、「あらゆる事象の直接・間接の原因」または「人と人の間の複雑な関係性」という意味で用いられる用語です。

さらに『縁起(えんぎ)』という言葉がありますが、「何事も縁があって起こる」という仏教の考えから、「物事の起こり・起源・由来」あるいは「物事の前触れ・兆し・前兆」という意味で使用される用語です。

さらには「男女の縁(えにし)は、どこでどう結ばれるかわからない、まことに不思議で趣深いものである」という意味で、『縁は異なもの味なもの』ということわざもあります。

ただ、『袖すり合うも…』のことわざを理解する上では、「〝他生の縁〟とは、どのような縁なのか」というところが分かりにくいところで、私も十代の頃は「多少の縁」程度の軽い意味だと勘違いしていました。「道ですれ違うときに袖が擦れ合うのも、何らかの縁が多少はあったのではないかね」というレベルのいい加減な理解をしていたわけですが、これが大きな間違いでした。

『他生』とは、「他の生」つまりは「前世」のことで、『他生の縁』というのは、「前世からの縁」という意味なのです。

ここで言う「縁」は悪い意味ではありません。むしろ、前世で仲の良い友人や恋人や家族だった縁かもしれません。知らず、『赤い糸』で生まれる前から結ばれていて、互いに、その糸の引き合いに導かれたのかもしれません。

そう考えると、ちょっとした出会いであっても、これも大切な縁ではないかと思えてきます。それが『一期一会』の感覚ですね。

しかし、このことわざは、仏教的な『輪廻転生』の世界観に基づいていますから、仏教的には一般的である「生まれ変わり」という考え方に馴染みのない現代人にとっては、いまひとつピンとこないかもしれません。


情けは人の為ならず(なさけはひとのためならず)

「困っている人に情けをかけるのは、その人の為にならない。」「安易に人を甘やかすべきではない。」「自己責任の精神を育てる為には、手助けを控え、敢えて苦労をさせて、独力で解決するすべを学ばせるべきだ。」言わば「かわいい子には旅をさせよ」の他人バージョンであるとする解釈が、巷に蔓延しております。

おそらく、リバタリアンの感覚や思想の影響を多かれ少なかれ受けている現代人のほとんどが、このことわざを、上記のように理解していることでしょう。

しかし、本来は、まったく逆の意味合いを持つもので、正しい解釈は次のようなものです。

「困っている人を助けるのは、その人の為ではない。『明日は我が身』『人間万事塞翁が馬』ということわざもあるように、人の運命は先の見えないものだ。いつかは自分が窮地に陥ることもあるだろう。そうなった時、今度はあなた自身が助けられる側にまわることになるのだ。その時、世間の誰からも見捨てられ、救われずにひとりぼっちで沈んでいく運命を回避したければ、そんな冷たい世の中にならないように、自分が助けられる時は、進んで人を助ける者となりなさい。それが、儒教で言うなら『徳を積む』ということでもあるのです。人は徳を積むことで、本来なら被るはずだった災難を免れることもできるのですよ。」

今、あなたが人を見捨てたように、明日は、あなたが人に見捨てられるかもしれません。これを仏教では『因果応報』と言います。

儒教や仏教の素養のない現代人にとっては、何をいっているのか、まるでわからず、受け取り方によっては「巡り巡って自分もいつか救われますように」という願いも、「結局は利己的な欲得であり、ギブ・アンド・テイクの損得勘定に過ぎないのではないか」「卑しい根性だ」と感じるかもしれません。

しかし、それは、「明日は我が身」を想像できない貧困なイマジネーションの成せるわざです。

また、本来、『徳を積む』というのは、仏教・儒教的には「自らの魂・心を磨く修行をする」という意味なのです。ソクラテスの哲学でいう「よりよく生きる」という倫理観にも通じるかもしれません。

結論を言うなら、このことわざは、「困っている人を助けるのは、自分の魂・心を磨く修行をさせていただいているという意味で、人のためでなく、自分のためなのだ」と言っているのです。

しかし、これもまた、宗教や哲学の素養の乏しい現代人の多くにとっては「魂・心の修行って何?」と、頭の中が疑問符だらけとなり、意味が掴みにくいかもしれません。


三人寄れば文殊の知恵(さんにんよればもんじゅのちえ)

中国地方の覇者となった戦国武将毛利元就が三人の息子に授けたとされる『三本の矢』の教えにも通じますが、一人の知恵より、二人の知恵、二人よりも三人の知恵が優れているという意味です。矢が一本では、折ろうと思えば簡単に折れてしまうが、三本の矢をまとめると容易には折れないのです。それと同様に、1人の知恵はたかが知れているが、三人で知恵を出しあえば、素晴らしい知恵が生まれるかもしれません。

さて、ここで問題となるのは『文殊の知恵』とは何かということです。「文殊」というのは、仏教の仏さまの一人である「文殊菩薩」のことです。

「菩薩」は、仏さまといっても、釈迦のように悟りをひらいて「如来」となった最高位の存在ではありません。菩薩は、釈迦の直接の弟子たちの中でも、最も優れた者たちであり、すでに一度は天に昇ってはいるのですが、自らの悟りを得る修行を極めるために、下界へ降りてきて、衆生を救うために尽力している方たちです。このように菩薩が行なっている衆生を救う修行を『菩薩行』と言います。この菩薩行を通じて、諸菩薩は、如来のように悟りへと至ることを目指しているのです。

誰でも知っている有名な菩薩には「観音菩薩(観音様)」「地蔵菩薩(お地蔵さん)」「弥勒菩薩」などがいらっしゃいます。

このことわざで出てくる文殊菩薩は、知恵の教典である般若経典を携え、悟りへと至る智慧を司る仏で、諸菩薩を主導する「説法する仏さま」として、釈迦如来の向かって右(左脇)に侍します。向かって左(右脇)に侍し、慈悲を司り、あらゆる所に現れて人々を救う「行動する仏さま」として「行の仏」とも言われる「普賢菩薩」と対になり、「釈迦三尊」の一つとして安置されます。

また、文殊菩薩は一般的な知恵の象徴ともなっており、そこから、このことわざが生まれたものと考えられます。

そのため、このことわざは「三人が力を合わせれば、(文殊菩薩のような)素晴らしい知恵が生まれる」という意味になります。


地獄の沙汰も金次第(じごくのさたもかねしだい)

仏教の宇宙観では、人は死んだ後、冥界で、奪衣婆の手で衣服を剥ぎ取られ、裸で裁きの白洲へと引き立てられ、閻魔大王さまから「今世での行状によって地獄行きになるかどうかを決めるお裁き」を受けますが、この閻魔大王さまの判決告知を、ここでは『地獄の沙汰』と言っています。

「沙汰」とは、決定の通知、指示、命令のことで、つまり、このことわざの意味は、「地獄に落ちるかどうかについて定める、閻魔大王の裁判の判決でさえも、お金次第で有利にも不利にもなる」というものです。

もっと端的に言うなら、「閻魔大王にさえも賄賂が通じる」ということです。閻魔大王でさえ、受け取ったお金の量で、亡者の刑を重くしたり軽くしたりするということで、具体的には、亡者が自分を救うためのお金をたくさん持っていれば無罪放免で輪廻に戻れたり、逆にお金がなければそのまま地獄行きになったりするというのです。

冥界の裁判ですらそうなのだから、まして、地上の裁判であるなら、実際、多くの国でそうなるように、『資産家が無罪になり、貧乏人が有罪になるのは至極当然である』ということになります。

例えば、インドでは、被害者や遺族がまとまったお金を渡さなければ、殺人だろうが誘拐だろうが、警察はまったく動いてくれません。フォリピンでは、警官にその場で賄賂を渡せば、交通違反の切符は切られずにすみ、チャラになります。アメリカでは、大金を出して弁護士のドリーム・チームを雇えれば、裁判を有利に運べますし、日本でも、少年事件は、弁護士の稼ぎ場となっています。

そのように、お金は、人の運命を大きく左右する重要なアイテムであると言えるでしょう。

そのため、特に、資本主義社会が高度に発達した現代においては、なおさら「お金さえあればなんでもできる」と人は思い込みがちです。

けれども、それは間違いで、実際には、お金で健康や幸福を買うことはできないのです。

そのことを、前回の記事で紹介したハーバード大学の調査が証明しています。

ハーバード大学の86年にわたる大規模調査では、人の健康と幸福の最大の鍵は、資産でも収入でも職業でも学歴でもなく、家族や友人との『よい人間関係』であることがわかっています。