最近、熟年離婚する夫婦が増えていると聞く。
わたしの身近でも、突然、80代の夫婦が離婚した。個人経営の会社を畳んだのを機に、細君の方が、すべての資産を強奪して逃げてしまったのだ。用意周到な細君は、あらかじめ、ずいぶん前の時点で、自分が会社に莫大な借金をさせていたという借用証書をつくっておき、会社の資産を売り払った時に、その全額(7000万円分)を返済してもらったというかたちをとっているので、旦那さんの方は泣き寝入りするよりないようだ。本人と会ってともかく話がしたいと思っても、細君の方からは「夫に長年にわたって暴力を振るわれていた」と訴えがあったと警察が来て取り調べを受け、接近禁止命令が出されてしまった。身の覚えのないことだったが、細君の姉まで一緒に警察に来て泣き叫んでいたということで、旦那さんは完全に悪者扱いだ。
そして、さらに細君の方から離婚証書が郵送されてきた。旦那さんは直ぐにサインをして送り返した。「結婚して45年、80歳を超えて、離婚なんて考えてもみなかった…。」と旦那さんは肩を落としている。それ以来、子供(細君の連れ子)の方からも、一切、連絡はないそうだ。
結婚した当時からずっと知っているが、(表面上は)とても仲の良い夫婦だったのだが…。
青天の霹靂とは、まさにこのことだ。
『金の切れ目は縁の切れ目』というのだろうか。
世の中には、「果たして、この人は自分の役に立つのか?」という物差しを、唯一の基準に他人を計る人がとても多いようだ。たとえそれが、夫婦であっても、親兄弟であっても、同じことだ。自分にとって利用価値がなくなった相手とは、簡単に縁を切って関係を始末してしまうのだ。
配偶者との死後の離婚をする人も増えている。「死んだ後まで一緒の墓に入るのはイヤ!」と言うのだ。逆に、一緒に墓に入るのもイヤな人と、本人が生きている間は、よくもまあ、子作りもして、何十年も一緒に暮らせていたものだ、とも思う。
こうした女性たちの示す才能には、ここぞという機を待ち続ける息の長い忍耐強さ、それまで旦那に微塵も疑いを抱かせない日常的な演技力の卓越性など、深く感心させられる。天才的詐欺師の才能がある。
ホンネでは「早く死ね!」と心底思っていながら、毎日、にっこり笑って亭主を送り出す、世の主婦の中に、アカデミー賞ものの名優のいかに多いことか。
ネット上で『旦那デス・ノート』が流行るのもむべなるかな。
死が迫るまで、伴侶のさめざめとした本心(まったく愛がないこと)に少しも気が付かず、死の直前に初めて気付かされ、あまりに激しいショックを受けて、それがもとで、あっさり逝ってしまう人も意外と多い。
逆に、死に際に「浮気しなかっただけでも有難いと思え」と伴侶に言い残して逝くご主人もいる。よほど腹に据えかねていたのだろう。一方で、言われた細君の方は、「死ぬ前に、そんなこと言わなくていいのにね」と言いながら、さほどショックはないように見える。
死に際に、半世紀を寄り添い、二人も子を成した妻に向かって「おまえ、何で好きでもない俺と結婚したんだ?」と問いかけるご主人もいる。
いずれにしても、死は、それまで覆い隠されてきた真実を暴く。
これまでに、その家の大黒柱であるご主人が倒れた後に、財産をめぐって醜く争う母子兄弟姉妹の姿を何度も見てきた。
司法の決着は、多くの場合、生前に、あらかじめ公正証書の遺言を故人に書かせておいた方の勝ちとなる。
あるいは、公正証書の遺言を残さなかった父親の遺産をめぐる兄弟姉妹の争いならば、母親を味方につけた方の勝ちだ。母親に見捨てられた方の子どもは泣き寝入りするしかない。
両親とも亡くなっていて公正証書もない場合には、決め手のないまま、億単位の遺産をめぐって最高裁まで争う兄弟姉妹もいる。
そうした世情を、日々、観察していて思うことは、まこと、世の中における〝人の価値〟は「利用できるか、できないか」の一点にある、ということだ。
利用できるものは、とことん利用しまくった上で使い捨てにされる。利用できないものは、初めから見向きもされない。
現代人の徹底した功利主義の精神に支配された内面世界には、人間的な情など入り込む余地はないのだろう。
葬式で涙を流す人が減ったと思う。
親が亡くなっても、子が亡くなっても、伴侶が亡くなっても、兄弟や友人が亡くなっても、悲しみを感じない人が、異様なまでに増えたようだ。
家族が火葬場で焼かれている最中も、冗談を言い合って笑い、自慢話が止まらない偉い先生たちもいる。葬式で亡くなって発見された時の祖母の姿が驚いたようなひょっとこ顔で滑稽だったと笑う、ある資産家の孫たちは、ようやく待ちに待った遺産が入ってくるというのでホクホク顔だ。
命が軽くなった。
親子の情、兄弟姉妹の情、夫婦の情などは、いったいどこにいってしまったのだろうか。
この世は、本当に心の乾いたサバサバとした人たちで満ちている。
彼らはそもそも死後の世界や魂などに興味はない。彼らの感覚では、「死んだらそれまでよ」であり、死者など気にする必要はまったくない。
だから、葬儀などもできればしなくてよい。家族葬や直葬で充分だ。初七日も四十九日も省略で結構だ。本当は、遺骨や位牌だって必要ない。もらっても始末に困るし邪魔なだけだ。お墓なんて贅沢だし、維持費もばかにならない。永代供養するのだって、いちいちお金がかかる。
遺骨は海に散骨にかぎる。遺骨も位牌もぜんぶ失くしてしまえば、次からはわずらさわれないですむというものだ。
子供たちは、親や大人の前でだけ「良い子」でいることに慣れている。
親の愛や大人の好意が〝条件付き〟であることを、よく知っているからだ。
親や大人は、言うことをよく聞く、聞き分けよく、成績の良い、できる子、良い子が好きなのだ。要領の良い子でなければ、親の愛情は充分にはもらえない。
要領悪く出来の悪い反抗的な子は、親の役に立たないので、愛情を一切与えてもらえず、打ち捨てられる。
子どもたちは、日々、自己中心的な、ごまかしとウソと策略の中で生き、ひたすら演技力だけに磨きをかけている。
内面はどうでも良いのだ。大切なのは「どう見えるか」だ。中身よりも〝見かけ〟なのだ。理解などされなくていい、評価さえされたら。
役に立たない者は、社会から見捨てられ、落ちこぼれて〝負け組〟となる。負け組は、伴侶も親も子も兄弟姉妹も、誰にとっても用無しだ。
たとえ、これまでは役に立っていたとしても、年をとって役に立たなくなれば、たちまち〝お払い箱〟である。
親も夫も、好きなだけお金を引き出せる〝人間ATM〟として稼働しているうちは、子どももニコニコご機嫌を伺ってくれることもあるだろうが、年をとって働けなくなり、身体が効かなくなって、他人の世話が必要になったり、蓄えがなくなってしまえば、もはや、それまでの関係だ。
たちどころに遠くの老人ホームに放り込まれてしまう。
そして、子どもたちは、年老いた親が、ホームの栄養不良の粗食と孤独で意気消沈してやせ衰え、死んでしまうのを、待ちわびるのだ。死んでしまえばこっちのものだ。後は自動チャージ(相続)を待つだけ。
子どもはみんな親が死ぬのを待っている。
早く、こいこい、いさんそうぞく〜。
かように、現代の人間関係はもろい。人情薄紙のごとし。血縁・地縁もなんのその。
「この人はわたしにとって何の役に立つのか?」とか「これがわたしに何か利益になるのか?」ではなく、「わたしはこの人の何の役に立つのか?」でもないという、当たり前の人間関係はどこへ行ってしまったのだ。
そんな関係は、もはや、どこにもないのだろうか。
中島みゆきの1990年のアルバム『夜を往け』の中に「あした」という曲がある。シングルカットもされた。
サビの歌詞はこうだ。
形のないものに誰が愛なんてつけたのだろう
教えてよ
もしも明日、私たちが何もかも失くして
ただの心しか持たないやせた猫になっても
もしも明日、あなたのため何の得もなくても
言えるならその時、愛を聞かせて
また、河島英五が1985年にリリースした名曲『時代おくれ』の歌詞には、こうある。
昔の友には優しくて、変わらぬ友と信じ込み
あれこれ仕事もあるくせに、自分のことは後にする
妬まぬように、あせらぬように
飾った世界に流されず
好きな誰かを思い続ける
時代おくれの男になりたい
1985年にすでに〝時代おくれ〟だったのだから、2023年には跡形もなくなっているとしても、やむを得ないことかもしれない。
そんな風に〝人の心を信じられる人たち〟も、以前はいたであろう、そういう心ある人たちが、かつては本当にいたのだとしても、とっくに使い潰されて、今では死に絶えていることだろう。
ビリー・ジョエルも、Only the Good Die Young と歌っている。
「早死にするのは善人だけ」ってね。
それに引き換え、憎まれっ子は世にはばかる。強欲で自己中心的で冷血な連中こそ、腹の立つことに、なぜか長生きするものだ。まったく忌々しい限りではあるが。
せめてもの反骨心から、「こんちくしょう、あいつらより、長生きしてやる!」と思う。
「この先、世の中がどれほど歪んでいこうが、とことん見届けてやろうじゃないか!」とね。