最近リリースされる歌・楽曲は、かつて(1980年代など)と比べると、ずいぶんとイントロや間奏が短くなっているのだそうだ。視聴者が、長いイントロや間奏を好まないからだと言う。

実際、曲を聴く時に、イントロや間奏をスキップしたり早送りする人は多いようだ。歌が始まるまで、待っている時間が〝無駄〟なので省略したくなるらしい。

かつて、1970〜1980年代の曲には、ずいぶんとイントロや間奏が長いものもあったが、その長いイントロが、逆に曲への期待感を徐々に高めていくタメになっていた。間奏のギター・ソロなども、逆に聴きどころだったりしたものだ。

 

昨今は、映画やドラマを、自宅やモバイル機器で観る時も、倍速や3倍速で観るという人が増えていると言う。「観たい映画がたくさんあるのに時間がない」「限られた時間でたくさん観たいから」「早送りしないと時間がかかって最後まで観れないから」らしい。

だから、制作者側も、そうしたニーズに応えるため、今の映画やドラマやアニメは、なるべく視聴者が退屈しないように、早いテンポでストーリーをどんどん進めていく。

一方、1970〜1980年代の「アルプスの少女ハイジとか「フランダースの犬」とかを今観ると、そのあまりにゆったりしたストーリーの展開に驚かされる。

 

どうも現代人は、この数十年のうちに、ずいぶんとせっかちになっているようだ。

だが、それだけでなく、私が最も大きな疑問として感じているのは、『曲をイントロや間奏をぶった斬って、勝手にテンポを変えて、それで聴いていて楽しいのだろうか?』『映画を3倍速で観て楽しいのか?』ということだ。

それって、本当に聴いている(観ている)ことになるのだろうか?

それで作品を心から味わえるのか?

人間の心ってそんなふうにはできていないのではないかと思うのだ。

そもそも、本当に夢中になっている時には、時間など気にする人はいない。時間が気になるということは集中できていないということだ。

 

現代人は〝味わう〟ことを知らない人が増えているのではないだろうか?

そして、それは、音楽や映画だけに限らないのではないか?

音楽をじっくり味わうことができない。

映画をじっくり味わうことができない。

料理をじっくり味わうことができない。

人間をじっくり味わうことができない。

味わうことができないということは、心から楽しむことができないということだ。

 

そういう〝心から楽しめない人〟を、古来から日本人は〝味気ない人〟〝味も素っ気もない人〟〝無粋な人〟と呼んできたのではないか。

古典風にいうと〝もののあはれがわからない人〟ということだ。

〝もののあはれを知る心〟とは、他人の痛みや哀しみを自分のこととして深く受け止めることのできる心のあり方を言う。

逆に〝もののあはれがわからない人〟は、歌の心も受け取れないし、物語や映像作品の世界をまるで自分がその世界にいるかのように臨場感を持って味わうこともできない。料理を作り手の心遣いまで感じて感謝と至福の時間を過ごすこともできない。人の話に深い共感を持ってじっくり耳を傾けることもできない。

 

昨今は、そういう〝とても忙しい人〟が増えている。

そういう忙しい人たちは、音楽も映画も料理も物語も人も、心から好きになることができないのではないだろうか。少なくとも、イントロや間奏をスキップしたり、映画を早送りで観る人に、曲や映画への愛は感じない。作り手への敬意を持っているようにも見えない。料理を味わうことなく、かきこむように呑み込むだけの人に、料理の作り手への感謝の念は感じられない。また、じっくり人の話を聴けない人が、本当に他者を理解し愛することができるとも思えない。

そういう真面目で忙しい模範的で優秀な人たちの〝共感のなさ〟が、現代社会の〝生き辛さ〟の主要な原因となっているような気がしてならない。

なぜなら、彼らは、会う人を、たとえようもなく寂しく虚しい気持ちにさせるからだ。

 

かつて、フィリップ・K・ディックは「人間とアンドロイドの違いは共感能力の有無にある」「人間は共感することができるが、アンドロイドにはできない」「他者に共感できるということが、人間的価値の全てなのだ」「共感能力を欠いている者は、たとえ身体が人間そっくりだったとしても、本当は中身はアンドロイドなのだ」と述べた。

ディックの言葉を借りれば、現代人の多くが、実は密かにアンドロイド化しつつあるのではないだろうか。

そして、アンドロイドには、人間の気持ちはわからないのだ。