老人ホームは、姥捨山の虐待小屋である。
目に見えるかたちでの暴力や暴言といった虐待がなかったとしても、この国の老人ホームのほとんどは、老人を死ぬまで閉じ込めておく〝姥捨山〟であり、控えめにいっても、入居者の人権をすべて剥奪した状態に置いて管理する、人権蹂躙の〝虐待小屋〟である。
そう言える根拠を挙げよう。
①入居者の運動スペースがない。
ともかく、寝たきり、座りきりで、ボーと虚空を見つめて、触れ合う相手もなく、1日が過ぎていく。放置老人である。当然だが、どんどん身体が衰弱していく。
スペースの問題もあるが、自由に外へでることも、公園に散歩に行くことも、スーパーに買い物に行くこともできず、ある意味、監禁状態にある。刑務所の服役囚と変わらない。しかも、終身刑である。
また、日常、生活を共にする子や孫と触れ合うこともなく、自分で料理することもないため、身体を動かす機会がない。なんの意欲も生まれない。
もともとスマホもろくに扱えないから、外界から情報を取り入れることがほとんどなくなってしまう。
そうすると、脳への刺激が足りないので、どんどんボケ老人になっていく。記憶が定かでなくなり、次第に言葉もろくに話せなくなってくる。
急速に老化が進むのだ。
②食事が足りない。
ほとんど飢餓状態である。本来、消化力が弱っている老人は、吸収力が弱いので、量を多く食べなければ栄養を吸収しきれない。特に、糖分、甘いものは、毎日、摂取が必要である。一般に、長生きしている元気な老人の多くが、どれほどたくさん食べるか、身近で生活を共にする人や、世話をしている人なら、よく知っているはずである。
チョコレート、ケーキ、コーラ、栄養ドリンク、カップラーメンを毎日欠かさず飲食するという老人など、90歳を過ぎても、元気に満ちあふれている。
一方で、たとえ、必要最低限の栄養は与えていると言っても、その半分しか吸収できない老人にしてみれば、たちまち飢餓に直面してしまう状況なのである。しかし、そうした観点が、老人ホームの食事には、決定的に欠落している。あるいは、経営上の観点から、半ば意図的に看過されているのかもしれない。
実際、老人ホームでは、雀の涙のような食事しか与えない。だから、どんどん痩せていく。入居者は常に飢えているが、それ以上に衰弱しているので、ボーとしてしまって文句も言えない状態にある。慢性的なエネルギー不足で、大変おとなしい。手がかからないので、職員は大助かりである。
③誰も、気配りしてくれる相手がいない。
はっきり言って、どんどん衰弱させて、死ぬのを待っている状態である。〈静かなる虐待〉であり、〈沈黙による無視〉によって囲まれた冷血極まる生活環境であると言える。
誰も、心から気にかけてくれる人がいない場所に、長期間放置されては、もうこれ以上、長生きしたくなくなるだろう。すなわち、生きる気力を失くす。老人を早く始末するには最適の環境である。
側にいて安心でき、痒いところに手の届く伴侶もおらず、背中を掻いてくれる孫子もいない。悲しみややるせなさを共有できる相手もいない。心から信頼できる相手が誰もいないのだ。世界に一人ぼっち。完全に見捨てられている。凄まじい孤独である。
「この地獄から出してくれ!」と抵抗する老人は、反抗的な入居者として、ベッドに縛り付けられたり、安定剤を投与されたりして、無理やり大人しくさせられるだけだ。いずれにしても、希望はない。
特に、②が致命的である。歳をとって死ぬ前に、こんな飢餓状態に置かれて、どうして成仏できるというのか。「ひもじい、ひもじい…」と化けて出てもおかしくない。
このような「早く死ぬのを待っている」だけの〝虐待施設〟に、親を預けている子どもたちは、一種の「親殺し」の罪を犯している。
自分達も定年退職して、悠々自適で暇を持て余しながら年金生活している子に限って、親の世話を老人ホームに押しつけて、まるで親などいないかのように、自分は勝手に老後を気楽に過ごしているものだ。
そして、役に立たなくなった親を厄介払いしたい人たちは、渡りに船の勢いで、政府の用意した介護保険報酬に群がって興隆する介護ビジネスの餌食に、自ら進んで、なっているのだ。
子どもたちは、格安の老人ホームに親を預けて「これで、面倒なく死ぬまで任せられる(放置できる)」とひと安心する。
哀れな年老いた親は、ひとたび老人ホームに突っ込まれてしまえば「お前はもう死んでいる」と言われているも同然である。たちまち衰弱して、物言わぬ石になる。後は干からびるのを待つだけ。姥捨山といっしょで、合法的殺人である。
そう考えると、〝静かなるアウシュビッツ〟と言ってもいいかもしれない。しかも、そこに老人を入れるのは、ナチスではなく、肉親、ほとんどの場合は、実の子どもたちなのである。
情けない子どもたちだが、そのような薄情・冷血・自己中心的な子に育ててしまった親の自業自得であり、自分達もまた、親を老人ホームへ入れた世代かもしれないので、因果応報とも言える。これも社会的な負の連鎖である。
悠々自適の年金生活者である老人たちが、近所での保育所の建設に、「子どもがうるさい、迷惑だ」と反対し、暇なくせに孫の面倒を見るのを嫌がり、やがては、自分の身体が利かなくなって、実の子どもによって老人ホームへ遺棄される。愚かなること、極まりない。
老人が孫の面倒をみないから、少子化が進んでいるにも関わらず、つくってもつくっても、保育所が足りない。子どもが親の面倒をみないから、老人の健康寿命が伸びている上に、国が予算をつぎ込んでも、質の良い老人ホームが常に足りなくなる。
本来、必要のない人たちが、保育所・老人ホームを安易に利用するから、必要な人が困るのだ。
結局のところ、本当に必要な人のための保育所、本当に入所がやむを得ない人のための良心的な老人ホームが足りないのは、政府のせいではない。実は、私たち自身のせいなのだ。
多くの人が、身内や家族で支え合ったり、自分が家族のために負担を背負う事をせず、家族を簡単に見捨て、放置するためだ。自分さえ良ければ、と考えてきたツケが、最後に自分に回ってくる。
家族とともに生きる感覚を喪い、厄介ごとは他人任せにしたがる現代人は、こうして惨めな最後を迎えることになる。
未来予測による危機管理能力と想像力の欠如がもたらす、負のスパイラルである。
子どもがいじめで自殺し、大人が過労死し、老人が遺棄される社会に、いったいどんな未来があるというのだろうか?