コミュニタリアン(共同体主義者)にとって、最も大切なことは、異なる世界や価値観への好奇心と理解力、そして、深い人生経験から養われる豊かな共感力を持つことです。
コミュニタリアンであることは、リベラルやリバタリアン(自由至上主義者)を、全面的に否定することではありません。むしろ、リベラルの最も美しい部分と、リバタリアンの最も雄々しい部分を自らのものとすることは、コミュニタリアンにとって、非常に有意義で有益なことです。
リベラルやリバタリアンから学ぶことは、コミュニタリアンの教養を豊かにし、知性を研ぎ澄ますのに大いに役立ちます。
例えば、私は、リバタリアンならば誰もが嫌悪し、リベラルならば誰もが共感する思想ではありますが、有名なロールズの格差原理について、基本的には正しいと思っています。
特に「自由な競争社会における、最も有利な状況にある豊かな人々の得る利益は、最も不利な状況にある貧しい人々の利益に資する(利益を最大化する)ものでなければならない」とするロールズの平等思想は、コミュニタリアンの〝共助〟の感覚に、自然に合致するものです。ですから、私は所得税の累進課税にも賛成です。
一方で、私は、たとえ金権選挙と言われようと、現在の小選挙区比例代表並立制の選挙制度よりは、以前の中選挙区制の方がはるかにマシだったと感じています。その方が、自由な競争があり、共同体を結びつける力があったと感じるからです。
共同体の崩壊が進んでいる現代社会では、多くのコミュニタリアンが、新興宗教やカルトにハマりやすい傾向があります。
ここで、私が言うカルトとは、「外の世界には通用しにくい特殊な価値観や文化や信仰を共有する集団・組織・共同体」という意味です。
この「新たな価値観に基づく共同体」を生み出そうとする傾向は、政治的志向に関わらず、右派・左派共に見られるものです。また、そうした新たに構築される共同体には、良いものも悪いものもあります。
古くは、トルストイ主義者や日本の白樺派の「新しき村」なども、そうした共同体の一つでした。
戦後の連合赤軍などの極左武装闘争組織、中核派・革マル派などの新左翼運動の組織などもそうです。現代の宗教カルトでは、アーレフ(旧オウム真理教)、統一教会、顕正会など日蓮宗系カルト、幸福の科学など、数多くあります。国際的にも、エホバの証人、モルモン教、ラエリアン、Qアノンなど、いろいろあります。
繰り返しますが、それらのカルトには、良いカルトも悪いカルトもあり、また、一つのカルトにも良い面と悪い面があります。
また、カルトにハマりやすいのは、コミュニタリアンだけかというと、実は、そうではなくて、リベラルもリバタリアンも、いずれも多かれ少なかれカルトを生み出しやすい精神的・社会的土壌を持っています。
そういう意味では、人間社会はカルトを生み出しやすい、と言えるのかもしれません。また、それは、人間にとって必要なものなのかもしれません。
ただ、私が、いつも思うことですが、より広く深い知を求める知の探求者であれば、一つのカルトにとどまることはないと思うのです。
「オメラスから歩み去る人々」のように、あるいは「この歌を、ライアに」捧げた若者のように、または「剣と絵筆」の狭間で苦悶し、彷徨の末に、絵筆を選んだ若者のように。
具体的に言うと、例えば、もし、その人が、幼い頃から読書に親しみ、グリムやアンデルセンやルイス・キャロル、C・S・ルイスやル・グィンやサトクリフ、ディケンズやデュマやマーク•トェイン、ユーゴーやトルストイやドストエフスキー、フィリップ・K・ディックやスタージョンやコードウェイナー・スミス、プラトンや論語やヒルティ、萩尾望都や三原順や中山星香などを愛読してきた人であれば、そう簡単に一つのカルトにハマるということは、ないのではないでしょうか。また、「変な新興宗教に取り込まれる」「危ない思想に洗脳される」「偏った情報を鵜呑みにする」ということも、起こらないと思うのです。
その意味で、私は教養の大切さを感じます。