まず、単純に考えてみよう。
確かに、婚姻は、両性の合意がすべてではある。
しかし、周知のように、小室圭くんと母親佳代さんの母子一体度は高い。その上で、想像してみよう。
佳代さんが、婚姻によって皇籍を離脱した眞子さまの母親になり、小室母子と眞子さまが、家族として一緒に暮らす日常生活。あり得るだろうか。
あまりのミスマッチに、脳が想像を拒絶する。これで、眞子さまが幸せになるとは、とうてい思えない。
一般家庭であっても、親であれば、このような結婚には、絶対に反対するだろう。個人の自由もへったくれもない。一族総出で、押し留めるだろう。
秋篠宮殿下は、残念ながら、そうした世間的な知恵に疎いだろう。しかし、紀子さまに、その知恵がないのは許されない。まして、雅子皇后陛下や美智子上皇后陛下に、そういう知恵がないわけがない。それに、当然、世間知に通じているはずの宮内庁の面々は、すべてわかっているはずだ。
それでも、眞子さまをとめられないなら、皇室も終わりである。
象徴天皇制の終焉が近づいている。
「天皇が象徴としてあり続ける」という日本国憲法の規定は、国民の総意に基づく、とされる。
逆に言えば、国民の総意がなければ、天皇制は続かない。
昭和天皇がいみじくも仰られたように、「国民が要らないと言うなら、あり続けてもしょうがない」のである。
これまで、「象徴天皇とは、どうあるべきか」、三代にわたって、天皇家はそのあるべき道を真摯に求め続けてきた。
国民の大多数が、「こんな天皇は要らない」と感じた時、弥生以来続いてきた天皇家は終わるのだ。そうあってはならないという強い思いが、国民の側にも、天皇家にも在ったからだ。
しかし、天皇家は、今、未曾有の危機にある。1800年続いてきた、その道が、私たちの時代に途絶えようとしている。多くの国民が、その危機を感じているだろう。
秋篠宮家から天皇を出してはならない。
私は、「皇族の教育は、リバタリアン(自由至上主義者)を育てるものであってはならない」と考えている。
なぜ、秋篠宮さま、紀子さまは、眞子さま、佳子さまを、学習院でなくICUに入れたのか。なぜ、悠仁さまを一橋に入れたのか。なぜ、親として子どもたちに道理を言い聞かせられないのか。親が子を諭すことができないのか。なぜ、家族揃って横柄なのか。周囲に助言を求めないのか。真摯に人の意見に耳を傾けることができないのか。なぜ、子どもたちに皇族にあるべき知恵が育っていないのか。そろいもそろって、なぜ、これほど、独りよがりなのか。謙虚になれないのか。時として「個人の自由より大切なものがある」ということを、なぜ、子どもたちに教えていないのか。
今回の「小室圭くんと眞子さま」問題の顛末を通して、「秋篠宮家の教育力に重大な欠如がある」ということが国民の前に露呈した以上、私は一日本国民として、「悠仁さまが将来我が国の象徴となる」という未来の到来を断固拒否したい。秋篠宮家から天皇を出してはならないと、私は切実に思うのだ。
それでも、「たとえ皇室であっても、結婚なんて個人の自由でしょ」と国民の大多数が思うのであれば、それはつまり、「この国にはもう天皇など要らない」と、国民自身が決めたということなのだろう。「個人の自由を酷く制限させられ、生き方をがんじがらめに縛られる皇族などというものは、人間にあるまじき絶対悪の存在である」と、彼らは言いたいのだろう。
もちろん、誰もが知っていることだが、天皇ほど不自由な存在はない。自分のことだけ考えて良いなら、誰が好き好んで天皇になどなるものか。だったら、そんな面倒くさい天皇など、ない方がいい。
こうして、国民の総意に基づいて、天皇制は終焉を迎えるのである。国民統合の象徴を失うということ、それは、日本という国自体の瓦解と消失を象徴する分岐点となるに違いない。
その時、私たちは、もう日本人ではないのだ。
日本人でなければ、国益を考える必要もない。国土と国民を守る必要もない。「公」について考える必要など一切ない。自衛隊も海上保安庁も警察も消防もいらない。どうして、他人のために、自分の一つしかない命を、かけなきゃいけないというのか。そんな義務は、あってはならないのだ。人権侵害だ!
政府もいらないし、税金もいらない。公務員もいらない。公共事業もいらない。公立学校も、公的扶助も、福祉もいらない。なぜ他人のために、自分が稼いだお金を搾取されなければならないのか。そのような個人に害を与える〝国〟という組織も、人のためにならないから、いらない。日本国や日本人などなくなればいい。日本列島と列島居住人口があればいいのだ。
それで国がめちゃくちゃになろうが知ったことか!
日本の国がなくなるなら、外国に移住すればいい。何の問題もない。
「誰かのために在る」という「公」の意識自体、存在する必要がない。「個」の上に「公」などなくてよい。それは、「人のために、誰かが、嫌でも、やらなきゃいけないことがある」という意思が、消滅した世界である。それでいいのだ。それこそ理想だ。貧乏くじを引く人がいなくなるのだから。
「肩をすくめるアトラス」のように、みんな国を捨てればよいのだ。晩年は、カナダかオーストラリアに移住すればいい。ハワイでもいいだろう。東南アジアが好きなら、タイやフィリピンでもいい。欧州が好きなら、イギリスやフランスやイタリアでもいい。好きにすればいい。
25代続いた老舗なども、在る必要はない。室町時代から続く名店なども、なくて良いのだ。伝統がどうした、職業選択の自由だ。日本のように、800年のれんと味を守り続ける料理屋が数多く在る国など、異常なのだ。何も無理してまで、伝統とやらを継承する必要はない。個人が伝統の犠牲になるのは間違っている。職人技などなくなってよいし、和食の極みを地道に追求する伝統など、かったるい。
みんな、自由に生きればいい。みんな、やめてしまえ!
それでよいという人は、それでいいということなのだろう。
しかし、私としては、そのような世界に生きたくはない。これからも日本人であり続けたい。「誰かのために在る生き方」を大切にしたい。皇室の終焉も見たくはない。日本国の滅亡もあってほしくない。
そのために、以前も述べたが、皇室典範を改正しての、愛子さま立太子を求める。