私たちは、この世界を観て、味わい、感動するために生まれてきた。だとするなら、たとえ何者にもなれなかったとしても、私たちに生きる意味はあるのです。

(樹木希林「あん」2015)

 

俺、頑張りたくないんだよね。頑張るの嫌いだから。

(竹中直人・つげ義春「無能の人」1991)

 

私にお礼など不要です。この殺伐とした世の中に、少しでも人の温かさを取り戻せたのなら、これ以上の喜びがありましょうか。

(呉天明「變面〜この櫂に手をそえて」1996)

 

海底に目のなき魚の棲むという、目のなき魚の恋しかりけり

(若山牧水「路上」1911)

 

 

大阪で、亡くなるまでの数年間、目を閉じたまま、何があっても、一度も眼を開こうとしなかった、おばあさんの話を聞いたことがあります。じっと目を閉じたまま、亡くなったのだそうです。

どんな思いだったんだろうと切なく思います。

「もう何も見たくない」と、そこまで頑なに思い切るのまで、どんなものを見てきたのでしょうか。とても真面目な方だったのだろうと思います。

 

また、別の話ですが、埼玉で、90歳の母親が亡くなったのを、隣の家に住んでいた長男夫婦が、一週間も気づかなかったのだそうです。毎日の食事も持っていくことをしていなかったのでしょう。実の娘夫婦は、夫婦共に教員を退職して悠々自適の生活でありながら、年に一回、母親の誕生日にしか、会いにいかなかったのだそうです。その上、時間はたっぷりあるので、近所のお寺で毎日ボランティアに精を出していたのだとか。

ボランティアって、何なのでしょうね。

 

その一方で、能率を上げるために、頑張ることができなくても、何の役にもたたないとしても、人の心を味わい、人の温かみを知ることができたなら、生きている意味もあると、私も思うのです。