リベラル思想の根源にあって、リベラル思想の骨格を構成している二つの思想があり、その思想を生んだ二人の思想家がいる。その二人とは、ヘーゲルとミルである。
ヘーゲルは、「人類の歴史は、対立と葛藤を、理性によって乗り越えていく知的営みの連続」と考え、種としての人類の進歩を信じていた。さらに、その人類の進歩の基本は、個々人の精神の成長にあると考えた。つまり、個人の精神世界の内面で生じる対立と葛藤を理性の働きが解消・昇華させることを止揚(アウフヘーベン)と呼び、この止揚の積み重ねが、各個人の人格を完成へ向けて成長させていくのと並行して、止揚の積み重ねによって鍛えられた人間精神の理性の力は、社会集団同士の対立や葛藤も止揚させ、必然的に社会全体を進歩させていくと考えた。
端的にいえば「歴史の必然として、止揚を通して正しい判断力と実行力を磨いてきた非常に優れた理性を持つ少数者、知的エリートこそが、社会の進歩の推進力となる」という言い分である。
このヘーゲルの考えは、「学問をした者が、社会的に学問をしなかった者の上に立つ(『学問のすすめ』)」と指摘した福沢諭吉の考えとも相通じる考えであるが、現代の学者・知識人・高学歴者が、自らの理性と社会的指導力に自信を持つ根拠の一つとなっている。
しかし、ここに、一つの問題がある。
そもそも理性とは、物事の善悪、つまり、何が正しくて、何が間違っているのか、を判断する精神の機能であるが、その理性が正常に機能することが、内なる葛藤を止揚・昇華させていくための大前提である。そして、多くの現代人は、思考力を鍛えることが、理性を鍛えることだと考えがちである。
ところが、ルソー、ユング、シュタイナーらの考えによれば、理性は、論理的思考だけに頼って機能させようとすると「歪な頭でっかち」になってしまう。理性が十全に機能するためには、思考、感覚、直観、感情など、すべての機能をフル回転させ、人格を前方位に発達させねばならない。だが、現代の教育は、記憶と思考機能の訓練に偏っており、感性や感情や直観を軽視しており、順調に理性の働きが向上するような教育にはなっていない。
つまり、現代の教育においては、どれだけ高い学歴を持っていても、どれほど一生懸命勉強してきたとしても、優れた理性を養えるとは限らない、ということだ。
さらに、近代の知識人は、「理性は感情を抑制(コントロール)し、支配する機能である」と勘違いしてきた。「理性は感情の上位機能である」というこの偏見が、社会に蔓延し、感情の豊かな女性を蔑視する風潮を産み、個々人の内面に感情の抑圧を生じさせ、無意識下に自己の感情へのコンプレックスを生成することをフロイトは明らかにした。
また、自分の感情を操作(コントロール)しようとする人間は、他人もまた操作しようとするものだ。他人を支配することに、良心の痛みを感じなくなるのだ。
エドワード・バッチは「人間の行いにおいて、最も邪悪な行為は、他人を操作(コントロール)しようとすることだ」と述べている。たとえ、それが無意識であっても、悪であることに違いはない。しかし、この他人の操作に楽しみを見いだす者は、品性下劣であるというにとどまらず、邪悪なる精神の持ち主ということである。
現実の世の中には、幼い頃から「良い子」であることを強要され、親の敷いたレールの上を、従順に歩くことを強いられてきたため、訓練された思考によって、未熟で混乱した感情を抑圧することだけを教えられた子供たちがたくさん育ってきている。ルソーは、こうした「良い子は二重の人間性を持つ」と指摘した。そして、彼らの一部は、脱線することなく成人し、自らの知識と思考力、および権威によって、他者を操ることに喜びを見出す「知的エリート」となる者もいる。
このような心に虚無を抱えた邪悪なる知的エリート、言わばエリートの皮を被ったサイコパスが、人類社会の進歩に貢献するということは絶対にあり得ない。彼らは、社会に不信と混乱と悲惨をもたらすのみである。
それが、現在の人類社会に蔓延している分断と不安と不幸の根源にある問題の一つなのではないだろうか。
ミルは、「満足した豚であるより不満足な人間である方がよい。満足した愚者であるより不満足なソクラテスである方がよい。そして愚者や豚の意見がこれと違っていても、それは彼らがこの問題を自分の立場からしか見ていないからである」と述べた。そして、「知的営みによって生じる快楽が物質的快楽の上位にある」と考え、知性の働きを重視する質的快楽主義を唱えた。
さらに、「より高位の快楽を追求する者、つまり、高い知性を持つ者は、社会の中で少数派(マイノリティ)になりがちであるが、たとえ少数派であっても、個人として、その尊厳は尊重されねばならないし、その意見もまた多数派(マジョリティ)によって尊重されねばならない」と主張した。
端的に言えば「優れた知性を持つ少数者(マイノリティ)を、社会全体が尊重し、その知者の意見に耳を傾けねばならない」という言い分である。
しかし、上記のようなサイコな〝知的エリート〟を、社会が尊重し、その邪悪なる意見に耳を傾け、危険極まる判断に委ねるというのは狂気の沙汰であり、そのような社会は悪夢の世界である。
誰もそのような社会に住みたくはないが、現状は惨憺たるものである。というのも、知性の質への評価においても、快楽の質への評価においても、我々は優れて人間的な深い洞察力を必要とするが、そうした洞察力を備えた人間は稀であり、そのような能力を育てる教育は、どこにもないのが現状であるためだ。
我々には、良き知性を有する少数派(マイノリティ)と、邪悪なる知性を働かせる少数者(マイノリティ)を見分けるすべがない。また、たとえ、見分けることができたとしても、その自らの優れた判断を、説得力を持って、社会に指摘する能力や手段に欠ける。なぜなら、知性や快楽の質を評価する客観的な尺度がないからだ。
そのため、我々は、常に巧妙な悪意に翻弄されることになる。
真に上質なる知性に対して、多数派は高い品性と人徳を感じて惹かれるものだ、とはよく言われるが、現実には、いつの時代においても、上質な知性よりも、巧妙なる悪意を持つ邪悪な知性の方が、社会的影響力がはるかに大きい。だから、ソクラテスは、「純真なる青少年を惑わし、邪教に引き入れた」という罪で、アテネの法によって、死刑判決を受けたのだ。
しかし、ソクラテスは、この判決を不服とせず、法に従って、自ら毒杯をあおった。それは「悪法もまた法なり」という信念から、アテネの法に殉じたというわけではない。
弟子たちに「みんなでアテネを捨て、新天地に向かいましょう」と、アテネからの逃亡を促された時、ソクラテスは熟考の上、その申し出を断っている。その時、彼は、「昨夜、ダイモーン(魂・精霊)に、『逃げた方が良いか?』と尋ねてみたが、ダイモーンの返事はなかった。私は十分に生きた、次の世界に旅立つべきだ、ということなのだと思う」と答えている。ソクラテスは、自らの命をダイモーンの判断に委ねた。そして、その返事に満足していた。そればかりか、はやくも死後の世界へ向けての好奇心に心を躍らせていた。
「知を愛する」とは、こういうことなのだろう。ソクラテスは、最後まで幸福な人であった。ソクラテスには、不満足などなかったのだ。
はたして、現代の我々の社会に、2500年前、この地上に生きていたソクラテスの如き知性は存在するだろうか。
人間の精神は、2500年もかけて、本当にわずかでも進歩してきたのだろうか。
無駄を排し、効率ばかりを重視する現代人の精神において、内なる対立を止揚する深い精神の営みがなされているだろうか。
物質的な満足は、知性ある者に本当の喜びと幸福をもたらさないとミルは考えた。では、名誉や権力が、その喜びをもたらすのだろうか。
ミルは、厳格で知性を極端に偏重する父親から極端な教育を受けて育った。父親が、知性に劣る美しい母親を軽蔑する夫婦不仲な家庭で、物心つく前から、支配者である父親の命ずるままに、徹底した英才教育を施された。ミル自身もまた、父親と同様に、女性を知性の有無で評価した。知性だけを重視し、自らの感情にすら、重きを置かなかった。極端に言えば、感情を軽蔑するように育てられたのだ。
20歳を迎えた頃、ミルは精神の危機を経験した。それまで、知的好奇心を覚えたすべての事柄がつまらなく感じられた。絶対的存在だった父親の指導にも疑念を抱き、信じられるものがなくなった。
23歳の時、ミルは一人の女性との出会いによって、この精神の危機を乗り越えた。自らの感情をかけがえのない重要なものとして受け入れることで、それまでの思考偏重の姿勢を乗り越えたのだ。そして、父親の敷いてきたレールから外れ、多くの友人、家族とも決別し、一個の独立した人間として、自らの生を生き始めた。その疾風怒濤の青年期に、激しい内なる対立を止揚し得たのは、その賢夫人の献身的な支えと愛情があったことによると考えられる。人生に悲劇や不幸はあったが、それでも、ミルは、幸せな人生をおくったのだろう。
そして、ミルの生涯一貫した最大の関心事は「人間にとって真の幸せとは何か」そして「何が人間を最も幸せにするのか」というテーマであった。
その意味で、ミルは「よりよく生きること」を生涯のテーマとしたソクラテスの正統な後継者であった。
何がほんとうの幸せなのだろうか。
私たち一人一人に「ほんとうの幸せ」をもたらす知性とは、どのようなものか、今一度、深く考えてみなければならない。