【はじめに】

デジタル化の進展によって、世界的に「本」の需要が低下し、インターネットの発達により、情報の流通の国際化とメディアの商業化が急速に進展したことから、「物語」の劣化が著しく進んでいる昨今、特に、2010年代に入ってから、日本の文芸において、唯一、拡大を続けているジャンルがある。

それは、「異世界転生・転移」モノと呼ばれるジャンルである。劣化と停滞の中にある日本の創作・文芸活動において、この分野の興隆には、目を見張るものがある。

今回は、ここ10年ほど、日本国内で、なぜか大流行を続け、商業的にも大成功して、購読層が拡大を続けている、このジャンルについて、文化論的観点から考察してみたい。

 

 

 

【序論】

「異世界転生・転移」モノは、元々、ファンタジー・SFの分野の古典的なジャンルのひとつである。そして、「異世界への旅」という設定については、これまで、SFやファンタジー小説を読み耽ってきた読書家にとっては、特段、珍しいアイディアではない。

特に、ある日突然、主人公が、異世界に迷い込むという「異世界転移」に関しては、海外の児童文学では、「ナルニア国物語(1950〜1956)」「オズの魔法使い(1900年)」「不思議の国のアリス(1865年)」「ピーターパン(1911年)」「はるかな国の兄弟(1973年)」「トムは真夜中の庭で(1958年)」「時の旅人(1939年)」など、代表的なファンタジーの名作において特徴的なおなじみの手法である。

また、大人の娯楽である剣と魔法のヒロイック・ファンタジーの分野では、古くはバローズの「火星シリーズ(1912〜1964)」、後にはノーマンの「反地球シリーズ(1966〜1971)」などが、この設定で人気を博した。これらの作品も、突然、地球人が、中世的な別世界に放り出され、その世界で英雄として活躍する物語である。

国内の作品でも、「異世界転移」のアイディアは、石川英輔の「亜空間不動産株式会社」「大江戸神仙伝」、新井素子の「二分割幽霊綺譚」といった1980年代のSF作品、あるいは「十二国紀」「デルフィニア戦記」などに代表されるような1990年代以降のライトノベルにおいて、数多く用いられてきた。

一方で、東洋では、バラモン教にルーツをもち、仏教に取り入れられた輪廻転生の考え方が、もともと根付いており、日本でも「転生(生まれ変わり)」は、古くから信じられていた。「生まれ変わり」をテーマにしたミステリー作品では、例えば、佐々木丸美の「崖の館」「水に描かれた館」「夢館」の館シリーズ三部作がある。また、漫画作品では、数多い転生テーマの作品の中でも、里中満智子の「海のオーロラ」、神坂智子の「シルクロード・シリーズ」、日渡早紀の「ぼくの地球を守って」などが、印象に残る。

西欧でも、1970年代以降、スピリチュアルに惹かれる人たちが、東洋思想を学んで、輪廻転生の信仰が紹介され、一部で受け入れられるようになった。その中には、輪廻転生のアイディアを創作に活かす人たちも出てきた。しかし、日本人のように、伝統的な死生観として根付いているわけではないので、それほど馴染みのあるものではないようだ。

 

そして、この「転生(生まれ変わり)」と「異世界転移」のアイディアを結合させたのが、「異世界転生」という設定である。

「異世界転移」の場合には、元の世界に戻るという選択肢があり得るが、「異世界転生」の場合、元の世界に戻るという選択肢は有り得ない。そこが、転移と転生の最大の相違点だろう。

『ある日、目が覚めると、私は異世界で別人になっていた。いや、混乱しているが、自分がこの世界で生まれたのは確かだ。今世でのこれまでの記憶はちゃんとある(←ない場合もある)。何かのショックで、自分の前世の記憶を、突然、思い出したようだ。しかも、どうやら、前世では、自分は、地球で不慮の死を遂げたらしい。そして、なぜか、この異世界で別人として生まれ変わったのだ。それならそれで、今世では、前世のような失敗を繰り返さないように、今度こそ、悔いのない充実した人生をおくりたい。いや、必ず、おくるのだ。』

なかなか魅力的な設定ではある。そのためか、この設定は、2010年代の日本のライトノベルにおいて、好んで創作に用いられるようになった。

しかし、今日、日本国内で「異世界転生・転移」モノと呼ばれている数多の作品群は、かつての古典的なファンタジーやSF作品などとは、まったく質の異なるものである。

 

 

 

【本論 その1】

では、その際立った特異性について、整理してみたい。

【1】まず、2010年代から興盛している現在の「異世界転生・転移」モノの特徴の一つは、『オンライン・ゲームの影響が、作品の内容に反映されていることが多いこと』である。

例えば、物語の主人公は、ゲームの場合と同様に、魔法など各種のスキルを持ち、HT(hit point/生命力)・MP(magic point/魔力)・SP(skill point/技能・攻撃力)などが、経験値の増加によってレベル・アップしていくことが多い。特に、本人やその他の登場人物のもつ能力や技術の規格と数値が、ステータス画面によって確認できるという設定が、極めてゲーム的である。

「主人公のレベルアップが、読者にも主人公にも、客観的に数値で示される」というのは、客観評価を旨とするテストの点数に基づく成績によって、進学の進路が左右されることから、より高い得点を得るために努力することを強いられてきた世代にとっては、『努力の結果が可視化されることで、主人公のモチベーションが上がる』という架空世界のあり方が、しっくりくるのかもしれない。

また、それに加えて、「ファイナル・ファンタジー(1987〜)」「ポケット・モンスター(1996〜)」「ドラゴン・クエスト(2004〜)」などのコンピュータRPG(ロールプレイングゲーム)で育っているデジタル世代の子ども(大人?)たちにとっては、たとえ、擬似的なものであっても、人間の能力・実力が徹底的に数値化され、他者との優劣がすべて数値順位で相対化される世界は、妙に安心できるというか、居心地が良いのではないだろうか。

日頃、ゲームで慣れ親しんだ、勝手知ったる世界というわけである。

 

【2】また、『作品中の異世界の多くが、作者のオリジナルではなく、いくつかの既製のゲームなどから転用された異世界路線に沿って形成されていること』も、このジャンルの多くの作品に共通する特徴である。また、その固定化された世界観、社会様式のルーツは、往年の剣と魔法のヒロイック・ファンタジーの娯楽小説群から拝借してきたものが多い。

例えば、多くの物語の作中世界では、「冒険者」という職業があり、彼らは冒険者ギルドなる組織に所属しており、「ダンジョン」と呼ばれる地下迷宮を探索して、ゴブリンやドラゴンなどのモンスター、レイス(幽霊)やリッチ(死霊)などのアンデッド(生ける屍)らと戦って、財宝や戦利品を手に入れる。あるいは、中世・近世的なヨーロッパ風の身分制社会に、王族や貴族や平民として転移・転生して、その世界で、現代日本の知識を利用して活躍する場合もある。その際、生前に自分が楽しんでいたオンライン・ゲームの中の世界に、転移・転生してしまうという筋書も多い。さらに、「転生したらスライムだった件」「蜘蛛ですが、何か?」などのように、期せずして人間以外(以下?以上?)の存在に転生してしまうというストーリーも結構ある。

これらの設定の共通性は、類似作品が多いというより、独創性(オリジナリティ)を排した、ジャンル全体の作品世界の〝様式化〟が進展した結果と考えた方がしっくりくる。

作中に出てくるモンスターや魔法なども、規格化・様式化が激しいが、読者の方も、作品世界の独創性(オリジナリティ)の有無について、ほとんど問題にしない。

これも、多くの読者にとって、ゲームで慣れ親しんだ、よく知っている世界なのである。

 

【3】加えて、『ほとんどの作品が、ライトノベルを原作として、漫画化、及び、アニメ化が、一連の既定の流れとして、順次、制作される』という点でも共通している。〈ライトノベル→漫画化→アニメ化の規定路線〉の成立を、文芸作品の〝産業化〟〝分業工程化〟の進展の結果である、と考えることもできるだろう。これは、ポケットモンスターなどに見られる、〈ゲーム→アニメ化→キャラクターの商品化〉の規定路線と質を同じくする高度情報産業時代の産物と言える。

しかし、そうした既定の工程において、殊に、「日本ならでは」の伝統と文化の顕現と感じられるのは、〈ライトノベルの原作→漫画化〉の工程である。

元来、ライトノベルという読み物は、内容が薄い。何も深みのない軽い読み物だから、ライトノベルと呼ばれる。娯楽としても、精緻な文体や描写、表現される感情や思想や精神性に、たいした魅力があるものではないので、味わいは極薄で、あまり読み応えはない。

その上、「異世界転生・転移」モノは、世界観も変わりばえなく、ストーリーも、毎度、お約束の似通った展開を辿る。さながら、小説工場で大量生産される、お手軽な既製品のようなものだ。

例えば、転生・転移する前の現世での人格に、生活感や現実感が薄く、それゆえに、主人公も、転生・転移後、現世のことを、ほとんど気にしない。いきなり、別世界に飛ばされた人間としては、普通ではない反応だが、主人公は「これが、最近流行のいわゆる転生(転移)というやつか」と、事もなく納得してしまう。あるいは、多少、動揺したとしても、前世の記憶に苛まれ、望郷の念に駆られ続けるような主人公は、皆無である。

むしろ、多くの主人公は、「起こってしまったことは、仕方がない」と、あっさり過去を捨て去れるほどに、「元の世界に戻りたい」という気持ち自体が、あまりにも薄い。それほどまでに、今のこの現実の世界は、主人公にとって、無味乾燥というか、魅力のない、大切なもののない、干からびた世界なのである。

そうすると、主人公の人格も、何だか薄っぺらで、生身の感覚の薄い、人工的な人格に思えてくる。その上、物語自体も、なんだか、血の通わない作り物の人格が、既定のルートを辿っているような、ゲーム感覚そのままの物語が多すぎて、作中の人物の生き様が、ほとんど記憶に残らない。

 

ところが、この味も素っ気もない規格化された「逃避の物語」が、文字の世界を離れて、漫画の世界に移植されると、途端に、物語は輝きを放ち始める。

しかし、これは、かつて、SF作家光瀬龍の原作を、天才萩尾望都が漫画化した名作「百億の昼と千億の夜」の魅力に似たようなものではない。萩尾望都は、光瀬龍の作品世界を、類いまれな想像力で再構築し、珠玉の作品に結実させた。そのため、萩尾望都の漫画作品は、光瀬龍の原作小説とは、まったく別個の独自の輝きを放つ芸術作品となっている。

しかし、それとはいささか様相が異なるのだ。今日の一般的な「異世界転生・転移」モノでは、漫画家の読解力や想像力や表現力が問われる面は、極めて限定的だ。それどころか、キャラクター・デザインの作画、メイン・ストーリーの漫画家、サブ・ストーリーの漫画家などが、それぞれ分業しているのが普通であり、漫画家は、創り手というよりは、むしろ、映像を動かすための作画担当職人である。

これは、江戸時代後半に興盛した「錦絵」の創作過程に近い。「錦絵」は、多色刷りの版画なので、一枚の作者の原画を「錦絵」化し、大量生産して、市場に供給するためには、熟練の版木の製作者(彫職人)、印刷業者(摺職人)を必要とした。

良質な「異世界転生・転移」モノの漫画作品には、そうした職人芸の様式美が感じられる。しかし、それは、決して原作とは異なる固有の輝きを放つ創作ではない。あくまでも、原作者の図面通りに完成させる職人芸としての魅力なのだ。

 

 

 

【本論 その2】

以上、作品の成立に至る過程、作品の世界観に関して、2010年代の「異世界転生・転移」ジャンルの作品群が、20世紀の類似諸作品と際立って異なる点について記してきた。次に、ここからは、作品の内容、物語の特徴について、具体的に、類似する前世紀の作品と比較し、考察してみたい。

【1】物語として考える時、今日の「異世界転生・転移」モノに際立つ特徴の一つは、『主人公の能力が、あまりにも高い、あるいは、最初は能力が低くても、レベルアップが、あまりに急速で、どこまでも際限がない』という点である。

そもそも、異世界に転移・転生することには、主人公にとって、初めから有利な点がある。それは、現代(前世)の記憶や知識を持っていることだ。その一方で、転移の場合には、異世界の事情を知らないという難点もあり、そこで主人公が悪戦苦闘するところにドラマが生まれる。

これは、異世界転移モノの元祖の一つと考えられるマーク・トウェインの「アーサー王宮廷のヤンキー(1889年)」に、すでに見られる物語展開である。「科学の世紀」と呼ばれる19世紀後半のアメリカ人の青年が、6世紀のアーサー王時代のイングランドに転移する。そこで、主人公は、科学の知識を駆使して、日食を予言したり、枯れた泉を復活させたりして、魔術師としての名声を得る。

この作品の展開においては、「主人公の能力が、後の時代の進んだ科学的知識のみに頼って、困難を打開し続けているに過ぎないのだが、それが、6世紀の人々にとっては、魔術にしか思えない」という点に、物語の醍醐味がある。主人公の能力が限定されているからこそ、読み手は主人公に感情移入できるのだ。なので、これで、主人公が本物の魔力をふるい始めたりしては、読者にとってはかえって興醒めである。

もちろん、現代の異世界転生モノでも、主人公の能力の限定という条件が、物語の重要なポイントとなっている作品も多い。

例えば「本好きの下剋上(2013年〜)」という作品がある。この作品の第一部では、主人公が、現代日本の大人の女性が、念願だった図書館の司書として就職が決まった直後に亡くなってしまい、中世ヨーロッパ的な異世界の貧民の家の5歳の幼女に転生してしまう。非力な上に、大変な虚弱体質で、ちょっとしたことで熱を出して寝込んでしまい、生死の境を彷徨うことが何度も続く。しかし、主人公は、この文明の遅れた世界で、貴族にしか手に入らない本を読むために、前世の知識を総動員して、健気に生き抜いていく。素晴らしく魅力的な物語である。

ところが、この作品でも、後に「実は主人公には人並外れた魔力があった」という飛躍した展開が待っている。そして、それゆえに物語の活力が、徐々に失われていってしまうのだ。

 

なぜ、主人公が人並外れた力を持つことが、物語の魅力を奪ってしまうのか。それは、そもそも、人間という生き物が、元来、さまざまな制約の中で、限界を受け入れて生きている生き物だからだ。人間の精神にとって、限界があること、その限界を受け入れて生きることが自然なのである。

人間以上の力を持つなら人外の者であり、制約のない無限の力を持つなら、それは神である。いずれにしても、人ではない。そして、人ではないものに対して、人は共感できないのだ。だから、つまらなくなる。

もっと言えば、つまらなくなるのは、本(漫画でもよい)を読むことが、一つの経験であるとするなら、「この経験は、あなたの役に立たない」と、魂がささやくためだ。なぜなら、『逃避と肥大化した欲望の充足だけを求めて生きる生き方は、長い目で見て人間精神に害しかもたらさない』ということを、人類は、その長い歴史上の経験から、魂に深く刻み込んでいるからだ。

しかし、もともと、海外の古典的な文学作品でも、人間以上の力を得た主人公の物語は意外と多い。特に、SFの分野では、名作と呼ばれる作品の中にさえ、不老不死や超能力や天才的知能など、常人を超えた飛躍した能力を持つ人々の物語がいくつもある。

例えば、「ノーストリリア」「虎よ、虎よ」「スラン」「人間以上」「アトムの子ら」「さなぎ」「闘士」「アルジャーノンに花束を」「オッド・ジョン」など、枚挙にいとまがない。ファンタジーにおいても、「ゲド戦記」「クラバート」「魔女とふたりのケイト」など、主人公が魔力を持つ場合は多い。

そして、それらの作品には、確かに読者を惹きつける魅力がある。なぜなら、上記の1970年代までのSF・ファンタジー作品群においては、主人公は、どんな超人であっても、いや、超人であるが故に、人並み以上の苦しみを背負い、過酷な運命の荒波と、それに伴う内面の苦悶を引き受けて生きているからだ。

何かを得るためには、何かを失うことを避けることはできない。読者は、その人生の真実を、実感として共有できる。つまり、これらの作品は、〝人間の経験〟として読まれ、共感されるように書かれているのである。

 

ところが、1980年代を過渡期として、特に1990年を境に、この人類社会で書かれる物語は、質的に大きく変容していく。

例えば、筆者が1990年に着想し、1995年までに執筆された「ハリー・ポッター」を考えてみよう。主人公は、何の試練もなく、最初から魔力というスキルを、並外れたレベルで、持って生まれた能力として授けられている。そして、特待生レベルで、魔法学校に入学するように案内される。彼は生まれながらに世界の重要人物なのだ。そこには、魔術師であることから起こる何の疑問も葛藤もなく、魔力を持つが故に生じる苦しみも、存在しない。脅威も試練も、精神の内に生じるのではなく、常に外からやってくるのである。

同じように魔法学校に入学するところから始まる類似ストーリーであるル・ヴインの「影との戦い(1968年)」と比較すると、その差は顕著である。ル・ヴインの描く魔法世界では、魔術には副作用があり、魔法を使う時は、常に対価・代償を払う覚悟が必要となる。そして、主人公は、ほんのちょっとした自己顕示欲から、禁断の影の世界を呼び出す魔法を使ってしまい、その魔法を停止させようとした教師の命が失われてしまう。加えて、影の世界から呼び出された主人公自身の影が、この世界に解き放たれ、害を及ぼすようになる。

この作品では、主人公の過ちの大部分は、もはや、取り返しがつかない。その上、捉え所のない目に見えない自分自身の〝影〟と向き合うことを、生きる目的として、定めなければならなくなる。それに比べれば、ハリー・ポッターの住む世界は、異常にお気楽に思えてしまう。

『1990年以降に書かれた物語における主人公の内面世界の単純化と劣化』という視点で観れば、同じような類似作品の比較は、「蝿の王(1954年)」と「バトル・ロワイアル(1999年)」、「罪と罰(1866年)」と「デスノート(2003年)」などでも可能だ。

 

1950年代に著されたゴールディングの「蝿の王」では、無人島に不時着した航空機の生き残りの少年たちが、ヴェルヌの「二年間の休暇」のように、力を合わせてうまくやっていくことができず、二つのグループが対立し、やがて、大きい集団による一方的な、遊び半分の虐殺が始まってしまう。この作品では、普通の少年たちの心の奥に潜む〝悪魔〟の存在が、物語の中心テーマとなっている。

それに対して、「バトル・ロワイアル」では、中3の1クラスが、政府によって離島に拉致され、強制的に、生き残りが最後の一人になるまで、殺し合いをさせられる。設定が類似した作品ではあるが、しかし、この世紀末(1999年)に書かれた物語では、悪は「政府」というかたちで、心の外に存在する。

だから、悪との戦いは、絶対的悪である政府に対して服従するか、反抗するか、という二者択一の問題に単純化されてしまい、「蝿の王」のように、自分たちの心の奥に潜む暗い欲望を敏感に感じ取り、その内なる悪と心で対峙する、というテーマは、スッポリと抜け落ちてしまっているのである。

同じような、構図の単純化は、2000年代に書かれた「デスノート」において、さらに決定的となる。「デスノート」の主人公は、「人類を救い導く能力を持つ有能な自分には、殺人さえも許される」と考える。しかし、ドストエフスキーの「罪と罰」の主人公とは異なり、内なる葛藤はまったく存在しない。「デスノート」では、戦いは、常に、人と人との間(外の世界)で行われる。

当然、「罪と罰」の伝説的なラスト、夢の中で主人公が体験する、黙示録的な人類社会の破滅を示す予言的なイマジネーションの展開も、その後の主人公の魂の再生の物語も、決して語り得ない。

類似の設定で語られる物語も、ここまで劣化すると、呆然とするよりない。

 

そして、2010年代以降、現在に至るまで、この国で数多書かれている「異世界転生・転移」モノのほとんどは、内なる影との戦い方を知らない、単純化・類型化された性格の主人公が、ひたすら数値化された「ステータス」の上昇を、自分の成長の物差しとして生きていく物語である。

そこに内なるドラマは存在しない。代わりに、ドラスティックなステータスの数値上昇という人工的な数値変化ドラマを介して、主人公の成長が語られるのだ。これは、もう、物語の敗北というより、むしろ、物語の死である。

ただし、中には、例外的に、主人公の内面的成長を描いている物語もある。例えば、「神達に拾われた男(2014〜)」という作品がある。この作品では、主人公は、自分のステータス画面を観ることができる一方で、物語の主眼は、そうした数値化されない主人公の内面的成長に焦点が当てられている。しかし、その背景には、苦難と忍耐しかなかった孤独な主人公の前世がある。父親による虐待的な訓練、唯一の心の支えだった母親の過労死、自分をまったく正当に評価しない会社の過酷な労働環境の中で、ただただ耐え続けて生き、不慮の突然死で39年の短い孤独な一生を終えたSEとしての前世である。その記憶が、主人公の「今度こそ、悔いのない幸せな人生を生きたい」という思いを切実なものにしている。そして、その無意識の中の祈りのような思いが、異世界で5歳の男の子に転生した後の主人公の性格を、徐々にではあるが、深いところから変容させていく。

この物語では、主人公は、自分自身のステータスの数値上昇には、それほど興味はない。それ以上に、自立した生活の基盤を築くこと、そして、周囲の人との絆を結びつつ、自分の生きる世界を開拓していくことに強い関心がある。さらに、時折、自分自身の〝影〟を意識しており、その影と対峙して克服していきたい、という強い意志を持っている。そういう細やかな内面の描写があるというだけで、今日の「異世界転生・転移」モノの作品としては、非常に珍しい魅力を放っている。

逆に言えば、その他のほとんどの作品では、主人公は、周囲と比べて〝自分だけ〟あまりにも容易に急速に上がっていくステータスの数値によって、自分の成長を確認し、その数値を伸ばすことに、喜びや生きがいを感じながら生活している。高いステータス数値は、生存の可能性と富や権力を得る可能性を高め、彼の人生の成功を約束してくれるものだからだ。

 

 

【2】2010年代の「異世界転生・転移」モノの作品内容について、もう一つの目立った共通点は、作中のヨーロッパ中世的世界が、現代日本とはまったく異なる強固な身分制度によって成り立っており、作中では、明確に、『強大な権力を有する王族・貴族と平民、裕福な商人と貧民、自由民と首輪をつけた奴隷の違いが描き分けられている』ことだ。

しかも、ほとんどの作品の主人公は、現代日本から転移・転生してきたにもかかわらず、「郷にいれば郷に従え」というのであろうか、その前近代的な「従わせる者と従う者との冷徹な隷属的関係」に、何ら疑問を持たず、多くの場合、その世界の価値観を抵抗感なく自然に受け入れている。

そして、自らは、そうした厳しい主従関係の外にあって、規格外のチート(いかさま/ズル)な能力を用いて、絶対的な武力と富と地位と権力とを、いとも簡単に手に入れる。あるいは、最初から、王族や貴族として転生していて、社会の強固な上下関係のもたらす強制力と束縛から、自分だけは完全に解き放たれ、自由に振る舞うことを保証されている。実に都合の良い設定が多い。

身分制のない成熟した民主主義社会である現代日本において、少年少女から大人にまで好んで読まれ、人気を博している人気娯楽作品が、そのような極端な身分制社会の中で、絶対的な力をふるい、例外的な成功を手に入れる主人公の活躍を描いた物語である、というのはなぜだろうか。

 

一つには、西欧文化圏に対する根強いコンプレックスのせいもあるだろう。アメリカ人のバーネットが、英国に憧れて「小公女」や「小公子」を著したのに似ているかもしれない。

もう一つは、主人公の登る権力への階段をわかりやすくする「見える化」の効果によって、読者の欲望を、より強く刺激する意図もあるだろう。

複雑な現実の社会と異なり、王様→公爵→侯爵→伯爵→子爵→男爵→騎士→平民→奴隷という身分のはっきりした社会構造の中では、社会の権力構造や対立構造が単純化され、立身出世や下剋上の物語も、シンプルでわかりやすいものになる。

今の日本社会の嗜好では、複雑で面倒臭いモノが、敬遠されがちである。単純明快で、後に残らないモノが受ける傾向が強い。そうした読者の嗜好に合わせて、物語の中の冒険者ギルドでのランク付けも、身分制の強固な社会構造に準じて、明確である。実力のランクアップも、非常にわかりやすい。

現代の「異世界転生・転移」モノでは、こうして、社会の中での〝勝ち組〟〝負け組〟が明確に描き分けられ、その中でも、主人公は、文句なしの抜きん出た〝勝ち組〟として描かれることが多い。転生前の人生では、ニートや社畜として完全に〝負け組〟だったのが、転生後は、チート(いかさま)な能力と生まれ落ちた身分によって、圧倒的に〝勝ち組〟となる。わかりやすいイージー・サクセス・ストーリーである。たとえ、表面上、村人だったり、最弱のレベルであったりしたとしても、実は、誰よりも強力なスキルや能力を持っている、隠れ〝勝ち組〟である。当然、彼らに、元の世界への望郷の念などかけらもない。

それだけ、現代日本社会では、希望のない鬱屈した薄い人生を歩んでいる孤独な人たちが多いということだろうか。そして、それだけ一般社会に格差意識が蔓延していて、彼らのフラストレーションの捌け口となる場がないのだろうか。

 

興味深いのは、同じような身分制社会におけるサクセス・ストーリーを描いても、お国柄によって、描き方がかなり異なることだ。

例えば、「転生貴族の異世界冒険録(2016〜)」は、神々から人間を超えた途方もない能力を授かって異世界の上流貴族の三男に転生した主人公が、神々の庇護と恩恵のおかげで大活躍する冒険譚である。

対して、「貴族転生(2019〜)」は、同じ異世界の村の青年から、国王の十三男に転生した主人公が、従える者が増えるほどレベルの上がるチート(いかさま)な能力と、親王としての地位を利用して、さらなる権力への階段を登っていく物語である。

しかし、前者の世界と比べて、後者の世界における身分制度は、あまりにも非情であり、人間的な情の通い合う余地が乏しい。日本的な情緒を一切排した冷徹な身分社会が描かれている。原作者が台湾出身であることと、何か関係があるのかもしれない。

一方で、日本的庶民情緒の世界といえば、「異世界居酒屋のぶ(2012〜)」がある。現代日本の居酒屋が、ヨーロッパ中世的異世界の都市の一角につながる(半転移?)という設定で、日本人店主の板前さんと給仕の娘は、日常、裏口の日本側から店に入り、表玄関がある異世界側で営業している。この作品では、二人の日本人は、居酒屋店内を通じてのみ、異世界の人々と接点を保ち続ける。

この居酒屋の中では、どんな階級の客であろうと、大切なお客様として、二人のもてなしを受ける。たとえ皇帝・貴族であろうと、庶民であろうと、その扱いは変わらない。そして、多くの常連さんで賑わう居酒屋ならではの気の置けない会話が飛び交い、異世界の人々には食べ慣れない異国(現代日本)の料理に、客は舌鼓を打つ。

「異世界居酒屋のぶ」には、他の作品のようなステータス画面やらレベルアップやらは、一度も出てこない。まるで、フーテンの寅さんの世界のおいちゃんとおばちゃんの団子屋のように、優しくのどかな居心地の良い空間にいるようだが、しかし、この作品は、昨今の「異世界転生・転移」モノとしては、ある意味、例外中の例外であろう。

 

 

 

【まとめ】

以上、最近の「異世界転生・転移」モノの興盛について考察してきた。そこから、現代日本社会に横たわる重い課題が見えてきた気もする。

 

 

 

【蛇足】

最後に、「異世界転生・転移」モノの作品の中で、ここまで列挙してきた「異世界転生・転移」モノのすべての特徴を有する典型的な作品でありながら、それでも、なお、私が〝良作〟と考える作品を、二つ挙げておく。ただし、両方とも、原作のライトノベルではなく、漫画の方を推薦したい。理由は、すでに上段で詳しく説明してあるので省く。

 

①「デスマーチからはじまる異世界狂想曲(2014〜)」

 

②「転生したらスライムだった件(2015〜)」

 

上記二作品に共通する特色は、【1】作画が、非常に緻密で繊細で手抜きがないこと。背景も細かく丁寧に描かれており、登場人物の描き分けも自然で、動きも表情も性格もうまく表現されている。まさに匠の技である。

さらに、【2】物語世界の設定が、細部までよく考えられていて、世界の広がりが自然なものとして感じられること。そのため、違和感なく物語世界の中に入っていける。食事や家事、生活用具や武具なども、いい加減に扱わない生真面目な創作態度に、好印象を受ける。

加えて、【3】主人公の性格が、物事を客観視できる精神の安定した成熟した大人、欲望に振り回されない枯れた人格として描かれており、安心して読み進められること。周囲に配慮でき、物事の先を読み、責任感を持って行動できるため、自然に周囲に頼られ、人が集まってくる。なんの利もなくとも、他者のために、必死になれる人の良い性格に好感を持てる。また、意外に内省的で、常に冷静で、生真面目で、頼もしい性格なので、みんなに頼られるのも納得できる。

それに付随して【4】主人公が、主要な登場人物たちと恋愛関係や性的関係を持たないこと。さながら、まるで修行僧のようである。②などは、そもそも、主人公が「無性」である。キーワードは〝節度〟だろうか。

それから、【5】擬人化された神々が、安易に物語の冒頭から出てこないこと。その神々が、ナルニアのアスランレベルなら良いのだが、原作者の敬虔な信仰に裏打ちされていない神が、ご都合主義の設定で登場するのは、あまりにもバカバカしく興醒めである。そうした〝人工的なお子様ランチの人格神〟が出てこないことで、物語が台無しにならず、救われている。読者も、お手軽すぎる「選民思想」に毒されずに済む。

 

それぞれの作品の異なる特色として、①については、【1】主人公が、自分の突出した能力を、一切自分のためには使わないということである。そして、あくまでも、現世から異世界に迷い込んだ旅人として、能力をひた隠しにして、わきまえて行動し続けること。主人公と仲間たちの旅は、最後まで正体を見せずに人知れず事件を解決しつつ、気ままな旅を楽しむ、隠れ〝水戸黄門〟の旅のようだ。人との出会いを縁として大切にする主人公の生き方に好感が持てる。

【2】とてつもない力と富を手に入れた主人公が、聖者にも王にも賢者にも大魔法使いにも勇者にも魔王にもならないこと。勇者の称号はたまたま得ても、主人公は、物語の中で、ひた隠しにして、普通の平民の商人で通そうとする。現世的な出世欲がまったくないところが良い。そして、「この世界をどこまでも見てまわりたい」という旅人の姿勢が実に清々しい。

 

②については、【1】主人公以外の無数の登場人物の個性が、それぞれ際立っていて、しかも、血の通った生身の人物として、上手に描かれており、作品世界にまったく破綻がないこと。そのため、素直に作中人物に感情移入できる。また、頼られたら嫌とは言わず、人の思いを大切にし、それを苦にもせず、黙って当たり前のように背負ってしまう。そんな主人公の〝漢気〟が、平成・令和には珍しく、昭和の人間としては、とても魅力的に感じられる。

【2】魔物の中でも最弱のただのスライムに転生してしまった主人公が、自分の〝漢気〟ひとつで、竜と友達になり、やがて、魔物たちに頼られるようになり、魔物の国の主になってしまい、ついには仲間たちの命を救うために魔王にまでなってしまう。仲間たちを慈しみ、「頼られるのが嬉しい」という〝漢〟の生き方に、思わず心を動かされるものがある。

 

以上、見てきたように、「異世界転生・転移」というのは、非常に魅力的な設定であり、その分、よく描けている良作も多い。だからこそ、ブームが10年も続いている、というのも確かであろう。