ADHD(注意欠如・多動症/attention deficit hyperactivity disorder)は、「主に、遺伝的要因による先天的な脳の微細な傷が原因で生じる脳障害であり、側坐核の異常などによって、脳内の神経伝達物質の分泌の調節がうまくいかず、ドーパミン(やる気ホルモン)などの神経伝達物質の不足・過多から脳内の情報伝達が滞りがちになったり、過重に負担がかかったりする一方で、大脳基底核に発達遅延が見られ、視床・海馬・扁桃体にも問題があるため、前頭前野の機能に偏りが生じて、学習障害・発達障害の症状が現れたもの」と考えられています。
具体的には、視床の機能不順によって、嗅覚・味覚・聴覚・体感などの感覚的認識機能に問題があるため、感覚鈍麻か、あるいは感覚過敏となります。五感が非常に鋭いか、逆に非常に鈍いということです。
自分の頭の匂いがとても好きだったり、逆に自分の頭や足の匂いもわからない人もいます。軽く触られただけで鋭い痛みを感じる人もいれば、逆に、大怪我をしても、骨折しても、まったく痛みを感じない人もいます。味にとても敏感な人もいれば、逆に、恐ろしく鈍感な人もいます。この症状は、ADHDと自閉スペクトラム症(*)の境界線上にある人に、特に目立って現れるようです。ちなみに自閉スペクトラム症を示す人の50%以上が、ADHD症状も示します。
さらに、前頭前野での高度な情報処理にも偏りが生じると同時に、体験した記憶情報にも偏りが生じますから、根拠の薄い思い込みに囚われやすく、体質的な感覚異常が状況判断力にも悪影響を及ぼします。
また、記憶固定の調整に関わる扁桃体・海馬の機能不順から、記憶の熟成が難しく、記憶を整理して物事の優先順位を決めたり、一つの体験からの気づきや課題を意識して、それを掘り下げていき、人生の重要なエッセンスを学ぶということも苦手です。つまり、物事を全体的に捉えたり、経験によって成熟することが、分野によっては、なかなか困難であるということです。
加えて、ADHD症状の最大の特性の一つとして、一度にいくつもの事を同時に併行して行うのが苦手です。例えば、料理や後片付けや部屋の整理整頓などを、段取りを決めて手際良くさっさとやることができません。特に、自分がもともと関心の薄い事柄・分野については、長時間、一つの問題に深く集中するのが難しく、気が逸れやすいので、学習に支障も生じやすい面があります。例えば、期限までに宿題を提出したり、長いレポートや文章を一日で書き上げたり、長編小説を一晩で読み通すなどということは、とても苦手です。
さらに、脳幹・中脳と大脳皮質を結びつける働きを持つ大脳基底核(尾状核・被殻)の機能不順に、快楽中枢である側坐核のドーパミン調整の機能不順も加わり、脳内で報酬予測に基づく行動の動機付けに偏りが生じており、やる気のバランスが悪い面があります。そのために、一度始めた行動を状況の変化に応じて、柔軟に切り変えたり、一時中断したりするのが困難で、ブレーキの壊れた機関車のような突進力で突き進む一方で、せっかくの持ち前の強い意欲が空回りしがちなために、苦労の割には成果が伴いません。
また、集中力がないわけではないのですが、意欲がわくものとわかないものが、はっきりしていて、楽しいことをしている時は問題なく集中できるのですが、明確な報酬(快楽)が得られない事柄には、まったく意欲が湧きません。例えば、自分の関心ある話について、息もつかない勢いで話していたかと思うと、興味のない分野に話題がうつったとたんに、ボーッとして眠くなったり、目がうつろになったりします。
さらに、気が逸れやすいという特徴も相まって、頭の中が常に方向の異なる複数の思考の渦で、いっぱいになってしまう傾向があるのです。
上述の複合的な脳の機能不順から、外部の刺激によっては情報処理に過負荷がかかり、過剰反応や情動低下が起こりやすく、緊張がほぐれにくい面があります。そのため、行動が常に衝動的で、考える前に発作的に行動しますから、忘れ物や不注意による失敗が多くなります。
その上、体験から学べないために、作業の習熟や精神的な成熟も遅れがちで、いつまで経っても、板についた所作と慣れた手つきで、落ち着いて行動できるようになりません。さらに、緊張によって、指先に微細な震えが起こることがあり、それがミスにつながりやすい傾向もあります。また、部分に意識が集中して、全体の流れを俯瞰することが苦手なため、総じて、人生において、「つまらないことで失敗する」という日常が、どこまでもつきまといます。
一般に、情緒的に幼く、年齢相応の態度や行動をすることができません。終始、落ち着きなく、イライラしやすく、衝動的で、感情や意欲のコントロールが難しく、気分が一瞬でガラリと変わってしまう気分屋の傾向があります。神経過敏で怒りっぽかったり、相手の言葉や行為に反応して突発的に激しい攻撃性を示す場合もあります。
衝動性という点では、よく考えずに思った事をそのまま口にしたり、タイミングを外した焦点の定まらない話を際限なくまくしたてることが多いために、コミュニケーションにも障害が生じることが多いようです。
特に、自閉スペクトラム症との境界線上にある人の場合、他者の心が想像できないために人間関係において予期せぬ事態に遭遇することが多く、また、臨機応変に柔軟な対応ができなくて、何かと軋轢を生じやすい面があります。集団においては、こうした人間関係の不調から、突発的に癇癪を起こしたり、気分の激しい落ち込みを感じたりすることが多くなります。
そして、これらADHDと自閉スペクトラム症(ASD)にまたがるさまざまな症状は、主に先天的な要因によるものであり、微細な遺伝的瑕疵から生じる脳の機能異常の現れなのです。


ADHDは、それほど珍しい症状ではなく、世界的には人口の5%程度を占め、20人に1人の割合で発症していると言われます。また、発症するのは必ず12才未満の時期で、日本では4才から17才の11%を占め、10人に1人がADHDの症状を示すとも言われます。
一方で、自閉スペクトラム症(ASD)の場合は、統計では世界の人口の2%程度であり、50人に1人の割合と言われます。しかし、近年、ASDの診断率が上がり、3〜10%という報告もあります。つまり、ASDも10人に1人いる可能性もあるのです。
また、ASDは、多くの場合、ADHDが発症するよりも前に、3歳になる前の1〜2歳の段階で発症します。加えて、「自閉スペクトラム症(ASD)を示す人のうち、41〜78%の割合で、ADHDの症状が併発する」とも言われます。つまり、ASDを発症した子どもの半分以上がADHDも発症するということです。
その意味で、ADHDは、ASDと並んで、もっとも身近な脳の機能異常の症状であると言えるでしょう。
また、成人するにつれて、多動性などの目立った症状がおさまることもあり、日本で、成人後もADHDの症状に深刻に悩まされている人の割合は、発症者全体の6〜8割程度と考えられています。つまり、成人のADHD症状を示す人の割合は、10代までよりは多少低くなるということです。特に、多動性に関しては、大人になるにつれて、症状が緩和して落ち着くことが多いようです。
そのため、長い間、ADHDの症状は、大人に成長するに従って消失するもの、と考えられていました。そのせいで、大人になってからも症状が継続する〝成人ADHD〟に関しては、特に日本では、その存在が認められたのが、ほんのごく最近になってからのことなのです。実際、国内で社会的にも注目され出したのは、2010年代以降であり、臨床の現場でも研究の積み重ねが、まだまだ浅いという状況があります。
「ADHDの症状は、大人になると自然に消えるのか?」について、これまで、医学会でも長く論争が続いてきましたが、現在では「ADHDの発達障害の特性は、生涯にわたって持続する可能性が高い」と考えられています。
とは言え、まったく治らないものと言い切ることはできません。
環境を整え、継続的な訓練を行うことで、症状を改善することは可能なのです。特に、若年期に、その対策を講じることができた場合には、脳の機能を比較的早く改善することが可能だと思われます。また、大人になってから、ADHDの症状が明らかになった場合でも、ナイアシンや鉄分補給などの栄養療法と訓練の併用などによって、十分改善の余地はあります。
最も重要なことは、本人自身が自分の状態を、客観的に正確に認識して、状況の改善に努めることです。ADHDの根治というのは非常に難しく、おそらく、脳の機能不順とは、一生付き合わなければならないでしょうが、少なくとも状況を改善することはできます。(*中枢神経に作用するストラテラなどの薬物治療は、ADHDの場合は、短期的には対処療法としての効果が高いと報告されていますが、それで根治するというものではなく、逆に効果がまったく認められない場合もあり、長期的には副作用・耐性の問題や薬物依存に陥る危険性もあるので、注意が必要と思われます。)
ただ、問題は、ADHDや自閉スペクトラム症は、遺伝的要素が大きいため、家族や血縁に、似たような特性を持つ人が多く、かえって家族の間では、「これは割合普通の症状だ」と見過ごされやすく、早期発見に至らない場合が多いことです。家族の中では、我が子の「問題が、問題として認識されにくい」ということでもあります。同時に、本人の認識も遅れがちです。
ADHDの特性として、自分が興味のあること以外に関心が向かず、人の話をじっくり聞いたり、細かい観察が苦手なため、お互いに根拠なく「大丈夫だ」「異常なしだ」「これは普通だ」と勘違いしている可能性が高いのです。
「自分もそうだったけど、大人になるにつれて落ち着くはず」と思いがちでもあります。あるいは、親も本人も、「もうすっかり落ち着いているようだ」と、勝手に都合よく思い込んでいる場合もあります。また、他人が、子どもの症状を指摘しても、親は、「我が子を、けなされている」としか思わないので、逆恨みされてしまうことも多いでしょう。
こうして、ADHDの症状が長く放置されることになります。そうした場合、就職、結婚、親の死などを転機として、問題が表面化することが多いようです。注意を要する職場などでミスが多く、叱られてばかりいるので、本人も家族もADHDを疑うようになり、検査を受けてはっきりする場合もあります。
一説には、ADHDの遺伝率は70%と言われており、そして、一般に、脳に関しては母系の遺伝が強いという点から考えて「実は、おばあちゃんも、お母さんも、自分も、家族がみんなADHDだった」ということだって、充分ありうる話です。
さらに、ADHDの特性を示す人の中には、学力が高く、ある面では非常に優秀であり、むしろ、高学歴であったり、優れた特殊技術を持つ職業人もいます。そうした場合、自分のADHD症状を素直に認めることができない大人も多いのです。
従って、「大人になってから判明するADHDは比較的軽症である」ということではありません。
ただ、自閉スペクトラム症もそうですが、ADHDの症状は、根本的には〝病い〟ではなく、〝個性〟なのだという認識は大切です。なぜなら、脳の機能の偏りは、完治するものではなく、多くの場合、一生付き合っていかなければならないものだからです。


上記したように「かつて、ADHDの症状は、大人になるにつれて、自然に改善されていくものだと思われていたのが、近年、そうでないことがわかってきた」ということですが、これは、裏を返せば、「本来、年齢とともに自然に改善されるはずのADHDの症状が、近年、大人になっても改善されない事例が増えすぎて、もはや、改善されないのが〝ふつう〟であると、考えざるを得なくなってきた」ということかもしれません。そう考えないと、昨今、急激にADHDの症状を示す人が増加している理由が説明がつかないのです。
つまり、今日、一般的な家庭環境や社会環境が、ADHDの克服のためには、まったく適していない条件が揃った望ましくない社会状況となってきている、と考えられるのです。これを「社会全体のADHD的傾向の増大」と考えてもいいと思います。
そのような「ADHD克服のための環境・家庭・社会条件の劣悪化」の要因として、次のようなことが考えられます。
まず、第一に、家庭環境に関しては、少子化に伴う過保護の問題があります。例えば、平成以降、親が子どもの〝送り迎え〟をするために、子どもが歩いたり自転車に乗ることが極端に少なくなりました。これが、非常にまずいのです。
歩くことは、脳の機能の発達にとって、大変良い訓練になります。自転車に乗って風を受けるのも、感覚情報を大脳に伝える視床への良い刺激になります。また、一人で自分の力で歩いたり自転車に乗ったりすることは、自立へ向けての精神的準備でもあります。
ところが、学校や塾への〝送り迎え〟を当然と考える現代の親の多くは、子どもを歩かせないことで、そうした大切な脳と精神の訓練の機会、さらには自立へ向けての心と身体の準備の機会を奪っているのです。
歩かない子どもは、脳を充分に発達させることができなくなります。というのも、歩くことは、生きることの基本だからです。そのため、歩かない生活は、真綿で包むような何不自由ない至れり尽くせりの家庭環境と相まって、子どもがリアルに生きているという実感を感じにくい状態にさせており、この現実感の喪失が、脳の順調な発達を阻害しているのです。
加えて、親が子どもに家事やアルバイトをさせないのもよくありません。一度に複数の仕事を要領よく手際よく素早く進める技術を習熟するトレーニングの機会が、それによって奪われるためです。
一般に「勉強と好きなことだけしていれば良い」という家庭環境は、遺伝的に素質を持つ子どもがADHDの症状を悪化させる要因となりうるということです。逆に言えば、困難に向き合いつつ「精一杯生きる」ということができていれば、ADHD症状は次第に改善されていく可能性が大きいということでもあります。
ですから、子や孫に、安易にお金(お小遣い)をあげ過ぎてしまうのも、長い目で見て、症状の改善にはマイナスなのです。お金をあげるという行為が、子どもの自立の阻害になってはならないということです。
第二に、社会環境に関しては、学校や職場などでの異分子排除圧力の強い「余裕のなさ」や「許容度の低さ」が挙げられます。家庭でも学校でも社会に出てからも、たとえ普通と違うADHD症状の人であっても、伸び伸びと生活できるおおらかな環境が、本当に少なくなりました。
この国では「みんなと同じことができないのは〝おかしい〟」という同調圧力が、異様に強いのです。社会全体が、『秩序を最善とする、異分子を容易には認めない息苦しい雰囲気』に満ちています。ですから、他国であれば、特段目立たない程度の能力や性質の偏りや不順であっても、この国では「歩調を乱すダメな存在」として烙印を押されてしまう傾向が強いのです。
そのため、ADHD症状を示す子は、周囲の差別と無理解によって、抑圧されたり心を傷つけられることが多くなります。精神的なダメージが蓄積されて、自尊感情が低くなりがちで、うつ病や両極性障害(躁うつ病)の傾向が現れたりする例も多く、社会への適応が困難になり、突発的・衝動的に自死を試みたりする可能性も高くなります。
さらに、イジメなどを原因とする強度のストレスによって、脳の前頭葉や扁桃体が萎縮した結果、ASDやADHDの症状が悪化することも知られています。
小中高生の10人に1人、平均してクラスで4〜5人はADHDやASDの症状を示す生徒がいると考えられる現状を考えると、この事態を軽視するわけにはいきません。彼らの症状を放置し、悪化させてしまうのは、不登校や自殺や学級崩壊を招く要因ともなりかねません。また、将来的にも、引きこもりや社会不適応者を増やすことで、社会の不安定化を招いているとも考えられます。
こうした現状を考慮して、まず、ADHDの子を持つ親としては、子どもの自尊感情を守りつつも、過保護に陥ることなく、子どもが自立へ向けて歩んでいけるように注意深く見守ることが大切です。
同時に、周囲の理解と協力を深めて、本人の生活環境を整え、信頼できる支援者を確保することが、症状の悪化を防ぐためにもっとも重要となるでしょう。
また、上記したように、本人の示す各々の症状を、部分的な〝病い〟と考えるのではなく、脳の機能の違いに基づく、パーソナリティ全体に関わる〝個性〟として、自他共に認めることが肝要です。


ADHDの特徴の一つは、とかく気が散りやすいために、物語・文学やドラマ・演劇・歌謡・音楽を、じっくり楽しむことが難しいということです。また、表現者の意図を的確につかむ能力に乏しいため、総じて表面的で皮相的で本質を外したかたちばかりの鑑賞に陥りやすく、作者の意図を、まったく誤解して受け取っていることもしばしばです。
それで、特に、『絵本を読んだり、読書すること、歌うこと、楽器の演奏、音楽の鑑賞を楽しめるようになること』が、ドーパミン分泌の調整を促し、ADHD症状の改善につながり、同時に、人生を幸せに生きていくために不可欠な、感覚と情緒と想像力と共感力を養うことにもなります。
重ねて言いますが、物語・文学や音楽や芸術に親しむことは、ADHDの改善にとって最重要です。世界の他の国々に比べ、生々しい現実の刺激に乏しい現代日本社会においては、書物や音楽や映画などによって養われた想像力を駆使しなければ、ADHDを克服するのは困難であるからです。
しかし、そもそも、昨今は、iPadやiPhoneなど、携帯端末依存が進み、特に子どもたちは、ネットゲームに長時間を費やすので、必然的に読書量が激減しています。加えて、大人も子供も、目に見えるハッキリした成果だけを求める短絡思考の結果主義に毒されて、物語や文学を楽しむ余裕をまったく欠いています。このような共感と想像力を欠いた人々の構成する社会では、ADHDの人々は、ますます孤独になり、疎外感を強くし、うつ病や統合失調症など、他の精神病を併発することが多くなります。
具体的にいうと、国際学力調査(PISA)の今年の発表によれば、世界各国の15歳の学力を調査した結果、日本の順位は、科学5位、数学6位、読解力15位ということでした。日本の子どもたちの読解力は、科学・数学に比べて、以前から問題視されていますが、特に最近は、年々、順位を落としています。また、PISAの求める読解力は、行間を読む力、書いていないことを補う想像力なのです。日本の子どもたちのもっとも苦手とする分野です。なぜなら、彼らは、物語文学を楽しむことを知らないからです。
彼ら、多くの日本の子どもたちにとって、テストに出題されない物語を読むのは時間の無駄と感じます。「試験の役に立たない読書」には、何の魅力も感じないのです。
というのも、端的に言えば、現在の日本の教育システムと、学歴至上主義の大人の価値観が、成績・評価・合格という結果だけを欲するように、子どもの心を条件付けすることで、子どもの脳の報酬系回路が退化して超単純化してしまうように強いているためです。
脳の感じる快楽報酬は、側坐核の分泌するドーパミンを中脳周辺系の神経回路が取り込むことによって生じますが、ある意味、現在の家庭や塾や学校の教育のあり方は、子どもの脳の報酬系「快楽中枢」が「試験結果=成績・評価」という単純で具体的で強烈な刺激だけに反応するように、反復訓練するトレーニング施設となっている面が強いのです。そして、これが、子どもたちのADHDの症状を悪化させています。本来は「グレーゾーン」にあるような子が、ADHDの性質を顕在化させる要因となっているということです。
逆に、質の高い文学をじっくり読むというような、大脳の前頭前野を活性化させる複雑で微細な刺激は、学校教育のもっとも苦手とするところです。
例えば、「ナルニア」や「ゲド戦記」や「二年間の休暇」はテストには出ません。「クラバート」や「遙かな国の兄弟」や「地上の旅人エイラ」も、テストには出ないでしょう。シオドア・スタージョンやアーサー・C・クラークやコードウェイナー・スミスやフィリップ・K・ディックは、絶対にテストに出ません。マーク・トウェインやサトクリフやドストエフスキーやトルストイも、まず出ないでしょう。だから、大人たちも、読書を重視しません。評価に関係ないからです。これで、読解力や想像力が身につくわけがありませんし、前頭前野の活動が円滑でバランスの取れた状態に調整されるための助けにもなりません。
ちなみに、読解力の1位は中国で、その下はエストニア、カナダ、フィンランド、アイルランド、韓国といった順番です。日本の子どもたちの読解力は、続くポーランド・フィンランド・ニュージーランド・アメリカ・イギリスのさらに下位です。
読解力が低いということは、他者を深く理解するために必要な教養と資質に欠けるということでもあります。このような互いに他者を理解する能力の低い、同化圧力の強すぎる、ギスギス、ピリピリした、マナー重視の孤独な均一化社会では、ADHDの改善は非常に困難です。
自閉スペクトラム症と合併している場合には、さらに状況は深刻です。症状が併発している場合には、適切な治療なしでは、症状の悪化が予測され、加齢によって不安障害(神経症)と気分障害(うつ病・躁うつ病/双極性障害)のリスクが高まることが指摘されています。
繰り返しますが、ADHDの症状改善に、最も重要なことは、本人と周囲の人々の理解と認識の深化です。つまり、「何が問題か」を知ることが、ADHD・ASD治療の第一歩なのです。言い換えれば、「心理社会的治療・支援は、薬物治療・栄養治療に先行して行われなければならない」ということでもあります。


ADHDの人たちは、怠けているから、気合が足りないから、ミスや失敗が多いわけではありません。「こんな簡単なこともできないのか?」と言われても、どうして一度に複数の作業をこなすことを要求されるのが〝当たり前〟だと言われなければならないのか、彼らには理解できないのです。彼らにとっては、それは異常に困難な仕事に思えるからです。
さらに、ADHDの人は、「やる気がないから眠くなる」のではなく、「やる気はあっても、複数の情報が同時に入ってくると、脳に過負荷がかかって、情報処理が追いつかなくなってしまい、一時的にシャットダウンしてしまったり、それでも無理矢理、過負荷のかかった状態を強制的に持続させると、すぐに脳疲労が蓄積して眠くなる」のです。簡単に言うと「知的障害はなくとも、情報処理がいっぱいいっぱいになって、脳が疲れやすい傾向がある」ということです。
また、ASD傾向の強い人に、しっかり明確に指示を伝えたにもかかわらず、指示の意図を取り違えたり、勝手に間違った方向に思い込んでしまうのも、いい加減に聞いているせいではなく、相手の意図を汲み取りきれない脳の問題なのです。
そのような構造の脳を持って生まれてしまった人の心を理解できないし理解しようとも思わない、という許容度や共感力の低い想像力のない人ばかりでは、ただでさえ、自分の苦しんでいる問題を適確に表現することができないために、相談したり助けを求めることが苦手なADHDやASDの人は、救われません。
また、そのような「異なる〝個性〟を持った人間を大切にしない社会」に生きることは、ADHD・ASD症状を示す人でなくとも、誰にとっても不幸なことです。周囲の徹底した無理解・無関心と排斥は、本人の自立を妨げ、依存を深めさせる過保護な環境と表裏一体です。
そして、いずれにしても、現状では、ADHD・ASD傾向の機能障害を持つ人は、健常な人たちにもまして、尚更必要な精神の自立と成熟を促すはずの経験から何重にも阻害されており、「大人になること」が、実に難しい社会の中で生きることを強いられています。
いい大学を出れば、就職すれば、結婚できれば、それでいい、立派な大人だ、というものではありません。人の心がわからないで、立派な社会人と言えますか。想像力のかけらもない人が、学識者と言えますか。自らの意思で、自分の未来を決められない者が大人と言えますか?
そんなことでは、この国も先が知れています。現在の繁栄も、そう長くはないでしょう。

日本人よ、もっと本を読み、歌を歌いましょう。




🌠*自閉スペクトラム症(ASD)について
自閉スペクトラム症は、かつて、ひとまとめにして「広汎性発達障害」と呼ばれていたものです。しかし、当時から、この広汎性発達障害という呼び名はあまり使われず、最近まで、「自閉症」や「アスペルガー症候群」など、さらに細かく分類された名称の方が、一般によく知られ、広く使用されていました。
しかし、その後、2010年代に入って、これらの複数の発達障害が、症状が重複していて境界線の曖昧な症状であるとして、連続体(スペクトラム)と考えられるようになり、現在では、一括りにして「自閉スペクトラム症(ASD/Autism Spectrum Disorder)」と呼ばれています。ですから、アスペルガーや自閉症という用語は、今日、医学用語としては使用されなくなってきています。
また、ASDの日本語訳として「自閉スペクトラム障害」という用語もありますが、現在は、Disorderは、障害ではなく症状として理解すべきと考えられており、「自閉スペクトラム症」という用語が一般的です。
ASDは、ADHDよりも発症率が低く、世界人口の2%程度を占めると言われています。また、男子の発症率は女子の約4倍で、ADHD(男2:1女)よりも男子の比率が大きいことでも知られています。
ただし、女子にいないわけではなく、むしろ、女子の場合は、人前では常に神経を使って正常なフリを演じている「隠れASD」や「隠れADHD」が多いのではないか、とも言われています。
自閉スペクトラム症については、ADHDよりも研究が進んでおり、原因についてはADHD以上に遺伝的な要因が強く指摘されています。母子の遺伝率は90%以上であり、子どもがASDの場合、絶対に親の検査も必要で、むしろ、3代、4代にわたってASDの症状が見られるのが普通です。
一卵性双生児の同時発症率も90%以上、兄弟の場合でも50%以上の確率で発症すると言われています。
また、ADHDより早期に、3歳より前の1〜2歳の段階で発症することが知られています。ただし、軽度の場合には、9歳ぐらいまで、検査を受けても判定できない場合があります。
検査による診断が難しい理由は、自閉スペクトラム症やADHDなどの発達障害は、病理や原因が特定されておらず、生物学的な検査方法がないため、臨床症状によって判定・診断を下すより他ないからです。症状がはっきり現れない限り、特定できないということです。
さらに、ASD発症者は、12歳までに、60%以上の確率で、ADHDを併発して症状がより複雑になり、それに伴って、孤立したりいじめにあう確率も増え、特に思春期以降、うつ病などの気分障害を併発するリスクも格段に高まると言われています。
ASDとADHDの関連性は深く、私自身の印象で言えば、何らかの併発状態が生じるのが当然というか、ASDとADHDの双方にまたがって、どちらの症状も見られるのが、むしろ、普通であるという気がします。
とは言え、ASDも、ADHDと同様に、個人差が非常に大きく、重度の症状を示す状態の人から、ごく軽度の症状の目立たない状態の人まで、さまざまです。知的に高度な人であれば、それまでの経験をもとに、自分のASDやADHDの特性が目立たないように、上手にカバーして生活している人もいます。
また、比較的知能の高いASD・ADHD併発タイプの人の場合、環境要因から人格障害を含む併発障害が進むと、感覚や感情の欠落部分によっては、自分の悪意や良心の欠如を、非常に巧妙に覆い隠して、天才的な演技ができてしまうサイコパス的人物となる場合もあるかと思います。
したがって、たとえ、知的障害がなく、症状が軽度であっても、ASDは、ADHDに比べて、治療薬もない上に、問題が深刻になりがちであり、取り扱いに注意を要するのは明らかです。
そして、症状の重い人から境界線上「グレーゾーン」にある人、さらには、軽度であってもASDの傾向を持つ人まで含めると、総人口に占めるASD症状を示す人の割合は、だいたい10人に1人ぐらいはいるのではないかと言われています。


次に、「ASDとは、どんな症状なのか?」についてです。
まず、自閉スペクトラム症に共通する特徴の一つは、たとえ知的能力に障害のない場合であっても、「相手の気持ちを想像したり、瞬時に理解する能力に欠ける」ということです。「空気が読めない」「集団の空気に合わせたり、相手の呼吸にうまく合わせるのが苦手」ということでもあります。
知能が高くても、相手の言葉の裏を読めず、言葉を過度に字義通りの意味にしか捉えなかったり、相手の言葉の中で、自分が気になった部分にだけ捉われてしまう傾向があります。また、自分が話す時には、妙に格式ばった硬い表現になりがちで、相手の言葉をそのまま繰り返してしまったり、自分の興味のあることを一方的に話し続けたりして、日常の会話が円滑にスピーディに行えないので、社会的コミュニケーションに問題を生じがちです。
人と視線を合わせようとしなかったり、相手の気持ちを察するのが苦手で、身振りや表情にも情緒的な反応が乏しいので、友だちをつくりにくいのも特徴です。
もう一つの際立った特徴は、極めて限定された特定のものや興味の対象にだけ、異常に強い関心と執着を示し、「こだわりが強く、変化を嫌い、柔軟性に欠ける単調な反復行動を繰り返す」傾向があることです。
この『自己の感覚や体験への極端な執着』は、自分の体験したことや感じたことが、客観的な事実の理解や判断を無視して、自分の認識や行動の唯一の判断基準となり、体験の中で自分が感じたことが、その後、改められたり修正されることなく、絶対的な判断材料となって記憶に定着するために生じると考えられています。これには、「体験したことや感じたことを正確に記憶する能力に優れている一方で、体験を概念化・客観化し、応用するのが苦手である」という自閉スペクトラム症特有の性質が関わっています。これは、別の言い方をすれば「自己の経験を内省することが苦手である」ということです。もっと簡単に言えば、「どこまでいっても、自己を客観視できない(己を知らない)」ということです。
また、次に起こることを想像する直感的イマジネーションの欠如から、予測不可能に思える未知の世界に飛び込むのに恐怖を覚えるため、同じパターンを繰り返すことで安心感を得やすいのだと言われています。
このため、十分な知的能力を有する場合でも、変化に対する抵抗感が強く、決まりきった日常の活動の反復行動に埋没しがちです。それに伴って、思考様式も形式化・習慣化されていくため、突発的な事態に臨機応変に対応することが難しい面があります。
さらに、知的能力の高い場合には、「文字や数に強い興味を持ち、機械的記憶や計算能力が非常に高い」傾向があります。したがって、小中学校では、試験には強いのですが、作文を書かせたらめちゃくちゃということになります。また、テストがより高度になると、予想外の問題には、臨機応変に対応できず、問題解決の糸口が掴めずに苦労するでしょう。
また、知識や道具や機械などには旺盛な好奇心を示すものの、物語やドラマの主人公に感情移入することは、なかなかできません。歌や音楽を聴いて、感情が揺さぶられることも、滅多にないでしょう。
概して、人よりもモノに興味を抱き、収集癖もあります。本来の必要性とは関係なく、揃えただけで満足してしまう傾向もあります。また、幼少期には、独り遊びが多く、同じものを、順番に並べていく遊びなどを好みます。
感覚機能は、鋭敏な視覚機能に意識の大半が向けられる一方で、視覚を働かせるとき、全体を鳥瞰図的に見るよりも、細部に視点が固定される傾向が強いです。
また、その他の感覚刺激への反応に異常が見られます。味覚や嗅覚や聴覚の鈍麻や過敏などに加えて、皮膚感覚は浅いところでは過敏なのに、深いところでは鈍感という傾向が見られることが多いようです。
これらの感覚の特異性は、ストレスが高まった時に、強く見られることもあり、自分の顔の表面をそっと撫でる仕草に特徴が現れます。これも、脳内の感覚情報処理に偏りがあるためと考えられています。


上記の症状に特徴付けられる自閉スペクトラム症の症状は、ADHDの場合と同じく、脳の機能と構造の微細な異常によって引き起こされる症状であると考えられています。
ただ、注意して欲しいのは、「脳の機能障害は絶対に治らない」「ASDだから他人のことを思いやることができない」と決めつけてはならないということです。
脳の機能障害でも、回復することはありますし、ASDの人でも他者を思いやることがまったくできないわけではありません。むしろ、場合によっては、健常者以上に深く思いやることのできる人にもなりうるのです。
ただし、ASDは、ADHDに比べて、薬が効きにくいため、投薬治療という選択肢の優先順位は低くなります。特に、成人ASDについては、現在のところ、治療薬がありません。
大切なことは、栄養・生活の改善による心身の健全化、そして、家庭・友人・仕事などの良い刺激による人格的な成熟、さらには、自己の認識の深化と客観化、それに伴う自分の脳の機能の偏りの自覚です。
また、ASDとADHDの診断や両者の見分けや区別は、非常に難しく、現代の医学においても、その境界線は極めて曖昧です。「ASDなのか、ADHDなのか、判断がつきにくい」という場合も多いということです。さらに、正常の範囲と発達障害(ASD・ADHDなど)との境界線も、また、極めて曖昧であり、診断基準は満たさないものの症状が深刻な「グレーゾーン」の人も多いと言われています。「ASDのグレーゾーンの人は、20人に1人、ADHDのグレーゾーンの人は10人に1人はいる」とも言われているのです。
さらに、イジメなどの強度のストレスによって、前頭葉と扁桃体が萎縮した結果、後天的にADHDに酷似した症状を発症する人もいる、とも言われています。
ともかく、発達障害は、診断が非常に難しく、境界線が実に曖昧です。そして、薬物による根治も、ほとんど期待できません。
現代医学においては、ASDもADHDも、生物学的な脳機能の障害として、原因が特定されておらず、構造が解明されていないためです。
けれども、現在、実に多くの人々が、社会に適応するのに困難を感じている主要な原因の一つであることも確かであり、社会全体の深刻な問題となっているのです。
そして、多くのASDやADHDの診断を受けた方やグレーゾーンの診断を受けた方を悩まし続けてきたことの一つは、世間一般でよく言われるところの「ふつうってなんだろう?」ということです。
「ふつう、これぐらいできるでしょ。」
「これがわからないなら、やっぱり、ふつうじゃないね。」
などと、常日頃から言われ続けているだけに、「ふつうって何?」という疑問が、常に悩ましくつきまとうのです。
『知的障害はないが、脳の機能に偏りがある』ということは、やはり、〝ふつう〟ではありません。とは言え、病気のように完治することは難しく、薬物治療も効かないことが多く、〝根性〟や精神論で治るものでもなく、また、〝こころの病〟〝精神病〟でもなく、人格障害でもありません。
それでも、ふつうじゃないということが、本人の心に重くのしかかることが多いのです。そのため、「ASDやADHDの症状と、どう上手く付き合っていくか?」は、本人の人生にとって、大きなテーマとなるでしょう。
自らASDであることを公表している有名人としては、スティーブン・スピルバーグ、スーザン・ボイル、グレタ・トゥンベリさんなどがいます。
また、ADHDであることを公表している有名人には、パリス・ヒルトン、ブリトニー・スピアーズ、トム・クルーズ、ウィル・スミスなどがいます。
彼らは、同じ症状を持ち、社会的な偏見や差別に苦しんでいる人たちを、自分もそうだということを公表することで励ましたいと願っているのです。
日本人でも、モデルで俳優の栗原類さんは、「8歳の時、NYで、自分と母親が、ADHDであると診断されたこと」を公表しています。



【最後に】
ASDにしてもADHDにしても、両方を併発している場合でも、もっとも大切なことは、支援者に恵まれることです。
そして、支援者に恵まれるためには、本人の「愛される才能」が重要になるのです。
この「愛される能力」というのは、「心配してもらえる存在であること」「他者からの援助に深く感謝できること」「支援者を大切に思えること」です。
この能力を豊富に持っている人は、多少の困難は乗り越えていけるはずです。逆に、この能力が乏しい人は、支援者に恵まれず、孤独になり、思春期以降、うつ病や双極性障害や不安障害(神経症)を併発しやすくなります。
※一般にASDの2次障害としては、うつ病の発症する割合が高くなり、ADHDの2次障害としては、双極性障害の発症する割合が高くなります。不安障害は、ASD・ADHD共に、合併する確率が高くなります。
※※発達障害の2次障害として発症するうつ病と双極性障害については、うつ・双極性障害の薬では、症状が改善しないことが多いようです。逆に、薬が効かないことから、ASD・ADHDであることが判るという場合もあります。

子どもを幸せにしたければ、まず第一に、人に愛される子に育てることです。