久しぶりに「オメガトライブ」という漫画を読んでいて、強く印象を受けた部分がありました。
それは「一つの種が進化の限界に達した時、子を殺す親たちが種の未来を絶ち、種の絶滅を招く」という考え方です。
確かに、親が次世代を担うべき子どもを殺してしまっては、種の命脈が絶たれてしまいます。だからこそ、本能的に親は子を守ろうとするのでしょう。その衝動は、理屈ではありません。ともかく、非常に強いものです。人間の持つ〝想い〟の中で、もっとも強い、極めて根源的なものと言ってもいいでしょう。
ところが、私たちの社会では、親が自分の子どもを守ろうとする本能的な衝動・情動が、最近、急速に薄れてきているという気がします。子どもを命懸けで守り育てるために自分の全エネルギーを注ぐことに、多くの大人たちの脳が、あまり喜びを感じることができなくなっているのです。こうして、子どもが簡単に見殺しにされていきます。これは、種の存続の危機です。
実際、現在、世の中を見渡せば、「子を殺す親」は、たくさんいます。子どもへのDV、幼児・児童虐待、子どもの遺棄は、その代表的なものです。パチンコ店の炎天下の駐車場のクルマの中に閉じ込められたまま、脱水症状で死んでいく子どもも後を断ちません。子どもは親の保護と愛情がなければ生きていけないのですが、子どもを愛し、子どもの命を守ることのできない親が増えているのです。
広い意味では、この社会全体を、子どもを取り巻き、成長を促す生育環境として〝親〟と考えるならば、戦争や地域紛争やテロ、インフラの破壊や食糧難など、劣悪で荒廃した社会環境の中での子供の死もまた「親、つまり、子の生育環境による子殺し」と言えるでしょう。いじめによる自殺、ブラック企業による若者の過労死、無差別児童殺人、児童通り魔殺人、高齢者ドライバーによる保育園児童の過失致死なども、一種の「親、つまり、子の生育環境構成員による子殺し」であると考えることができます。そして、このような〝子殺し〟の事例は、今日、山のようにあります。
さらに、子どもを管理し支配することで、自分の望みのままのレールにのせようとする親もまた、「あなたのためなのよ」と言いながら、実は、子どもを自分の欲望を満たすための〝道具〟にしてしまっており、結果的に、子どもの自律的な成長と発展を阻害し、子どもの意思と未来を握り潰すことで「子どもを殺している」と言えるかもしれません。このような支配型の親御さんは、今の日本に、どれほど沢山いるでしょう。
最近目立って多い、支配型の教師や監督や先輩や上司によるパワハラやモラハラや虐めもまた、親にあたる存在が、同じ罪を犯しているものと考えることができます。
異常に過保護な親や「母子一体型」の親もまた、このタイプに含まれます。最近、若い娘さんやお母さんが、母親と一緒に歩いているのをよく見かけませんか。彼らもまた、見方を変えれば、「子殺しする親」かもしれません。気になるところです。
こうして、皆さんの身近なところでも、日常的に、「親の子殺し」が行われているのではないでしょうか。
親に殺されかけた子どもは、深い絶望の淵に落とされます。その時、命を失う者、自ら死を選ぶ者もいれば、自分を守ろうとして引きこもる者、精神的に去勢されてしまい、見かけの上では社会にうまく順応しているものの、ある意味、身体だけ生き延びている者もいます。あるいは、気づかないうちに、精神をがんじがらめにされて、自分では意識しないまま、盆栽のようにいびつに育っている人もいます。
最悪なのは、令和の世では、すでに、親の世代が「子殺しの世代」の親に育てられ、去勢されて育ってきた「生き残り(勝ち組?)」であるため、自らもまた「子殺し」をしていることに、まったく無自覚であることです。彼らは、自然で健康な心を失っているので、子どもの断末魔の叫びも聞こえないし、子どもの痛みを理解することもないのです。このような親の世代の不感症(麻痺)が、種の絶滅へ向けての〝片道切符〟となっています。
親の親の世代もまた、自らのした所業の報復を受けています。姥捨山ならぬ老人ホームや福祉施設に、親もまた子どもに捨てられるのです。そして、身内に放置されたまま、緩慢な餓死・孤独死を強いられている人も多くいます。死んだ時も、直葬後、即、永代供養されたり、早々に我が子に墓じまいされたりする人も増えています。これもまた、広い意味での因果応報と言えるでしょう。
親が子に殺され、子が親に殺される。殺し、殺される親子関係、それが、今の世界です。そうした現状を考えると、人類は、今、種としての限界に達し、絶滅の瀬戸際にいるのかもしれません。
「オメガトライブ」の主人公は引きこもりでした。そして、親に殺されかけて、すべてに絶望した「ハグレ(負け組?)」です。
物語の中では、「生命の進化の過程で、進化種の第一世代となるのは、いつの時代も旧世代のハグレである」そして「彼の持つ〝絶望の深さ〟が、絶滅の淵にある旧種から次なる進化種の第一世代となるための第一条件である」とされます。彼らが、ハグレたのは、この世界で生きていくことに絶望させられたからです。そのとてつもなく深い絶望を知ることが、進化の第一条件なのです。絶望を知らない者は、希望を見出すこともないからです。
さらに、進化種となる第二条件は「深い絶望の中で、それでも死を選ばず、自暴自棄にもならず、強い意志を持って立ち上がることのできた者でなければならない」というものです。絶望しながら、なおかつ、積極的に生きる意志を持つことができなければならないのです。そのためには、自分が生きる意味を感じなければなりません。
そして、第三の条件は、「旧世代のように子を殺す親となることなく、子を慈しみ、守り育てることのできる者となる」ということです。子どもの心の声を聴くことができ、次の世代を健やかに育てることができる者でなければ、進化種にはなり得ないのです。
自分が産み育てた我が子の心が理解できないので、心療内科や精神科に頼り、保育園の保母さんに精神安定剤を渡して、「暴れたら飲ませてください」と、三歳児に安定剤を飲ませるように頼む若いお母さんも増えているといいます。躾とか慈しみとか理解の努力をするのではなく、医学的な対処療法のみに頼るのです。なんだか、世も末です。
群れからハグレ、孤立して絶望を知ること。たとえ親から殺されかけても、強い意志で生き残り、立ち上がること。子を守り育てる親になること。
以上、三つの条件を満たせない者は、次世代の進化種となることはできず、旧種として滅び去るしかないということです。
なぜなら、彼ら滅びゆく旧世代の脳は、生きる喜びを感じることができないからです。脳が喜びを感じない物事に対して、ヒトは関心を持つことはありません。ですから、彼らは、生きることそのものに、さしたる関心がないのです。
この状況、「種の絶滅へ向けて一直線」です。
皆さんが、この絶望に満ちた世界で、それでも生きる意志を強く持ち、進化した脳をもって、「子を救う者」として、生きていくことができるように、心から祈ります。
それは「一つの種が進化の限界に達した時、子を殺す親たちが種の未来を絶ち、種の絶滅を招く」という考え方です。
確かに、親が次世代を担うべき子どもを殺してしまっては、種の命脈が絶たれてしまいます。だからこそ、本能的に親は子を守ろうとするのでしょう。その衝動は、理屈ではありません。ともかく、非常に強いものです。人間の持つ〝想い〟の中で、もっとも強い、極めて根源的なものと言ってもいいでしょう。
ところが、私たちの社会では、親が自分の子どもを守ろうとする本能的な衝動・情動が、最近、急速に薄れてきているという気がします。子どもを命懸けで守り育てるために自分の全エネルギーを注ぐことに、多くの大人たちの脳が、あまり喜びを感じることができなくなっているのです。こうして、子どもが簡単に見殺しにされていきます。これは、種の存続の危機です。
実際、現在、世の中を見渡せば、「子を殺す親」は、たくさんいます。子どもへのDV、幼児・児童虐待、子どもの遺棄は、その代表的なものです。パチンコ店の炎天下の駐車場のクルマの中に閉じ込められたまま、脱水症状で死んでいく子どもも後を断ちません。子どもは親の保護と愛情がなければ生きていけないのですが、子どもを愛し、子どもの命を守ることのできない親が増えているのです。
広い意味では、この社会全体を、子どもを取り巻き、成長を促す生育環境として〝親〟と考えるならば、戦争や地域紛争やテロ、インフラの破壊や食糧難など、劣悪で荒廃した社会環境の中での子供の死もまた「親、つまり、子の生育環境による子殺し」と言えるでしょう。いじめによる自殺、ブラック企業による若者の過労死、無差別児童殺人、児童通り魔殺人、高齢者ドライバーによる保育園児童の過失致死なども、一種の「親、つまり、子の生育環境構成員による子殺し」であると考えることができます。そして、このような〝子殺し〟の事例は、今日、山のようにあります。
さらに、子どもを管理し支配することで、自分の望みのままのレールにのせようとする親もまた、「あなたのためなのよ」と言いながら、実は、子どもを自分の欲望を満たすための〝道具〟にしてしまっており、結果的に、子どもの自律的な成長と発展を阻害し、子どもの意思と未来を握り潰すことで「子どもを殺している」と言えるかもしれません。このような支配型の親御さんは、今の日本に、どれほど沢山いるでしょう。
最近目立って多い、支配型の教師や監督や先輩や上司によるパワハラやモラハラや虐めもまた、親にあたる存在が、同じ罪を犯しているものと考えることができます。
異常に過保護な親や「母子一体型」の親もまた、このタイプに含まれます。最近、若い娘さんやお母さんが、母親と一緒に歩いているのをよく見かけませんか。彼らもまた、見方を変えれば、「子殺しする親」かもしれません。気になるところです。
こうして、皆さんの身近なところでも、日常的に、「親の子殺し」が行われているのではないでしょうか。
親に殺されかけた子どもは、深い絶望の淵に落とされます。その時、命を失う者、自ら死を選ぶ者もいれば、自分を守ろうとして引きこもる者、精神的に去勢されてしまい、見かけの上では社会にうまく順応しているものの、ある意味、身体だけ生き延びている者もいます。あるいは、気づかないうちに、精神をがんじがらめにされて、自分では意識しないまま、盆栽のようにいびつに育っている人もいます。
最悪なのは、令和の世では、すでに、親の世代が「子殺しの世代」の親に育てられ、去勢されて育ってきた「生き残り(勝ち組?)」であるため、自らもまた「子殺し」をしていることに、まったく無自覚であることです。彼らは、自然で健康な心を失っているので、子どもの断末魔の叫びも聞こえないし、子どもの痛みを理解することもないのです。このような親の世代の不感症(麻痺)が、種の絶滅へ向けての〝片道切符〟となっています。
親の親の世代もまた、自らのした所業の報復を受けています。姥捨山ならぬ老人ホームや福祉施設に、親もまた子どもに捨てられるのです。そして、身内に放置されたまま、緩慢な餓死・孤独死を強いられている人も多くいます。死んだ時も、直葬後、即、永代供養されたり、早々に我が子に墓じまいされたりする人も増えています。これもまた、広い意味での因果応報と言えるでしょう。
親が子に殺され、子が親に殺される。殺し、殺される親子関係、それが、今の世界です。そうした現状を考えると、人類は、今、種としての限界に達し、絶滅の瀬戸際にいるのかもしれません。
「オメガトライブ」の主人公は引きこもりでした。そして、親に殺されかけて、すべてに絶望した「ハグレ(負け組?)」です。
物語の中では、「生命の進化の過程で、進化種の第一世代となるのは、いつの時代も旧世代のハグレである」そして「彼の持つ〝絶望の深さ〟が、絶滅の淵にある旧種から次なる進化種の第一世代となるための第一条件である」とされます。彼らが、ハグレたのは、この世界で生きていくことに絶望させられたからです。そのとてつもなく深い絶望を知ることが、進化の第一条件なのです。絶望を知らない者は、希望を見出すこともないからです。
さらに、進化種となる第二条件は「深い絶望の中で、それでも死を選ばず、自暴自棄にもならず、強い意志を持って立ち上がることのできた者でなければならない」というものです。絶望しながら、なおかつ、積極的に生きる意志を持つことができなければならないのです。そのためには、自分が生きる意味を感じなければなりません。
そして、第三の条件は、「旧世代のように子を殺す親となることなく、子を慈しみ、守り育てることのできる者となる」ということです。子どもの心の声を聴くことができ、次の世代を健やかに育てることができる者でなければ、進化種にはなり得ないのです。
自分が産み育てた我が子の心が理解できないので、心療内科や精神科に頼り、保育園の保母さんに精神安定剤を渡して、「暴れたら飲ませてください」と、三歳児に安定剤を飲ませるように頼む若いお母さんも増えているといいます。躾とか慈しみとか理解の努力をするのではなく、医学的な対処療法のみに頼るのです。なんだか、世も末です。
子どもの心身の不調は医者に、教育は保母さんや先生に任せて、親は何をしているのでしょう。それで、子育てしていると言えるでしょうか。
子どもが絶望するのも無理はありません。それでも、たとえ親に絶望しても、子どもは生きていかなければなりません。そして、次世代を育てられる者に成長しなければならないのです。
それが出来なければ、自分もまた、子を殺す親になるしかないのです。
群れからハグレ、孤立して絶望を知ること。たとえ親から殺されかけても、強い意志で生き残り、立ち上がること。子を守り育てる親になること。
以上、三つの条件を満たせない者は、次世代の進化種となることはできず、旧種として滅び去るしかないということです。
なぜなら、彼ら滅びゆく旧世代の脳は、生きる喜びを感じることができないからです。脳が喜びを感じない物事に対して、ヒトは関心を持つことはありません。ですから、彼らは、生きることそのものに、さしたる関心がないのです。
この状況、「種の絶滅へ向けて一直線」です。
皆さんが、この絶望に満ちた世界で、それでも生きる意志を強く持ち、進化した脳をもって、「子を救う者」として、生きていくことができるように、心から祈ります。