今、沖縄で一番大きな話題は、首里城焼失の話題です。ただ、これについて記事を書くべきか、ずいぶん悩みました。
火事が発生したのは、2019年10月31日、午前2時35分頃と言われています。火が消し止められたのは、同日、午後1時半頃だったそうです。
火災がおよそ11時間近く続いたにも関わらず、沖縄県が陸自にヘリの出動要請をしなかったことの是非について、ネット上では、激しく取り沙汰されています。もっとも、これまでも、沖縄県知事は、自衛隊ヘリの出動要請すべきところで、絶対に要請しないという〝不祥事(?)〟を繰り返してきたわけですが、今回も同様に、ということでしょうか。
あるいは、今年の2月1日に、首里城正殿など有料区域の使用管理権が、国から沖縄県に移行して、わずか9カ月目で、火災が発生し、正殿を含む主要な7棟が完全焼失してしまった、この管理責任の所在についてどう考えるか、という問題も提起されています。首里城は国有財産であり、その所有権は国にありますが、使用料を年間2億円、国に支払うことで、管理権が2月から県に移行していたので、火災発生時点では、管理義務も県にあったと考えられるからです。
正殿の展示物や収蔵品400点余りも焼失しており、失われた歴史的資料は、二度と取り戻すことはできません。残念なことです。
加えて、玉城デニー知事が、韓国訪問中に、このような大事件が起こったことについても、日韓が「徴用工」問題、「慰安婦像」問題、安全保障問題、反日不買運動問題などで揺れている、この時期における知事の訪韓自体を疑問視する声もあります。
特に、知事選では「沖縄県は、もう政府の援助(補助金)は必要ない」「日本(とアメリカ)から沖縄を取り戻す」と公言し、これまでに、アメリカへ「基地は要らない」と言いに行ったり、韓国へ「観光客もっと来てくれ」と言いに行ったり、反政府的な海外への働きかけを、忙しく続けてきた玉城デニー知事が、今回、火災の翌日1日には、早々に首相官邸を訪れ、神妙な面持ちで再建への支援を要請している様子に、冷ややかな視線を向ける人々も、内地には多いのではないかと思います。
そういう内地にも通じる、ある意味、普遍的な批判感覚とは別に、沖縄県内には、首里城に対して、もともと複雑な思いや腹立たしい思いを抱いていた人たちが、実は大勢います。
例えば、首里王府によって、人頭税を過酷に搾取されていた宮古島など離島の人たちにとっては、今でも、首里城をみると「私たちの祖先から情け容赦なく絞り取った人頭税によって、これだけの豪勢な城をつくってふんぞりかえっていたのか」と、腹立たしい気持ちを抑えることができない、という人も少なくありません。
また、あるいは、首里城を最初に建国した尚巴志及び第一尚氏の子孫にとっては、王位簒奪者である第二尚氏の王たちの墓である玉陵や第二尚氏の王たちの居城であった首里城の復元にさしたる思い入れはなく、むしろ、再建事業を冷ややかに見ていた面も、あることは確かです。
勝連の人に至っては、第二尚氏の首里王府は、地元の英雄阿麻和利を陥れて滅した〝仇〟ですらあります。勝連の人にとって、最も大切な城は、何といっても阿麻和利の居城であった勝連城です。首里城ではありません。
歴史的に首里王府への確執や怨みの強い人たちにとっては、首里城は決して自らの誇りとする建物ではなかったのです。
そもそも、戦前の首里城は、大正期に財政が逼迫した沖縄県が維持を諦め、取り壊す寸前だったところを、国が保護を決め、国の文化財とすると同時に、沖縄最初の統一王朝を建国した初代舜天王から始まる歴代統一王統を祀る神社(「沖縄神社」)とされたもので、当時は、建物の造りも、黒い瓦と天然木の色合いを生かした黒木の柱や杉や檜材の壁を持つ日本風の建物でした。
それを、1992年に正殿が再建された時には、なぜか、台湾檜に漆で朱色に染めた柱や壁と赤瓦を用いた中国風の建物として、以前の姿とはまったく異なる意匠で造られてしまったのです。
そればかりか、かつての歴代琉球王を祀る神社としての祭祀機能は失われ、信仰の中心としての役割を取り戻すことはありませんでした。
これこそ、まさに「仏(器)作って魂(神様)入れず」というものです。結局、復元された新しい首里城は、戦後の県民が抱いていた幻想と思い込みに強く影響された歴史的フィクションを体現する巨大な虚構、想像のイメージで造形された構造物となってしまったのです。
さらに、首里城周辺の昔ながらの沖縄そば屋さんや商店街の人たちにしてみれば、この「新首里城」ができて以来、お客さんがめっきり減ってしまって、閑古鳥が鳴いている状況があり、商売上がったりの状態が続いていました。
以前は、旧首里城の跡地に琉球大学がありました。また、近くには博物館もありました。そして、現在は県立芸大もあります。首里は、もともと文教の街なのです。
ところが、新たに首里城ができる(復元?)ということで、琉球大学は西原に移転(1979)し、県立博物館も新都心に移転(2007)してしまいました。県立芸大もキャンパスの崎山への移転が進んでいます。
大学生が多かったときには、日常の中で、学生たちが安い沖縄そば屋で毎日食事をし、商店でも菓子パンや弁当や飲み物が売れました。周辺の居酒屋も流行っていたのです。
しかし、今では、観光バスは、首里城の敷地内に直接入っていきますから、観光客は、ほとんど首里の街を歩きません。ショッピングもしません。首里城だけを見学して、買い物や食事は、パルコやイオンモールへとバスで移動してしまいます。修学旅行の生徒たちにしても、土産物屋には入っても、地味なそば屋さんや商店には入りません。ですから、首里城周辺の昔ながらの地元の小店舗には、まったくお金が入ってこないのです。
庶民にお金が入ってこないと、街は活気を失います。
そのため、むしろ、首里城など造らず、琉大と芸大を残して、博物館も新都心へなどは移さずに、今はただの広大な空き地になってしまっている、かつての敷地内に増改築するべきだった、と今更ながら後悔している人たちが、首里の街にはいっぱいいます。
今日、歴史ある文教の街としての首里の伝統は、すでに廃れ果て、崩れ去ってしまって久しく、いつしか、ハリボテの客寄せパンダ的な首里城だけが目立つ、いびつな元気のない街になってしまっているのです。
かつての賑わいを知っている者にとっては、首里は、本当に、冴えない寂れた街になってしまいました。
第一、首里城祭にしても、取り仕切っているのは、内地出身の人やらよそ者ばかりで、地元の人間は、陰に隠れてしまっています。
これでは「誰のための首里城祭だ!」と、市民から憤りの声があがるのも無理からぬことです。
喜ぶのは、琉球王朝の冊封時代における中国への事大主義の様相が強く感じられる出し物を好んで観たがる中国人観光客や、エキゾチックな風俗を物珍しがる初見の欧米人観光客ぐらいではないでしょうか。
「それでいいんだ、すべては観光のためだ」と言うのなら、文化って、いったい何なのでしょう。首里城もまた、観光誘致のためのツール、言わば、単なる金儲けの手段に過ぎないのでしょうか。
今回、国は、沖縄県や那覇市の要請を受けて、首里城再建の費用を全面的に支援し、丸ごと拠出する意向であると言われています。首里城は、国の所有物なので、その再建費用は国が負担するというのです。
そうなると、県や那覇市や、その他の自治体が集めた寄附金は、どうなるのだろうと不思議に思うのです。すでに、県内外から5億円以上集まっているようですが、このお金はいったい何に使われるのでしょうか。
いずれにしても、総額で100億円規模の国家予算が投入されるわけですから、できれば、多くの県民にとって、より意味のある有意義なプロジェクトになって欲しいと願わずにはいられません。
大金をかけてつくったハリボテなどには、なんの魅力もないのですから。世界の人を惹きつける、地域固有の伝統的な文化というのは、そういうものではないはずです。
『お金だけ集めても、知恵が集まらない』というのでは困ります。
そもそも、厳密に言うと、今回焼失した「首里城」は、1989年の着工から30年かけて、2019年、今年1月に完成したばかりの複数の建造物を含む「首里城公園」の一部であり、正殿についても、先に述べたように、1989年代に建設が始められ、1992年に完成した、まったく新しい建築物であって、同様に、今回焼失した7棟の建物はすべて、重要文化財でもなければ世界遺産でもありません。
文化財としての価値で測るなら、今帰仁城址や中城城址の方が、はるかに重要な文化財であり、貴重な世界遺産です。
また、沖縄には、毎年1000億円近い軍用地料が国庫から入っており、そのほとんどが、個人の基地地主に支払われています。しかも、基地使用料は、所得税控除の対象とされています。中には、毎年、数億円、数十億円の使用料を受け取って、数十年に渡って莫大な収入を得ていながら、1銭も税金を納めていない地主の方もいらっしゃいます。ですから、そうした富裕な方々から寄付を募れば、たかだか数百億円程度の復元費用など、簡単に集まるはずです。もし、県民すべてにとって、首里城がそれほど大切なものであれば、そうならないのがおかしいと思うのです。
例えば、軍用地料として年70億円を受け取っている個人が、毎年控除されている莫大な税金の一部を、一度ぐらいは納税するつもりで、30億円ほど寄付なさったなら、たった一人の寄附金でも、正殿ぐらいは建つのではないでしょうか。それに、今回の焼失では、火災保険金70億円が出る予定なので、合算して100億円もあれば、一気に7棟全部、復元できてしまいます。国の負担など必要ないはずです。
そうならないのは、なぜでしょうか。それは、「県民全部が、首里城焼失を心から悼んでいる」わけではないからです。
突然の首里城焼失にショックを受け、涙を流している人たちの悲しみや思い入れを否定するつもりはありませんが、「沖縄県では、誰もが、首里城の焼失を悼んで、涙を流しているはずだ」「激しい喪失感を感じているに違いない」という画一的な認識は誤りであり、実は、みんながみんな、心底悲しんでいるというわけではない、ということも、事実として知っておいて欲しい、という思いから、この記事を書きました。
〈参考までに〉
沖縄は、内地(本土)に比べて、郷土意識が極端に強い地域です。しかし、人々の心の中に地元意識として日常感じられている、その郷土の範囲は、沖縄全体というような大きなものではなく、むしろ、例えば、読谷村、知念村といった村単位、あるいは市や村や島の中の小さな区域、例えば那覇市の首里、宮古島市の平良地区、読谷村の長浜地区といった非常に小さいコミュニティーなのです。
そして、その一方で、その地域の外部の人に対する排斥意識も強烈です。道一つ隔て、その向こうは別のコミュニティーということが、よくあります。その見えない境界線によって隔られた心理的距離の遠さは、県外の人には、到底想像できないほど深刻なものがあります。
「境界のこちらは身内の世界で、道一つ向こうは関係ない他人(よそ者)の土地」というような感覚です。ですから、ある意味では、外部から来た人(他ジマの人)は、一生かけても、本当の意味で、地域コミュニティー(シマ)の一員になることはできません。
私たちの感覚では、例えば「首里の人」と「那覇の人」は、まったく異なるコミュニティーに属していると感じられます。もともと山手の首里の人は、武士階級出身で、気位の高い人が多いです。一方、城下の下町にあたる那覇地域は、商売で身を立ててきた地域です。価値観も、習俗も、方言も、すべて異なります。
ですから、生粋の首里の人であれば、首里城に対して、何らかの深い思い入れを感じている人が、相当数いらっしゃるかもしれません。けれども、その首里城への思いを、県民全体が共有しているとは、とても、考えられません。
上記したように、土着意識の強い沖縄では、例えば、勝連の人にとっては、地元の勝連城の方が大切ですし、読谷村の人にとっては、座喜味城の方が大切です。
しかし、その一方で、沖縄の県民性として、なぜか、外、つまり、本土に対しては、「これが県民全体(オール沖縄?)の思いだ!」と、過剰にアピールしたがる傾向があります。とは言え、その表現は、いくぶんおおげさで、ある意味、自己アピールのパフォーマンスになっている面もあるのです。
真実の心情なのか、サービス精神旺盛なアカデミー賞ものの演技なのか、内地の人には、なかなか判別が難しいのではないでしょうか。
「首里城は沖縄のシンボル」なのかもしれません。そう主張する人がいても、否定はしません。けれども、本音を言えば「首里城は多くの県民にとって〝心の拠り所〟というわけではない」というのが、一県民としての実感です。そして、「首里城は平和のシンボル」「首里城は〝沖縄のこころ〟の象徴」などというのは、どう考えても共感しにくい話で、例によって「話を盛り過ぎじゃないかな」と首を傾げてしまいます。
首里の人は、そうおっしゃるかもしれませんが、首里の人が沖縄県民の代表というわけではありませんからね。
火事が発生したのは、2019年10月31日、午前2時35分頃と言われています。火が消し止められたのは、同日、午後1時半頃だったそうです。
火災がおよそ11時間近く続いたにも関わらず、沖縄県が陸自にヘリの出動要請をしなかったことの是非について、ネット上では、激しく取り沙汰されています。もっとも、これまでも、沖縄県知事は、自衛隊ヘリの出動要請すべきところで、絶対に要請しないという〝不祥事(?)〟を繰り返してきたわけですが、今回も同様に、ということでしょうか。
あるいは、今年の2月1日に、首里城正殿など有料区域の使用管理権が、国から沖縄県に移行して、わずか9カ月目で、火災が発生し、正殿を含む主要な7棟が完全焼失してしまった、この管理責任の所在についてどう考えるか、という問題も提起されています。首里城は国有財産であり、その所有権は国にありますが、使用料を年間2億円、国に支払うことで、管理権が2月から県に移行していたので、火災発生時点では、管理義務も県にあったと考えられるからです。
正殿の展示物や収蔵品400点余りも焼失しており、失われた歴史的資料は、二度と取り戻すことはできません。残念なことです。
加えて、玉城デニー知事が、韓国訪問中に、このような大事件が起こったことについても、日韓が「徴用工」問題、「慰安婦像」問題、安全保障問題、反日不買運動問題などで揺れている、この時期における知事の訪韓自体を疑問視する声もあります。
特に、知事選では「沖縄県は、もう政府の援助(補助金)は必要ない」「日本(とアメリカ)から沖縄を取り戻す」と公言し、これまでに、アメリカへ「基地は要らない」と言いに行ったり、韓国へ「観光客もっと来てくれ」と言いに行ったり、反政府的な海外への働きかけを、忙しく続けてきた玉城デニー知事が、今回、火災の翌日1日には、早々に首相官邸を訪れ、神妙な面持ちで再建への支援を要請している様子に、冷ややかな視線を向ける人々も、内地には多いのではないかと思います。
そういう内地にも通じる、ある意味、普遍的な批判感覚とは別に、沖縄県内には、首里城に対して、もともと複雑な思いや腹立たしい思いを抱いていた人たちが、実は大勢います。
例えば、首里王府によって、人頭税を過酷に搾取されていた宮古島など離島の人たちにとっては、今でも、首里城をみると「私たちの祖先から情け容赦なく絞り取った人頭税によって、これだけの豪勢な城をつくってふんぞりかえっていたのか」と、腹立たしい気持ちを抑えることができない、という人も少なくありません。
また、あるいは、首里城を最初に建国した尚巴志及び第一尚氏の子孫にとっては、王位簒奪者である第二尚氏の王たちの墓である玉陵や第二尚氏の王たちの居城であった首里城の復元にさしたる思い入れはなく、むしろ、再建事業を冷ややかに見ていた面も、あることは確かです。
勝連の人に至っては、第二尚氏の首里王府は、地元の英雄阿麻和利を陥れて滅した〝仇〟ですらあります。勝連の人にとって、最も大切な城は、何といっても阿麻和利の居城であった勝連城です。首里城ではありません。
歴史的に首里王府への確執や怨みの強い人たちにとっては、首里城は決して自らの誇りとする建物ではなかったのです。
そもそも、戦前の首里城は、大正期に財政が逼迫した沖縄県が維持を諦め、取り壊す寸前だったところを、国が保護を決め、国の文化財とすると同時に、沖縄最初の統一王朝を建国した初代舜天王から始まる歴代統一王統を祀る神社(「沖縄神社」)とされたもので、当時は、建物の造りも、黒い瓦と天然木の色合いを生かした黒木の柱や杉や檜材の壁を持つ日本風の建物でした。
それを、1992年に正殿が再建された時には、なぜか、台湾檜に漆で朱色に染めた柱や壁と赤瓦を用いた中国風の建物として、以前の姿とはまったく異なる意匠で造られてしまったのです。
そればかりか、かつての歴代琉球王を祀る神社としての祭祀機能は失われ、信仰の中心としての役割を取り戻すことはありませんでした。
これこそ、まさに「仏(器)作って魂(神様)入れず」というものです。結局、復元された新しい首里城は、戦後の県民が抱いていた幻想と思い込みに強く影響された歴史的フィクションを体現する巨大な虚構、想像のイメージで造形された構造物となってしまったのです。
さらに、首里城周辺の昔ながらの沖縄そば屋さんや商店街の人たちにしてみれば、この「新首里城」ができて以来、お客さんがめっきり減ってしまって、閑古鳥が鳴いている状況があり、商売上がったりの状態が続いていました。
以前は、旧首里城の跡地に琉球大学がありました。また、近くには博物館もありました。そして、現在は県立芸大もあります。首里は、もともと文教の街なのです。
ところが、新たに首里城ができる(復元?)ということで、琉球大学は西原に移転(1979)し、県立博物館も新都心に移転(2007)してしまいました。県立芸大もキャンパスの崎山への移転が進んでいます。
大学生が多かったときには、日常の中で、学生たちが安い沖縄そば屋で毎日食事をし、商店でも菓子パンや弁当や飲み物が売れました。周辺の居酒屋も流行っていたのです。
しかし、今では、観光バスは、首里城の敷地内に直接入っていきますから、観光客は、ほとんど首里の街を歩きません。ショッピングもしません。首里城だけを見学して、買い物や食事は、パルコやイオンモールへとバスで移動してしまいます。修学旅行の生徒たちにしても、土産物屋には入っても、地味なそば屋さんや商店には入りません。ですから、首里城周辺の昔ながらの地元の小店舗には、まったくお金が入ってこないのです。
庶民にお金が入ってこないと、街は活気を失います。
そのため、むしろ、首里城など造らず、琉大と芸大を残して、博物館も新都心へなどは移さずに、今はただの広大な空き地になってしまっている、かつての敷地内に増改築するべきだった、と今更ながら後悔している人たちが、首里の街にはいっぱいいます。
今日、歴史ある文教の街としての首里の伝統は、すでに廃れ果て、崩れ去ってしまって久しく、いつしか、ハリボテの客寄せパンダ的な首里城だけが目立つ、いびつな元気のない街になってしまっているのです。
かつての賑わいを知っている者にとっては、首里は、本当に、冴えない寂れた街になってしまいました。
第一、首里城祭にしても、取り仕切っているのは、内地出身の人やらよそ者ばかりで、地元の人間は、陰に隠れてしまっています。
これでは「誰のための首里城祭だ!」と、市民から憤りの声があがるのも無理からぬことです。
喜ぶのは、琉球王朝の冊封時代における中国への事大主義の様相が強く感じられる出し物を好んで観たがる中国人観光客や、エキゾチックな風俗を物珍しがる初見の欧米人観光客ぐらいではないでしょうか。
「それでいいんだ、すべては観光のためだ」と言うのなら、文化って、いったい何なのでしょう。首里城もまた、観光誘致のためのツール、言わば、単なる金儲けの手段に過ぎないのでしょうか。
今回、国は、沖縄県や那覇市の要請を受けて、首里城再建の費用を全面的に支援し、丸ごと拠出する意向であると言われています。首里城は、国の所有物なので、その再建費用は国が負担するというのです。
そうなると、県や那覇市や、その他の自治体が集めた寄附金は、どうなるのだろうと不思議に思うのです。すでに、県内外から5億円以上集まっているようですが、このお金はいったい何に使われるのでしょうか。
いずれにしても、総額で100億円規模の国家予算が投入されるわけですから、できれば、多くの県民にとって、より意味のある有意義なプロジェクトになって欲しいと願わずにはいられません。
大金をかけてつくったハリボテなどには、なんの魅力もないのですから。世界の人を惹きつける、地域固有の伝統的な文化というのは、そういうものではないはずです。
『お金だけ集めても、知恵が集まらない』というのでは困ります。
そもそも、厳密に言うと、今回焼失した「首里城」は、1989年の着工から30年かけて、2019年、今年1月に完成したばかりの複数の建造物を含む「首里城公園」の一部であり、正殿についても、先に述べたように、1989年代に建設が始められ、1992年に完成した、まったく新しい建築物であって、同様に、今回焼失した7棟の建物はすべて、重要文化財でもなければ世界遺産でもありません。
文化財としての価値で測るなら、今帰仁城址や中城城址の方が、はるかに重要な文化財であり、貴重な世界遺産です。
また、沖縄には、毎年1000億円近い軍用地料が国庫から入っており、そのほとんどが、個人の基地地主に支払われています。しかも、基地使用料は、所得税控除の対象とされています。中には、毎年、数億円、数十億円の使用料を受け取って、数十年に渡って莫大な収入を得ていながら、1銭も税金を納めていない地主の方もいらっしゃいます。ですから、そうした富裕な方々から寄付を募れば、たかだか数百億円程度の復元費用など、簡単に集まるはずです。もし、県民すべてにとって、首里城がそれほど大切なものであれば、そうならないのがおかしいと思うのです。
例えば、軍用地料として年70億円を受け取っている個人が、毎年控除されている莫大な税金の一部を、一度ぐらいは納税するつもりで、30億円ほど寄付なさったなら、たった一人の寄附金でも、正殿ぐらいは建つのではないでしょうか。それに、今回の焼失では、火災保険金70億円が出る予定なので、合算して100億円もあれば、一気に7棟全部、復元できてしまいます。国の負担など必要ないはずです。
そうならないのは、なぜでしょうか。それは、「県民全部が、首里城焼失を心から悼んでいる」わけではないからです。
突然の首里城焼失にショックを受け、涙を流している人たちの悲しみや思い入れを否定するつもりはありませんが、「沖縄県では、誰もが、首里城の焼失を悼んで、涙を流しているはずだ」「激しい喪失感を感じているに違いない」という画一的な認識は誤りであり、実は、みんながみんな、心底悲しんでいるというわけではない、ということも、事実として知っておいて欲しい、という思いから、この記事を書きました。
〈参考までに〉
沖縄は、内地(本土)に比べて、郷土意識が極端に強い地域です。しかし、人々の心の中に地元意識として日常感じられている、その郷土の範囲は、沖縄全体というような大きなものではなく、むしろ、例えば、読谷村、知念村といった村単位、あるいは市や村や島の中の小さな区域、例えば那覇市の首里、宮古島市の平良地区、読谷村の長浜地区といった非常に小さいコミュニティーなのです。
そして、その一方で、その地域の外部の人に対する排斥意識も強烈です。道一つ隔て、その向こうは別のコミュニティーということが、よくあります。その見えない境界線によって隔られた心理的距離の遠さは、県外の人には、到底想像できないほど深刻なものがあります。
「境界のこちらは身内の世界で、道一つ向こうは関係ない他人(よそ者)の土地」というような感覚です。ですから、ある意味では、外部から来た人(他ジマの人)は、一生かけても、本当の意味で、地域コミュニティー(シマ)の一員になることはできません。
私たちの感覚では、例えば「首里の人」と「那覇の人」は、まったく異なるコミュニティーに属していると感じられます。もともと山手の首里の人は、武士階級出身で、気位の高い人が多いです。一方、城下の下町にあたる那覇地域は、商売で身を立ててきた地域です。価値観も、習俗も、方言も、すべて異なります。
ですから、生粋の首里の人であれば、首里城に対して、何らかの深い思い入れを感じている人が、相当数いらっしゃるかもしれません。けれども、その首里城への思いを、県民全体が共有しているとは、とても、考えられません。
上記したように、土着意識の強い沖縄では、例えば、勝連の人にとっては、地元の勝連城の方が大切ですし、読谷村の人にとっては、座喜味城の方が大切です。
しかし、その一方で、沖縄の県民性として、なぜか、外、つまり、本土に対しては、「これが県民全体(オール沖縄?)の思いだ!」と、過剰にアピールしたがる傾向があります。とは言え、その表現は、いくぶんおおげさで、ある意味、自己アピールのパフォーマンスになっている面もあるのです。
真実の心情なのか、サービス精神旺盛なアカデミー賞ものの演技なのか、内地の人には、なかなか判別が難しいのではないでしょうか。
「首里城は沖縄のシンボル」なのかもしれません。そう主張する人がいても、否定はしません。けれども、本音を言えば「首里城は多くの県民にとって〝心の拠り所〟というわけではない」というのが、一県民としての実感です。そして、「首里城は平和のシンボル」「首里城は〝沖縄のこころ〟の象徴」などというのは、どう考えても共感しにくい話で、例によって「話を盛り過ぎじゃないかな」と首を傾げてしまいます。
首里の人は、そうおっしゃるかもしれませんが、首里の人が沖縄県民の代表というわけではありませんからね。