今日、小中高校で教えられている歴史の教科書の記述には、随分とたくさんの間違いがあります。問題集にも、資料集にも、たくさんの正しくない説明があります。そのうちのいくつか、典型的な例を列挙します。
常識だと思っていたことが、意外にも、真実はぜんぜん違う、という驚きを感じられる方もいるかと思います。



①縄文末期から弥生にかけての稲作の伝播について。
稲作は、これまで多くの人が信じ込んできたように、朝鮮半島から北九州に伝わったのではありません。そうではなく、江南の長江文明から日本へ、日本から朝鮮半島へと伝わったのです。つまり、朝鮮の人々が日本に稲作を伝えたのではなく、日本人が朝鮮半島に渡って、朝鮮南部の人々に稲作を伝えたというのが真実です。
稲は熱帯原産の植物で、寒さに弱いので、当時、満州や北朝鮮では稲作など不可能でした。北から日本に稲作が伝わったと考える方が不自然であることは明らかです。しかし、長い間、そのような奇妙な考えが定説となっていました。思えば、文化はすべて、中国→朝鮮半島→日本列島の順番で伝播したに違いないという思い込みがあったのに違いありません。ところが、これが完全に間違いだったのです。
大陸から稲作を持ち込んだ初期弥生人は、 日本で稲作を始めた後に、日本からさらに朝鮮半島に渡って稲作を広めた、というのが考古学上の真実です。また、朝鮮語の文法は、縄文文法の影響を強く受け、SOV型となりました。そこからも、朝鮮半島では、日本同様、漢民族の言語SVO型の支配下に入らなかったのです。つまり、弥生時代までの朝鮮半島では、文化的に日本の影響が強かったということです。
このことは、近年のY染色体ハプログループの研究から明らかになった事実(fact)です。
稲作民族である長江人O1系統のうち、日本人のO1系は、現在、日本列島で発生したと考えられるO1b2a1が8割を占め、日本人男性全体の24%を占めるのに対して、朝鮮人のO1系は、より新しいO1b2a2が多く、韓国人男性全体の19%を占めています。


②女帝称徳天皇と道鏡禅師について。
日本史唯一の女性皇太子から天皇となった孝謙(称徳)天皇は、偉大な女帝でした。その補佐をした道鏡もまた、清廉潔白で徳の高い僧でした。
道鏡は天皇を操って権力を握ろうとした生臭坊主ではなかったのです。二人に恋愛感情はあったかもしれませんが、称徳天皇もまた、道鏡への愛欲に溺れて政治をおろそかにしたということはありませんでした。
孝謙天皇は、父聖武天皇に皇太子に任命され、深い自覚を持って天皇に即位しました。その後、母親と恵美押勝に皇位を追われた後も、道鏡の支えを受け、励まされて、不屈の闘志で実力で権力を奪回し、称徳天皇として再び皇位につきました。
その後、藤原氏の陰謀によって、宇佐八幡宮神託事件が起きますが、それも何とか凌いだので、ついには業を煮やした藤原氏によって、称徳天皇は毒殺されてしまいました。称徳天皇の死後、道鏡も都から追放されました。当時の庶民は、悲運の二人を襲った悲劇を悼んだ、と言われています。
中国の則天武后の場合と同じで、男尊女卑の観念に毒された当時の権力者たちの偏見に満ちた邪推、および後世の人々の思い込みが、誤った称徳天皇と道鏡のイメージを固定化させたのです。


③現在も悪徳金権政治家の代名詞のように揶揄される田沼意次について。
老中田沼意次は、江戸時代で最も優れた政治家でした。株仲間を認める代わりに商人から徴収した冥加金(商人への税)は、すべて手賀沼・印旛沼の干拓事業(公共事業)の工事費用として使われました。これは、飢饉を見越した食糧増産計画でした。
商人からの冥加金は、田沼の懐には一銭も入っていませんでした。すべては、民の飢えを防ぐための新田開発資金だったのです。
しかし、干拓事業は、気象災害に見舞われて失敗し、浅間山の大噴火と天明の飢饉による飢餓の責任を一身に背負わされて田沼意次が失脚します。田沼の金権政治が、天の怒りをかったのだと人々は田沼を憎みました。
ところが、田沼意次が、江戸城下から追い出された時、田沼屋敷からは、きっと溜め込んでいるはずと疑われていた隠し金が、一切出てきませんでした。
田沼の政治は、腐敗したワイロ政治ではなかったのです。
田沼の発想は、食糧が足りなければ、増産すればよい。長崎貿易での金銀流出を食い止めるのには、金銀に代わって干し鮑などの俵物を輸出すればよい。蝦夷地の開発にも積極的でした。蘭学も奨励しました。後世、日本のダ・ビンチとも言われた天才平賀源内は、田沼の親友でした。
田沼の失脚後、寛政の改革を始めた松平定信は、蝦夷地の開発も取りやめ、ロシアやイギリスなど、列強諸国への備えを説いた林子平を処罰し、彼の著書「海国兵談」を焼き捨てさせました。蘭学も禁止して、平賀源内を獄中死させました。質素倹約を全国民に強制し、飢饉に備えさせ、風俗や芸術の取り締まりも強化し、検閲を強めました。
田沼が失脚した時、大喜びした庶民も、次第に、白河藩主松平定信の政治に息苦しさを感じ始めます。その頃、松平定信の政治を皮肉る狂歌が作られました。
『白河の清きに魚も住みかねて、もとの濁りの田沼恋しき』


④「解体新書」の著者として知られる杉田玄白について。
杉田玄白は、オランダ語を一行も訳せませんでした。ターヘルアナトミアの翻訳事業は、すべて前野良沢が一人で成し遂げたのです。杉田玄白の貢献は「解体新書」という書名を考えたことだけです。「みんなが買いたい新しい本」という、なかなか洒落の効いた命名でした。けれども、この書名以外、この本の中に、杉田が著した部分は、一行もありません。
このことは、杉田自身が「蘭学事始」の中で、明らかにしている事実(fact)です。
しかし、最初に「解体新書」を出版した時、松平定信の蘭学禁止令への恐れから、史上最初のオランダ語書物の翻訳書の出版が、翻訳者への処罰に及ぶのを周囲が恐れて、前野の名前を出さず、杉田玄白を著者として発表したために、その嘘が、そのまま現在に至るまで、影響しているのです。
実際には、当時、独学でオランダ語をマスターしたのは、前野良沢ただ一人でした。辞書もなく、教えてくれるオランダ人もいない状態で、オランダ語で書かれた医学の専門解剖書を、自力で解読したのです。まさに、怪物的暗号解読者です。
前野はその後も語学の習得に邁進し、英語、フランス語、ロシア語、ラテン語などをマスターしました。


⑤日本政府が1940年に朝鮮半島で実施した創氏改名について。
創氏改名は、強制ではありませんでした。現在の韓国人が、「日本政府によって、姓を無理やり変えさせられた」と主張していますが、それはまったくの間違いです。
事実は、韓国併合後、朝鮮半島の人たちの中に、日本名の戸籍を持ちたがった人たちが大勢いたので、それを日本政府が許可しただけのことです。改名は自由でしたから、一方で、それまでの朝鮮名を、変えなかった人もたくさんいました。
19世紀までの朝鮮半島では、人口の1/3が奴婢として姓を持たず、また、由緒ある家系図を持つ一族などごくわずかでした。ですから、たいていの朝鮮人にとっては、姓を持つようになってから、まだ、数十年というのが実際のところでした。
多くの朝鮮人にとって、姓を変えるのは、それほど抵抗感のあることではありませんでした。そうでなければ、いつのまにか、韓国人の5人に1人が「金さん」になるということは起こらないでしょう。朝鮮の人たちは、姓や先祖を勝手に変えるのをためらいません。なぜなら、それだけ、出身氏族や血縁による差別が激しいからです。
日本政府が、1940年2〜8月の期間中に、新しい姓を届けてよいとする創氏改名を施行した時、8割の朝鮮人が日本姓に変えたのは、強制されたから渋々改姓したということではなかったのです。むしろ、彼らは自ら望んで日本名に改姓したのです。
変えなかった2割の人たちは、両班階級として、新羅、高麗、李氏朝鮮時代と、1500〜2000年に渡って続く由緒ある家系図(族譜)を持つ伝統ある有力者の一族が主でした。もっとも、その彼らの多くも、実は家系図の売買や偽造によって、由緒ある姓を手に入れた疑いが濃厚なのですが。
つまり、朝鮮人にとって、姓および家系図は、自分がどの有力氏族の末裔であるかを証明する大切な手段です。そうした「有力氏族(両班)にあらざれば人にあらず」の社会的傾向は、韓国内できわめて強く、こうした氏族主義が、前近代的な身分差別を助長していたのです。
日本の姓名への改名は、そうした固定化した身分社会からの解放を意味するものでした。それで、多くの朝鮮人が、改名を自ら望んだというわけです。
これは、当時の戸籍の記録から明らかな事実(fact)です。
こんなことは、言いたくないのですが、徴用工問題も、そうですが、当時、自分の意思で行ったことを、後になって(だいたい50年ぐらい経ってから)「強制された!」と嘘をつき始めるのは、朝鮮人の常套手段なのです。
しかし、一方で、創氏改名が強制であり、日本の朝鮮支配の悪行の一つと捏造し、盛んに宣伝したのは日本のサヨク学者たちです。彼ら、韓国人が言うところの「良心的日本人」たちこそが、諸悪の根源です。彼らがデマを広め、韓国人をけしかけなければ、このような妄想史が、これほどまでに日韓双方で広がり、信じ込まれるということもなかったでしょう。本当に厄介な人たちです。
今現在、韓国でベストセラー1位となっている話題の書「反日種族主義」の著者の一人である李宇衍(イ・ウヨン)研究員(52)が、プライムニュースで述べていたように、彼ら、日本のいわゆる〝良心的知識人〟こそが、慰安婦強制連行、強制徴用、奴隷労働、日本軍の性奴隷などという全く事実と異なる妄想を言いふらし、反日妄想史観を捏造して、それを韓国へ輸出したことで、今日の日韓対立を生み出したのです。自分こそが元凶であることを知りながら、それにもかかわらず、彼ら〝良心的知識人〟たちには、いまだに何の反省もありません。
それどころか、自分を「日本を故意に貶めた日韓歴史戦争の戦犯」と正当な理由で非難する人たちを、手当たり次第に、名誉毀損や慰謝料請求で、裁判に訴えるのに忙しい。これでは、真摯に反省する暇もないでしょう。
〝良心〟って、いったい何なのでしょう。



上記の史実は、真実の歴史であるにもかかわらず、日本の歴史教科書には、きちんと本当のことが書かれていません。教科書には、今だに、古い思い込みによって、間違った事柄が記述されています。そして、教師たちの頭の中は、時代遅れの歪んだイメージのままであり、学校では、子供たちに嘘の歴史が教えられているのです。
私たちは、正しい歴史を、子供たちに教えるべきです。