以前に書いた記事「日本人のルーツを考える」の第2弾というよりは、ちょっとした補足記事です。


人類の起源はアフリカにあります。およそ600〜700万年前にチンパンジーと分岐した最古の人類と言われる「猿人(アウストラロピテクスなど)」に始まり、その後の進化の過程は、すべてアフリカで起こったのです。
そして、現代人の直接の祖先である「新人」は、およそ7万年前に、初めてユーラシア大陸へと〝出アフリカ〟したのですが、実は、それよりはるか以前、およそ180万年前に、「原人(ホモ・エレクトス)」の段階で、人類は既に第一次の〝出アフリカ〟をしていたのです。その代表がジャワ原人や北京原人です。
そして、彼ら「原人」から分岐して進化したネアンデルタール人などの「旧人」と共に、人類亜種の生息分布は、アフリカの外、世界中に散らばっていきました。
しかし、こうした古い時代に拡散した人類の別系統種は、我々の直接の祖先ではありません。例えば、人類進化の幹からネアンデルタール人が分岐したのは、今から80万年前なのですが、上記したとおり、その時点で、彼らは既に〝出アフリカ〟して久しく(従ってネアンデルタール人はアフリカ起源の現生人類の祖先ではない)、その後も世界中いたるところに移り住んだものと考えられます。さらに、およそ50万年前には、同じ「旧人」に属するデニソワ人が、シベリアでネアンデルタール人から分岐し、その後、ネアンデルタール人と共存しつつ生活圏を広げていきました。もっとも、当時、ネアンデルタール人の生息地域は、主に欧州から中東、そして中央アジアにかけてと考えられており、デニソワ人は東アジアからシベリア辺りと、ある程度、棲み分けがあったものとも考えられています。
ともかく、はっきりしていることは、北京原人も、ジャワ原人も、ネアンデルタール人も、デニソワ人も、現生人類への進化の道は辿らなかったということです。ホモ・サピエンスとは異なる人類の亜種であり、言ってみれば、進化の競争におけるライバルだったのです。
そして、現生人類の直接の祖先として「新人」に繋がる系統の種(ホモ・サピエンス・イダルトゥ)が、それ以前に、 ユーラシアからアフリカに舞い戻っていた「旧人(ネアンデルタール人でもデニソワ人でもない/ハイデルベルク人の系統?)」から分岐したのは、今からおよそ20〜30万年程前のことと考えられています。
この〝原新人〟種の「旧人(ホモ・サピエンス・イダルトゥの祖先)」は、アフリカのエチオピア辺りに長くとどまり、およそ16〜10万年前にかけて、「最初期新人(イダルトゥ)」段階から「新人(ホモ・サピエンス・サピエンス/現生人類))」へと進化していきました。
ですから、進化の頂点に立った現生人類そのものである「新人」が、再度、満を持して〝出アフリカ〟を果たした7万年前には、すでにユーラシア大陸全体に、「旧人」のネアンデルタール人やデニソワ人が広く分布し、各地で生活していたわけです。
ところが、ネアンデルタール人もデニソワ人も、今からおよそ4〜3万年前には、共に絶滅してしまった、と言われています。その原因は、欧州の火山の噴火による寒冷化にあるという説もありますが、より有力な説によれば、我々、人類の祖先であるクロマニヨン人(Y染色体ハプログループC1a2)などの「新人(ホモ・サピエンス・サピエンス)」によって駆逐され、虐殺され、絶滅させられたからではないか、と考えられています。
つまり、ネアンデルタール人もデニソワ人も、この時点で、我々現生人類の直系先祖との生存競争に敗れたわけで、上記したように、まったく別系統の人類なのです。
また、この時期の虐殺の惨劇については、イギリスの作家ウィリアム・ゴールディングが、「後継者たち」という〝原罪〟をテーマとした作品で描いています。ゴールディングの想像が正しいとするなら、我々現代人は、ネアンデルタール人を滅ぼした殺戮者の子孫ということになります。
ちなみに、「原人(ホモ・エレクトス)」については、20万年前には中東地域で「旧人(ネアンデルタール人やデニソワ人)」との生存競争に敗れ、その後、7万年前には〝出アフリカ〟した現生人類の祖先との生存競争に敗れて、その他の地域でも完全に絶滅したと考えられています。
ただし、7万年前の「原人(ホモ・エレクトス)」の消滅については、7万5千年前のインドネシアのスマトラ島で起こったトバ火山の大噴火による劇的な気候の寒冷化が、絶滅の最大の要因としてあったのも確かです。地球環境の激変によって、それまで食べていた食料が手に入らなくなり、新しい環境への適応が遅れたために、ホモ・サピエンス・サピエンスとネアンデルタール人とデニソワ人以外のすべての人類が、この時期に滅びてしまったのです。
そして、ホモ・サピエンス・サピエンスとネアンデルタール人とデニソワ人についても、その個体数は大幅に激減しました。このトバ大噴火から6000年間続いた「火山の冬」現象によって、地球全体で、三系統の人類全体の個体数が、合計で1万人以下になったと言われます。この時期、生き延びた数千人規模の小さなホモ・サピエンス・サピエンス集団の子孫が、現在の人類の直接の祖先です。こうした個体数の激減による遺伝子の均一化(→遺伝子多様性の減少)を、ボトルネック効果といいます。


ですから、長い間、現生人類の直接の祖先であるホモ・サピエンス・サピエンス(新人)は、同時期にユーラシア大陸に生息していたとはいえ、異種であるネアンデルタール人(旧人)やデニソワ人(旧人)とは、互いに人口が激減していたために、交流など一切なく、分岐して久しい種同士であることから、まったく交雑しなかったものと考えられてきたのです。
ところが、2010年代の研究で、アフリカ人以外の現代人のDNA(ゲノム)の中に、最大で2〜4%のネアンデルタール人由来のDNAが含まれていることがわかってきました。つまり、現代人の祖先とネアンデルタール人は、我々の祖先がトバ・カタストロフの地球寒冷化による生存環境の激変をきっかけに〝出アフリカ〟して以降、7〜3万年前にかけての4万年の間に、ユーラシア大陸において、最初は中東地域で、それから欧州、中央アジア、シベリアなどで、かなりの頻度で交雑し、混血が起こっていたらしい、ということがわかってきたのです。
3万5千年前、滅びゆく種族であるネアンデルタール人の氏族に育てられ、ネアンデルタール人の子を産むクロマニヨン人の少女を主人公にしたジーン・アウルの大河小説「地上の旅人エイラ」の迫真の一大ストーリーは、考古学上の事実としても正しかったのです。
しかも、ごく最近のドイツの研究で、ネアンデルタール人由来のDNAを保有している人の割合が、人口比でもっとも高い民族は、私たち日本人であることがわかってきました。『日本人は、他の民族に比べて、ネアンデルタール人由来のDNAを保有している割合が、平均で51%高い』のだそうです。
この研究データからも、日本人特有の「異民族を奴隷化したり根絶することなく互いに共存を図る」という、世界に類のない稀少な〝平和共存主義〟的性向が、若干見てとれるような気もします。
おそらく、ネアンデルタール人と共存・交配したのは、Y染色体ハプログループで言えば、7万年前に〝出アフリカ〟したユーラシアン・アダム(CT)から、およそ7〜6万年前に分岐したC系統とD系統とF系統と考えられます。そのどれもが、日本の縄文系・弥生系に含まれますし、特に日本固有種であるC1a1やD1bは、共に「アジア人ですらない」とまで言われるユーラシア大陸最古の種族ですから、約6万年前に中東地域で起こったとされるネアンデルタール人との最初の交雑の該当種の直接の子孫と考えて、何ら不思議ではないどころか、極めて自然であると考えられます。
また、ルーマニアの洞窟から発見された3万2000年前の頭骨のいくつかには、ネアンデルタール人と現生人類の両者の特徴が認められるという研究発表もあります。ホモ・サピエンス・サピエンスとネアンデルタール人との交雑は、数万年に渡って、かなり頻繁に起こっていたのかもしれません。
そして、彼らC1a1やD1bもまた、繰り返される交雑の結果として生まれたネアンデルタール人とのハーフやクォーターらとともに、東へ向けて大陸横断の旅を続け、長い時間をかけて、およそ4〜3万年前に、この極東の地、当時、まだ大陸と地続きだった日本にまでやってきたのでしょう。
日本人は、はるか昔のネアンデルタール人の血さえも濃厚に混ざった世界最古の超古代人種(C1a1系統5%・D1b系統35%/縄文系40%*)と、最先端人種(O1b2系統30%・O2系統20%/弥生系50〜55%**)のハイブリッドだったのです。(これがいかに稀少なことか、それについては、下記の《参考》に述べます。)
一方で、C1aの近縁種であるC1bは、6〜5万年前に、シベリアで、デニソワ人と交雑し、その後、ユーラシア大陸を、ゆっくりとスンダランド(インドネシア)へと南下を続け、さらにサフル大陸(ニューギニア)まで渡って、現在の南太平洋メラネシアの人々に、デニソワ人の遺伝子を残したのではないかと考えられています。
また、アフリカにおいては、ホモ・サピエンス系統の「旧人(イダルトゥの近縁種?)」と「新人(おそらくE系統)」との間で、かなりの確率で交配が進んだのだろうと思います。
さらに、ネアンデルタール人とデニソワ人の交雑については、9万年前に13歳で亡くなったと思われるシベリアの少女の骨片のDNAから、母親がネアンデルタール人で父親がデニソワ人のハーフであったという解析結果が、2018年に発表されており、交雑種の存在が確認されています。


ところで、ジーン・アウルも書いていますが、ネアンデルタール人は、現生人類に比べても、脳の容積が大きく、ヒト科の歴史上、最大の脳を持っていたことが知られています。ですから、ネアンデルタール人もまた、当時の人類の進化過程において、一つの頂点を極めていた種であったと言えます。
特に、側頭葉が大きかったらしく、性格無比の写真的記憶力と、図書館並みの膨大な記憶容量を誇っていたと考えられています。一方で、前頭葉は小さく、その分、推理力や創造性に欠ける面もあったと考えられます。
ただし、フランス南部で発見された4万年前のネアンデルタール人の人骨の側からは、象牙の指輪など、高度に加工された装飾品が出土しています。それらの装飾品が、ホモ・サピエンス・サピエンス(新人/現生人類)との交易によって得られたものか、彼ら自身の手による加工品なのかはわかりません。けれども、そうした装飾品に価値を見出す高度な文化を持っていたことは確かなように思われます。
いずれにしても、非常に血縁的に遠い交配ですから、現生人類との交配においては、圧倒的に優性遺伝する確率が高かったはずです。ですから、ネアンデルタール人の遺伝子は、日本人の伝統を重んじる傾向や細かい作業の器用さなどに、積極的な影響を与えているのかもしれません。
それにしても、脳の容積の増量進化が頂点に達したネアンデルタール人は、胎児の頭蓋が大きくなり過ぎて、頭が産道に閊えて通れなくなったために、難産・死産が増えて、ついには絶滅したのだという説は、意表をつく話ではありますが、なかなか説得力があります。
また、一方で、ネアンデルタール人は、脳の容積だけでなく、全身の骨格自体が大きく、筋肉も発達していて、標準体型が、現生人類の中でもとりわけ屈強なプロレスラーのような体型で、常人離れした超人的身体能力を有していました。
例として挙げるなら、キングコングの異名を持つ史上最強のレスラーだった超獣ブルーザー・ブロディ、あるいは、人間離れした握力(120kg超)や脚力を持っていた「無冠の帝王」「鉄の爪」フリッツ・フォン・エリックのイメージでしょうか。
ネアンデルタール人は、氷河時代を生き延びるために、その強靭な筋肉を発達させ、身体も巨大化したのです。さらに、筋肉を震わせることで体熱を発生させ、極寒の中でも体温を維持して機敏に動くことができました。
そして、氷河期の獰猛な巨大哺乳動物に対して、石槍を持って肉弾戦を挑み、勇敢で命知らずの狩りをして、生き延びていました。
ですから、彼らが滅びたのは、環境の温暖化によって、主要な獲物だった巨大哺乳動物が地上から姿を消し、もともと小動物を獲物にしていたホモ・サピエンスに対して、食糧獲得競争上、相対的に不利になったこともあるかもしれません。
しかし、それ以上に、主要な要因として、4万年前に、ホモ・サピエンスに起こった狩猟具の革命的進歩の影響があったのでしょう。おそらく、5万年前までは、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスは、その生存圏争いにおける勢力にそれほど差がなく、ある意味、互角に渡り合っていたものと思われます。ところが、およそ4万年前、ホモ・サピエンスは、とんでもない狩猟具を発明しました。それが、物語の中でエイラも使用していた〝投槍器(アトラトル)〟です。
この道具の登場によって、ホモ・サピエンスは、より遠隔から獰猛な巨大野生動物を狩ることができるようになり、個体としての身体能力では及ばないネアンデルタール人に対して優位に立ったのです。その他、20万年前からホモ・サピエンス系統が徐々に発達させてきた集団的な追い込み猟の高度化などもあり、次第にネアンデルタール人は、ホモ・サピエンスに太刀打ちできなくなったものと考えられています。
そこに、さらに、4万年前のイタリアのナポリ付近で起こった巨大火山の噴火による「火山の冬」現象が追い打ちをかけました。
こうして、およそ、4〜3万年前に、ネアンデルタール人(およびデニソワ人)は、おそらくは飢餓によって、また、一部はホモ・サピエンス・サピエンスの殺戮によって、地上から姿を消したのです。


それでは、ここまでの内容について、話をまとめてみます。
以上、見てきたように、ネアンデルタール人・デニソワ人の系統と、ホモ・サピエンス系統は、ユーラシア大陸で、80万年前に「原人(ホモ・エレクトス)」から枝分かれし、別々に進化した別系統の種族です。
その後、およそ、30〜20万年前にかけて、現生人類の祖先(旧人段階)は、進化の過程を先行したネアンデルタール人とデニソワ人によって、次第に生活圏を脅かされるようになり、押し込められるように、ジリジリと故郷のアフリカへと後退していき、ユーラシア大陸から追い出されてしまいました。
その時点では、ネアンデルタール人、デニソワ人の方が、生存競争において、現生人類の直接の祖先よりも優勢だったということです。
しかし、それから長い歳月(20〜7万年前まで、10数万年の年月)をかけて、私たちの祖先(ホモ・サピエンス系統)は、アフリカで独自の進化を遂げていきました。その進化の中には、上記したような大規模な集団的追い込み猟の考案・試行・改良も含まれるでしょう。
そして、上記の3種族(ネアンデルタール人、デニソワ人、ホモ・サピエンス・サピエンス)は、7万5千年前から6000年間続いたトバ・カタストロフの「火山の冬」を共に生き延び、その後も、地球上のそれぞれまったく離れた地域において、激変した環境の中で悪戦苦闘しつつ、細々となんとか生き延びていきました。
そうこうするうちに、7万年前、ホモ・サピエンス・サピエンスの一部(Y染色体C系統・D系統・F系統)が、おそらくは、寒冷化した過酷な世界で、安住の地を求めて、故郷アフリカを、再度、離れることになりました。
それによって10数万年ぶりに、今からおよそ6万年前に、中東の地で、ホモ・サピエンス・サピエンスとネアンデルタール人は、当時の人類進化の頂点を競うライバルとして、再び出会う(再戦する?)ことになったのです。そして、今度は、ホモ・サピエンスもネアンデルタール人に遅れをとりませんでした。
その後、数万年の間に、ホモ・サピエンス・サピエンスは、他の二つの種族と、何度か交雑を繰り返しましたが、4〜3万年前に、ホモ・サピエンス・サピエンスの狩猟能力は、他の2種族を凌駕し、この時点で、ライバル種族は、生存競争に敗れて、すべて滅んでしまいました。ホモ・サピエンス系統のリベンジが成ったわけです。
こうして、現在、地上に生き残っている種族(現生人類)は、唯一、我々、ホモ・サピエンス・サピエンスだけとなったのです。ある意味、寂しくなりました。
けれども、かつての交雑によって、私たちのDNAの中には、ネアンデルタール人やデニソワ人の遺伝子が引き継がれています。とりわけ、日本人は、ネアンデルタール人から多くの遺産を受け継いでいるようです。
例えば、上記したような、筋肉を燃焼させて寒さに耐えられるような身体をつくる遺伝子などもそうです。
人類生存(存続と繁栄)のためにも、遺伝子多様性の見地から考えて、実に貴重で大切な遺産です。

興味深い話ではありませんか?



《参考》
*縄文系のY染色体ハプログループには、現代日本につながる最も古い血筋である日本固有のC1a(5%)・D1b(35%)の他に、旧石器時代後期にバイカル湖畔から移動してきて細石器文化を日本にもたらしたとも言われるモンゴル系のC2系統(5%)があります。
ただし、C2は、北海道のアイヌ(10%)では多いのですが、東北(0%)では異常に少なく、沖縄(1.5%)でも目立って少ないので、アイヌに入ってきた北方系のC2と、本州・四国・九州に入ってきた弥生系C2は、同じC2ではあっても、別の時期に日本に渡ってきた別種の系統の民族ではないか、とも考えられます。
しかも、C2系統は、3万5千年前に中央アジアで発生した比較的新しい系統なのです。したがって、当時、ユーラシア大陸と地続きだった日本列島にやってきた順番は、最古層のC1aが4万〜3万8千年前、次いでD1bが3万8千〜3万5千年前に、日本に初めて到達したと考えられます。彼らが最初の日本人です。
C2の場合は、まず少数派の北方系C2が、2万5千〜2万年前頃からぼちぼちと、大陸と地続きだった北海道東岸に住み着き始め、日本の後期旧石器時代文化に彩を添えました。しかし、当時、津軽海峡が存在したため、東北には広がらなかったと考えられます。
そして、多数派の弥生系C2は、2500〜1400年前にかけて、断続的に北九州・山陰などへ、O2と共に戦国の中国から船で侵入してきた、といったところでしょうか。

さて、ユーラシア大陸最古のハプログループと言えるのは、ユーラシアン・アダムであるCTが、7万年前に分岐したCFとDEです。この二つの系統が、さらに分岐し、そのうち、アフリカへ戻ったE系統を除く、C・F・Dの3系統が、6万〜3万5千年前にネアンデルタール人と交雑したと考えられています。
これら3系統の大陸進出の順番は、最初がC系統、次がD系統、最後がF系統です。そして、C・D、二つの系統における最古の血筋は、最終的に日本にまで到達したC1a系統とD1系統なのです。
ちなみに、C1a系統は、5〜4万年前に、西アジアでC1a1とC1a2に分岐し、C1a1は東アジアへ向けて東進し、C1a2はヨーロッパへ向けて西進しました。
そのうち、C1a1は、現在は日本人にしか存在しません。一方で、C1a2は、4〜3万年前にヨーロッパの中期〜後期旧石器文化(ムスティエ文化・オーリニャック文化)を担った欧州最古層のクロマニヨン人です。
欧州では、ベルギーで、3万5千年前の旧石器時代人の人骨でC1aに属するものが発見されており、チェコの3万年前の人骨の一つは、はっきりとC1a2であることが判明しています。また、スペインとハンガリーで発見された7000年前の人骨からもC1a2が見つかっています。
つまり、C1a系統は、ユーラシア大陸の西端(スペイン)と、東端(日本)に存在が確認されているという意味で、短期間に膨大な距離を移動した「旅する遺伝子」「冒険遺伝子」と言えるでしょう。
しかし、現在、C1a系統は、欧州では、ごく低頻度で分布するのみという超希少種です。ですから、今現在、超希少古代人種であるC1a系統の現存人口の99%以上は日本人に属しているのです。
しかし、彼らの日本への経路は謎です。日本以外に、彼らの遺伝子の痕跡が残っていないためです。加えて、4万〜3万年前に、C1aやD1bが日本にたどり着くには、海を渡らなばなりませんでした。可能性があるのは、朝鮮半島から対馬経由で九州へというルートか、台湾から沖縄経由で九州へというルートではないか、と言われています。
また、D1系統は、古モンゴロイドの主流であったと思われますが、4万年前に、おそらくは中央アジア地域で、D1aとD1bに分岐しました。
そのうち、D1aは、現在、チベット人の49%、その他、雲南やウイグルなどに極少数分布しています。また、分類がされていないD系統が、インド南方のアンダマン諸島の外部から孤立した先住民のジャワラ族(250人)とオンゲ族(96人)に見られ、彼らは100%D系統で占められています。
一方、D1bは、現在、日本にしか存在しません。それでも、日本人全体の35%を占めるので、現存人口比で言えば、希少古代人種であるD系統全体の90%以上は日本人なのです。
したがって、C1・D1というユーラシア最古の遺伝子を保有する個体の90%以上が、ここ日本に分布しているということになるわけです。
さらに注目すべきことは、ユーラシア大陸最古にして日本固有の系統であるC1a1とD1bが、日本人全体の40%を占めているという事実です。つまり、「日本人の4割が、もはや、アジア系とも言えないようなユーラシア大陸最古の血筋の末裔である」ということなのです。
ちなみに、D1bは、沖縄(45%)と北海道(42%)にもっとも多く、九州(31%)と中国(30%)と四国(29%)では少ないです。C1aは、沖縄(7%)と東北(7%)にもっとも多く、中国・九州(3%)に少なく、アイヌにはありません。とは言え、D1bもC1a1も、地方差は確かにありますが、概ね日本全体に均一に広がっていて、地方差が比較的少ないのが、最大の特徴と言えるかもしれません。
また、縄文系D1b・C1a1が、中国・九州で共に少ないのは、その後、特に初期弥生系稲作民であるO1b2が九州で多くなり、後期弥生系武装民であるO2が中国地方で多くなることと、深い関連性を思わせます。

最後に、縄文社会についての私見ですが、フットワークが軽く、活動範囲が広いC1a1が、縄文の交易・情報流通のネットワーク構築を担う一方で、保守的で移動をあまり好まないD1bによって、採集狩猟民としては珍しい各地での定住化が進んだのではないでしょうか。うまく役割分担ができ、同時に、互いが、互いを必要としていたのではないか、ということです。
加えて、他の地域とは違って、日本では、孤立した環境で、変化に富んだ気象条件や頻発する災害などをくぐり抜けていく中で、古代種の突然変異と進化の過程が、世界で唯一、非常に濃密だったのではないか、ということもあります。
そのため、特に日本列島誕生後、1万数千年かけて、固有の高度な進化を遂げたC1a1系統とD1b系統の均一なブレンドによる洗練された文化を発達させた縄文人は、3000年前から始まる弥生人(O1b2系統・O2系統)の断続的な侵入に際して、その高度な適応力を生かして、主導権を奪われないように適切な対応を取り、対等な関係を築き上げることに成功したのです。



**弥生系の主なY染色体ハプログループは、C・Dに続いて出アフリカした第3のハプログループであるF系統に属します。F系統からは、G、H、I、J、K、L、T、MS、N、O、Q、Rと、それ以降のすべてのハプログループが分岐しました。
弥生人は、このFからの分岐の時期が比較的遅く、したがって新しい進化の進んだ人種であり、ついには現代人の主流となるに至ったO・Rという2つの系統のうち、東アジアで3万5千年前にNと分岐して発生したO系統に属しています。そして、そのO系統の中でも、O1b2(30%)とO2(20%)が弥生人の主流を構成しています。また、順番としては、O1b2の方が、先に日本に渡ってきた初期弥生人と考えられています。

約1万年前に発生し、長江文明の担い手であったO1b系統から8000年前に分岐したO1b2は、長江文明が衰えた紀元前1000年頃から北上(一部はO1b1を追って南下)し、縄文末期の日本に稲作文化を伝え(O1b2a1a1←日本固有)、その後、朝鮮半島、満州へと広がり(O1b2a1a2←朝鮮・満州固有)ました。つまり、稲作技術は、長江流域から日本へ、さらに、日本から朝鮮半島へと伝播したのであって、朝鮮半島から日本に伝わったわけではないということです。「稲作は、初期弥生人(O1b2系統)が、日本から朝鮮半島に伝えた」という事実は、あまりよく知られていないことではないでしょうか。
現在、O1b2系統は、日本人・朝鮮人の30%、満州族の35%を占めています。東南アジアでも、インドネシア人の20%、ベトナム人の15%を占めています。しかし、漢民族では5%程度しかいません。(←ただし、O1b1が10%、O1aが10%いるので、O1系統全体では、漢民族の25%を占めています。)
日本国内の初期弥生人(O1b2)の分布状況は、九州(34%)と関東甲信越(33%)に多く、沖縄(23%)と北海道(24%)に少ないですが、その差はそれほど大きくなく、概ね平均して分布しています。
一方、O2系統は、O系統の中で、もっとも最後に分岐した系統で、華北の黄河文明の担い手であり、春秋戦国時代の紀元前500年頃から紀元500年ぐらいまでの間に、戦乱を逃れて、おそらくは朝鮮半島経由で、日本に渡ってきたものと思われます。その経路は、初期弥生人(O1b2系統)とは逆なのです。
O2系統は、現在、ミャンマー人の85%、漢民族の55%、朝鮮民族の45%、満州族・チベット人・ベトナム人・フィリピン人の40%、タイ人の35%、日本人の20%を占めています。
日本でのO2の分布状況は、渡来系の出雲王国のあった中国地方(30%)にもっとも多く、東北地方(11%)にもっとも少なくなっています。日本列島への流入が最後であったこともあって、縄文人(D1b・C1a1)や初期弥生人(O1b2)よりは、地域による分布の偏りが大きいのが特徴です。

O1b系統の長江文明(稲作文明)は、好戦的なO2系統の黄河文明に滅ぼされたので、O1b系統は、中国ではわずかしかのこっていませんし、朝鮮でも明らかにO2系統の方が人口比率は優勢です。
しかし、日本では、O1b系統の方がむしろ優勢なのです。これは、先行して日本に渡った初期弥生人のO1b2が、縄文系部族(C1a1・D1b)と手を組んで、好戦的で強力な後期弥生人のO2系統(←C2含む)による日本征服を阻止したことを意味します。
この事実が、日本の古代史の注目すべき特異性を示す重要な論点なのです。縄文系の指導者が中心で、大和国家が成立したお陰で、種の淘汰が起こることなく、すべての種の共存が、現代に至るまで、平和的に成し遂げられているのです。
そのため、Y染色体ハプログループで見た場合、出アフリカしたCDF3種すべての系統が存在する日本人の遺伝子の多様性は、世界的に見て群を抜いています。
例えば、漢民族の場合、O2(55%)、O1系統(25%)、N1(10%)、C2(6%)という構成であり、O2だけで過半数に達し、F系統で考えると90%を占めています。つまり、中国人のハプログループは、ほぼF系統だけ、ということです。
朝鮮の場合だと、O2(45%←中国戦国系)、O1b2(30%←弥生系)、O1a(2%←中国系)、N1(5%←中国系)、C2(15%←モンゴル系)、D1b(2%←縄文系)という構成であり、O系統が77%、F系統では82%を占めています。この比率は、日本人よりも中国人にかなり近い構成です。
対して、日本の場合は、C1a1・D1bという古代種と、O1b2・O2というF系統の最新種との個体数の比が、4:5と、ほぼ対等に近い絶妙のバランスで存在しているところが、実に希少で興味深いのです。そのハプログループ比率は、中国人とも朝鮮人ともかなり違います。しかも、この比率は、地方差がきわめて少なく、どのハプログループも、日本全国に、ほぼ均等に存在しています。(ただし、アイヌと沖縄だけは、縄文系の比率が非常に高いのが特色です。つまり、アイヌと沖縄こそが、〝原日本人〟であり、世界に類のない日本人のルーツに近いということです。)これも、世界的に見て珍しいことです。
なぜ、この国では、新種が旧種を駆逐・淘汰することなく、ここまで共存してこれたのか。世界の趨勢に反する共生状態が生まれたのか。
やはり、日本列島の変化の激しい気候条件や頻発する天災という悪条件の中で生き抜くために、遺伝子の多様性が必要だったのかもしれません。けれども、それが、理由のすべてでしょうか。
ともかく、この謎が、どうにも頭から離れないのです。