次期天皇として、皇太子として、私は悠仁さまより愛子さまの方が、この日本国の未来のために、正しい選択ではないか、と思うのです。
そのためには、明治以来の皇室典範を改正し、早急に愛子さま立太子の準備に入るべきではないか、と考えます。
女系天皇は日本の伝統に反するという意見もありますが、かつて、聖武天皇が、娘である孝謙天皇(称徳天皇)を皇太子とした時にも増して、現代の皇室は有史以来の存亡の危機にあるように思います。今の状況は、ある意味、皇室がなくなるか、日本がなくなるか、という瀬戸際なのです。女系はダメとか悠長なことを言っている場合ではありません。
では、以下にその理由を述べたいと思います。
私が、もっとも憂慮しているのは、悠仁さまがお育ちになっている環境の問題です。
秋篠宮家長女である眞子さまと婚約関係にある小室圭氏にまつわる問題の発覚以降、眞子さま、次女の佳子さまの発言(*)や様子などから、果たして、秋篠宮家の子どもたちには皇族としての自覚が育っているのか、という点に関して、国民に大きな不安を抱かせる事態となっています。
「子を見れば親が分かる」とも申します。すべてを親の責任に帰することはできないというのは当然ですが、しかしながら、現時点で眞子さまを諭すことのできない両親に対する不信感が、国民の間に生じるのは当然のことです。言わば、秋篠宮家の皇室としての教育力への危惧が高まっているのです。
秋篠宮殿下と紀子さまは、眞子さまを、学習院高等科から、学習院大学ではなく、ICUに進学することを許され、佳子さまも学習院大学を中退して、ICUに編入をされました。そこで、眞子さまは小室圭氏と出会ったわけです。佳子さまも、「恋愛、結婚は個人の自由」と眞子さまを応援なさっています。
悠仁さまについては、小学校から学習院ではなく、御茶ノ水大学付属小中学校に通われていらっしゃいます。しかも、特別進学待遇で。しかし、果たしてその選択は正しかったのか、という大きな疑問を感じるのです。
学習院で愛子さまがいじめられたり、一時、不登校になったからといっても、それで学習院そのものに不信感を抱かれて、安易に他の学校を選択したことが、果たして正しかったでしょうか。「AがダメならBがいい」では、あまりに軽すぎはしませんか。
なぜなら、痩せても枯れても、学習院は学習院。皇室のなんたるかを、最もよく理解している教育機関は、学習院を置いて他にないからです。特に、残念ながら、今日の日本においては、学習院以外の教育機関に通うことで、皇族の自覚が育つとはとても思えないのです。
一方で、愛子さまは、学習院初等科から高等科まで進まれ、東大進学も可能な偏差値と言われながら、大学もそのまま学習院に残るという予定のようです。
私は、この愛子さまの選択は優れて賢明であると思うのです。そもそも、皇族が、庶民と学歴を競うのは、絶対に間違っています。カタチ(身分)は皇族でも、心は教養の足りない庶民並みに学歴信奉主義に支配されているようでは困るのです。そのことを、きちんと自覚されているのは、本当にご立派です。
この選択の差は、雅子さまと紀子さまの教育観の違いかもしれません。紀子さまは、自ら望んで皇室に入られた方です。一方で、雅子さまは、外務省での順風満帆のキャリアと自由な一般人としての人生を断腸の思いで捨て、皇室の一員として、将来の皇后として、この国を支える存在になることを、長く苦しい逡巡と葛藤の末に選ばれた方です。その後も、お世継ぎの問題などで、精神を病むほどの重圧に耐えてこられた方です。
こう申しては何ですが、このお二人の人間性の深みや人生経験から生まれる知恵を比べることは、とてもできないと思います。そして、子どもの精神の育成に、もっとも大きな影響を与えるのは、いつの時代も、どこの国・地域においても、やはり母親なのです。
さらに、その雅子さまを、精神的にも公務の面でも、不平一つ言わず支えてこられた明仁天皇陛下の深い愛情があり、このお二人に育てられた愛子さまが、人間的にも、品格の上でも、人々の信頼に応えうる深い人格と賢明な知恵を備えて、立派にお育ちになっておられることは明らかです。
象徴天皇制というのは、戦前の天皇制とは違うのです。
ある意味、戦前の天皇制であれば、多少人格的にどうかと思う人物が天皇陛下であっても、能力的に難があっても、自覚がまるでなかったとしても、それほど問題とはなりませんでした。天皇陛下が頼りなければ、その分、臣民である国民や周囲の方々が、命がけでお守りし、お支えすればよかったのです。また、能力的に公務の執行に無理があれば、摂政を立てればなんとかなりました。たとえ、どんなにダメな天皇陛下であったとしても、その存在そのものに、疑いを抱く人がほとんどいませんから、特段問題にはならなかったのです。
しかし、象徴天皇制は違います。日本国憲法下での「象徴としての天皇および皇族の存在意義」とは、一体何でしょう。
天皇・皇族の存在理由をどう考えるか。それは、天皇その人、皇后その人、および皇族の方々の人格と生きる姿勢から滲み出るものを、国民がどう感じるかにかかっているのです。極言すれば、品格なき皇室は、その存在意義を失い、滅びるよりほかないということです。
昭和天皇がいみじくもおっしゃったように「国民が要らないというのなら、存在しても意味がない」のです。国民の「もう皇室など要らない」という拒絶の前には、皇紀2700年の血統も何も、あったものではありません。
一方で、日本国の象徴である皇室が、その品位(徳)を失い、国民の敬意と信頼を失うとしたら、それは、この日本国そのものから品性(徳)が失われ、日本人一人一人が、人への信頼と敬意を失ってしまった結果であるとも言えるでしょう。そして、それは、この国そのものの存在意義の喪失にも繋がります。
2500年前の中国の思想家である孔子は、弟子の子貢に政治について問われ、「兵よりも、食よりも、大切なものがある」と論じています。食がなければ、人は死んでしまいます。それでも、「命より大切なものがある」と言うのです。
孔子は「古(いにしへ)より皆死あり、民、信なくんば立たず」と述べています。つまり、国民の内に、国への信頼がなければ、国は成り立たないということです。しかも、この〝信〟は、国民一人一人の命よりも重いというのです。命より重いものが失われたら、滅びるよりほかないでしょう。
それほどに、象徴天皇は、この国にとって重い存在なのです。
国が生き延びるか、滅びるか、その鍵のひとつを皇室が握っているのです。そして、その鍵とは、皇族の方々の〝人間としての品性〟にかかっています。
ですから、野心や傲慢さをかけらでも感じさせる者が皇族であるなどもってのほかです。ましてや、天皇になるなど、絶対にあってはなりません。それでは、この日本国が滅びます。
この問題に比べたら、男系天皇制維持だとか、女性宮家や女性天皇の是非の問題など、どうでもいいと言っていいほど瑣末で軽い懸案に過ぎません。
平成天皇が「私は、その特殊な育ちから、人間として、人を思いやる気持ちが薄く、皇后の助けをかりて、国民に寄り添うために多くを学ぶ必要があった」「自分の人生は『象徴天皇とは何か』、それを探る旅であった」「その旅路は果てしなく遠い」「この旅の続きは、次の世代へ任せたい」とおっしゃっていた言葉の重さを、誠実に心で受け止められる方でなければ、次代の天皇の責務を担うことはできません。
私は、この言葉をしっかりと受け止め、深く理解し、自らの生きる指針とし、公務を全うすることができる次代の皇族は、愛子さま以外にはいらっしゃらないのではないか、と強く感じるのです。
以上が、私が、悠仁さまではなく、愛子さまを立太子するべき、と考える理由です。
今や、「心って何?」「寄り添うって何?」「誠実さがどうした?」「他人の痛みがなんだって?」という時代です。他人の心など、それがたとえ我が子の心であっても無視するのが当たり前という時代です。もちろん、これは日本だけの問題ではなく、世界が直面している問題です。
でも、だからこそ、日本の皇室はそうであってはならないのです。特に、美智子さまの子や孫であれば、なおさら「国民の心に寄り添うとは何か」ということが、知らないとか、わからないでは、済まされないのではないでしょうか。伝統とは、心で受け継がれていかなければならないものなのだと思うのです。
ですから、天皇制というカタチだけが続いても、なんの意味もありません。カタチに中身が伴わなければ、いずれにしても遠からず亡びることになるでしょう。
この問題は、皇室のみならず、国家存亡に関わる大事です。しかも、極めて切迫した事態となっています。日本に残されている時間は少ない。躊躇している暇は、それほどないのではないかと、私は考えています。
私は女系天皇で良いと思います。そして、愛子さまであれば、必ず、良い縁があると思うのです。愛子皇太子を心から支える無私の方が、現れることを願うだけです。愛子さまならば、賢明な判断ができるはずです。
かつて、孝謙天皇も、道鏡という素晴らしいパートナーに巡り合ったことで、皇位の奪還に成功し、称徳天皇となりました。称徳天皇は、賢明で、強い義務感を持って、立派に政治を行いました。道鏡も、教養深く清廉潔白で無私な方で、称徳天皇を心から敬愛していました。しかし、当時は、女系天皇を認める空気がありませんでした。それどころか、家臣たちの陰謀によって称徳天皇は毒殺され、道鏡は左遷され、やはり亡くなりました。
今度こそ、私たち国民は、女系天皇を守らなければなりません。
女性宮家創設など、小室圭さんの目の前に新たな人参をぶら下げることになるだけで、眞子さまへの執着がますます激しくなり、小室家による皇室乗っ取り計画に拍車がかかるだけです。
ですから、女性宮家などいりません。
目指すは、愛子さま立太子、これのみです。
*2019年3月、ICU卒業にあたっての佳子さまの発言の中で、メディアの質問に答えるかたちで、次のような文書回答がありました。
「姉が結婚に関する儀式を延期していることについてですが,私は,結婚においては当人の気持ちが重要であると考えています。ですので,姉の一個人としての希望がかなう形になってほしいと思っています。
また,姉の件に限らず,以前から私が感じていたことですが,メディア等の情報を受け止める際に,情報の信頼性や情報発信の意図などをよく考えることが大切だと思っています。今回の件を通して,情報があふれる社会においてしっかりと考えることの大切さを改めて感じています。」
さて、一読して、皇族の発言としては、いろいろ問題を感じる文書です。一人の現代の若者としての自然な感情から、あくまでも強気に、世間に対して反発しているような文章ですが、注目すべき点は、次の四箇所です。
「(眞子さまと小室圭氏の)結婚においては当人の気持ちが重要(←つまり、秋篠宮さまが仰っていた国民の納得と祝福については二次的な問題、とも受け取れる内容です。)」
「(圭くんとの結婚について)姉の一個人としての希望がかなう形になってほしい(←つまり、誰が何と言おうと、自分は二人の結婚を応援している→これについては、現在、二人が頻繁に連絡を取り合っており、二人の結婚の意思が変わっていないことは、圭くんの代理人弁護士が、5月11日に公表しています。)」
「メディア等の情報を受け止める際に、情報の信頼性や情報発信の意図などをよく考えることが大切(←つまり、メディアが騒いでいる小室さん関連情報については、一切信じていない、あるいは事実であっても問題視していない、とも受け取れます。)」
「情報があふれる社会においてしっかりと考えることの大切さを改めて感じています(←つまり、周りが何をどう騒ごうと、火のないところに煙を立てているのはメディアの側であって、小室圭さんと眞子さまとの結婚については何も問題はない→そう考えているからこそ、二人を応援しているのです、とも受け取れる内容です。)」
当然のことながら、これらの佳子さまの意見に対して、激しい批判と非難が起こりました。
周囲の知恵のある方たちに相談もせず、いかにも若者らしい、とは言え、どこか謙虚さに欠けたような文書を発表するのは、小室圭さんとは次元が違うかもしれませんが、やはり、世間を知らない恐れ知らずと、周囲の助言を素直に受け入れられない気の強さが伺われます。これを現代風の潔さととるか、皇族としての自覚のなさととるか、難しいところです。
また、これがICUの校風によるのだとしたら、この学校を選んだ秋篠宮さま、紀子さまの責任は大きいと言えるでしょう。そうでなければ、これが秋篠宮家の家風ということになります。
それにしても、誰もお諌めできる方がいらっしゃらないのでしょうか。宮内庁は何をしているのでしょう。
小室家の父親、祖父母、3人の一連の自殺の事情と、当時、佳代さんが元暴力団関係者に依頼したとされる遺産相続交渉の真偽について、宮内庁は早急に徹底した独自調査を行い、その調査結果を秋篠宮家全員に詳しく報告するべきでしょう。まさか、この期に及んで、まだ、してはいないのでしょうか。『情報があふれる社会でしっかりと考える』ためには、正確な事実を知ることが、先ずは何よりも重要な筈です。
今回の佳子さまの文書回答、残念ですが、本当に、こんなことは言いたくもないのですが、美智子さまのお孫さんとも思えない、皇室の一員としての自覚のなさで、国民の失望を招いています。
ただ、その一方で、国民の側にも、皇室に対して、下劣な攻撃をするなど、おぞましい行為が横行しているのは、我慢できません。今の日本国民には、一国民として、自分が国と皇室を支えなければならないという深い責任感が欠如しているのではないでしょうか。寄り添わなければならないのは、国民の方も同じでしょうに。いずれも嘆かわしい限りです。
🌠秋篠宮家が現在直面している問題は、沖縄的に言うと、秋篠宮さまと紀子さまから、3人のお子さまたちへのチヂウイ(血筋降り)の問題ではないか、という気も致します。
こうしたチヂウイのもたらす問題については、以前、「沖縄のウガン(拝み)」の記事で、詳しく解説しましたが、秋篠宮家に限らず、まさに日本中で今、起こっている社会的な問題という気がします。
仏教的に言えば、〝縁〟〝因縁〟の問題です。
秋篠宮家の苦境を、今の日本を映す一つの鏡として、誰もが内省し、自戒せねばならないでしょう。
そのためには、明治以来の皇室典範を改正し、早急に愛子さま立太子の準備に入るべきではないか、と考えます。
女系天皇は日本の伝統に反するという意見もありますが、かつて、聖武天皇が、娘である孝謙天皇(称徳天皇)を皇太子とした時にも増して、現代の皇室は有史以来の存亡の危機にあるように思います。今の状況は、ある意味、皇室がなくなるか、日本がなくなるか、という瀬戸際なのです。女系はダメとか悠長なことを言っている場合ではありません。
では、以下にその理由を述べたいと思います。
私が、もっとも憂慮しているのは、悠仁さまがお育ちになっている環境の問題です。
秋篠宮家長女である眞子さまと婚約関係にある小室圭氏にまつわる問題の発覚以降、眞子さま、次女の佳子さまの発言(*)や様子などから、果たして、秋篠宮家の子どもたちには皇族としての自覚が育っているのか、という点に関して、国民に大きな不安を抱かせる事態となっています。
「子を見れば親が分かる」とも申します。すべてを親の責任に帰することはできないというのは当然ですが、しかしながら、現時点で眞子さまを諭すことのできない両親に対する不信感が、国民の間に生じるのは当然のことです。言わば、秋篠宮家の皇室としての教育力への危惧が高まっているのです。
秋篠宮殿下と紀子さまは、眞子さまを、学習院高等科から、学習院大学ではなく、ICUに進学することを許され、佳子さまも学習院大学を中退して、ICUに編入をされました。そこで、眞子さまは小室圭氏と出会ったわけです。佳子さまも、「恋愛、結婚は個人の自由」と眞子さまを応援なさっています。
悠仁さまについては、小学校から学習院ではなく、御茶ノ水大学付属小中学校に通われていらっしゃいます。しかも、特別進学待遇で。しかし、果たしてその選択は正しかったのか、という大きな疑問を感じるのです。
学習院で愛子さまがいじめられたり、一時、不登校になったからといっても、それで学習院そのものに不信感を抱かれて、安易に他の学校を選択したことが、果たして正しかったでしょうか。「AがダメならBがいい」では、あまりに軽すぎはしませんか。
なぜなら、痩せても枯れても、学習院は学習院。皇室のなんたるかを、最もよく理解している教育機関は、学習院を置いて他にないからです。特に、残念ながら、今日の日本においては、学習院以外の教育機関に通うことで、皇族の自覚が育つとはとても思えないのです。
一方で、愛子さまは、学習院初等科から高等科まで進まれ、東大進学も可能な偏差値と言われながら、大学もそのまま学習院に残るという予定のようです。
私は、この愛子さまの選択は優れて賢明であると思うのです。そもそも、皇族が、庶民と学歴を競うのは、絶対に間違っています。カタチ(身分)は皇族でも、心は教養の足りない庶民並みに学歴信奉主義に支配されているようでは困るのです。そのことを、きちんと自覚されているのは、本当にご立派です。
この選択の差は、雅子さまと紀子さまの教育観の違いかもしれません。紀子さまは、自ら望んで皇室に入られた方です。一方で、雅子さまは、外務省での順風満帆のキャリアと自由な一般人としての人生を断腸の思いで捨て、皇室の一員として、将来の皇后として、この国を支える存在になることを、長く苦しい逡巡と葛藤の末に選ばれた方です。その後も、お世継ぎの問題などで、精神を病むほどの重圧に耐えてこられた方です。
こう申しては何ですが、このお二人の人間性の深みや人生経験から生まれる知恵を比べることは、とてもできないと思います。そして、子どもの精神の育成に、もっとも大きな影響を与えるのは、いつの時代も、どこの国・地域においても、やはり母親なのです。
さらに、その雅子さまを、精神的にも公務の面でも、不平一つ言わず支えてこられた明仁天皇陛下の深い愛情があり、このお二人に育てられた愛子さまが、人間的にも、品格の上でも、人々の信頼に応えうる深い人格と賢明な知恵を備えて、立派にお育ちになっておられることは明らかです。
象徴天皇制というのは、戦前の天皇制とは違うのです。
ある意味、戦前の天皇制であれば、多少人格的にどうかと思う人物が天皇陛下であっても、能力的に難があっても、自覚がまるでなかったとしても、それほど問題とはなりませんでした。天皇陛下が頼りなければ、その分、臣民である国民や周囲の方々が、命がけでお守りし、お支えすればよかったのです。また、能力的に公務の執行に無理があれば、摂政を立てればなんとかなりました。たとえ、どんなにダメな天皇陛下であったとしても、その存在そのものに、疑いを抱く人がほとんどいませんから、特段問題にはならなかったのです。
しかし、象徴天皇制は違います。日本国憲法下での「象徴としての天皇および皇族の存在意義」とは、一体何でしょう。
天皇・皇族の存在理由をどう考えるか。それは、天皇その人、皇后その人、および皇族の方々の人格と生きる姿勢から滲み出るものを、国民がどう感じるかにかかっているのです。極言すれば、品格なき皇室は、その存在意義を失い、滅びるよりほかないということです。
昭和天皇がいみじくもおっしゃったように「国民が要らないというのなら、存在しても意味がない」のです。国民の「もう皇室など要らない」という拒絶の前には、皇紀2700年の血統も何も、あったものではありません。
一方で、日本国の象徴である皇室が、その品位(徳)を失い、国民の敬意と信頼を失うとしたら、それは、この日本国そのものから品性(徳)が失われ、日本人一人一人が、人への信頼と敬意を失ってしまった結果であるとも言えるでしょう。そして、それは、この国そのものの存在意義の喪失にも繋がります。
2500年前の中国の思想家である孔子は、弟子の子貢に政治について問われ、「兵よりも、食よりも、大切なものがある」と論じています。食がなければ、人は死んでしまいます。それでも、「命より大切なものがある」と言うのです。
孔子は「古(いにしへ)より皆死あり、民、信なくんば立たず」と述べています。つまり、国民の内に、国への信頼がなければ、国は成り立たないということです。しかも、この〝信〟は、国民一人一人の命よりも重いというのです。命より重いものが失われたら、滅びるよりほかないでしょう。
それほどに、象徴天皇は、この国にとって重い存在なのです。
国が生き延びるか、滅びるか、その鍵のひとつを皇室が握っているのです。そして、その鍵とは、皇族の方々の〝人間としての品性〟にかかっています。
ですから、野心や傲慢さをかけらでも感じさせる者が皇族であるなどもってのほかです。ましてや、天皇になるなど、絶対にあってはなりません。それでは、この日本国が滅びます。
この問題に比べたら、男系天皇制維持だとか、女性宮家や女性天皇の是非の問題など、どうでもいいと言っていいほど瑣末で軽い懸案に過ぎません。
平成天皇が「私は、その特殊な育ちから、人間として、人を思いやる気持ちが薄く、皇后の助けをかりて、国民に寄り添うために多くを学ぶ必要があった」「自分の人生は『象徴天皇とは何か』、それを探る旅であった」「その旅路は果てしなく遠い」「この旅の続きは、次の世代へ任せたい」とおっしゃっていた言葉の重さを、誠実に心で受け止められる方でなければ、次代の天皇の責務を担うことはできません。
私は、この言葉をしっかりと受け止め、深く理解し、自らの生きる指針とし、公務を全うすることができる次代の皇族は、愛子さま以外にはいらっしゃらないのではないか、と強く感じるのです。
以上が、私が、悠仁さまではなく、愛子さまを立太子するべき、と考える理由です。
今や、「心って何?」「寄り添うって何?」「誠実さがどうした?」「他人の痛みがなんだって?」という時代です。他人の心など、それがたとえ我が子の心であっても無視するのが当たり前という時代です。もちろん、これは日本だけの問題ではなく、世界が直面している問題です。
でも、だからこそ、日本の皇室はそうであってはならないのです。特に、美智子さまの子や孫であれば、なおさら「国民の心に寄り添うとは何か」ということが、知らないとか、わからないでは、済まされないのではないでしょうか。伝統とは、心で受け継がれていかなければならないものなのだと思うのです。
ですから、天皇制というカタチだけが続いても、なんの意味もありません。カタチに中身が伴わなければ、いずれにしても遠からず亡びることになるでしょう。
この問題は、皇室のみならず、国家存亡に関わる大事です。しかも、極めて切迫した事態となっています。日本に残されている時間は少ない。躊躇している暇は、それほどないのではないかと、私は考えています。
私は女系天皇で良いと思います。そして、愛子さまであれば、必ず、良い縁があると思うのです。愛子皇太子を心から支える無私の方が、現れることを願うだけです。愛子さまならば、賢明な判断ができるはずです。
かつて、孝謙天皇も、道鏡という素晴らしいパートナーに巡り合ったことで、皇位の奪還に成功し、称徳天皇となりました。称徳天皇は、賢明で、強い義務感を持って、立派に政治を行いました。道鏡も、教養深く清廉潔白で無私な方で、称徳天皇を心から敬愛していました。しかし、当時は、女系天皇を認める空気がありませんでした。それどころか、家臣たちの陰謀によって称徳天皇は毒殺され、道鏡は左遷され、やはり亡くなりました。
今度こそ、私たち国民は、女系天皇を守らなければなりません。
女性宮家創設など、小室圭さんの目の前に新たな人参をぶら下げることになるだけで、眞子さまへの執着がますます激しくなり、小室家による皇室乗っ取り計画に拍車がかかるだけです。
ですから、女性宮家などいりません。
目指すは、愛子さま立太子、これのみです。
*2019年3月、ICU卒業にあたっての佳子さまの発言の中で、メディアの質問に答えるかたちで、次のような文書回答がありました。
「姉が結婚に関する儀式を延期していることについてですが,私は,結婚においては当人の気持ちが重要であると考えています。ですので,姉の一個人としての希望がかなう形になってほしいと思っています。
また,姉の件に限らず,以前から私が感じていたことですが,メディア等の情報を受け止める際に,情報の信頼性や情報発信の意図などをよく考えることが大切だと思っています。今回の件を通して,情報があふれる社会においてしっかりと考えることの大切さを改めて感じています。」
さて、一読して、皇族の発言としては、いろいろ問題を感じる文書です。一人の現代の若者としての自然な感情から、あくまでも強気に、世間に対して反発しているような文章ですが、注目すべき点は、次の四箇所です。
「(眞子さまと小室圭氏の)結婚においては当人の気持ちが重要(←つまり、秋篠宮さまが仰っていた国民の納得と祝福については二次的な問題、とも受け取れる内容です。)」
「(圭くんとの結婚について)姉の一個人としての希望がかなう形になってほしい(←つまり、誰が何と言おうと、自分は二人の結婚を応援している→これについては、現在、二人が頻繁に連絡を取り合っており、二人の結婚の意思が変わっていないことは、圭くんの代理人弁護士が、5月11日に公表しています。)」
「メディア等の情報を受け止める際に、情報の信頼性や情報発信の意図などをよく考えることが大切(←つまり、メディアが騒いでいる小室さん関連情報については、一切信じていない、あるいは事実であっても問題視していない、とも受け取れます。)」
「情報があふれる社会においてしっかりと考えることの大切さを改めて感じています(←つまり、周りが何をどう騒ごうと、火のないところに煙を立てているのはメディアの側であって、小室圭さんと眞子さまとの結婚については何も問題はない→そう考えているからこそ、二人を応援しているのです、とも受け取れる内容です。)」
当然のことながら、これらの佳子さまの意見に対して、激しい批判と非難が起こりました。
周囲の知恵のある方たちに相談もせず、いかにも若者らしい、とは言え、どこか謙虚さに欠けたような文書を発表するのは、小室圭さんとは次元が違うかもしれませんが、やはり、世間を知らない恐れ知らずと、周囲の助言を素直に受け入れられない気の強さが伺われます。これを現代風の潔さととるか、皇族としての自覚のなさととるか、難しいところです。
また、これがICUの校風によるのだとしたら、この学校を選んだ秋篠宮さま、紀子さまの責任は大きいと言えるでしょう。そうでなければ、これが秋篠宮家の家風ということになります。
それにしても、誰もお諌めできる方がいらっしゃらないのでしょうか。宮内庁は何をしているのでしょう。
小室家の父親、祖父母、3人の一連の自殺の事情と、当時、佳代さんが元暴力団関係者に依頼したとされる遺産相続交渉の真偽について、宮内庁は早急に徹底した独自調査を行い、その調査結果を秋篠宮家全員に詳しく報告するべきでしょう。まさか、この期に及んで、まだ、してはいないのでしょうか。『情報があふれる社会でしっかりと考える』ためには、正確な事実を知ることが、先ずは何よりも重要な筈です。
今回の佳子さまの文書回答、残念ですが、本当に、こんなことは言いたくもないのですが、美智子さまのお孫さんとも思えない、皇室の一員としての自覚のなさで、国民の失望を招いています。
ただ、その一方で、国民の側にも、皇室に対して、下劣な攻撃をするなど、おぞましい行為が横行しているのは、我慢できません。今の日本国民には、一国民として、自分が国と皇室を支えなければならないという深い責任感が欠如しているのではないでしょうか。寄り添わなければならないのは、国民の方も同じでしょうに。いずれも嘆かわしい限りです。
🌠秋篠宮家が現在直面している問題は、沖縄的に言うと、秋篠宮さまと紀子さまから、3人のお子さまたちへのチヂウイ(血筋降り)の問題ではないか、という気も致します。
こうしたチヂウイのもたらす問題については、以前、「沖縄のウガン(拝み)」の記事で、詳しく解説しましたが、秋篠宮家に限らず、まさに日本中で今、起こっている社会的な問題という気がします。
仏教的に言えば、〝縁〟〝因縁〟の問題です。
秋篠宮家の苦境を、今の日本を映す一つの鏡として、誰もが内省し、自戒せねばならないでしょう。