「管鮑の交わり」という中国の故事成語があります。三国志の諸葛亮孔明と劉備玄徳の間柄から生まれた「水魚の交わり」という言葉と並んで、歴史的に有名な人間関係をあらわす語です。「水魚の交わり」は、お互いに欠くことのできない大切な存在という間柄を表しますが、では、「管鮑の交わり」の場合は、どうでしょうか。
まず、以下に、この語の元となった14世紀の歴史読本「十八史略」および紀元前1世紀に司馬遷の著した「史記」に記載されている故事の書き下し文と現代語訳を、重ねて記します。それから、この語の意味する間柄について、さらには、私たち現代日本人にとって、この故事から学べることは何か、考えてみましょう。



〈前半「十八史略」より抜粋〉
斉(せい)は姜(きょう)姓、太公望呂尚(りょしょう)の封ぜられし所なり。
後世桓公に至り、諸侯に覇たり。
五覇は桓公を始めと為す。

名は小白。
兄蘘公(じょうこう)、無道なり。
群弟、禍(わざわい)の及ばんことを恐る。
子糾(しきゅう)、魯に奔(はし)る。
管仲之(これ)に傅(ふ)たり。
小白、莒(きょ)に奔る。
鮑叔(ほうしゅく)之に傅たり。

蘘公、弟無知の弑(しい)する所と為り、無知も亦(また)、人の殺す所と為る。
斉人(せいひと)、小白を莒より召く。
而(しこう)して魯も亦、兵を発して糾を送る。
管仲、嘗(かつ)て莒の道を遮(さえぎ)り、小白を射る。
帯鉤(たいこう)に中(あた)る。

小白、先(ま)づ斉に至りて立つ。
鮑叔牙、管仲を薦(すす)めて政(まつりごと)を為(な)さしむ。
公、怨みを置きて之を用(もち)う。

仲、字(あざな)は夷吾(いご)。


〈以後「史記」より抜粋〉
管仲曰はく、「吾(われ)始め困しみし時、嘗て鮑叔と賈(あきな)ふ。
利を分かつに多く自ら与(あた)ふ。
鮑叔、我を以(も)つて貪(たん)と為さず。
我の貧なるを知ればなり。

吾嘗て鮑叔の為に事を謀りて、更に窮困す。
鮑叔、我を以て愚と為さず。
時に有利と不利と有るを知ればなり。

吾嘗て三たび仕へて三たび君に逐(お)はる。
鮑叔、我を以て不肖と為さず。
我の時に遭はざるを知ればなり。

吾嘗て三たび戦ひ三たび走(に)ぐ。
鮑叔、我を以て怯(きょう)と為さず。
我に老母有るを知ればなり。

公子糾敗れ、召忽(しょうこつ)之に死し、吾幽囚せられて辱めを受く。
鮑叔、我を以て無恥と為さず。
我の小節を羞(は)ぢずして、功名の天下に顕(あら)はれざるを恥づるを知ればなり。

我を生む者は父母、我を知る者は鮑子なり」 と。


〈現代語訳兼解説〉
斉は、姜を姓とする氏の建てた山東省にあった公国である。紀元前11世紀ごろ、周の軍師として、周の始祖である文王とその子武王を補佐して殷王朝を打ち破った功によって、有名な太公望呂尚が封ぜられた領地を起源とする。斉の始祖となった太公望呂尚の活躍で、約600年間続いた殷の時代は終わり、周の代へ移ったのである。
後、春秋時代に入り、桓公が斉の第16代君主となるに至って、衰えた周王室に代わって諸侯をとりまとめ、中国全土の諸侯を、その号令に従わせる覇者となる。太公望の時代から、およそ500年後、紀元前651年のことであった。
斉の覇業の最大の功労者は、宰相の管仲であった。桓公は、たとえ自分の意に反することであっても、管仲の諌めを聞き入れ、常にその言に従った。後に、桓公は、自分が覇者となりえたのは、すべて管仲のおかげだと述べている。春秋時代の五人の覇者(春秋の五覇)のうち、斉の桓公は最初の人である。

桓公は、名前を小白と言った。
桓公の長兄は、父の死によって第14代斉公となった蘘公である。実の妹との恋愛関係にのめり込み、気に入らない者を次々と殺すなど、道にはずれた行いをする者であった。
そのため、小白をふくめ、蘘公の弟たちは、災難が自分の身にふりかかることを恐れた。弟たちのうち次男の公子子糾は、隣国の魯国に保護を求めた。管仲が守り役として同行し、その補佐を務めた。一方で三男の公子小白は、莒国へ逃げた。鮑叔が守り役として同行し、その補佐を務めた。
それぞれの公子の守り役であった管仲と鮑叔は、古くからの友人同士だった。

やがて蘘公は、従弟の無知に殺され、無知もまた、反乱平定軍に殺された。そこで斉の人々は、公子小白を莒国から呼び戻して、後を継がせようとした。ところが魯の国もまた、自分の国に庇護していた公子子糾を斉の君主にしようという思惑から、兵を伴って子糾を斉へと向かわせた。
子糾の補佐役であった管仲は、莒から斉への道の途中で、小白一行を待ち構えて、藪の中から小白に毒矢を射た。しかし、矢は小白の帯の金具に当たり、管仲の小白暗殺は失敗した。

結局、弟の小白が、兄の子糾より先に斉に着き、小白が斉公に即位して桓公と称した。
追い詰められた子糾は自刃し、その際に殉死した子糾の重臣(守り役)もいたが、同じく守り役であった管仲は殉死を選ばず、囚われて「主君に殉じることもできない情けない男」として辱めを受けることとなった。当然、管仲は桓公の命で処刑されるはずであった。
ところが鮑叔牙は、重罪人として捕縛されていた管仲を宰相に推薦して、斉の政治をまかせるように小白に進言した。鮑叔に絶対の信頼を置いていた小白(桓公)は、管仲がかつて自分を殺そうとした恨みは置いておいて、鮑叔の言を採用し、管仲を宰相の座につけた。 そして、鮑叔自身は宰相管仲の補佐にまわった。その後、この二人の活躍によって、桓公の覇業は成し遂げられたのである。

管仲は字を夷吾と言った。
後年、管仲は次のように述べている。

「私は、若い頃、とても貧乏だった時期に、鮑叔と一緒に商売をしたことがあった。私は利益を分けるときに、大部分を自分の分け前として多くとった。しかし鮑叔は、利益を独り占めした私を、貪欲で自己中心的だとは思わず、不公平だと非難することもなかった。私が貧乏であることを知っていたからだ。
(*後の管仲の有名な言説に「衣食満ち足りて礼節を知る」という言葉がある。若い頃の困窮を思わせる言葉である。)

また、かつて私は、鮑叔のために事業を企てたが、失敗して鮑叔をかえって困らせたことがあった。しかし鮑叔は、迷惑をかけた私を愚かで浅はかだとは思わず、その責任を問わなかった。時勢によって、物事が有利に働くときもあれば、不利に働くときもある、と知っていたからだ。

私は、かつて三度君主に仕えて、その度に君主に見限られ、職を追われた。しかし、鮑叔は、官吏を首になってばかりいる私を、救いようのない無能な者だとは思わなかった。私に時運が味方しなかったことを知っていたからだ。

また私は、かつて、三回戦に参加して、三回とも敗れて戦場から敗走した。しかし鮑叔は、私を臆病者だとは思わず、恥ずかしいやつだと誹ることもなかった。私に年老いた母がいることを知っていたからだ。

公子糾は敗れて、私と同じ守り役だった召忽は殉死し、私は生きて拘束され、命を惜しんだことで辱めを受けた。しかし鮑叔は、私を恥知らずの痴れ者とは思わなかった。私が小さな礼節を守らないことを恥じず、私の功名が天下に知られることなく、むざむざ死んでいくことをこそ恥じる者だ、と知っていたからだ。」

既に斉の名宰相として、その名を轟かせていた管仲はこう言葉を結んだ。
「私を生んだのは父と母だが、私を本当に深く理解しているのは鮑叔である」と。



いかがでしょうか。上記の故事から、後世、互いを深く理解し、信頼しあっている親友同士の関係を「管鮑の交わり」と呼ぶようになりました。
子供向きの読本である「十八史略」では、斉の覇業を成し遂げた管仲の才と徳を賞賛していますが、原典である司馬遷の「史記」では、管仲の才を見抜き、どこまでも管仲を信じて支え続けた鮑叔の見識と信頼をこそ、他に類のないものと称えています。
そして、紀元前7世紀、今から2700年も前の中国の友情が、今も語り継がれているのです。




管仲の若い頃、そうであったように、苦しい時代にこそ、自分を信じてくれる人の存在が大切になります。
日本もまた、歴史上の一つの大きな曲がり角に来ているという気が、ひしひしと感じられるこの頃ですが、折しも、4月1日には、5月1日から施行される新しい元号「令和」が発表されました。
「令和」は、歴史上、日本がその頂点を極め、そこから落ちていくという、未曾有の経験を味わう、初めての時代となります。「陽極まりて陰に転ず」ということです。多くの日本人にとって、これまで経験したことのないような苦しい時代となるかもしれません。また、なかなか人が信じられない人間不信の時代でもあります。
だからこそ、人間の核心を見つめ、そこに信頼を寄せる心が、もっとも大切になるのです。

さて、「令和」という年号に関して、文字の表す意味について考えてみると、良くも悪くも、今の時代を的確に表現していると、感じずにはいられません。
「令」の字は、「令息」「令嬢」「令月」というように、良い、立派な、めでたいという意味の敬意をあらわす文字です。
「和」は、稲穂が器に垂れるという意味から、大陸から稲作が伝わった弥生の時代以降、大和の国(奈良)をあらわすとともに、「和歌」「和風」「和服」など、日本(やまと)を意味する文字として親しまれてきました。さらに、禾は軍門、口は誓盟の器を意味し、和は「軍門の前で、和睦の誓盟を行う」という意味もあります。
したがって「令和」は、〝立派な素晴らしい日本の平和〟を意味するわけです。
しかし、一方で、「令」は、大きな家(人)の下でひざまずくという語意から、他人の親族に対する敬称であり、どこか他人行儀で親しみの薄い感じも与えます。「素晴らしい日本」とは言っても、「御令息」と言うのと同じで、どこか他人事で、直接自分には関係ない、自分の問題ではない、という感じです。
日本人にとって、遠い他人事の日本って、それはいったい誰の国なのでしょう。どこの誰が、自ら犠牲を払って「素晴らしい日本」をつくるのでしょうか、それが貴方ではないとしたら?
また、「和」は、稲穂の国のイメージであり、天皇家のルーツである本来の女系の縄文系王朝ではなく、男系(大陸系)の弥生系国家群に象徴されるイメージです。多少硬質な印象があります。加えて、「和」は、稲穂の垂れる収穫期の祭り(祀り)という意から、文明の頂点を極めた後の爛熟期における文化的調和と百花繚乱を暗示します。「この国では、どんな考えを持つのも自由だし、日本なんて自分には関係ない、と思うのも自由だ」というわけです。さらに、和睦は和睦でも、一方的に平伏を強要されるという暗示もあります。「和を強要されるなんて、嫌なこった!」と思う人もいるでしょう。

以上の字意から、見方によっては、秩序と客観性を重視するあまり、主体的に関わることを避け、共感や信頼の欠如した冷たい人間関係になりがちな、情や絆の薄い、他者への許容度の低い社会になることを暗示する面も、〝令和〟にはあります。客観性絶対視の風潮の中で、一方的に個人の切実な主観が、完全に無視され、蔑ろにされる恐れがあるというわけです。
言わば、「霊的な無視」の時代と言うのでしょうか。相手とちゃんと向き合って、言っていることは聞いているし、その言葉は理解しているし、きちんと受け答えも丁寧にしているのですが、相手の内心には実は興味がないのです。
相手の具体的な要求については考慮するし、真面目に応対しているのですが、霊的には完全に相手を締め出して遮断している状態です。「人の内心は測り難いので、考えるだけ無駄だ」と思っているのです。
けれども、日本は太古の昔から、〝言霊〟の支配する国でした。「言葉は、目に見えない鬼神の心をも動かす」と考えられてきたのです。言葉の意味するものを、より深く霊的に考えることは、決して無駄なことではありません。

「令和」は、「万葉集」の中の「梅花の歌三十二首」の序文に由来していると、政府によって正式に公表されています。
この序文は、8世紀前半、飛鳥末期から奈良時代初期にかけて活躍した武人であり歌人でもあった大納言大伴旅人が、晩年、大宰府の旅人邸(大宰府長官邸)で、自ら催した「桃花の宴」で詠んだ(730年正月13日/64歳)ものです。この宴には、当代一流の歌人であった山上憶良も参加し、邸宅に咲き誇った梅の花の美しさに酔いしれたのでした。
しかし、当時、旅人が大宰帥(だざいのそち/大宰府長官)として赴任(728年)して間もなく、長年連れ添った妻を失い、深い憂いの中にあったのに加えて、奈良の都(平城京)では、藤原四子による陰謀によって、最高権力者だった長屋王一家5人(本人、妻の吉備内親王と3人の子)が自殺(事実上の刑死)に追い込まれた直後だったこともあり、その悲劇的な政変への無念の思いが読みとれるとも言われます。(*一方で、旅人本人は、帰京直前に、臣下最高位の大納言に任ぜられ、帰京後は従二位に昇進しました。731年7月没)
この国は、太古の昔から、時勢の不幸な成り行きから、深刻な対立となり、ついには滅ぼすこととなった相手の怨念を恐れ、御霊として丁重に祀り、その無念と怒りを鎮め、恨みを浄化しようと努めることで、国の安寧を図ってきました。
事実、藤原四子が、長屋王の変(729年2月)の8年後、そろって天然痘で死んだのも、当時から長屋王の怨霊の祟りであると考えられていました。
法隆寺も、蘇我氏に一族を滅ぼされた聖徳太子の怨念を恐れて、その御霊を慰めるために、今日まで大切に信仰されてきました。菅原道真に関わる太宰府天満宮も、国譲りに関わる出雲大社もまた、然り、です。
時の権力者の氏神や祖霊を祀る寺社よりも、滅ぼされた人々の無念の思いを鎮める寺社の方をこそ、日本人は、より大切にしてきたのです。
今回の「令和」の選定にも、そうした祈りの思いがあるとすれば、これからの時勢の難しさを見極めた、実に優れた選定であったと言えるかと思います。
「令和」の典拠である「万葉集」の「桃花の歌32首序文」の成立した背景から考えて、この元号の背後にある重要なメッセージの一つは、「私たちは、如何なる対立や偏見や憎悪や不信の念をも乗り越えて、この国の未来を切り開いていかなければならない」ということです。

また、現在、世界で『元号』を使用している国は日本だけですが、これはそれほど不思議なことではありません。
Y染色体のハプログループから考えても、日本は、C1a1、D1bという固有の古代遺伝子(縄文遺伝子)の保有率が、人口の4割以上を占め、石器文明を継承する唯一の文化圏です。大和国家を建国した天皇家のハプログループもD1bですから、この国が世界で唯一つの古代文明の継承国であることは明らかです。
一方で、日本人の3割は、稲作文化を特徴とする長江文明を築いたO1bの継承者であり、そのハプログループO1b2a1も日本固有のものです。好戦的な黄河文明を築いた漢民族(O2系)によって、長江文明は滅ぼされ、O1b1は南へ、O1b2は北へ逃れたのですが、彼らは長い年月をかけて、沖縄から日本(O1b2a1)へ、そして朝鮮半島(O1b2a2)に再上陸し、満州へと広がりました。彼らは、稲作を伝えた初期弥生人です。
その後、戦国を逃れて後期弥生人として日本にやってきた漢民族(O2系)の血筋は、中国(66%)や朝鮮(51%)と異なり、日本では2割程度しかいません。つまり、好戦的な後期弥生人(漢民族・出雲)は、縄文文明を滅ぼして、漢民族の王国を日本に打ち立てることが、ついにできなかったということです。こうして1万年の歴史を持つ縄文の伝統は、危機を生き延びたのです。
日本では、古代遺伝子(D1b・C1a1)と最新の遺伝子(O1b2a1・O2b)が、約半々で存在するという稀有な状態が、2000年近く続いています。日本は、古代文明が、滅び去ることなく、現代に息づいている希少な先進文明国なのです。繰り返しますが、このような国は、他にありません。
本来、日本人は、目に見えるもの(科学技術文明)を大切にすると同時に、目に見えないもの(神々や精霊)に深く信頼を寄せることができる民族です。そうである方が日本人にとっては自然な生き方なのです。
ですから、現代のように、目に見えること、客観的評価に耐えうる事実や実績や結果のみにこだわり、外に未だ顕れない個人の資質や才覚を見抜くことができず、行動によって証明されない個人の内心を理解することに、まったく意識が向かない人々が、これほど多くなった時代は、日本史上、これまでなかったのではないかと思います。
だからこそ、管仲と鮑叔の故事から、私たち現代日本人が学べることは非常に大きい、とも言えるのではないでしょうか。


紀元前6世紀〜5世紀にかけて、管仲・鮑叔の時代から100年後の中国春秋時代の後半に活躍した思想家である孔子と弟子の子貢との会話で、次のような有名なやりとりが「論語」の中にあります。

〈「論語」より/書き下し文〉
子貢政を問う。
子曰く、食を足し、兵を足し、民之を信にす。
子貢曰く、必ずや已むことを得ずして去らば、斯の三の者に於て、何をか先にせんと。
曰く、兵を去らんと。
子貢曰く、必ず已むことを得ずして去らば、斯の二の者に於て何をか先にせんと。
曰く、食を去らん。古自り皆死有り。民信無くんば立たずと。

〈現代語訳〉
弟子の子貢が、孔子に政治について質問しました。
孔子は「まず民の食を満たさねばならない。それから軍備を整えるのだ。そうすれば、国民に政府への信頼が生まれるだろう。」と述べました。
子貢は、「食(経済)、軍、信頼の三者のうち、止むを得ず、一つ省くとしたら、どれを先に省きますか?」と重ねて尋ねました。
孔子は「軍を省こう」と答えました。
子貢は重ねて「食と信の二者のうち、止むを得ず、どちらかを省くとしたら、どちらが先ですか?」と尋ねました。
孔子は「食を省こう」と答えました。
「古の昔から、人間というものは、遅かれ早かれ必ず死ぬものだ。しかし、死ぬことより、恐ろしいことがある。それは、社会から信頼が失われることだ。信頼のないところでは、精神そのものが失われる。誰もが、自分が生き残ることにしか関心がなく、人のために生きる者がいない世界では、人間の社会は決して成り立たない。信頼は、命よりも大切なのだよ。」と。

中国の人々は、日本を訪れると、この国の隅々にまで孔子の教えが息づいていることに、感銘を受けるのだそうです。JALやANAの旅客機に乗っただけで、それは誰にでも実感されると言われます。
人の内心を気遣い、慮り、真心で接すること。それは、儒教が日本に伝わって以来、1500年の日本人の営みの中で育まれてきた、日本が世界に誇る精神文化です。
しかし、今、その日本の精神文化が、危機に瀕しているのではないでしょうか。「食(お金・学歴・職)があれば、信(内心の安定・心の成長・他者への理解)など、どうでもいい」という価値観が、この国の人々の心を、次第に支配し、蝕みつつあるという気がしてなりません。
今だからこそ、「人を信じるとは、人の心を理解するとはどういうことか」、「運命を共にし、自分自身の命運をも託せる信頼とは何か」、この機会にじっくり考えてみたいものです。

「論語」の中で、何度も繰り返し出てくる孔子の言葉に、「巧言令色少なし仁」という有名な言葉があります。「言葉巧みに、見せかけだけの敬いの表情をして近づいてくる者に、真実の情愛(思いやり)を秘めている者は少ない」という戒めの言葉です。この場合の「令色」は、〝見せかけだけの優しさ〟を意味します。
「令和」の時代が、〝見せかけだけの平和〟〝見せかけだけの中身のない仲の良さ〟〝内心の情愛が乾ききった、見せかけだけの和やかさ〟に溢れた、冷たく潤いのない枯れた社会にならないように、そして、怨念を鎮め、嫉妬や憎悪を浄化し、深刻な対立を融和させる〝秩序(令)と調和〟の国として、21世紀の前半を、この国が生きのびられるように祈ります。


ちなみに、上記の山上憶良は、大宰府での大伴旅人との2年余の交流の中で、妻を失い、友を失った悲しみに沈む旅人の心を汲み、深い思いやりと気遣いで旅人の心を支えました。
憶良は、旅人より5歳年上で、旅人邸での「桃花の宴」の頃は、既に齢69歳でした。けれども、この二人の交流の中で、筑紫歌壇と呼ばれる大宰府の和歌文化の最盛期が生まれたのです。
身分は旅人より下でしたが、歌人としては旅人より著名であり、万葉集にも、旅人と同数の78首が収められています。それら2人の歌のほとんどは、大宰府で二人が一緒だった数年の間に詠まれたものなのです。
例えば、大宰府近辺の農民の困窮の様子を嘆いた憶良の代表作「貧窮問答歌」は、都へ戻ってほどなく旅人が亡くなった731年頃の作とされています。

世の中を 憂しとやさしと おもへども 飛びたちかねつ 鳥にしあらねば
(この世の中は、身が細るほど辛く苦しく耐えがたいと思うけれど、それでも何処かへ飛んで逃げていくこともできない。鳥ではないのだから。)

この歌は、「貧窮問答歌」に付けられた反歌です。憶良本人は、貴族として恵まれた暮らしをしていましたが、弱い者への視線は、限りなく優しく、共感に満ちたものでした。
その他にも、

憶良らは 今は罷(まか)らむ 子泣くらむ それその母も 吾(わ)を待つらむそ
(憶良は、もう帰ります。子どもが泣いているでしょう。その母も、私を待っているでしょうから。)

銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子に如(し)かめやも
(銀も金も玉も何になろうか。それにも勝る宝は子どもだ。比べられるものが他にあるだろうか。)

など、飾らない家族への愛情を詠った歌が多くあります。素直で素朴な歌風です。
実は「令和」の典拠とされる「桃花の歌32首」の序文も、本当は旅人の代わりに憶良が詠んだものではないか、とする有力な説があります。それが真実であるなら、この序文は、傷心の旅人を思いやった心のこもった文章であったと思われます。
そう考えると、今回の元号についても、「今一度、人の自然な心にあふれる素朴な愛情を大切にする時代となるように」と祈りをこめた選定であったと推測されることから、「令和」は今の時代に真にふさわしい元号である、と言えるのではないでしょうか。
「人の心に寄り添いなさい、と私はあなたに命じる」という時を超えた誰かの声が、聴こえてはきませんか。