「教育とは何か?その3」の考察に続いて、教育について根本から考える思索の第四弾として、以下の文章を記す。


私は、教育の根本は、国語教育にあると考えている。人間の思考能力、人格、教養の基盤は言語であり、言語の教育とは、第一言語である国語の教育から始まるからだ。そして、国語教育の根幹は、読解力の養成である。
ところが、近年、これまでの国語教育の課題や弊害が明らかとなり、世界的に深刻な問題となっている。その問題とは、一言で言えば、「これまでの学校教育では、子どもたちの読解力が、まったく伸びていない」ということだ。言い換えれば、今の教育のあり方では「どんなに一生懸命勉強しても、本を読める(理解できる)子にはならない」ということでもある。そして、この基礎的な読解力の欠如は、学力上の根本的な欠落を生じさせるとともに、人間性の重大な欠如を生む原因ともなりうる。
なぜなら、読解力がない人は、人生を豊かにする教養を養えないだけでなく、意思疎通(基本的なコミュニケーション)にも支障をきたし、社会生活そのものが困難になる可能性もあるからだ。
「読解力とは何か?」ということを掘り下げながら、まずは、以下の三つの実例について考えてみて欲しい。


例えば、日本では、「AIを東大に合格させよう」という東ロボくんプロジェクトが、挫折に終わったという事例がある。発足(2011)当初は、年々、順調に成績が伸びていたが、やがて、模試の偏差値が57で頭打ちになり、Al研究の優秀な研究者たちが、どんなに多くのデータを入れ、プログラムを改良しても、三年間(2014〜16)連続で偏差値58の壁を超えられなかったのだ。
原因は、AIには、人間が五感を通して全人的な体験を重ねることで会得していく〝読解力〟がないからだ。特に、前後の文脈から推測する能力、つまりは〝想像力〟というものが、AIの場合は完全に欠如している。したがって、AIに、どれほど知識を詰め込んでも、決して東大に合格することはない。せいぜい、他の中堅程度の国公立大学や私大にしか合格することができないということが明らかになったのだ。
逆に言えば、人の場合を考えると、「人間的経験に乏しく、そのために読解力がまるでなく、本がまったく読めない人であっても、猛烈に受験勉強をしさえすれば、入試偏差値57までの実力は、なんとか身につけられる」ということでもある。それで、「国公立大学や有名私大に合格・卒業してはいても、実は本(文学/時には絵本レベルでさえ!)がまったく読めない(理解できない)」ということが、現実に起こってくるのである。下手をすると、「大学院生であるとか、博士課程を卒業しても、本が全然読めない」という人がいても、何ら不思議ではない。
一説によると、「日本人の5人に1人は、教科書がまったく読めない」という。また、「イタリアでは、成人の3割にあたる人が、新聞が読めない」のだそうだ。
こうした現実に、遅ればせながら気づいたことから、日本でも、近年、生徒に読解力を身に付けさせるための授業の研究が盛んである。
しかし、「そもそも授業で、読解力を身に付けさせるということが、果たして可能だろうか?」という根本的な疑問が、学校教育信仰に根深く致命的に冒されているがゆえに、この国では、真面目に問われることがない。
というのも、読解力不足の見直しが、「読解力がなければ、偏差値57以上には学力が伸びない」「東大に入れない」「教科書も読めない子どもたちが半数近くいて、意味もわからず授業を受けている現状がある」という教育現場での危機感(動機)から始まっているためだ。だから「読解力を身に付けさせるためのスキルアップの授業を研究しよう」という発想になる。
また、「読書の量や質と読解力は、必ずしも比例しない」という奇怪な発想が、こうした〝授業信仰(教育信仰)〟に拍車をかけている。
東ロボくんプロジェクトの責任者だった新井紀子氏の「リーディングスキル(読書技術)を鍛えよう」という発想もまた、実は、子どもの読解力を非常に限定的なものとして捉えていて、そのために、氏の努力は、むしろ、子どもの能力のAI化を進行させてしまうのではないか、という懸念がある。
これは、日本的管理教育が、生徒の自主性や創造力を阻害することと、構造的によく似た問題である。


中国では、農村戸籍の生徒が都市部の大学に進学するのが、あまりにも狭き門であるため、日本よりはるかに受験競争がシビアで激烈である。そんな中国でも、受験のための詰め込み教育、いわゆる〝応試教育〟の弊害が明らかとなり、2000年以降、国を挙げて、試験対策一辺倒の応試教育から教養と情操教育重視の読書教育(素質教育)への転換が図られている。
試験で勝つためにだけ勉強してきた若者たちには、人間として大切な教養と良識が欠如していることに、遅ればせながら気づくようになったためだ。テストには強くても、親から自立できず、我儘で人と交われず、社会性と道徳心に乏しい子どもたちが、あまりにも増えてきたのである。
かつては、中国では「読書は受験の役に立たないから時間の無駄だ」と考えられていた。ところが、現在、中国の小学校に掲げられている標語は「息を吐くように読書をしよう」というものだ。「呼吸をするように、日常、普通に自然に読書をするような人になろう」ということである。小学生は、卒業までに、少なくとも100冊の本を読むことが義務とされている。
しかし、ここにも問題がある。読書をするのは良いが、それが読書を楽しむというよりも、むしろ、「何が何でも読書しなければならない」という勢いに見えるのが、どうにも気にかかる。
応試教育の全盛期に教育を受けてきた教師たちが、果たして読書の真の喜びを知っているのか、という疑念がある。実際、教師たちの多くは、学生時代に受験勉強一辺倒だったために、読書教育の指導に欠かせない個人的な読書体験が乏しい。上から命じられるままに、子どもたちに、自分は読んだこともない本の読書を強制するようでは困るのだ。
中国の富裕層の子供たちが通う私立学校では、さらに極端な教育方針をとる学校も注目を集めている。小学校一年生から論語を暗唱させ、さらにラテン語で聖書を暗唱させるという古典教育に徹した寄宿学校が創立され、大変人気があるのである。そこでは、「意味がわからなくてもいいから、徹底して原典を原語で暗唱させる」という少々強引な教育方法がとられている。さらには、布団の畳み方から食事の後片付けまで、生活の隅々にいたるまで、教師たちが厳しく指導する。まるで、中国式のお寺か修道院の生活かと思うような寄宿学校であるが、学費は年間240万円もする。
毛沢東の文化大革命によって、孔子が徹底的に否定され、論語が焼き捨てられていた時代と比べて、隔世の観がある。当時は、論語を持っていたら命の危険があったのである。変われば変わるものだ。
「人格教育には古典教育しかない」という考えは一理あるとは思う。しかし、この場合も、「意味のわからない教典をひたすら暗唱する」という苦行を課すことが、子どもたちの教育にとって、本当に良いことなのか、という疑問が残る。


一方で、世界的に有名な教育大国(読書大国でもある)フィンランドでは、考えうる限り最善の理想的な国語教育が行われている。
すべての教育が無料の公教育というフィンランドの国語の授業では、教科書を使った通常の授業以外に、漫画でも何でも、自分の好きな本を自由に読んでいいことになっている読書時間が豊富にあるようだ。その趣旨は、「子どもたちに本を読むことが大好きになってもらいたい」ということである。
だから、興味の持てない本を無理やり強制的に読ませたり、テストに出るからと、大人の都合で実利的な動機付けを与えたりはしない。感想文を書かせたり、感想発表を義務付けたりもしない。(もちろん、通常の授業においては、そうした発表や討論の時間はある。)
大切なことは、自由に好きな本を選び、自由に読ませるということなのだ。もちろん、読み方も、完全に生徒たちの自由だ。教室の隅に座り込んで読もうと、教室の床に寝そべって読もうと、好きな格好で読んでいい。無理やり、硬い椅子に長時間行儀よく座り続けることを強いるというような残酷なことはしない。
そんなことをしたら、生徒たちは、読書の時間が嫌いになってしまう。それでは「本を大好きにさせたい」という教育目的にとって、まったく逆効果であることを、教師たちは知っている。
「なぜ、そうまでして、子どもを本好きにさせたいのか?」というと、フィンランドでは、「一冊の本を読むことは、一つの新しい体験をすることであり、特に、それが質の高い物語であれば、人生における得難い貴重な体験となることもある」と考えられているからだ。加えて、フィンランド人は、五感を通して身をもって体験する学習を重視している。それによって、教育は、身体と精神に深く浸透するのだ。
このような方針によって、フィンランドは、1人当たりの図書館の年間貸出数が世界一(21冊)となっている。
そして、OECDが、2000年から3年ごとに世界各国の15歳の子どもに実施している読解力・数学・科学・問題解決能力の到達度を測る国際統一テスト「学習到達度調査(PISA)」において、フィンランドは3回連続で総合一位となった。特に、読解力テストに関しては、常に非常に高い結果を残している。
一方で、日本は、特に、読解力テストに関して順位が低く、しかも、8位→14位→15位→8位→4位→8位と低迷している。
しかも、フィンランドには私立学校がなく、塾もない。特別な英才教育など行われていないのである。また、フィンランドの学校の授業日数は年間190日で、OECD諸国中最短日数であり、日本より40日ほど少ない。1日の授業時間も日本より短い。放課後の塾もない。2ヶ月半もある長い夏休みには、宿題も課題も一切出されない。(逆に、学期中は宿題・課題が多い。また、テストもあるが、◯✖️式ではなく、深い内容理解を問う論述式である。)
それでも、日本よりもはるかに短い授業時間で、日本よりも、ある面では優秀な人材が育っているのだ。


高度に研究された授業によって読解力を養おうという日本、読書と古典の暗唱を徹底して強制しようという中国、自由に本を読ませることで、本が好きになるように促すフィンランド。いずれの国が、真の意味で読解力を養うことができるか、自ずと明らかではないだろうか。
フィンランドでは、国民の70%が、1日平均1時間以上の読書をしているという。一方で、日本では、16歳以上の男女のうち、1ヶ月に一冊も読まない人が47.5%いる。
以下に、2016年にフィンランド大統領が国民に呼びかけた言葉を記す。
「国民全員、特に子どもたちに、もっと本を読ませて、あるいは読んであげて、彼ら自身の人生を豊かにしてあげたいと思う。読書をすることは、物事を考えて想像し、心で感じることだ。それに、読書は、そもそも楽しいものである。」
真の読書家であれば、誰でもわかることだが、単に情報を得るためでなく、本にどっぷり浸かって、実のある体験として、読書を心ゆくまで楽しむためには、たとえ読書に慣れた大人であっても、少なくとも一日に数時間の予定のない自由な空っぽの時間が必要だ。子どもであれば、なおさら、もっと余裕が必要となる。誰にも監視されていない、ぽっかりと空いた自由な一日。それが読書家にとって、大切な実り多い時間となるのだ。そういう完全に自由な時間がなければ、読書も単なる情報収集の時間になってしまい、実のある体験にはなり得ない。虚しい〝空読み(からよみ)〟に終わってしまうのだ。
ところが、残念ながら、日本の大人たちにも、子供たちにも、そのぽっかり空いた自由時間がまったくない。だから、読書に費やされた時間が、ちっとも読解力の発達に繋がらないということが、起こってくるのである。
特に、日本の親は、子どもを手放して自由にすることのできない親が多過ぎる。近年は、1歳から能力開発の塾に通わせる親も多い。能力開発教室に多額の費用を払って、かえって、我が子の読解力、想像力、自主性、創造性、共感力、そして、何よりも好奇心の発達を、完全に阻害してしまう牢獄のような環境づくりに力を尽くしているのである。
そもそも、親の世代自体が、そのように育ってきたため、この負の連鎖は、とどまるところを知らない。読解力に乏しい、好奇心や想像力や共感力の欠如した教師や親たちが、さらに読解力のない、精神的に未熟で混乱した、自立心と生きる歓びに欠ける子どもたちを、生み出している。それが、あまりに救いがない。
また、日本では、教育にとってもっとも重要な幼少期の教育を担当する幼稚園や小学校の先生のレベルが低すぎるのではないだろうか。「教える内容が初歩的だから、初歩的なレベルの教養しかない先生でも務まる」と、誰もが勘違いしているのだ。社会や父母の側からの先生に対する敬意もない。
社会の常識に従って、学校で朝から晩まで机に座っているより、教養も共感力も誠実さもない愚鈍な大人たちによるチェックの視線から逃れて、いっそのこと、毎日、蔵書の充実した図書館にこもって、好奇心の赴くままに本を手当たり次第に読んでいる方がが、子どもたちにとって、結果的に、よっぽど良い教育環境にいることになるかもしれない。