1968年のサイモン&ガーファンクルのアルバム「ブックエンド」に収められている曲で、「アメリカ」という歌がある。ポール・サイモンが作詞作曲した歌で、メインボーカルもサイモンが務めている。
3年後の1971年には、日本で独自企画としてシングル盤がリリースされ、オリコンチャートで最高15位となり、21周に渡ってチャートインした。
翌1972年には、アメリカでリリースされたベストアルバム「グレイテスト・ヒッツ」に収められると同時に、シングルとしても発売された。しかし、シングルは、ビルボード・チャートでは最高97位にとどまった。
ビリー・ジョエルの名曲「オネスティ(Honesty/1978)」と同様に、本国アメリカよりも、むしろ、日本でヒットした曲であると言える。日本的感性の琴線に触れるものがあるのだろうか。あるいは、アメリカでは、発表の時期が、まだ少し早過ぎたのかもしれない。
いずれにせよ、この「アメリカ」という曲は、「明日にかける橋(1970)」「ボクサー(1970)」「コンドルは飛んでいく(1970)」「サウンド・オブ・サイレンス(1964)」「スカボロフェア(1966)」「I am a lock(1966)」などと並んで、アメリカン・フォーク・デュオの雄サイモン&ガーファンクルを代表する名曲のひとつだと、私は思っている。

この曲が最初に発表された1968年は、アメリカにとって激動の年だった。1月には、北ベトナム軍のテト攻勢によって、サイゴンのアメリカ大使館まで占領され、アメリカ軍の圧倒的武力によって簡単に終わるはずだったベトナム戦争は、出口の見えない泥沼と化していた。4月4日には、黒人公民権運動の指導者マーティン・ルーサー・キング牧師が、テネシー州メンフィスで、遊説中に凶弾に倒れて暗殺された。6月6日には、ロバート・ケネディが、カリフォルニア州の予備選に勝利して、民主党の大統領候補としての指名が確実になった直後に、ロサンゼルスで凶弾に倒れ、兄同様に暗殺された。
また、日本で「アメリカ」がヒットした1971年には、アメリカ軍がベトナムからの撤退を完了した。アメリカの歴史上、初めての決定的な軍事的敗北だった。ドルと金の交換の停止も宣言され、戦後の世界経済を支えてきたドル金本位制が崩壊した。これが、アメリカの世界経済支配の終わりの始まりであった。
アメリカで「アメリカ」がシングルカットされた1972年には、民主党のロバート・ケネディの暗殺により、おこぼれで大統領になっていた共和党のニクソンが、民主党議員のホテルの部屋を盗聴させたことが発覚したウォーターゲート事件が起こった。ニクソンは辞任に追い込まれた。
アメリカは、ズタズタに分断され、それまで何の疑問もなく信じられていた価値観の多くが、揺らいでいた。今にも、ガラガラと崩れ落ちそうだった。当時、多くの人々が、信じるものを見失い、道に迷っていた。
しかし、ポール・サイモンが、当時の恋人のキャシーと実際に長距離バスで、ニューヨークへ向かって、大陸横断の旅をしたのは、この曲が発表される三年前、1965年のことだった。あるいは、この旅自体、彼の想像の架空の旅だったかもしれない。
実際に旅をしたかどうかはともかく、この曲が作られた1965年という年は、ジョン・F・ケネディ大統領の暗殺(1963年11月22日)後、アメリカがベトナム戦争に本格的に介入を始めた年である。
ポール・サイモンの天才的感性は、この時点で、アメリカの先行きに暗雲が垂れ込めていることを鋭く予期し、漠然とした不安と痛みを感じていたのだろう。そのことが、歌詞から読み取れる。


Let us be lovers, we'll marry our fortunes together.(「恋人になろう。互いの幸運を一つに合わせて、結婚しよう。」)
I've got some real estate here in my bag.(「僕のバッグには、ちょっとした財産が入っているんだ。」)
So we bought a pack of cigarettes and Mrs. Wagner's pies.(それで、僕たちは、タバコとミセスワグナーのパイを買った。)
And we walked off to look for America.(こうして、僕たちは、アメリカを探す旅に出かけることにしたんだ。)

Cathy, I said as we boarded a Greyhound in Pittsburgh.(「キャシー」、ピッツバーグで長距離バスに乗りこむ時に僕は言った。)
Michigan seems like a dream to me now.(「ミシガンのことは、今じゃ、夢みたいだね。」)
It took me four days to hitchhike from Saginaw.(サギノーから、四日間かけて、僕はヒッチハイクした。)
I've gone to look for America.(僕は、アメリカを探しに行ったんだ。)

Laughing on the bus, playing games with the faces.(バスの中の笑い声、ゲームに興じる人々。)
She said the man in the gabardine suit was a spy.(「ギャバジンスーツの男はスパイよ」と彼女は言った。)
I said, be careful, his bowtie is really a camera.(「気をつけて、彼の蝶ネクタイは本当にカメラだ」と僕は言った。)

Toss me a cigarette, I think there's one in my raincoat.(「タバコを一本、とってくれる、僕のレインコートに入ってるはずだ。」)
We smoked the last one an hour ago.(「私たち、一時間前に、最後の一本を吸っちゃったわよ。」)
So I looked at the scenery.(それで、僕は、窓の外の風景を眺めていた。)
She read her magazine.(彼女は雑誌を読んでいた。)
And the moon rose over an open field.(広い野原に月がのぼっていた。)

Cathy, I'm lost, I said though I knew she was sleeping.(「キャシー、僕は道に迷ってしまったみたいだ」と僕は言った。彼女が寝ているのを知っていたけど。)
And I'm empty and aching and I don't know why.(「心が空っぽで、胸が痛くて、でも、それがなぜなのか、わからないんだ。」)
Counting the cars on the New Jersey Turnpike.(ニュージャージー高速道路で、通り過ぎる車を数えながら考えた。)
They've all come to look for America.(彼らはみんな、アメリカを探しに来たんだ。)
All come to look for America.(みんな、アメリカを探しにきたんだ。)
All come to look for America.(みんな、アメリカを探しに来たんだ。)


「アメリカは、どこにあるの?」という問いかけは、「僕たちが幸せに生きていける国は、一体どこにある?」という意味にも受け取れる。さらに言えば、「僕たちは、これから、どこで、どうやって生きていけばいいんだろうか?」と途方にくれている当時の若者たちの心の状態を暗示しているようにも思える。
こうした不安と喪失感は、1960年代のアメリカの若者文化に共通するテーマの一つだ。
キングストン・トリオ(1961)とピーター、ポール&マリー(1962)の代表曲「花はどこへ行った(Where have all the flowers gone?)」や、ボブ・ディランの1963年の名曲「風に吹かれて(Browin’ in the wind)」などの反戦歌(?)が、60年代前半の若者文化(カウンター・カルチャー)を代表する名曲だとすれば、このルート66を旅する若者のロードムービーを連想させる「アメリカ」は、60年代後半のアメリカの若者の「時代に希望を持てない」という強い喪失感と無力感を、繊細に表現した稀有の曲だと思う。
サイモン&ガーファンクルの曲の中では、もっとも同時代性を感じさせる曲の一つである。

それでも、60年代のアメリカは、今よりずっと明るく健康的で元気だった。そして、70年代、80年代までは、まだマシだった。それからさらに30年経って、今のアメリカはどうだ。状況は、さらに絶望的になっている。
保守と革新、富裕層と貧困層、社会の分断が激しさを増し、決定的なものとなったというだけのことではない。
全体として、かつてのアメリカに比べたら、まるで空虚な廃墟のようだ。街の外見は何も変わらない。ただ、時を経て、埃っぽく薄汚れた街になり、灰色にくすんだ冷たい空気に満たされ、打ち捨てられたような荒廃した印象が強くなっただけのことだ。
人の表情は、なぜか疑心暗鬼で薄情で、神経症的で余裕のない、どこか飢えたような顔つきをしている。昔の、朗らかで楽観的で、余裕のある自信に満ちた表情の人々は、どこへ行ったのだろう。
通りには白人や黒人のホームレスがあふれ、街で働いているのは、英語の下手な移民ばかり。彼らは、皆、金儲けで忙しい。一方で、たまに見かけるワーキングクラスの白人の若い女たちの多くは、全身にタトゥーを入れたり、顔中にピアスをぶら下げている。彼らの多くは、悲観主義者の憂鬱な雰囲気を漂わせている。
昔、街で楽しそうに働いていたタトゥーもピアスもしていない健康的で明朗快活な生粋のアメリカ人たちは、どこへ行った?

みんな、何かを探している。けれども、それが何かは、誰も知らない。どこを探したら良いのかも、わからない。
みんな、道に迷って、途方にくれている。

ある意味、この曲の後日譚が、1977年に発表されたイーグルスの名曲「ホテル・カリフォルニア」だと考えることもできるのではないだろうか。
例えば、次のような詞がある。
So I called up the Captain, please bring me my wine.
(それで僕は給仕長を呼んで、ワイン〔醸造酒〕を頼んだ。)
He said, we haven’t had that spirit here since 1969.
(彼は言った。「当店では、その銘柄のスピリッツ〔蒸留酒〕は、1969年以来、置いてません。」)
「ホテル・カリフォルニア」の歌詞の中でも、実に意味深長な響きのある特に有名なくだりである。一見、まるで噛み合っていないように見える会話の裏に、作詞者ドン・ヘンリーが意図した真の意味がある。この言葉の裏に隠されている真の意味は、「私たちは、1969年以降、そうした精神は持ち合わせていない(そのような精神は、1969年以来、失われてしまっている)」ということだ。
ここで、「なぜ、1968年ではなく、1969年なのか?」というのは、多くの人が抱く疑問の一つではある。でも、私の知る限り、この謎「1969年問題」に関して、納得のいく説明が出来ている人はいない。
確かに、1969年は、ヒッピー文化の頂点とされる愛と平和と反戦の祭典として、伝説的なウッドストック野外コンサートが、ニューヨーク郊外で開催された年ではある。そして、このコンサートフェスティバルを境に、ロックの商業化が目立つようになったと言われる。
そういう意味では、「1969年以降には、そのような本物のロック・スピリットは失われてしまった」という解釈で、すんなり理解すべきなのかもしれない。自分自身と世界を変えたいという強烈な変革のエネルギーが、70年代には枯渇してしまっていたということだ。

事実、翌1970年には、モントレー(1967/サンフランシスコ近郊)とウッドストックという二つの歴史的ロックフェスティバルで喝采を浴び、ヒッピーたちのシンボル的歌い手となっていたジャニス・ジョプリンが、ヘロインの過剰摂取によって、27歳の若さでロサンゼルスで急死している(10月4日)。
そして、同じくモントレー、ウッドストックで超絶技巧の演奏をした伝説的天才ギタリストのジミ・ヘンドリックスも、同年、1970年9月18日(ジャニスの死のわずか半月前)に、同じ27才で、お酒と睡眠薬を併用したために、ロンドンで死亡している。
さらに、その前年、1969年7月3日には、ローリング・ストーンズのリーダーだったブライアン・ジョーンズが、自宅のプールの中で、お酒と薬物の過剰摂取によって、やはり27歳で亡くなっている。
彼ら3人に加えて、1971年7月3日(ブライアンの死と同じ日)に、ヘロインの過剰摂取で亡くなったドアーズのジム・モリソンを含めて、1969〜1971年にかけて、27歳で他界したロックスターたち4人は、いわゆる「27クラブ(*)」の一員である。

確かに、1969年は、一つの時代の終わりだったのかもしれない。
And she said, we are all just prisoners here, of our own device.
(そして、彼女は言った。「私たちはみんな、自分自身の心が創り出した牢獄の囚人なのよ。」)
They stab it with their steely knives. But they just can’t kill the beast.
(彼らは、鋼鉄のナイフで突き刺すが、その獣をどうしても殺すことができない。/なぜなら、その獣が、自分自身の自我の一部だからだ。)
You can check out anytime you like, but you can never leave.
(あなたは、いつでも好きな時に出ていくことができる。けれども、あなたは決してここを去ることができない。/なぜなら、自分自身という牢獄から逃れることは、誰にもできないからだ。)
上記の部分は、自我という牢獄に囚われて、逃れることができない人々を描いているという点で、極めて、現代的な詞だと感じられる。
ジャニスやジミヘンやブライアンやジム・モリソンが、自我という牢獄から脱出しようとして、もがいた末に討死したように、21世紀の私たちもまた、今、まさに、自我に囚われて、不自由に生きているのではないだろうか。
私たちは、すべてを諦めて手放すことができない。そして、自分の力の及ばないこととして、すべてを天に委ねるということを知らない。私たちの心を苦しめているのは、実は、私たち自身の強情さと意固地さと不信である。
ポール・サイモンは、1965年の時点で「アメリカ」を書いた時、すでに、そうした暗い時代の到来の予兆を、どこかで感じていたのかもしれない。


運命の神秘に身を委ねることができた時、私たちは神の奇跡を知ることができる。それは、いつの時代においても真実である。


*「27クラブ」→その他にも、1994年4月5日に、自宅でショットガンで頭を撃ち抜いたニルヴァーナのカート・コバーン、2011年7月23日に、アルコール中毒で自宅で死亡したエイミー・ワインハウスなどがいる。

人間の身体的な活力のピークを維持できるのは、ギリギリ25歳までと言われている。その後は、どうしても、身体の力は衰えてくる。20代前半までのようには、身体の無理がきかなくなるのだ。それと同時に、精神活動のエネルギーも、それまでのように無尽蔵の集中力を維持することは困難になってくる。
だから、25歳以降は、人は精神面では、豊かに生きるための方向性を定めて、そのための知恵を養いながら、肉体的には適度に節制して生きていかなければならない。
ところが、ロックスターは、そのように「大人になる」ことを、どこかで拒絶している傾向があり、25歳を超えても、肉体的にも精神的にも幼く、自制が効かないまま、無茶をし続けてしまう。
しかし、それは、人間という生命体の本来の自然な姿ではない。それ故に、彼らの魂は、内側から、彼らの意識に向かって警鐘を鳴らし続ける。その警鐘は、本人には、意味のわからない苛立ちや不安や焦燥感や激しいフラストレーションとして感じられるかもしれない。その警告の意味を的確に理解できず、警告を無視し続ける者も多い。しかし、そうすると、強いストレスのために心は酷く病んでしまう。そして、その苦しみから逃れようとして、ますますアルコールやドラックに過度に依存するようになる。
やがて、ある時点で、肉体は限界を超えてしまうのだ。その死の臨界点が、おそらく27歳という年齢なのだろう。
例えば、ジョン・レノンは、1966年11月、26歳の時に、オノ・ヨーコと出会った。そして、1968年5月から同棲を始める。ジョンは27歳だった。その時期に、彼の中で、生きる方向性が定まったのだと思う。それで、ジョンは「27クラブ」には加わらなかった。もしも、彼が加わっていたら、ブライアンに先駆けて、1968年に亡くなっていただろう。
ジョン・レノンは、1980年、40歳の時に、ファンだった男に銃で撃たれ、殺されることになる。男は、ジョンの生きる方向性が気に食わなかったのだ。