基地地主の方と話をする機会があった。先祖代々の墓が、米軍基地の中にあるという。それによって、毎年、何がしかの基地使用料が入ってくる。何億、何十億も入ってくる人もいれば、数千万、数百万という人もいる。沖縄県全体では、毎年、総額1800億円の基地使用料が、国税から賄われている。すべて非課税である。宝クジと同様に、所得税はかからない。言ってみれば、「毎年、高額の宝クジに当たることが、確定的に保証されているようなもの」だ。
「ご先祖様の残してくれた土地のお陰だよ」と彼は言う。実は、沖縄では、日本で唯一、GHQによる農地改革が実施されなかった。米軍の直接施政下にあったためだ。したがって、戦前からの大土地所有制が解体されずに、小作人に平等に分配されることなく、大地主のもとに広大な土地の所有権が残ったのだ。それが、彼らの言う「ご先祖様のお陰」である。
また、基地使用料も、最初は微々たるものだった。それで、土地を二束三文で手放す者も多かった。年間使用量が、コーラ一本分だったのが、やがて、ウイスキー一本分に増えた。その後も、基地反対闘争が高まる中で、年々、使用料は上がっていき、現在の金額となった。
戦後の混乱期に、所有者不明となっていた土地を勝手に登記したり、戦争で親を亡くした幼い所有者から、他人や親戚が騙し取った土地も多い。最近、東京では、「地面師」による詐欺行為が話題となっているが、そんなことは、沖縄では昔から日常茶飯事であった。知恵の足りないお人好しは、すぐ騙されてハンを押してしまい、身ぐるみ剥がれる。そして、たとえ先祖代々の土地でなくとも、不当に騙し取った側の連中にも、当然、平等に使用料は払われる。
祖父の代から、ほとんど働いたことがない、という基地地主一族も数多い。相続税を納めるのも、基地地主であれば、使用料が入ってくるのだから、わけもないことだ。こうして、親の土地資産は、何の苦労も痛みも欠損もなく、子孫へと受け継がれる。
「土地こそが富と幸福の源だ」と彼は言う。


トルストイの民話に、「人にはどれほどの土地がいるか」という物語がある。
日の出から日没まで、一日で歩き回ることができたすべての領域を、その土地の広さにかかわらず、1000ルーブル(約100万円)で売るという遊牧民の村に、噂を聞いて一人の男がやってくる。
男は、その村で歓迎を受けて一泊し、翌明朝から自分の土地の範囲を決めるために出発した。そして、目印の旗を東西南北の境界に立てるため、ひたすら歩くのだ。日没までには必ず出発点に戻らなければならない。それが、土地所有権確定の唯一の条件だった。
男は出来るだけ広い土地を手に入れるために、長い距離を歩き続けた。そして、あまりにも遠くまで来てしまったことに気づく。すでに日は傾いている。帰りは懸命に急いだが、ゴールは遠かった。休みもとらずに歩き続けたせいで、身体はすでに疲労困憊していた。夕暮れがどんどん近づいてくるのに、出発点は一向に見えてこない。焦っても、疲れ切った足は思うように進まない。何度も足を取られて転んでは立ち上がり、傷だらけになって血を流しながら歩き続けた。焦燥と疲労と酸欠のため、頭が朦朧としてくる。身体にまったく力が入らない。「欲をかきすぎて、馬鹿なことをしてしまった」と、一度は諦めかけたが、それでも歯を食いしばって、最後の力を振り絞り、出発点に向かって走り続けた。空気が薄い。目も霞んできた。心臓が口から飛び出しそうだ。またしても、絶望が男の心を支配する。「俺は欲をかいて、自分の身を滅ぼしてしまったんだ。」
日没直前になって、やっと出発点が遠くに見えてきた。薄闇の中、村長の姿もぼんやりと見える。男は、心臓も張り裂けんばかりに、最後の力を振り絞って、よろめくように駆け続けた。そして、日没の瞬間に、間一髪で、出発点にバッタリと倒れ込んだ。
村長は「見事に土地を手に入れなさった」と、笑いながら駆け寄った。ところが、男は、口からダラダラと血を流しながら、すでに死んでいた。
そして、悪魔の高笑いが響き渡った。


男は、特別に欲の深い男というわけでもなかった。ごく普通の男が、運悪く〝魔〟にはまっただけのことだ。
土地や財産を手に入れようとして〝魔〟にはまる。同じようなことは、現在の世界においても、数限りなく起こっている。
沖縄の基地地主たちにしても、東京の地面師たちにしてもそうかもしれない。そうでなくとも、故人の残した土地や資産の奪い合いで、親兄弟が骨肉の争いとなり、裁判沙汰となることも多い。土地や財産、お金が、家族をバラバラに引き裂くのだ。
だが、そもそも、この土地や資産は、一体誰のものなのか。
イギリスには「アダムが耕し、イブが紡いだ時、誰が貴族(地主/資産家)だったか?」という有名な言葉がある。「本来、土地は誰のものでもない」という考え方だ。先祖から譲り受けた土地や資産と言っても、そもそも、その土地や資産は、誰のものでもないのではないか、ということだ。
実際、その資産が、かつて、どうやって生み出されたものか、わかったものではない。奴隷貿易で平和に暮らしていた人々を拉致し、奴隷として売りさばいて築いた資産かもしれないし、たまたま金鉱や油田で一発当てたのかもしれない。あるいは、不当な高利貸しや詐欺的な登記で、人を泣かせて土地を手に入れたかもしれない。あるいは、牢獄のような精神病院や障害者施設や養老院に薬漬けにした患者を監禁しておいて儲けたお金かもしれない。それとも、戦争中に非人道的な大量殺戮兵器を売りさばいて儲けた死の商人かもしれない。
そのようにして人を苦しめて富を築いた資産家の子孫も、「ご先祖様のお陰」を享受している。このことに、疑問や羞恥や嫌悪を感じることはないのか。
一方で、フランス革命では、私有財産制の保障が謳われた。私としても、所有の概念そのものを否定する原始共産主義に、それほど魅力を感じるわけではない。
格差は、いつの世にも、いつの時代にもある。人生は不公平なものだ。フェアな社会など、どこにもありはしない。


ただ、私は、このように感じるのだ。本来、持つべきでない土地や資産は、いずれ、運命の力によって奪い去られる。さもなければ、相応の代償を払わされることになる、と。
現在、サウジアラビアの王族は、原油によって巨万の富を得ている。今日、彼らは、その富によって繁栄している。しかし、それはいつまで続くだろうか。
中国には「福禄寿」交換の法則という考え方がある。「幸福」と「財産」と「健康・寿命」と、いずれかを、人は自分の意思で選ぶのだという。この内、一つを選んだら、少なくとも一つは失う。
例えば、幸福とお金は次元の異なるものだ。億万長者だからといって幸福であるとは限らないし、一文無しでも不幸だとは限らない。「手持ちの現金が二千万円しかなくなった」と悲観して、自己所有のマンションから飛び降り自殺する人もいれば、毎日、「今日のご飯代もままならない」と言いながら、とても幸せに暮らしている人たちもいる。お金に苦労しているから不幸であるとは限らないのだ。
この、本来、全く次元の異なるお金と幸福を混同してしまうことで、今日、多くの人が勘違いしてしまっている。「幸せは、お金で買えるものだ」と。
この世界は、本来、不平等なものだ。生まれながらに、持てる者と持たざる者がおり、一生働きづめに働いても、億万長者が一秒で稼ぐ利子すら稼げない人たちもいる。しかし、だからと言って、彼ら貧しい人々が、不幸であるとは限らない。
それに、もっとも予測が立てられないのは健康と寿命だ。この間まで、とても元気だった人が、突然、不治の病を宣告され、急死することもある。
この場合、福禄寿交換の法則によれば、「お金を選んだことで、幸福や寿命を削られた」ということになるようだ。沖縄の基地地主に、糖尿病や精神病に罹患する人が多く、急死する人も多いのも、そういうことなのかもしれない。アメリカのケネディ家の悲劇も、こうした観点から考えてみると興味深い。


また、沖縄には、「先祖の要求」という考え方がある。せっかく子孫に残した財産を、子孫が世のため人のために使わず、強欲に駆られて、遺産争いなどしていると、「思いを踏みにじられたことを怒る〝先祖の要求〟によって、子孫が幸福や財産や健康を取り上げられる」ことがあるという考え方だ。そして、財産が取り上げられない場合には、実際、身近な人の健康や命が、代わりに取り上げられることも多い。
これは決して怨霊による〝祟り〟ではない。先祖は子孫に祟りはしない。むしろ、仏教の「因果応報の報い」という考えに近い。、「自分の生き方が何をもたらしているのか、その意味を知りなさい」という魂(集合的無意識)からの警鐘と言ってもいいだろう。
例えば、一族の中に、故なく誰からも見捨てられ、孤独に死んだ人がいて、死後も、一族の中で誰一人省みることのない場合、その人を孤独死させた一族の因縁は、一族の中で生き続けていると考えられる。それで、同じ悲劇が、何度でも繰り返されることになる。もしも、それを〝復讐〟と言うのなら、人は自らの内なる魂によって復讐されるということだ。
中東地域にもし、原油が産出しなかったなら、中東戦争も起こらなかったし、イスラム原理主義も、アルカイダも、ISIS(イスラム国)も生まれなかったろう。彼らは、分不相応に石油という富を得たことによって、そして、その富を独り占めしたことによって、むしろ、不幸になったのだ。
ビアフラ人は、他の部族を奴隷として売ることで、一時は豊かになったが、やがて、その報いを受け、想像を絶する飢餓に苦しむことになった。
このような因果応報の悲劇の例は、世界史上に、数限りなく見受けられる。
つまり、土地やお金(富)は、こうした因縁を次世代へと受け継がせる媒介としての力があるのだ。
「お金に良いお金も悪いお金もあるものか!」と人は思うかもしれないが、現実はそうではない。


ジョセフ・ケネディは、世界恐慌の時、まさにアメリカ中がのたうちまわっていた時期に、株式相場を逆手にとって巨万の富を築いた。他の多くの人々の没落と破滅を糧に、富を積み上げたのだ。そして、その報いは、彼の子孫が受けることとなった。
富を得たジョセフの次の目標は、息子を大統領にすることだった。
ところが、長男ジョセフJrは、第二次大戦中に29歳で飛行機事故で戦死し、妻子はいない。さらに次男ジョンは大統領就任後46歳で、三男ロバートは大統領予備選の最中42歳で、共に暗殺された。
4人の男子の内、まともに天寿を全うしたのは末っ子のエドワードだけだった。しかし、そのエドワードも、31歳の時には飛行機事故で重傷を負ったが九死に一生を得た。さらに36歳の時、薬物使用と酒酔い運転で川に転落し、同乗していた愛人の女性秘書を溺死させる事故を起こし、しかもスキャンダルを恐れて警察に通報もせずに現場から逃走するという破廉恥な事件を起こして、大統領への道を事実上閉ざされた。
5人の女子の内、ジョンのすぐ下の妹である長女ローズマリーは、純粋で素晴らしい女性だったが、父親に反抗的だったことから、ロボトミー手術を強制されて人格が破壊され、23歳で廃人となり、家族から完全に見捨てられて、隔離された施設で一生を終えた。
ローズマリーのすぐ下の次女のキャスリーンは、24歳の時、プロテスタントの男性と結婚したために、カトリックの親兄弟から絶縁された。さらに、結婚4ヶ月後に夫は戦死し、自身も、4年後、28歳で家族との和解のために乗った旅客機の墜落事故で死亡。葬儀に参列した家族は父親だけだった。
結局、家族に祝福されて結婚し、子供をもうけた女子は、三女のユーニス・メアリーと五女のジーン・アンだけだ。
ユーニスは三男一女に恵まれた。長女の元夫はアーノルド・シュワルツェネッガーだ。
四女のパトリシアは俳優と結婚したが、マフィアとの関係を取りざたされ、一族から疎まれた上、離婚。俳優となった息子がいる。五女のジーン・アンは二男一女に恵まれた。
また、暗殺されたジョンの唯一の息子長男ジョンJrは自身の操縦する自家用機の事故により、38歳で妻とともに死亡した。子どもはいない。その妹で、ジョン・F・ケネディの唯一の忘れ形見が、日本に大使として赴任したキャロラインだ。
さらに、暗殺された三男ロバートには、11人の子どもがいたが、三男のデヴィッドは麻薬中毒で20代で死亡。四男のマイケルは29歳でスキー事故で死亡。また、次男ロバートJrの別居中の妻メアリーは、52歳で首を吊って自殺した。長男のジョセフも、交通事故を起こし、同乗者を障害者にしている。


結局、お金についても土地についても、浄化されていない禍々しい土地やお金というのは、確かにあるのだ。それらを、どうしたら浄化できるのだろうか。いかにして、破滅をもたらす先祖の要求から免れることができるのだろうか。
そもそも、土地を汚し、お金を汚し、因縁を背負うことになったのも、その根本原因は人間の「業」である。そして、すべての業は、「我欲」から生まれる。
このように考えていくと、やはり、「金は天下のまわりもの」といい、「土地は誰のものでもない」という考えは、根本的には正しいのかもしれない。
そして、こうしたことを、しっかりわきまえている人を、「品位がある」とか「教養がある」とか「有徳の士である」とか「真の知恵者である」と、洋の東西を問わず、昔から人は評してきたのではないだろうか。
財産があるからと、自分が他人より一段上の人間であるかのように振る舞うのは、下品で教養のない人間の低脳で下劣な態度である。そして、そのような下衆な人間たちがはびこる社会は、ろくなものではない。だから、早晩、滅びることになる。
この不平等で残酷な社会で、サバイバルしていくためには、人は狡さとしたたかさを身につけなければならない。なりふり構わぬ自己保身と飽くなき野望に生きるのも、人それぞれの自由な選択の内だとは思う。けれども、優しさと品格と真のプライドと深い教養を身に付けなければ、この社会で幸福に生きる資格はない。また、「土地と資産は、本来、誰のものでもないのだ」という真理を、心の深いところで承知していない人は、決して幸福にはなり得ない。必ず、魂の復讐にあうからだ。
日本もまた、そうした意味では、今、正念場に立たされていると言えるのではないだろうか。この国をどこへ導くのか、私たち一人一人の生き方が、問われている。