沖縄には、他の地域にはほとんど残っていない土着の信仰が息づいています。この信仰における祈りを「御願(うがん)」と言います。今回は、この「御願(うがん)」について、その根本にある考え方を、少し説明したいと思います。
昨今は、沖縄県内でも、伝統的な信仰を否定する人、関心を持たない人が多くなっていて、台所に「ひぬかん(火の神)」を置かない家も増えています。また、「ひぬかん(火の神)」を置いてはいても、線香も立てず、祈り方も知らない人や、祈ってはいても、実は祈りの意味を誤解している人も多いと思うのです。
たいていは「ユタに頼んで拝んでもらったから大丈夫」と、あまりにも簡単に考えて、「お金を出せばそれで済む」と、勘違いしているのです。そんなことで「御願(うがん)」が通るわけがありません。「何度ユタに頼んでも、何も効果がない」ので、「あっちのユタ、こっちのユタと徘徊して、財産を食いつぶすだけ」ということになります。
沖縄の信仰の本質は、「お金を出せば済む」というような底の浅いものではありません。また、「お金持ちにさせてください」とか「受験に受からせてください」というような現金な拝みが簡単に通るほど、都合の良い現世利益的なものでもありません。
そこを非常に安易に考えて、結果的に神仏の冒涜をしている人たちが、あまりにも多いと感じます。

そのため、たとえ、「ひぬかん(火の神)」に毎日黒線香を立てて拝み、「やしきうがみ(屋敷御願)」も毎年欠かさなかったとしても、次から次へと、いろいろな障りが出てきて、いわゆる、慢性的な「うがんぶすく(御願不足)」の状態に陥っている個人や家族も多いのではないでしょうか。
ところが、家族の病や災厄や不幸など、障りが生じている人たちの多くが、自分たちがいかに「御願(うがん)」の本質から遠く離れているか、そのことにまったく気づいていないのです。
多くの人が、「あなたはうがんぶすく(御願不足)」と言われても、 おそらく、何も意味がわからないのです。「そもそも『御願(うがん)』って何?」と疑問に思っている人が大半ではないか、という気もします。
そこで、今回は、「火の神(ひぬかん)」とか沖縄黒線香に関する具体的な「御願(うがん)」の祈り方ではなく、根本的な「御願(うがん)」の意味について、記してみたいと思うのです。
つまり、「『御願(うがん)』とは、本質的に何をすることなのか?」、そして、「なぜ、『御願(うがん)』が必要なのか?」という2つの疑問の答えを掘り下げてみよう、ということです。


まずは、沖縄の御願(うがん)の信仰対象である「先祖(うやふぁーふじ)」について考えてみます。
先祖(うやふぁーふじ)とは、一般に一族の先祖の霊を指します。特に、霊格の高い祖先の霊を、一族の守護霊(高祖高宗)として崇め奉ることもあります。
しかし、先祖の中には、さまざまな不運・不幸によって無念の中で亡くなった方もおられます。このような一族の中の個人が被った悲劇について、それはたまたま偶然に起こったことではなく、その不運・不幸を招く原因となった問題(因縁)は、一族の内に連綿と受け継がれていくものだ、と沖縄では一般に考えられています。
例えば、誰からも見捨てられて「もう誰も信じられない!」と慟哭しながら、寂しく亡くなった方が、先祖の中にいるとしたら、その孤独と苦悶をもたらした原因は、実は、彼を見捨てた一族の中にある、と考えるのです。他者の痛みを顧みなかった、一族の人々の自己中心的で冷たい性情は、一過性のものとは考えられず、ですから、同じような苦しみを味わう人は、一人ではすみません。
それぞれの地域や一族や家族には、特有の偏った考え方や思い込みが、その共同体特有の文化や習慣として、多かれ少なかれ存在しているものです。その家族や一族や地域の中では、いかにも「これは当然の考え方」であり「どこでも通じる常識」と考えられていることが、実は、そうではないのです。真実は、その共同体内でだけ通用する特殊な偏った考え方であり、頑固な思い込みであり、因習であるということが多いのです。
こうした共同体固有の偏った〝常識感覚〟が、個人を抑圧したり、排斥したり、悲劇を引き起こすことは、よくあることです。ところが、そうした一族内の不幸や悲劇を目の当たりにしても、他人事として無視し、古い因習や考え方の問題点を放置していると、同じ悲劇が何度でも繰り返されることになります。

このように、一族に特有の問題因子(因縁)が、子孫に引き継がれていき、それによって、繰り返し、同種の不幸や災難を招くことを、「ちぢうい(血筋継ぎ)」と言います。
因縁を受け継いだ当人は、自分が何を受け継いだのか、理解してはいません。この受け継ぎは、意識的なものではなく、無意識に親から子へ受け渡され、受け取られるものだからです。
一般に、意識に比べ、無意識の世界は、はるかに広大で深遠なものと考えられています。そのため、意識的に受け渡される情報量と比べて、無意識に受け渡される情報量は、膨大なものになります。
そうした情報の中には、当人さえ気づいていない先祖から受け継いだ性質や振る舞い方なども含まれるでしょう。
人は皆、自分の人生を悔いなく全うしようと、この現世で懸命に生きていくのですが、それでも、一生をかけても解決しきれなかった問題は、将来の課題として、子孫へと手渡されることになるのです。
しかも、下の代にいくにつれて、無意識の抱える問題は、繰り返される悲劇の累積・蓄積によって、ますます複雑で深刻なものになり、強烈で解き難い難問に変質していくのです。
こうして、無意識から無意識へと、封じ込められたまま受け継がれていく、極めて深い実存的な苦悩が、本人には理解できない飢えや葛藤や虚無感を心の内に生じさせ、それが理由のわからない衝動や情動となって意識の表面へと噴き出し、思ってもみなかった理不尽な行動へと駆り立てた結果、人の運命を狂わせるのです。

この無意識から噴き上がる、一見不合理な原因のわからない衝動・情動を、心理学的には「祖先の要求」とか「氏の要求」と呼びます。
この祖先からの要求によって引き起こされる不幸は、特に内向的感覚が過敏で、心理的災厄を受けやすい子に、目に見える形で現れることが多いのです。こうした先天的な霊的過敏さを授かって生まれた子は、幼い頃から「ちぢだかい(血筋高い)」「たかうまり(高生まれ)」「さーだかーうまり」「せじだかい(霊威高い)」などと言われます。
そして、感受性の強い「生まれ高い子」は、一族の因縁を背負って、多くの災厄に見舞われますが、それによって、深い学びを得て、一族に受け継がれる「祖先の要求(先祖からの課題)」を理解して、その解消に努める(ちぢをただす/血筋を正す)役割がある、と考えられています。
(中には、先祖の中から、霊格の高い霊が、特別に本人の守護霊として降りてきて、この祖先霊との間に縁を結び、ユタとなる(道を開ける)方もいます。このように、守護霊が降りてくることを、「ちぢうり(血筋降り)」と言いますが、こちらは一般人には関係のない話です。)

さて、「祖先の要求」とは言っても、当のご先祖さま本人は既に亡くなっているわけですから、その要求(実存的苦悩に基づく情動)は、実は自分自身の内に、あるいは現在存命の一族の集合的無意識の中にあるのです。
この集合的無意識にひそむ「祖先の要求」によって、一族にさまざまな障りが起こってくることがあるのですが、特に、その影響を直接的に受けるのは、長女、長男、そして、「さーだかーうまり」の子である、と言われます。
この内、長女、長男が、病気・災厄を被ったり、結婚しなかったり、結婚しても跡継ぎが生まれなかったり、定職につかなかったりすることを、「ちゃっちうしくみ(嫡子押込)」と言い、代表的な「ちぢうい(血筋継ぎ)」による障りのひとつとされます。「代々、長男が立たない」という言い方をすることもあります。
これは、一族にとって、深刻な事態です。そこで、こうした障り(ちぢうい/血筋継ぎ)を防ぐために、自分自身の内に受け継がれている一族共有の問題(因縁)の解決に取り組むことを「ちぢただし(血筋正し)」と言います。
「ちぢただし(血筋正し)」は、先祖の霊の苦しみや霊の引き起こす問題を解決することではありません。一般にそう言われていますし、確かに、そのように説明された方がしっくりくることも多いのですが、一方では、そうした説明によって、大変な勘違いをしてしまう場合があります。「そうか、これは先祖の霊が悪さをしているのであって、自分に責のある問題ではないのだ」と、間違った受け取り方をしてしまう人が、本当に多いのです。
先祖の霊が、子孫を苦しめたいはずはありません。問題は、先祖ではなく、あなた自身の内にあるのです。ですから、「ちぢをただす(血筋を正す)」とは、先祖から受け継いで、自分の無意識の中にある「自分自身の問題」を解決する、ということなのです。
「御願(うがん)」にも、「屋敷御願(やしきうがん)」はじめ、さまざまな種類があります。けれども、この「ちぢただし(血筋正し)」のために行われる祈りが、もっとも重要な「御願(うがん)」なのです。

繰り返しますが、「祖先の要求」は、それを意識するしないに関わらず、自分の無意識の内に在ります。その内なる要請が感じられることを「むぬしらせ(物知らせ)」と言います。一般的には、問題が実際に起こる以前に、その兆候として現れ、それによって問題に気づかされる、何らかの感覚的・物理的現象を言います。
「むぬしらせ(物知らせ)」として起こる胸騒ぎや物理的現象は、日常、ただの偶然と、見過ごされがちですが、実は深い意味があります。それが、何を意味するのか、理解することが大切です。
しかし、「むぬしらせ(物知らせ)」があっても、何を意味するのか理解できず、事態を放置しておくと、次第に無意識にひそむフラストレーション(欲求不満)が高まってきます。それとともに、「祖先の要求」も強いものになります。
そして、この「祖先の要求」の圧迫が、非常に激しいものになると、意識が無意識の衝動を制御することができなくなります。そして、ふらふらと、衝動のままに、動き回ります。このような状態を「かみだーり(神障り)」と言います。女性の場合は、更年期との関わりも深いと思われます。身体の変調から、精神も不安定になりやすい時期だからです。
また、 何らかの要因から、日常的に意識の制御が弱くなってしまい、無意識の衝動に突き動かされ続けている状態を「まぶいおとし(魂落とし)」と言います。「この子は、魂(まぶい)をどこかに落としてきている」という表現で、心配な状態にある子どもについて、話されることもあります。
私見ですが、最近は、予防接種の打ち過ぎで、知らず知らず脳にダメージが蓄積されていることから、こうした衝動の引き金となる霊的波動を受けやすい(脳に耐性のない)子が増えているのではないか、という気もします。

しかし、もし「祖先の要求」による問題症状が、子どもに現れたとしても、それを「これは子供の問題で、私の問題じゃない」と親が思うのは、まったく的はずれの考え方です。
なぜなら、本来、受け止めて理解すべきだった「祖先の要求」を、長年、放置してきたのは、他ならぬ親自身だからです。そして、結果として、自分の解決できなかった問題を、意図せずして、子どもに背負わせることになったのです。
ですから、子どもに症状が現れた場合、それは親にとっては、「自分自身の内なる問題を見つめ、解決しなさい」という先祖からのメッセージであり、つまりは「むぬしらせ(物知らせ)」であるということになります。
この知らせを無視し続けるなら、今度は子どもの命が取られるかもしれません。これは、別に先祖の霊によって子孫の命が取られるということではありません。先祖もまた、自分の人生を必死に生きただけです。それでも、なお、生涯かけて解ききれなかった課題が、子孫に託されているのです。
その課題に取り組まなかったら、先祖の身に起こった不幸が、繰り返されてしまうのです。それも、さらに先鋭化したかたちで顕在化するのが普通です。こうして、またしても、命が失われるかもしれないのです。
そうならないように、家族の命を守ってくださいますように、必死でご先祖様の護りにすがり、祈るしかありません。内なる無意識に潜む問題(先祖からの課題)に気づくのは、それだけ難しいのです。気づけたとしても、その問題を解消するのは、さらに難しいのです。

とは言え、「祖先の要求」は、悪いものばかりではありません。むしろ、「先祖からの贈り物」と言って良い、素晴らしいものが多いのが事実です。
かつて、縄文時代においては、人間の寿命は30歳ぐらいだった、と言われます。それが、今日では、50、60歳でも、とても若々しく、いつまでも溌剌と生活している人が、いっぱいいます。
しかし、人間のDNA自体は、縄文時代も今も、ほとんど変わりはありません。変わったのは、祖先から受け継がれ、日本人の社会と個人の無意識界に蓄積されてきた遺産、すなわち文化と知識と知恵の厚みです。
これらの膨大な情報が、途中で途絶えたり、霧散してしまうことなく、親から子へと、順調につつがなく受け渡されて、伝統を保ってきた稀有の国が、この日本という国なのです。
この国の安定した精神と基調文化が、平和で秩序立っていながら、柔軟で変化に寛容な社会の基盤となっています。そして、そうした豊かな遺産の恩恵を受けて、現代日本人の多くは、世界の中でも最も安心できる、至れり尽くせりの恵まれた環境の中で、生活しています。

しかし、世界には、この日本で生まれ、日本で生活している人には、まったく想像もできないほど劣悪な環境で生きることを余儀なくされている人々が多くいます。日々、銃声が響く紛争地帯で生きている人もいれば、国を追われて難民となっている人もいます。
世界基準で言えば、日本の穏やかな生活は、決して当たり前の生活ではないのです。当たり前どころか、祖先の悪戦苦闘の歴史の上に、私たちの祖先の努力がようやく実って、ささやかながらも幸せな生活が、今、やっと成り立っているのだ、ということを、よくよく考えねばなりません。そうでなければ、つまり、祖先の努力の恩恵がなかったならば、人の命など簡単に奪われてしまうのです。
けれども、私たちは、このように平和に生かされていることに対して、日頃、祖先の努力に十分感謝しているでしょうか。さも当たり前のように、何の感謝もなく、祖先の血と汗と涙の贈り物を、タダだと思って気楽に受け取っているのではないでしょうか。
それでいて、ちょっとでも、自分に都合の悪いことが起こったら、今度は先祖の霊のせいにするなんて、恩知らずにもほどがあります。そんな身勝手な責任転換の判断や拝み方は、間違っています。
あらゆる障りの原因は、先祖がやり残して子孫である自分へと手渡された、ほんの少しの課題さえも、難儀に思って手をつけず、無視し続けてきた自分自身にあります。親からは、甘い蜜だけ受け取って、苦い実は、自分は手をつけずに、そのまま子どもへと渡してしまう。「そんなつもりはなくても、結果的にそうなってしまっている」という人は、案外多いのではないでしょうか。


以上述べてきたように、沖縄の「御願(うがん)」には、まず第一に、自分と家族の命を守ってくださっている「うやふぁーふじ(ご先祖さま)」への感謝という意味があります。
そして、古今東西、この世のすべての祈りは、自分の命を支えてくださっている、すべての見えない存在への感謝から始まるのです。
現代人は、「うやふぁーふじ(ご先祖さま)」に家族の無病息災を祈り、家族の命を守ってくださるように頼るなどという風習は、非科学的で馬鹿らしいと考える人も多く、「御願(うがん)」など古臭い迷信に過ぎないと決めつけて、信仰について真剣に考えることが出来ない人も多くなっているようです。
また、土着の信仰や習俗を、文化的に低いものと蔑視して、内地の習俗や欧米文化に惹かれる傾向も、特に高等教育を受けた人たちの間で目立ちます。だから、信じる信じないは別にして、仏教や神道やキリスト教には敬意を払うけれど、「御願(うがん)」には関心がないのです。
しかし、この沖縄に生きている以上、「うやふぁーふじ(ご先祖さま)」への信仰を、簡単に軽々しく捨ててしまってはいけないと思うのです。
それに、沖縄の信仰は、古神道とも呼ばれるように、実は縄文の信仰に起源を持ち、遠く卑弥呼の時代にもあった古代の信仰が息づいているのです。そう考えると、すべての日本人にとって、忘れてはいけないものだ、とも言えるのではないでしょうか。

最後に、「御願(うがん)」の最終的な目的について、つまり、「何を求めて祈るのか?」について述べておきます。
それは、一言で言えば「かみぬみち(神の道)」を知ることです。「かみぬみち(神の道)」とは、一族の集合的無意識を通じて氏族の祖先神が指し示す、自分や家族が進むべき正しい道のことです。これは一族の「ちぢうい(血筋継ぎ)」を解消する方向性を示す道でもあります。
この道は、道徳的な道ではなく、正義の道でもありません。むしろ、古神道でいう「惟神の道(かんながらのみち)」に通じ、道教で言う「道(タオ)」にも通じるでしょうし、孔子が「朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり」と言う「真理の道」にも通じます。
一人前のユタやノロ(神女)になることを、自分の指導霊となる祖先霊を知るという意味で「ちぢあき(血筋開き)」と言いますが、守護霊を押し戴くという意味で「神上げをする」と言ったり、「神ぬ道を開ける」という言い方もします。孔子の〝道〟とは、この場合の「神ぬ道」に近いものがあります。
ですから、祈りの言葉は「先祖の悪しき因縁を避け、良いものだけを下ろして、黄金の道(神の示す道)を歩かせてください」というものです。もちろん、これがすべてというわけではありませんが、「『御願(うがん)』の根本は何か」と問われれば、そのような意味の言葉になるでしょう。
そして、この「神ぬ道」は、夢の中で示されることもあるでしょうし、人の口を通じて示されることもあるでしょう。
無神論がはびこる昨今、「信仰とは何か?」と問い続けて「真理の道」を求める心が、とかく袋小路に入ってしまい、迷いの中で挫折することも多いと思われます。
しかし、人生において、気づきのチャンスは、いくらでもあり、「物知らせ」は、そこいら中に、用意されているものです。私のこの記事も、皆様が「神ぬ道」に気づかれる、一つのきっかけになれたならと、願っています。


では、今回は、このへんで。