差別はどこからくるのでしょうか。
お金?美醜?出身地?学歴?職業?
支配はどこからくるのでしょうか。
親?先生?先輩?上司?夫?
親の職業や権威や財力は、子ども時代の差別の大きな要因です。
先生の子だから、医者の子だから、社長の子だから、銀行支店長の子だから、地主の子だから、子どもは自分が特別扱いされていることを知っています。そして、それを当然のことと受け入れているのです。
けれども、ごく少数、自分がその特別扱いに値しないことを知っていて、いつも、居心地が悪い思いをしています。自分に何の価値があるのだろうと、人知れず悩ましい思いを抱え続ける子どもたちもいます。
彼らが、そんな風に悩むのは、心で育てられておらず、代わりにお金で育てられてきたからです。何不自由ない生活なのに、どこか虚ろで息苦しいのです。
そして、ほんのわずかではありますが、自分が本当に生きられる場所を求めて、恵まれた家を出て行く子どもたちもいます。親の庇護から離れ、親の援助も頼らず、資産も後ろ盾も放り捨て、本当に自分を必要としている人、自分が求めてやまない相手を求めて、魂が安らぐ場所を探しに旅立つのです。
ちょうど、ル・ヴィンの「オメラスから歩み去る人々」のように。
あるいは、意図せずして、孤立し、飛び出す羽目になった人もいるでしょう。
ちょうど、三原順の「はみだしっ子」たちのように。
ところが、もともと、親の財力も権威もなく、なんの後ろ盾もなく、放ったらかしで育っている子どもたちは、生まれた時から、差別の真っ只中にいます。彼らは、軽蔑と恥辱と貧困の中に生まれるのです。
生まれた時から、生活は不安定で、常に不安に満ちていて、人に顧みられることもなく、気遣われることもなく、周囲から馬鹿にされて、世間から軽んじられて、育っていきます。
けれども、誰にも気にされず、重んじられることもなく、特別手厚く守ってくれる人もいないので、自力で生きていかなければなりません。その分、見捨てられてはいても、かえって縛るものもないので、自由にたくましく育つことができるのです。生きる為に、必死で何でもやらなければいけないので、生きる知恵と力を育てることができるのです。
一方で、そのような子どもたちは、親の苦しみや悲しみも、身近で感じて、その辛さを我が身に受けて育つ分、幼い頃から、人一倍、世の中の苦しみや悲しみを知り尽くしてしまいます。親の胸の痛みに、否応なく引きずられ、自然に寄り添ってしまうのです。そして、親の不安や哀しみや身勝手さや嫉妬心や執着心を引き継いでしまう人もいます。
それで、深いトラウマや激しいコンプレックスを抱えたり、心が折れたり曲がったりする子も多いのです。
そういう挫折した子どもたちを、裕福な親に守られて、何不自由なく育っている子どもたちや、その自身も恵まれた親たちが、〝不良〟と呼ぶのです。あるいは「育ちが悪い」と評価するのです。
これが、差別です。
金持ちは貧乏人を差別します。
世間は貧乏人を差別します。
先生はできない子を差別します。
世間はできない子を差別します。
世間はブスを差別します。
家族もブスを差別します。
世間は年寄りを差別します。
家族も年寄りを差別します。
努力?
努力の前に、格差があり、差別があるのです。
その格差の前に、諦めだけの人生になるか、それとも、戦って、戦って、力尽きるか、あるいは、チャンスをつかんで登りつめ、今度は、手に入れたものを守るために、死ぬまで戦い続けるか。
どちらにしても、この世は、涙ばかりの人生なのか、と嫌になります。
この世は、可哀想な人たちばかり。
それを、誰も意識していないのが、一番、恐ろしいのです。
世間の人は、考える前に、無意識の内に、息を吐くように差別するのです。
そして、差別は、支配を生み、孤独を生みます。
差別された者は、支配者の前に自ら進んでひれ伏すか、さもなければ、世間に見捨てられ、誰からも顧みられず、打ち捨てられて、無力感と孤独の中で死んでいくのです。
別にそれでも構いません。世間の人の〝心がない〟のは、彼らの罪であって、私の罪ではないのだから。彼らの心が醜悪なのは、彼ら自身の問題で、私の問題ではないのです。
だから、打ち捨てられて、のたれ死ぬのなら、それが定めだというのなら、それでもいい、と思っています。
差別と支配はどこからくるのでしょうか。
それは、普通の人の心の中からくるのです。
特に、戦後生まれの団塊の世代のうちでも、大学出の知識階層の差別意識が最悪です。高度経済成長期に青年期を過ごした彼らの上昇志向の強さは、並々ならぬものがあります。その野心と、目上を軽んずる革新的意識が、極端に自我の肥大した自己愛傾向を生み、それが差別意識の温床となっているのです。
お金?美醜?出身地?学歴?職業?
支配はどこからくるのでしょうか。
親?先生?先輩?上司?夫?
親の職業や権威や財力は、子ども時代の差別の大きな要因です。
先生の子だから、医者の子だから、社長の子だから、銀行支店長の子だから、地主の子だから、子どもは自分が特別扱いされていることを知っています。そして、それを当然のことと受け入れているのです。
けれども、ごく少数、自分がその特別扱いに値しないことを知っていて、いつも、居心地が悪い思いをしています。自分に何の価値があるのだろうと、人知れず悩ましい思いを抱え続ける子どもたちもいます。
彼らが、そんな風に悩むのは、心で育てられておらず、代わりにお金で育てられてきたからです。何不自由ない生活なのに、どこか虚ろで息苦しいのです。
そして、ほんのわずかではありますが、自分が本当に生きられる場所を求めて、恵まれた家を出て行く子どもたちもいます。親の庇護から離れ、親の援助も頼らず、資産も後ろ盾も放り捨て、本当に自分を必要としている人、自分が求めてやまない相手を求めて、魂が安らぐ場所を探しに旅立つのです。
ちょうど、ル・ヴィンの「オメラスから歩み去る人々」のように。
あるいは、意図せずして、孤立し、飛び出す羽目になった人もいるでしょう。
ちょうど、三原順の「はみだしっ子」たちのように。
ところが、もともと、親の財力も権威もなく、なんの後ろ盾もなく、放ったらかしで育っている子どもたちは、生まれた時から、差別の真っ只中にいます。彼らは、軽蔑と恥辱と貧困の中に生まれるのです。
生まれた時から、生活は不安定で、常に不安に満ちていて、人に顧みられることもなく、気遣われることもなく、周囲から馬鹿にされて、世間から軽んじられて、育っていきます。
けれども、誰にも気にされず、重んじられることもなく、特別手厚く守ってくれる人もいないので、自力で生きていかなければなりません。その分、見捨てられてはいても、かえって縛るものもないので、自由にたくましく育つことができるのです。生きる為に、必死で何でもやらなければいけないので、生きる知恵と力を育てることができるのです。
一方で、そのような子どもたちは、親の苦しみや悲しみも、身近で感じて、その辛さを我が身に受けて育つ分、幼い頃から、人一倍、世の中の苦しみや悲しみを知り尽くしてしまいます。親の胸の痛みに、否応なく引きずられ、自然に寄り添ってしまうのです。そして、親の不安や哀しみや身勝手さや嫉妬心や執着心を引き継いでしまう人もいます。
それで、深いトラウマや激しいコンプレックスを抱えたり、心が折れたり曲がったりする子も多いのです。
そういう挫折した子どもたちを、裕福な親に守られて、何不自由なく育っている子どもたちや、その自身も恵まれた親たちが、〝不良〟と呼ぶのです。あるいは「育ちが悪い」と評価するのです。
これが、差別です。
金持ちは貧乏人を差別します。
世間は貧乏人を差別します。
先生はできない子を差別します。
世間はできない子を差別します。
世間はブスを差別します。
家族もブスを差別します。
世間は年寄りを差別します。
家族も年寄りを差別します。
努力?
努力の前に、格差があり、差別があるのです。
その格差の前に、諦めだけの人生になるか、それとも、戦って、戦って、力尽きるか、あるいは、チャンスをつかんで登りつめ、今度は、手に入れたものを守るために、死ぬまで戦い続けるか。
どちらにしても、この世は、涙ばかりの人生なのか、と嫌になります。
この世は、可哀想な人たちばかり。
それを、誰も意識していないのが、一番、恐ろしいのです。
世間の人は、考える前に、無意識の内に、息を吐くように差別するのです。
そして、差別は、支配を生み、孤独を生みます。
差別された者は、支配者の前に自ら進んでひれ伏すか、さもなければ、世間に見捨てられ、誰からも顧みられず、打ち捨てられて、無力感と孤独の中で死んでいくのです。
別にそれでも構いません。世間の人の〝心がない〟のは、彼らの罪であって、私の罪ではないのだから。彼らの心が醜悪なのは、彼ら自身の問題で、私の問題ではないのです。
だから、打ち捨てられて、のたれ死ぬのなら、それが定めだというのなら、それでもいい、と思っています。
差別と支配はどこからくるのでしょうか。
それは、普通の人の心の中からくるのです。
特に、戦後生まれの団塊の世代のうちでも、大学出の知識階層の差別意識が最悪です。高度経済成長期に青年期を過ごした彼らの上昇志向の強さは、並々ならぬものがあります。その野心と、目上を軽んずる革新的意識が、極端に自我の肥大した自己愛傾向を生み、それが差別意識の温床となっているのです。