大里村は、2005年まで、沖縄本島南東部にあった村で、現在は南城市の一部です。旧大里村には、大里城址公園という城跡があります。東に中城湾の海と馬天の港を見下ろせる高台にある城跡です。南東方向には、知念半島が見えます。その先は、久高島です。
首里城や勝連城や今帰仁城などと異なり、この城は原型をとどめておらず、まったく城壁や石垣が残っていません。中城城址や座喜味城跡のように世界遺産にも認定されていない、本当に目立たない地味な遺構です。
今は、ほとんど誰も訪れる人もいない辺鄙な遺跡ですが、かつて、ここにあった島添大里城(しましーうふざとぐすく)は、糸満の南山城(島尻大里城)を凌ぐ、南山の中心であり、沖縄有数の巨大な城郭でした。
「島添」には「島々を支配する」の意味があります。沖縄で言う「シマ」の意味は、集落ないしは御嶽を指します。ですから、島添大里城は、周辺地域の各集落と御嶽を統べる政治と信仰の中心地であったと考えられます。
歴史的に考えれば、その重要性は、首里城、浦添城(中山)、今帰仁城(北山)と並び、それらの中でも、とりわけ重要な城郭であると思われるのです。
この島添大里城の歴史は古く、この城に拠った天孫氏大里按司の一族は、神話によれば、かつて古代に、東のニライカナイの海から久高島に降り立った龍宮神(開闢の女神)アマミキヨの子孫として、玉城から次第に勢力を拡大しながら北上し、沖縄最初の王朝を形成しました。そして、この大里の地に居を構えて、馬天、佐敷、知念、玉城に至るまで、広く周辺地域を支配したと言われています。
ちなみに、久高島の大里集落と大里城下の大里西原集落は、深いつながりが推測され、久高島の神家大里家と大里西原の神家も、アマミキヨの直系天孫氏として神女(ノロ)大殿内(うふどぅんち/大神の家)である、という共通点を持ちます。
伝承によれば、12世紀には、沖縄に立ち寄った源為朝、あるいはその部下であった武将と、天孫氏大里按司の妹との間に生まれた息子舜天が、大里から進出して浦添を拠点に、初代沖縄統一王朝である舜天王統を築いたとされます。源平の戦を戦っていた武将である父の力は、舜天王朝の成立に、何らかの影響を及ぼしたであろうことは想像に難くありません。一方で、大里天孫氏の母の力も大きかったに違いありません。
その後、13世紀に、やはり天孫氏の末裔の女性が「太陽(ティダ)を宿す夢」を見て産んだとされる「太陽の子(てぃだぬふぁ)」英祖が、舜天王統三代目義本王から王位を禅譲され、浦添に英祖王統を築きます。この時、英祖の五男が、本島南部を統べる大里按司として大里城に据えられたとされます。また、英祖王統の2代目から5大目までの王は、皆、天孫氏の本拠地の一つである本島南東部の玉城に葬られています。
この英祖王統が衰えると、14世紀には、沖縄は三山鼎立の時代となります。この時代に、大里按司は南山王と呼ばれたこともありました。そして、北に首里、浦添を望む巨大な島添大里城が整備されました。
この時代、14世紀初めに、英祖の次男の血筋である中北山王統の今帰仁按司の四代目丘春が、三代北山王であった父の側室で今帰仁御神(なきじんうかみ)と呼ばれた伝説の美女志慶真乙樽(しげまうとぅだる)に連れられて、島添大里城に入り(進出して?逃げてきて?)「大里世主王(うふざとゆぬしゅぬう)」となった、という説があります。世主王というのは、単なる按司ではりません。言わば、神格化された大王です。したがって、大里の按司が「世主王」であった時代には、島添大里城主は南山王であった、ということになります。
これは、「大殿内(うふどぅんち)」と呼ばれる大里の神家に代々伝わる伝承です。つまり、大里按司であった大殿内一族のルーツは、遠く今帰仁按司(中北山王)から英祖の血統にまで遡れるということなのです。
さて、この14世紀中頃、浦添では、天の羽衣を着けて天から降りた天女の産んだ子とされる浦添按司の察度が、英祖王統の最後の中山王西威が21歳で死去した後、5歳の世継ぎを廃して中山王となります。察度の祖父は、中城村奥間の出ですが、宜野湾の有力者の養子になった人物です。ところが、この察度王の祖父奥間カンジャーの墓が、なぜか大里城址の中にあるのです。
さらに、14世紀後半には、南北朝の争乱を避けて伊平屋島に逃れた武士と思われる屋蔵大主の長男が、大里按司の勢力下にある佐敷馬天の港に移り、そこで網をかける漁師をしていました。これが、佐銘川大主です。
ところが、大主が魚の行商で大里村を訪れた際に、その地の豪族である大城按司に見初められ、按司の娘婿となりました。そして、一男一女をもうけました。女の子は馬天ノロ(神女・祝女)となりました。男の子は、苗代大比屋と言います。そして、この男の子が成長して、佐敷の有力者の娘との間に男の子を授かります。
この苗代大比屋の子が、後に佐敷城を築いて佐敷按司となり、下克上で大里按司を倒して、大里城に拠点を移し、ついには三山統一(1429年)を成し遂げた尚巴志です。つまり、尚巴志の生まれは、もともと大里按司の支配下にあった佐敷なのです。そして、尚巴志が三山統一に乗り出した手始めが、島添大里城の攻略だったのです。
その後、尚巴志が、首里城を増築する時、佐敷城と大里城の石垣や城壁を崩して、首里へ(リレー式の手渡しで?)建築資材の石が運ばれたと言われています。
こうして尚巴志は、三山統一後、巨大な首里城に拠って、全島を統べました。一方で、それ以後も、第一尚氏は、15世紀後半まで、大里城を離宮として使用したので、大里城は随時改築されて、大いに栄えました。15世紀半ばの大里城は、首里城と並んで、もっとも豪華な城だったと言われます。
このように大里城は、南山の中心地として、第二尚氏を除く、沖縄の歴代すべての王統に関わりを持ち、特に舜天王統と第一尚氏王統の成立には、決定的な役割を果たしました。
特徴的なのは、女性の果たした役割の大きさです。沖縄の場合、内地と異なって、男性兄弟の「おなり神(うない神)」として、女性の政治的権威が非常に高かったということもあります。舜天の場合も、尚巴志の場合も、王母、王祖母として、大里の女性が現れ、王朝の成立に貢献します。偉大な王を育む太母としての女性の力の顕在化は、沖縄の太母神アマミキヨの血統の証しなのでしょうか。
また、今帰仁御神と呼ばれた美女志慶真乙樽との係りで、北山今帰仁城と繋がるのも非常に興味深い点です。乙樽は北山最高位のノロ(神女・祝女)ですが、その血筋ははっきりしません。もしかすると運天港を介して、縄文系で彫りの深い宮古人の血が入っているかもしれません。
さらに今から700年前、14世紀初頭に、激動の王である北山今帰仁按司丘春が、南山島添大里城に入城して大里世主王となったとするなら、尚巴志以前に、すでに丘春の手で三山統一が成し遂げられていた可能性もあるのです。ただ、この中北山第4代丘春の時代を最後に、怕尼芝(はにじ/羽地)の攻略によって中北山王統は滅びているため、やはり、丘春は今帰仁から逃げてきたのだ、という説が有力です。
そして、察度を産んだ天女が、志慶真乙樽か丘春に関係している者だとしたら、どうでしょうか。
久高島、玉城、浦添、首里、今帰仁、すべての王と神の系譜の中心に、アマミキヨの子孫として天孫氏の血統を持つ大里の神家「大殿内(うふどぅんち)」がある、としたら?
謎と疑問は尽きません。
いずれにせよ、この南城市大里の地は、沖縄史の中心に大いなる謎をもたらしている女系神の住まう地です。ところが、その痕跡が、第二尚氏以降、中央集権の過程でかき消されてしまい、現在では歴史の彼方に埋もれてしまっているのです。
また、第二尚氏の金丸が尚姓を偽称し、形式的に王統の継続を装ったことによって、伝統的な祖先霊信仰の真実性に、破壊的な混乱をもたらされました。そして、それまでのすべての王統の共通の霊的な信仰の中心であった久高島、玉城、大里は、意図的に権力の中枢から遠ざけられたのです。
これが、大里城が次第に寂れていった理由なのだと思うのです。
ただ、一つ慰められるのは、早くに打ち捨てられたためか、この大里の地は、霊的にあまり汚されていないという感じがすることです。
大里城址から海を見下ろすと、爽やかな琉球の風が吹きます。
首里城や勝連城や今帰仁城などと異なり、この城は原型をとどめておらず、まったく城壁や石垣が残っていません。中城城址や座喜味城跡のように世界遺産にも認定されていない、本当に目立たない地味な遺構です。
今は、ほとんど誰も訪れる人もいない辺鄙な遺跡ですが、かつて、ここにあった島添大里城(しましーうふざとぐすく)は、糸満の南山城(島尻大里城)を凌ぐ、南山の中心であり、沖縄有数の巨大な城郭でした。
「島添」には「島々を支配する」の意味があります。沖縄で言う「シマ」の意味は、集落ないしは御嶽を指します。ですから、島添大里城は、周辺地域の各集落と御嶽を統べる政治と信仰の中心地であったと考えられます。
歴史的に考えれば、その重要性は、首里城、浦添城(中山)、今帰仁城(北山)と並び、それらの中でも、とりわけ重要な城郭であると思われるのです。
この島添大里城の歴史は古く、この城に拠った天孫氏大里按司の一族は、神話によれば、かつて古代に、東のニライカナイの海から久高島に降り立った龍宮神(開闢の女神)アマミキヨの子孫として、玉城から次第に勢力を拡大しながら北上し、沖縄最初の王朝を形成しました。そして、この大里の地に居を構えて、馬天、佐敷、知念、玉城に至るまで、広く周辺地域を支配したと言われています。
ちなみに、久高島の大里集落と大里城下の大里西原集落は、深いつながりが推測され、久高島の神家大里家と大里西原の神家も、アマミキヨの直系天孫氏として神女(ノロ)大殿内(うふどぅんち/大神の家)である、という共通点を持ちます。
伝承によれば、12世紀には、沖縄に立ち寄った源為朝、あるいはその部下であった武将と、天孫氏大里按司の妹との間に生まれた息子舜天が、大里から進出して浦添を拠点に、初代沖縄統一王朝である舜天王統を築いたとされます。源平の戦を戦っていた武将である父の力は、舜天王朝の成立に、何らかの影響を及ぼしたであろうことは想像に難くありません。一方で、大里天孫氏の母の力も大きかったに違いありません。
その後、13世紀に、やはり天孫氏の末裔の女性が「太陽(ティダ)を宿す夢」を見て産んだとされる「太陽の子(てぃだぬふぁ)」英祖が、舜天王統三代目義本王から王位を禅譲され、浦添に英祖王統を築きます。この時、英祖の五男が、本島南部を統べる大里按司として大里城に据えられたとされます。また、英祖王統の2代目から5大目までの王は、皆、天孫氏の本拠地の一つである本島南東部の玉城に葬られています。
この英祖王統が衰えると、14世紀には、沖縄は三山鼎立の時代となります。この時代に、大里按司は南山王と呼ばれたこともありました。そして、北に首里、浦添を望む巨大な島添大里城が整備されました。
この時代、14世紀初めに、英祖の次男の血筋である中北山王統の今帰仁按司の四代目丘春が、三代北山王であった父の側室で今帰仁御神(なきじんうかみ)と呼ばれた伝説の美女志慶真乙樽(しげまうとぅだる)に連れられて、島添大里城に入り(進出して?逃げてきて?)「大里世主王(うふざとゆぬしゅぬう)」となった、という説があります。世主王というのは、単なる按司ではりません。言わば、神格化された大王です。したがって、大里の按司が「世主王」であった時代には、島添大里城主は南山王であった、ということになります。
これは、「大殿内(うふどぅんち)」と呼ばれる大里の神家に代々伝わる伝承です。つまり、大里按司であった大殿内一族のルーツは、遠く今帰仁按司(中北山王)から英祖の血統にまで遡れるということなのです。
さて、この14世紀中頃、浦添では、天の羽衣を着けて天から降りた天女の産んだ子とされる浦添按司の察度が、英祖王統の最後の中山王西威が21歳で死去した後、5歳の世継ぎを廃して中山王となります。察度の祖父は、中城村奥間の出ですが、宜野湾の有力者の養子になった人物です。ところが、この察度王の祖父奥間カンジャーの墓が、なぜか大里城址の中にあるのです。
さらに、14世紀後半には、南北朝の争乱を避けて伊平屋島に逃れた武士と思われる屋蔵大主の長男が、大里按司の勢力下にある佐敷馬天の港に移り、そこで網をかける漁師をしていました。これが、佐銘川大主です。
ところが、大主が魚の行商で大里村を訪れた際に、その地の豪族である大城按司に見初められ、按司の娘婿となりました。そして、一男一女をもうけました。女の子は馬天ノロ(神女・祝女)となりました。男の子は、苗代大比屋と言います。そして、この男の子が成長して、佐敷の有力者の娘との間に男の子を授かります。
この苗代大比屋の子が、後に佐敷城を築いて佐敷按司となり、下克上で大里按司を倒して、大里城に拠点を移し、ついには三山統一(1429年)を成し遂げた尚巴志です。つまり、尚巴志の生まれは、もともと大里按司の支配下にあった佐敷なのです。そして、尚巴志が三山統一に乗り出した手始めが、島添大里城の攻略だったのです。
その後、尚巴志が、首里城を増築する時、佐敷城と大里城の石垣や城壁を崩して、首里へ(リレー式の手渡しで?)建築資材の石が運ばれたと言われています。
こうして尚巴志は、三山統一後、巨大な首里城に拠って、全島を統べました。一方で、それ以後も、第一尚氏は、15世紀後半まで、大里城を離宮として使用したので、大里城は随時改築されて、大いに栄えました。15世紀半ばの大里城は、首里城と並んで、もっとも豪華な城だったと言われます。
このように大里城は、南山の中心地として、第二尚氏を除く、沖縄の歴代すべての王統に関わりを持ち、特に舜天王統と第一尚氏王統の成立には、決定的な役割を果たしました。
特徴的なのは、女性の果たした役割の大きさです。沖縄の場合、内地と異なって、男性兄弟の「おなり神(うない神)」として、女性の政治的権威が非常に高かったということもあります。舜天の場合も、尚巴志の場合も、王母、王祖母として、大里の女性が現れ、王朝の成立に貢献します。偉大な王を育む太母としての女性の力の顕在化は、沖縄の太母神アマミキヨの血統の証しなのでしょうか。
また、今帰仁御神と呼ばれた美女志慶真乙樽との係りで、北山今帰仁城と繋がるのも非常に興味深い点です。乙樽は北山最高位のノロ(神女・祝女)ですが、その血筋ははっきりしません。もしかすると運天港を介して、縄文系で彫りの深い宮古人の血が入っているかもしれません。
さらに今から700年前、14世紀初頭に、激動の王である北山今帰仁按司丘春が、南山島添大里城に入城して大里世主王となったとするなら、尚巴志以前に、すでに丘春の手で三山統一が成し遂げられていた可能性もあるのです。ただ、この中北山第4代丘春の時代を最後に、怕尼芝(はにじ/羽地)の攻略によって中北山王統は滅びているため、やはり、丘春は今帰仁から逃げてきたのだ、という説が有力です。
そして、察度を産んだ天女が、志慶真乙樽か丘春に関係している者だとしたら、どうでしょうか。
久高島、玉城、浦添、首里、今帰仁、すべての王と神の系譜の中心に、アマミキヨの子孫として天孫氏の血統を持つ大里の神家「大殿内(うふどぅんち)」がある、としたら?
謎と疑問は尽きません。
いずれにせよ、この南城市大里の地は、沖縄史の中心に大いなる謎をもたらしている女系神の住まう地です。ところが、その痕跡が、第二尚氏以降、中央集権の過程でかき消されてしまい、現在では歴史の彼方に埋もれてしまっているのです。
また、第二尚氏の金丸が尚姓を偽称し、形式的に王統の継続を装ったことによって、伝統的な祖先霊信仰の真実性に、破壊的な混乱をもたらされました。そして、それまでのすべての王統の共通の霊的な信仰の中心であった久高島、玉城、大里は、意図的に権力の中枢から遠ざけられたのです。
これが、大里城が次第に寂れていった理由なのだと思うのです。
ただ、一つ慰められるのは、早くに打ち捨てられたためか、この大里の地は、霊的にあまり汚されていないという感じがすることです。
大里城址から海を見下ろすと、爽やかな琉球の風が吹きます。