2014年にノーベル平和賞を受賞したパキスタンの17歳の少女マララ・ユスフザイは、その前年の2013年7月12日、16歳で歴史に残る国連演説を行いました。
その演説の中で、マララは、『すべての人への教育の必要性』を訴えました。
その前年、2012年10月9日に、マララは、女子教育を禁じるタリバン政権を公然と批判したことから、15歳の中学生でありながら、スクールバスに乗っているところを、タリバンの襲撃を受けて、頭部と首に二発の銃弾を受けました。「女が教育を受けることは許しがたい罪であり、死に値する」と、タリバンは声明を出しました。
このタリバンの凶行に対して、世界の非難が集まり、彼女を救おうと国際的な援助の手が差し伸べられ、その身柄はイギリスの病院へと移され、手術とリハビリが繰り返されました。
そして、9ヶ月後、瀕死の重傷から、奇跡的に回復したマララの演説に、ニューヨークの国連本部は感動に包まれました。
マララは、演説の中で、襲撃された中学校に取材したマスコミが「なぜ、タリバンは、教育に反対しているのだと思いますか」と質問した時、中学生が「タリバンは、この本に書いてあることがわからないからだよ」と答えたというエピソードを紹介しています。
「自分自身がまともな教育を受けていないから、彼らはタリバンになり、女の子に教育を受けさせてはいけない、神は女子教育を望まないなどと、理不尽なことを信じるようになるのだ」「子供たちの明るい未来のためには、教育と学校が必要だ」「教育こそが、世界を救うのだ」と、マララは主張したのです。
確かに、かつて日本もそうだったように、貧しい国では、親が子どもを大切な労働力と考えており、学校に通わせたがらないのが普通です。
また、「女性は教育を受けてはいけない」という考え方が根強いのも確かです。日本でも、例えば、樋口一葉は、母親が「中学校に進学したら婚期が遅れる」と心配して、学校に通わせてもらえませんでした。
また、イスラム圏では、「名誉の殺人」の問題を含めて、女性差別の問題は非常に深刻です。
概ね、特に発展途上国では、「高い教育を受けて、知恵がついてしまった女性は、素直に男に従わなくなる」「小賢しい知恵がついたオンナは(オトコにとって)厄介極まりない」という意識が根強いように思います。つまり、「オトコとしては、オンナを支配したいのに、それができなくなるのは困る」という考えがあるわけです。
マララが、「教育は人を自由にする」と主張するのは、そういう背景があるのです。この演説の最中、会場ではさまざまな国の多くの女性たちが、共感の涙を流していました。


ところが、前回の記事で紹介したように、イギリスのプログレッシブ・ロックは、裕福な中流階級(ミドル・クラス/総人口の30%未満)および上層中流階級(アッパー・ミドル/総人口の10%未満)出身で、高等教育を受けた若者たちが結成したグループばかりが活躍していたわけです。そして、その中でもピンク・フロイドは、メンバーが大学生(英の進学率は17%)の時に知り合って結成されたという、明らかに高等教育を受けてきた若者たちのグループなのですが、彼らの最大のヒット曲は、教育の必要性を真っ向から否定するというメッセージを持つ曲でした。
「Another Brick in the Wall」という曲ですが、その歌詞の中で繰り返される次のようなフレーズがあります。

We don’t need no education.
(僕たちに教育は要らない。)
We don’t need no thought control.
(僕たちは、自分の思想を支配されたくない。)
No dark sarcasm in the classroom.
(教室での意地悪な皮肉は、もうたくさんだ。)
Hey! teachers! Leave them kids alone.
(おい、先生たち、お願いだから、子どもたちを放っておいてくれ!)
All in all it's just another brick in the wall.
(つまるところ、子どもは、壁にぬり込められるブロックの一つに過ぎないのさ、先生たちにとってはね。)
All in all you're just another brick in the wall.
(そして、つまるところ、先生、あんたも、壁に塗り込められるもう一つのブロックに過ぎないのさ。)

1979年、この曲を含む二枚組アルバム「The Wall」は、全世界で3000万枚売れました。そして、このアルバムの中で、「Another brick in the wall」は、part I〜Ⅲまで、繰り返し3回も歌われています。つまり、この曲のメッセージは、このコンセプト・アルバムの中心テーマなのです。シングルとしても、この曲は英米でともに1位を獲得しました。
つまり、「僕たちに教育は要らない」というメッセージに対して、それだけ多くの共感があったということです。
管理教育の支配と被支配の構造の中で、教師もまた権力者・支配者・抑圧者・加害者となっていると同時に、逆に、管理され、評価され、抑圧され、支配されてもいるという現実を表現した曲でした。


著名なイギリスの児童文学作家ロアルド・ダールは、自伝の中で、自身のパブリック・スクールでの生活について述べています。
パブリック・スクールとは、イギリスの全家庭の10%に満たない裕福な上層中流階級(アッパー・ミドル)の子どもたちだけが通う中高一貫の私立学校(学費が年260万円以上)の中でも、上位10%の学力優秀な伝統校が、パブリック・スクールと呼ばれます。学費は年間400万円以上かかるという富裕層向けの全寮制の学校で、卒業生の多くはオックスフォードやケンブリッジなどの名門大学に進学します。
ロアルド・ダールは、母親の希望で、そうした全寮制の私立学校の名門校の一つに入学しました。そして、その学校で、13〜18歳までの多感な時期を過ごしました。
その学校では、授業終了後も、講堂に生徒を集めて、数時間、静かに勉強させる自習時間というものがありました。私語は絶対厳禁で、何か用事があるときは、監督官の先生を手を挙げて呼ばなければならないことになっていました。
しかし、ロアルド・ダールが在籍していた6年間で、自習時間に手を挙げた生徒は、たった2人だったそうです。
最初の1人は、手を挙げた時、「トイレに行っていいですか」と監督官に尋ねました。監督官は「トイレは、自習時間の前に行っていなければならないだろう」と言って、そのまま行ってしまいました。そして、その子は、耐えきれず、その場で漏らしてしまったのです。
2回目に手を挙げた生徒は泣きながら「蜂に唇を刺されました」と訴えました。確かに唇が膨れ上がっていました。監督官は「ペンを持つ手は問題ないだろう」と言って行ってしまいました。
それ以来、手を挙げる子は一人もいませんでした。
ある日、彼が、自習時間中に小説を書いていた時、ペン先が折れてしまい、あいにく換えのペン先を持っていなかったのです。残り30分程の時間を何も書かずにいて、監督官に咎められずに済む気がしなかった彼は、監督官が向こうを見ている隙に、隣の生徒に「ペン先を貸してくれ」と頼みました。ところが、監督官は、その囁き声に気づき、彼のところへ来て「おしゃべりをしたな」と言ったのです。もちろん彼は、「ペン先を借りたかったのです」と言いましたが、監督官は「校長室へ行きなさい」と命じました。
校長室で、校長先生が「君はおしゃべりをしたのだね」と訊くので、彼は「ペン先を借りようとしただけです」と答えました。けれども校長は「そんなことは訊いていない、おしゃべりはしたのか」と重ねて訊いてくるので、彼は「はい、しました」と答えました。すると校長は、彼のズボンを脱がせて机に両手をつかせ、太い鞭で10回、彼の太ももの裏を激しく叩きました。
高校卒業の前に、母親はロアルド・ダールに、大学へ進学するようにと言いましたが、彼はそれを拒絶し、商社に入社して、アフリカのサバンナでジープを乗り回して、自由な生活を満喫する方を選びました。「学校はもう要らない」「教育なんて、もうたくさんだ」と彼は母親に言ったのです。
ロアルド・ダールは、教師という生き物が、いかに子どもたちを、虫けらのように酷薄に扱うか、を身をもって体験したからです。
その後、彼は有名な「チョコレート工場の秘密」「マチルダは小さな大天才」などの小説を書くことになります。


発展途上国においては、子どもたちが「僕たちに教育を受けさせて!」「僕たちを学校に通わせて!」と訴えています。
ところが、最も至れり尽くせりの生活環境にある豊かな先進国の中でも、とりわけ選りすぐりの恵まれた教育環境にある子どもたちの方が、まったく逆のこと、つまり、「教育はもうたくさんだ」「学校はもう要らない」と訴えているのです。
マララは、「教育(学校)は、子どもたちが支配から脱出するための最良の手段である」と信じています。これは、確かに途上国の社会においては真実でしょう。
しかし、先進国においては、「学校と学校に付随する価値観こそが、子どもたちを支配し抑圧している」と、多くの人が感じているというのも事実なのです。
また、アップル社の創設者スティーブ・ジョブズは、2005年のスタンフォード大学の卒業式の演説で、「自分はリード大学を半年で退学したが、今考えても、あれは人生最良の決断の一つだった」と述べています。
「スタンフォード大学並みに学費の高い大学に入ってしまったために、労働者階級の両親の蓄えをすべて学費に注ぎ込むことになるのは、どう考えてもまともな考えとは思えなかった。当時は、人生で何がやりたいか、わかっていなかったし、大学に通っても、自分がやりたいことが見つかるとはとうてい思えなかった。そんな無駄なことのために、両親が一生かかって貯めた貯蓄をひたすら浪費するのは間違っていると感じた。私は大学に通う価値が見出せなかったのだ。それで、迷った末に、大学を辞めた。今振り返ると、あれは自分が人生で下した最も正しい判断だった。」
先進国アメリカでは、貧しい労働者階級に育ったジョブズにとってさえも、「大学さえ卒業すればなんとかなる」とは思えず、『大学は、高い授業料を払って、4年間も通して通うほどの価値はなかった』と言うのです。
これはいったいどうしたことでしょう。いったい教育とは何なのでしょうか。教育は、子どもたちの利益(ため)になっているのでしょうか、それとも害になっているのでしょうか。
(ただ、一つ、付け加えておきたいことは、ジョブズは、将来が見えなかったけれども、漫然と将来に保険をかける感覚で、無駄に大学に通うことはできなかった、この自分の身勝手な浪費によって、親の蓄えが使い果たされることが耐えられなかった、だから、思い切って大学を中退した、すべてを白紙に戻して裸になった、ということです。現代の日本の学生たちに、このジョブズの〝ハングリーさ〟と〝向こう見ずさ〟があったら、と思わずにはいられません。けれども、日本の場合、「学歴は無駄じゃないから、お願いだから大学を続けてちょうだい!」と、親が子どもに懇願するという事態が起こってくることに間違いないので、ジョブズの精神など望むべくもないのかもしれませんが。)


さて、この問題を考える上で、「教育を宗教と比較してみるというのは、一つの思索の道筋として、効果的なのではないか」と思うのです。
というのも、かつては、洋の東西を問わず、教育とは「宗教教育」と同義であった時期が長かったからです。東洋においては〝儒教〟や〝仏教〟が、その役割を担いました。西洋では〝キリスト教〟が、教育の役割を担っていました。
そして、宗教(教育)の効能ということを考えてみる時に、次のようなことが言えるのではないか、と思うのです。
まず、その効能の第一は、「生きていく上で助けとなる」あるいは「役に立つ」ということです。しかし、この〝役に立つ〟と言うのが、なかなか曲者なわけです。
例えば、「実生活を送る上で、何かと役に立つ」、つまり、「実際的な利益をもたらす」ということになると、宗教としては利己的で身勝手な〝ご利益宗教〟に陥ってしまう恐れがあります。「自分一人を成功させてください」という、実に自己中心的な祈り方になってしまうわけです。
さらに、これもジョブズが言っていることですが、「自分の人生に、いったい何が本当に〝役に立つ〟のか、あらかじめ予測することは不可能である」という事実があります。トルストイも「人は何で生きるか」の中で、資産家の権力者が何年も使える丈夫な長靴を作るように職人を怒鳴っていたら、その日のうちにソリがひっくり返って死んでしまうという話を描いています。その権力者には、丈夫な長靴など必要なかったのです。ルソーも、早期(英才?)教育は「不確実な未来のために現在を犠牲にする残酷な教育である」として全否定しています。
このように、ジョブズもトルストイもルソーも、「親や教師が『将来のために〝役に立つ〟のだから、今、頑張りなさい』と子どもに勉強をさせるのは間違いだ」と主張します。そのような「見込み教育」は、親のエゴであり、子供の不幸の元となると言うのです。
また、福沢諭吉が「学問のすゝめ」で述べているように、「学問をすることで、支配される側から支配する側に立てる」などという動機から教育がなされるなら、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の主人公カンダタのように、限りなく我欲に囚われ、支配の連鎖から解き放たれることなど、到底叶いません。
あるいは、実際には役に立たなくとも、社会全体が集団的に「これは役に立つものだ」という洗脳を受けて信じ込んでしまえば、宗教に入信することで、あるいは学問を修めることで、ある種の共同体内ライセンスを獲得したかたちになり、より利益を享受できる社会的立場を得られるようになります。宗教集団内での上位修行者の地位・称号を得るのと同じで、学歴とか、博士号とか、資格とかを得ることで、社会的に優遇され、そうした社会的評価によって実利を得て、「自分は成功者となり得た」と感じる(思い込む)ことができるのです。
ですから、大学を受験するときも、「どんな学問をしたいか」は問題ではなく、「どんな偏差値の大学で、どんな社会的評価を得られるか」が問題となります。大切なのは、大学の名前であり、学士・修士・博士という肩書きであって、学問の内容ではないのです。そこで、「大学を受験するなら、もっとも入りやすい学部を選ぶ」ということが大切になります。また、親が自身の権力を利用して子どもを大学に〝裏口入学〟させるということも起こってきます。「入りさえすれば成功できる」という、ジョブズに言わせれば、「根拠のない憶測」が、社会に〝常識〟として蔓延しているためです。
つまりは、『自分自身の〝肩書き〟〝勲章〟〝アクセサリー〟として、社会的に(根拠なく?)認知されている〝役に立つもの〟であること』が、一般的に認められている宗教および教育の一つの効能と言えるでしょう。
端的に言えば、それは〝ご利益(評価)〟と〝洗脳(思い込み)〟という効能であると言うことができます。
しかし、この場合、道徳的・社会的に優位な立場を得るために、どのように振る舞えば社会的評価を得られるか、ということを知り、そのように演技して、世間から褒めそやされるようになり、肩書きの効能もあって、社会的にますます高く評価されて、自分は〝偉い〟という思い込みが嵩じるにつれて、誰しも人間が傲慢になり、独善的になり、鼻持ちならなくなってくるのが常です。そして、自分の努力で得た、その地位に固執し、表面的には、いかに親切そうに見せていたとしても、内面的には他者に対して冷たく無関心になってくるものです。
これが宗教や教育の唯一の成果だとすると、高等教育を受ける人が増えることは、社会がより利己的で自己保身的で疑心暗鬼になることであり、権力を得て、支配する側に立つための社会的競争がますます激しくなるだけで、世界は一向に平和にならないということになります。つまりは、人間の冷酷さと差別意識が助長されるだけです。
これは、マララが望む未来ではないでしょう。ジョブズも「肩書きとか、名誉とか、思い込みとか、プライドとか、敗北する不安とか、誰かの決めた価値観とか、それらは人生にとって本当に大切なものではない。そんなものに囚われていては、有意義な人生を送ることはできない。人はみんな、いつでも裸なのだ。他人の考えに心を支配されてはならない。自分の内なる声に耳を澄ませ。」と述べています。
しかし、日本も含めて、先進国で起こっている教育の現状は、そういうことだと思うのです。
だから、日本の多くの若者たちには、マララの演説は、さして心に響かなかったのではないでしょうか。共感できた若者が、いったいどれほどいたでしょう。ただ、多くの日本人は「途上国は大変だなあ」という憐れみを覚えただけだったのではないでしょうか。
自分たちが、ある意味では、もっと哀れな状況にいることに気づきもしないで。
このように、宗教も教育も、人間を支配と被支配の共依存の袋小路に追い詰めるだけなら、いっそ、マルクス(*)やルソー(**)が言うように、宗教も教育も、無い方がマシではないか、という気にもなってきてしまうわけです。


宗教と教育には、しかし、〝洗脳とご利益〟以外に、もう一つの効果があると思うのです。
それは、『生まれ変わる』という効果です。洗脳でも依存でも思い込みでもなく、かと言って、表面的な演技によるものでもなく、本当に〝生まれ変わる〟ことです。
フランスの文豪ユーゴーの名作「レ・ミゼラブル」の中で、刑務所から出てきて荒んでいたジャン・バルジャンに、銀の食器と燭台を盗まれた司教閣下が言います。警官に捕まって司教の家に連れ戻されたジャン・バルジャンに向かい、柔和な微笑みを浮かべて「あなたは、忘れ物をしていますよ、ほら、このもう一つの銀の燭台もあげると言っていたじゃないですか」と、言って燭台を戸惑うジャン・バルジャンの手に無理矢理掴ませます。もちろん、これは、ジャン・バルジャンが警察に捕まらないように、司教が庇って嘘をついたのです。それから、ジャン・バルジャンの耳元にそっと囁きます。「さあ、あなたは、今この時から、生まれ変わるのです」と。
これが、ジャン・バルジャンに対する司教の教育でした。
これは洗脳でも評価でもありません。もちろん支配でもありません。その後、ジャン・バルジャンがどのように生きるのも、本人の自由ですからね。
けれども、司教の態度と行動と言葉が、確かに彼を生まれ変わらせたのです。道徳的に、見せかけの振る舞いを心がけるようになったわけではありません。存在の根底から、彼は生まれ変わったのです。
それは、ちょうど、ドストエフスキーの名作「罪と罰」の最後に、シベリアの強制収容所で、主人公ラスコーリニコフの心の中で生じた根源的な精神の変容のようなものです。
教育の効果とは、本来、そのようなものなのだと思うのです。そして、マララが言いたかったことも、この点にあるのではないでしょうか。「教育は人の精神を目覚めさせる」とマララは信じているのだと思うのです。
「人は生まれ変わることができる。」これは周恩来の言葉です。中国大陸で民間人を虐殺した捕虜収容所の日本兵に、当時は貧しい一般の中国人の口に入らない白米を三度三度の食事に与え、肉も魚も酒も与え、強制労働も一切させず、看守には友人のように交流させ、タバコも与え、スポーツ大会もさせて、強制ではなく自然に反省を促し、最後は罰することなく許して、日本へ帰国させたのです。
「日本と中国が真の友人にならなければ、東アジアの平和は永遠にやってこない。」「我々は日本人を心から許し、信じなければならない。」「なぜなら、人は生まれ変わることができるからだ。」これが周恩来の信念でした。
ソクラテスが、若い弟子たちとの対話を〝産婆術〟と呼んだのも、同じ考えからでしょう。孔子も、弟子たちとの間でソクラテスと同じような対話を行い、顔回、子貢、子路ら、弟子たちの教育に力を尽くしました。
彼らに共通するのは、やはり「人は生まれ変わることができる」という信念なのだと思うのです。
例えば、ブッダ(目覚めた人)の悟りや、イエスの復活は、『完全なる生まれ変わり』です。私たちには、そのようなかたちでの生まれ変わりは不可能でしょうが、それでも「絶えず小さな生まれ変わりを繰り返しながら生きる」ことは可能だと思うのです。
例えば、ピカソが、青の時代、バラ色の時代、キュビズムの時代、新古典主義の時代、シュルレアリスムの時代と、一生の間、その画風を、絶え間なく、別人のように変え続けて、何物にも囚われず、自由に絵の道を追求したように、絶えず古い甲羅を脱ぎ捨てて、新品の自分になるのです。
スティーブ・ジョブズが、スピーチの中で繰り返し言っている「Stay hungry. Stay foolish.」という若者たちへの助言もまた、人が常に生まれ変わり続けるための条件かもしれません。
「世間の常識にとらわれず、向こう見ずと言われても、すべてを捨てて、あるがままの自分に、裸になる勇気を持て!」ということです。


それでは、さて、あなたは、教育(学習)によって、日々、新しく生まれ変わっているでしょうか?
もし、そうでないなら、あなたの教育(学習)は、それこそ〝無〟です。残念ながら、あなたの内側に、何の痕跡も残していないでしょう。

→「教育とは何か?その2」へ続く!!



*マルクスは「宗教はアヘンである」と述べました。アヘンは麻薬です。麻薬は、人を気持ちよくするようですが、同時に現実逃避の手段となり、常習性を伴います。さらに使用を続けると、次第に、刺激に対する耐性が生まれ、以前と同様に気持ちよくなるためには、より大量の麻薬を必要とするようになり、依存性も高まります。そして、ついには、それなしでは生きていけないほど、依存性が強まった状態を〝中毒〟と言います。この段階に至ると、日常生活にも支障をきたし、経済的にも破綻してしまう危険性が高まります。
確かに、オウム真理教はじめ、昨今のカルト的な宗教団体のあり方を観ていると、マルクスの言うことも、否定できない面がある、とは思います。
ところで、マルクスは、唯物論者でしたが、まさか、唯物史観の立場から、新たな宗教が生まれるとは、予測していなかったのではないでしょうか。
それが、沖縄南城市に重要な拠点を持つラエリアン・ムーブメントです。彼らは、「かつて、宇宙人エロヒムが、進んだ生命科学の力で地球の全生命を実験的に創造し、さらに遺伝子的な操作によって、人類を人工的に創り出した」という〝進化論を全否定する物語〟への信仰を持つ団体です。「1973年に、エロヒムの乗るUFOに遭遇して、人類へのメッセンジャーの使命を託された」とされるフランス人ラエルの言葉を、エロヒムの〝神託〟として盲目的に従って生きる集団で、全世界に若者を中心に6万人ほど、その内、日本には6000人ほどの信者(ラエリアン)がいると言われます。
彼らは宇宙人は信じますが、神も仏も精霊も魂も信じません。さらに、人間の精神、つまり、心の存在すらも否定します。「科学的には心などなく、ただ、脳の神経細胞(ニューロン)の電気的反応(パルス)があるだけ」というわけです。
真偽のほどはわかりませんが、「脳の機能を刺激して高めるためには、ニューロンを増やす効果がある〝変化に富んだ性行為〟を、パートナーを変えて数多くするとよい」という教祖ラエルの教えがあるとか、「信者同士の不特定多数との性行為(フリーセックス)を奨励している」とか、そのような話もあります。
とりあえずの彼らの目標は、「地球生命の創造者である異星人エロヒムが、2035年までの地球への帰還を望んでいる」ということで、そのためのエロヒム大使館をつくるように、各国政府に働きかけているようです。
彼らの究極の目標は、「宇宙人エロヒムの指導に従って、遺伝子改造の末に、不死の肉体を得ることである」と思われます。魂や精神を信じない彼ら、ラエリアンにとっては、それが、「永遠の命を得る」ということになるからです。
ラエリアンは言います。「私たちは変な宗教ではありません」「ラエルの教えは、科学なんです」「私たちは科学を信奉しています」と。
そのように、彼らは、自らを科学的であると信じていますが、すべての地質学的・考古学的な証拠を無視して、「2万5000年前にUFOに乗ってきた宇宙人によって、地球に最初の大陸がつくられ、植物・動物などのすべての生命がつくられ、同時に人類も遺伝子操作によってつくられた」というラエルが語るファンタジーを無条件で信じるのは、やはり、〝非科学的な擬似宗教〟〝疑似科学的信仰〟というよりほかありません。
そもそも現生人類すら、3.5万年前には、ユーラシア大陸を闊歩していたわけで、その時代の洞窟壁画も発見されています。それに、2万5000年前に最初の大陸が創られたって、それ以前には海しかなかったということでしょうか。では、一億五千万年前のジュラ紀に、地上をのし歩いていた恐竜は、何だと言うのでしょう。ともかく、何もかもがデタラメな話です。
異星人による人類の創造・知性化・管理というテーマについては、クラークの「幼年期の終わり(1953)」、ハインラインの「大宇宙の少年(1958)」、「異性の客(1961)」、ストルガツキー兄弟の「神様はつらい(1964)」、光瀬龍の「百億の昼と千億の夜(1969)」、コードウェイナー・スミスの「ノーストリリア(1975)」、ヴァーリィの「へびつかい座ホットライン(1977)」、ブリンの「知性化戦争(1987)」シリーズなど、さまざまな類似ストーリーを読んできた生粋のSFファンにとって、ラエルの物語は「酷く出来の悪いSFだ」としか思えません。
悲しいことに信者の特に多い日本は、現在、教祖ラエルの本拠地となっています。また、もともとラエルは、千葉県多古町に住んでいたのですが、3.11後、福島の放射能を恐れて、沖縄の南城市にやって来ました。わざわざ、日本で最も福島から遠い地へと、集団で避難して来たわけです。
それにしても、逃げてくるかわりに、なぜ、エロヒムから放射能除去装置の設計図を送ってもらわなかったのだろうかと、私はずっと疑問に思っているのですが。


**ルソーは、教育書「エミール」の中で、当時の調教的な教育のあり方を否定し、「自然にかえれ!」と述べました。ルソーは、理性と文明と人間社会に対して悲観的な考えを持っており、文明の影響下にある教育に対しても悲観的だったのです。
ルソーは、理想とする教育のあり方を、デフォーの「ロビンソン・クルーソー」を例として説明しました。無人島に漂着して、サバイバルしていく中で、ロビンソンは、誰にも教わらず、試行錯誤の経験から自ら多くを学びながら、独自の方法で生活を自立させていきます。子どもたちも、そのようであるべきだと、ルソーは考えていました。『子どもは、決して、大人に褒められたり、すかされたりして、大人の望むように踊らされるような、大人の評価と操作の対象であってはならない』というのが、教育書エミールの骨子です。だから、エミールの教育論によれば、日本のような教師による授業やテストや通知表や中学受験などの指導や評価や選抜のシステムは悪そのものであり、そもそも、まったく問題外です。
エミールには「造物主(神)の手を出るときは、すべてのものが善であるが、人の手に移されるとすべてのものが悪くなってしまう」という記述がありますが、老子の「無為自然」の思想にも似た考え方で、大人が子どもに積極的に教えこもうとする時に生じやすい〝悪しき弊害〟を強く説いています。
その「エミール」の影響を受けて、ジュール・ヴェルヌは「二年間の休暇(十五少年漂流記)」を著しました。ロビンソンの場合とは違って、15人の年齢も国籍も異なる少年たちが、漂着した無人島で、大人の助けなしでサバイバルしていく物語です。
ルソーの考える理想の教育の中には、評価者、指導者、教え導く者としての〝教師〟という存在はありません。しかも、〝教師不要〟なのではなく、〝教師は絶対悪〟ということなのです。教師の存在は、子どもの自由な心を縛り付け、『大人の価値観による評価の奴隷』という名の心の牢獄(あるいは〝良い子の虚飾〟という名のからっぽの心)に閉じ込めてしまうからです。ルソーは、「世間の一般的な教育は、いつも他人のことを考えているように見せかけながら、自分のことのほかにはけっして考えない二重の人間性をつくるほかには能がない」「ところが、そういう見せかけ(だけの親切や同情や丁寧さ)は、(教育を受けた)すべての人に共通のものだから、誰もだませない」「すべては無駄な心遣い(努力)である」と述べています。
具体的に言うと、ルソーは、先生の言いつけに素直に従って、良い成績をとるという目的だけのために、好きでもない教科の勉強に、一生懸命に取り組める、テスト大好きな〝良い子〟を、大人のドグマに取り込まれた哀れな囚人として全否定しているということです。その意味で、役にも立たない〝良い子〟を大量に作り出す教師という存在は、ルソーによれば、人類社会にとって絶対的な悪なのです。
ただし、日本の場合は、平成になって、親の〝教師化〟と社会の〝学校化〟が不気味なまでに進んでおり、子供を取り巻く状況はますます深刻に劣悪になっていますから、ルソーが本当に言いたいことなど、ほとんど理解されないでしょう。
最も大切なことは、「大人が、子どもを評価することを通して、子どもを比較したり差別したりしてはならない」ということです。成績を点数化し、優劣をつけることが、すなわち評価であり比較であり差別なのです。ルソーは、「0歳〜20歳までの間、子どもはそうした差別から守られて育たなければ、心が不幸な情念に支配されて、一生幸せになることが困難になる」と述べています。

また、ともかく、ルソーは、子どもが確固とした自分の意志を持てるようになるまでは、教師が技術や知識や常識や道徳や思想を教えようとすることを断じて退けます。孔子が「15歳にして学を志した」ように、15〜16歳の思春期がやってきて、積極的な教育にふさわしい適切な年齢になるまで、そして、子ども自身が自らの意思で学ぶ〝志〟を持つまで、余計な社会的知識などで、子どもの心を縛りつけてはならない、教育はあくまで消極的なものでなければならない、というのがルソーの主張です。
『消極的な教育』とは、つまり「教えない」ということです。ともかく、子どもに知識を与えてはなりません。ですからルソーの考えによれば、〈感性の時代〉にある小学生、〈理性の芽生えの時期〉にある中学生までは、子どもには、教師も辞書も図鑑も百科事典も、必要ないのです。
具体的には、『小学生には算数も理科も社会も教えてはならない。時計の読み方も、九九も教える必要はない。算数と理科の勉強は中学からでいいし、それも、計算や道具の使い方など技術的な指導(強制ではない)に限る。数学的・科学的知識は与えてはならない。当然、歴史・地理などの社会科の授業などは高校からでよい。国語は、小中学生までは、読み書きだけを教えて、後は、好きな本(ただし、詩や物語などに限る/知識の本ではない)を自由に読ませればよい』ということです。ただし、道徳教育や宗教教育は、絶対に小・中学生にはしないこと。だから、道徳的・宗教的・思想的な本は、小・中学生に一切読ませてはなりません。洗脳は厳禁。ともかく、〈理性と共感のバランスの時代〉に入る高校生になるまでは、良質の児童文学や詩以外の知識を与えるための書物は〝禁書〟です!
このように、ルソーの理想とする世界では、教科書も授業もないのですから、当然、宿題もテストも通信簿も受験もありません。であるなら、そもそも、小中学校そのものが要らないのです。
もっとも、ルソーは、子どもたちに寄り添って見守る、共感的なアドバイザーとしての大人の存在は、大切なものとして認めています。
ヴェルヌの小説の中でも、途中から、そのような大人の男女が、無人島生活に加わります。けれども、彼らは、大人でありながら、少年たちのリーダーにはなりません。あくまでも、共感的な傍観者であり、アドヴァイザーであり、じっと見守り続ける保護者なのです。
有り体に言えば、『エミール』は、現在の日本の教育のあり方と教育に関する社会的な常識観念を〝全否定〟した本です。ですから、日本の教員養成大学などで、この書が、どのように取り扱われているか、考えると興味深いです。
ほとんどの教員や教授は、自身の大学時代に、教養を身につけようと「エミール」を読んだかもしれませんが、その内容はほとんど頭に入らなかったのではないでしょうか。
また、よく「自然に還る」とは、大自然の中で子供を育てること、野生児のように育てること、生育環境を天然物で満たすこと、などと勘違いしている人がいます。しかし、ルソーの言っている〝自然〟とは、そういうことではないのです。自然は、外界にではなく、あなた自身、そして、子ども自身の内にあるのです。ですから「内なる自然を保て」ということなんですね。
ルソーは、文明を悪と考えていましたが、今更、人間が文明を捨てて、自然人に戻れるとは考えていませんでした。例えば、現代人が縄文人に戻れるわけはないのです。ですから、人間が物理的に自然に帰ること、出来るだけ田舎に暮らして、自然に近い原始的な生活を送ることなどを、ルソーは目指してはいなかったのです。ルソーが考えていたのは、「この文明社会の中で、個人が、どうやって折り合いをつけて、内なるバランスを失わずに生きていくか」ということでした。これが『エミール』のテーマです。
余談ですが、ルソーの言う「自然に帰れ!」と、ジョブズの言う「Stay hungry. Stay foolish.」と、ピンク・フロイドの「Another brick in the wall 」は、どこか通じるところがあるような気がします。
三者ともに、「他人の価値観に踊らされて、本当の自分ではない人生を送ってはならない」と述べているからです。
それから、もう一つ、余談ですが、ルソーは、子どもを書物そのものから遠ざけようとしましたが、それは、まだ「グリム童話」などの物語の発見がなされる以前だったことなどが影響していると、私は考えています。優れた児童文学のほとんどは、ルソーの没後に(「エミール」の影響下で)書かれているからです。