2022年4月から、18歳以上を成人とする改正民法が施行されることとなった。2018年6月13日、今日の参議院本会議で自民・公明・維新など賛成多数で可決され、改正民法が成立したことによる。
これまでに、既に2015年の公職選挙法改正によって、選挙権は18歳にまで引き下げられていたわけだが、今回の民法改正により、さらに、18歳で、親の同意なく結婚することが可能となった。ただし、女子の結婚可能年齢も、男子同様に16歳から18歳に引き上げられた。
要するに、「たとえ高校生であっても、18歳になって以降は、親の同意なしで、自由に好きな相手と結婚できる」ということである。
また、18歳で、銀行や信販会社のローン契約なども可能となり、クレジットカードも親の同意なくして、勝手につくることができるようになる。逆に言えば、契約後、保護者による契約の取り消しはできないということだ。加えて、成人として、自分の意思だけで、他人を訴訟に訴えることもできるようになる。
医師、公認会計士、行政書士、司法書士なども、18歳での資格習得と免許登録が可能となる。つまり、法的にも経済的にも、完全に自立した個人とみなされるわけだ。
ただし、飲酒・喫煙・ギャンブルなどは、習慣性や依存性の強さを懸念して、青少年の心身の健康への配慮から、これまで通りに、20歳未満は禁止のままとされた。とは言っても、実際には、それらの規制は、もともと「あってなきがごとし」であるし、禁止のままでも解禁しても、どちらであっても大勢にたいした影響はない。
ところが、少年法の適用年齢を18歳未満とするかどうかについては、これ以降も審議が続くということだ。未成年者に有利な保護規定の適用を18歳未満とするかどうかについて、意見が割れているためだと言う。
この問題は、法制度の整備が煩雑な上、飲酒・喫煙・ギャンブルなどと違って、社会的影響がはるかに大きいため、簡単には決められないようだ。
しかし、18歳以上20歳未満の成人を、これまで通り少年法の保護規定や減刑規定を適用するというのは、道理に反しているように思える。
例えば、見方によっては「司法書士として他人の代理として裁判に訴える権利は与える一方で、本人が刑事裁判に訴えられた場合の法的義務は減免する」ということになるわけだ。このように『権利だけ与えて義務は保留する』というのは、いかがなものか。
少年犯罪において、犯罪を犯した少年の責任を軽減するのは、例えば、未成年者であるから「本人の責任が50%で、保護者の責任が50%」というように考えるからだが、もはや、成人として法的に保護者の手を離れている以上、もとの保護者に本人の犯した罪の責任を負わせることはできない。そうである以上、やはり、本人が100%責任を負うべきだろう。
どんな凶悪犯罪を犯しても、少年法の規定により、実名報道や顔写真の公表など、加害者本人の特定に繋がる報道はできないというのは、やはり、理不尽なことである。
例えば、凄惨極まる殺人事件の主犯が19歳の少年(?)で、共犯が20歳の成人だとして、メディアが法令遵守すると、共犯者の方だけが、実名報道され、顔写真も公表されるというおかしなことになる。
一方、被害者の方は、実名・顔写真含めて、一切包み隠さず事細かにしつこく報道されるのだから、なおさら納得がいかない。
「自らの言動・行為に責任を負う」ということは、最終的には「自らの心の在り方に責任を負う」ということに繋がる。
「自らの心を見つめる」ということは、本来、青少年の心の成長において、もっとも重要なことなのだが、現代の家庭や学校での教育では、とかく欠落しがちであるように思う。
甘やかされて育ち、内省を知らずに、生活基盤の社会的安定と、個人としての周囲の評価だけを求めて極めて外見重視で生きている大人も多い。
つまり、大人も子どもも「外からどう見られるか」だけを気にし、加えて「自分が人前で実際にどういう言動をしたか」だけをチェックして、正解の行動を行おうと努力するのである。しかし、そこには心がない。心のない大人に育てられた子どもはどうなるだろうか。今、負の連鎖が、社会全体の深いところで続いているのではないか。
そして、このような内面の問題がないがしろにされ、外見だけにとらわれがちな社会で育ってきた子供たちに対して、責任の自覚を促す手段は限られてくるのではないだろうか。
そうした観点からも、「成人としての法的な責任の所在を明示する」のは、青少年の自覚を促す数少ない貴重な手段となりうる。
ともかく少年裁判においては、検察側には尋問権も発言権もなく、当然、検察側の証人も呼べず、弁護側の独壇場である。そればかりか、検察官のオブザーバーとしての裁判への同席すら裁判官の許可が必要で、検察が同席できる裁判自体限られている。さらに、成人が同じ罪を犯した場合に比べ、将来ある加害少年保護の立場から、更生を期待して著しく減刑されることになっている。近年、少年犯罪に対する厳罰化の傾向があるとはいえ、基本は今も変わっていない。
だから、被疑者の少年の親が裕福な場合には、少年裁判は弁護士の格好の稼ぎどころとなっている。これはもう、ある種の〝利権〟と言っていい。
18歳成人への少年法適用を擁護する悪徳(?)弁護士たちの口車に乗って、新成人をいたずらに甘やかすのは、本当にやめてもらいたい。18・19歳に、新たに権利を与えるなら、相応の義務も負わせるのが当然である。
よって、〝18歳以上の成人に少年法を適用するのは適当ではない〟とわたしは考える。成人は、あくまでも成人として扱うべきだ。
そのように私が考える最大の理由は、〝子どもの心〟の「時代」による質的な変化を痛切に感じているからだ。
そもそも、更生とは何だろうか?
反省とは何だろうか?
被害者の痛みを感じること?
自分の罪を自覚すること?
簡単に起こることではないだろう。
特に現代においては、人の心は、そう簡単に更生するとは思えない。
日本社会の犯罪発生率が下がりつづけているのは、単に金があるから、余裕があるから、保護が行き届いているから、ではないのか?
殺人件数が減っているのは、殺したいほど憎むこともないほど、人と人の繋がりが薄れているからではないのか?
自分に害が及ばないなら、他人のことなど一切気にしないからではないのか?
この現代日本社会で、いったい誰が本当に更生するというのか。
「人の痛みって何ですか?」
「感じなきゃいけないんですか?」
「よくわかんないけど、死ぬ気で良い子を演じればいいんでしょう?」
凶悪犯罪や重大犯罪においては、家裁の裁判官の判断によって、家庭裁判所から地方裁判所への「逆送」があり得るから、少年法を適用しても問題がないとか、少年院は刑務所よりも反省を促す点では〝厳しい〟から、服役(収容)期間が短くても少年院の方が効果的だというのは、やはり、納得がいかない面がある。
2000年、2007年、2014年と少年法は徐々に改正されてはいるが、例えば、犯行時17歳の少年の場合、たとえ凶悪な殺人を犯しても、5年から10年の不定期刑しか科せられないとか、違和感しかない。(2009年、大阪富田林市男子高校生殺害事件)
一方、「成人の場合は起訴猶予が多い」というのは確かに問題だ。そこは、18・19歳においては、更生のため全件送致とするのがよいとは思う。そして、刑事事件であれば不起訴処分になるような軽微な事件については、更生のために保護処分にして少年院に収容するという特例手段は、あってもよいのではないか。
「18・19歳は、もはや、成人であるから、保護・教育の必要がない」などと言っているわけではないのだ。大人であっても、保護・教育が必要な場合は当然ある。
しかし、例えば、平成24(2012)年度に逆送された少年による殺人事件は8件、そのうち検察官送致となり刑事処分を受けて懲役を科せられた者は、たったの2名である。残り6名は保護処分とされ少年院送致となった。この6名は、少年法の保護規定により前科もつかない上に、早ければ2年程度で更生したものとして少年院を出てくる。
こうした、これまでの家裁から地裁へのまだまだ加害者に甘い(?)「逆送」を、18・19歳においては「順走」として、基本は刑事処分相当とし、情状酌量の余地が甚だしく大きい場合は、特に地裁から家裁に「逆送」して保護処分とするシステムに、少年法を抜本的に改正するのでなければ、そもそも「成人」の意味がわからない。
今日の日本社会における18歳は、一般に精神的に成熟しておらず、まだ幼い。けれども、20歳でも、25歳でも、精神が幼いまま成熟しない若者は大勢いる。経済的にも自立できないパラサイト・シングルや引きこもりは、30歳でも沢山いる。
だからと言って「心が幼いから責任を問わない」というわけにはいかないだろう。法的に、もはや少年でない者に、少年法を適用するのは、やはり何か間違っている。
凶悪犯罪については、少年であっても実名報道がなされてよいだろうし、18・19歳の凶悪事件については、少年法によって加害者のプライバシーが保護されること自体が理不尽である。
私が一番強く感じて懸念しているのは、現代人の他者に対する「無関心」「無感動」「冷血」である。
もちろん、そのせいで、確かに、「憎くて、憎くて、どうしようもなくて、その憎しみの末に思いあまって殺す」というような怨恨殺人は、ずいぶん減っているに違いない。(もっとも、金のためなら、簡単に殺すかもしれないが。)
しかし、怨恨殺人が減ったかわりに、「相手は誰でもいいから殺したかった」というような、理由のわからない不特定の相手を狙った通り魔的な無差別殺人は、逆に若者を中心に増えているのではないか。
社会全体の変化や犯罪者の心の質的な変容を考慮せず、単に統計の数字だけ比べて何の意味があるだろうか。数字の上で犯罪発生率が下がっているから、少年院は刑務所よりうまくいっているなどと安易に言えるのか。
殺人件数は、年間400件にも満たないかもしれないが、年間2万人が自殺し、3万人が遺骨の引き取り手もなく孤独に無縁死していく無葬社会で、日本人は本当にうまくいっているのだろうか。
親が死んでも、仏壇も持たず位牌もつくらず、葬儀の直後に永代供養して、初七日も待たずに遺骨を厄介払いしてしまう子どもも多い。それに比べたら、憎まれて我が子に殺された親の方が、まだ成仏できるのではないだろうか。
憎しみからではなく、金のためですらなく、「ちょっと殺してみたくなって、人を実際に殺してみた」「弄んでいるうちに、殺さないと面倒なことになると思って殺しちゃった」という社会病質者の〝最果ての異邦人〟に、どんな更生があり得るというのか。
本人も幼少時に虐待されていたかもしれない。けれども、ここまで心が壊れてしまっていて、今さら、他人に何ができる?
と言うことで、繰り返しになるが、以上述べてきたような理由から、私は、『18歳成人に少年法を適用するべきではない』と考える。
そして、日弁連の「少年法の適用年齢の18歳未満への引き下げに反対する」という主張に反対する。
日弁連の主張は「少年犯罪は統計上、増加も凶悪化もしていない」「それどころか、少年犯罪は激減しており、しかも、殺人・傷害致死の件数については、年間数十件に過ぎない」「少年犯罪は過激化も悪質化もしていない」「だから、少年法は更生制度としてうまくいっている」というものだ。
しかし、少年犯罪の激減と少年法による更生努力との相関関係は、実際には何もわかっていない。かえって今後の少年法改正によって、もっと凶悪犯罪が減るかもしれない。あるいは、これまでうやむやにされてきた凶悪犯罪が、白日の下に晒されるかもしれない。
また、私も、少年の凶悪犯罪が増えていないことは知っている。そして、凶悪な少年犯罪は、昔の方が多かったことも知っている。「無知の涙」を著した死刑囚永山則夫もその一人であった。
繰り返すが、凶悪犯罪を起こす少年の心そのものの質的な変容が気になるのだ。永山則夫は無知の涙を流したが、果たして現在の少年犯罪者たちはどうだろうか。
例えば、大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件(1994)の場合はどうだろう。3人の死刑囚含めて、関わった10人の犯人たちのうち、本当に反省している者など一人としているだろうか。そもそも、反省する能力がないのだ。
石巻3人殺人事件(2010)を起こした死刑囚などは、新聞記者による獄中でのインタビューによると、自分が殺害したこと自体もよく覚えていないそうだ。記憶にないのだから、反省などあり得ないし、更生など永久に出来るはずもない。
川崎市中1男子殺害事件(2015)の18歳の主犯格少年は、殺人罪で懲役9年以上13年以下で刑が確定したが、7、8年で刑務所から仮釈放されるのかと思うと、これも遺族からすればやりきれないだろう。しかも、この連中、主犯少年は似たような事件を起こして鑑別所から出てきたばかり、共犯の2人も公判中、反省の様子などかけらも見られなかったようだ。
いずれにしても、私の求めているのは、18歳成人の民法改正に伴う必然的な少年法改正であり、少年院の役割や家裁の未成年者保護の役割を全否定しているわけではないし、少年を更生させる制度の根幹を変えたいわけでもない。
民法改正にともなって、行わなければならない当然の少年法改正を、滞りなく正当に行えばよいのだ。
それから、もう一つ、ふと疑問に思うのだが、凄惨極まるリンチ殺人事件の加害者の多くが、成人・未成人を問わず、なぜ「殺人」罪にならず、より罪の軽い「傷害致死」罪が認められてしまうのだろうか。
殺人の場合は、少年と言えども死刑もあり得るが、傷害致死の場合は、法定刑が3年以上の有期懲役に限定される。
何時間も、何日も、監禁して暴行を繰り返しておきながら、傷害致死はないだろう。「監禁して一週間、1日10時間程度、死なない程度に虐待を繰り返していたら、思いがけず死んじゃいました」というのが、なぜ殺人や未必の故意より罪が軽いのか、私にはよくわからない。
例えば、東松山リンチ殺人(2016)の主犯格少年(犯行当時16歳)の地裁一審判決(2017)は、傷害致死罪で懲役6〜9年の不定期刑だった。つまりは、うまくすれば4、5年で仮釈放である。どんなに長くとも、25歳までには自由の身になって少年刑務所を出てくる。
「5人で、石で殴る蹴るの暴行を2時間も続けた後、川に沈めて水に顔を押し付けたら、痙攣して動かなくなった。」「あれ、なんでだろう、死んじゃったよ。」
これが〝殺人〟でなくて何なのか。それどころか〝未必の故意〟さえ認められないというのは、どうしたことか。
殺人罪の適用のためには「殺意」があったことが証明されねばならない。また、未必の故意(殺意)の成立のためには「これで死んでもいいと思った」という認識があったことを証明しなければならない。結局、問題となるのは、意思の有無であり、それは本人にしかわからない。
「人一人なぶり殺しにしても、殺意を認めさえしなければ、この程度の刑罰で済む」と弁護士が教えているのだ。
「少年法改正で厳罰化が進んでいるって、どこで?」と言いたくもなる。
私見だが、「殺意がなかった」というのは、場合によっては、殺意があった場合よりも、むしろ罪が重いのではないだろうか。
遺族にしてみれば、ネット上で、少年法で守られているはずの加害者たちの顔写真や名前や経歴が晒されているのが、せめてもの慰めではないだろうか。
これまでに、既に2015年の公職選挙法改正によって、選挙権は18歳にまで引き下げられていたわけだが、今回の民法改正により、さらに、18歳で、親の同意なく結婚することが可能となった。ただし、女子の結婚可能年齢も、男子同様に16歳から18歳に引き上げられた。
要するに、「たとえ高校生であっても、18歳になって以降は、親の同意なしで、自由に好きな相手と結婚できる」ということである。
また、18歳で、銀行や信販会社のローン契約なども可能となり、クレジットカードも親の同意なくして、勝手につくることができるようになる。逆に言えば、契約後、保護者による契約の取り消しはできないということだ。加えて、成人として、自分の意思だけで、他人を訴訟に訴えることもできるようになる。
医師、公認会計士、行政書士、司法書士なども、18歳での資格習得と免許登録が可能となる。つまり、法的にも経済的にも、完全に自立した個人とみなされるわけだ。
ただし、飲酒・喫煙・ギャンブルなどは、習慣性や依存性の強さを懸念して、青少年の心身の健康への配慮から、これまで通りに、20歳未満は禁止のままとされた。とは言っても、実際には、それらの規制は、もともと「あってなきがごとし」であるし、禁止のままでも解禁しても、どちらであっても大勢にたいした影響はない。
ところが、少年法の適用年齢を18歳未満とするかどうかについては、これ以降も審議が続くということだ。未成年者に有利な保護規定の適用を18歳未満とするかどうかについて、意見が割れているためだと言う。
この問題は、法制度の整備が煩雑な上、飲酒・喫煙・ギャンブルなどと違って、社会的影響がはるかに大きいため、簡単には決められないようだ。
しかし、18歳以上20歳未満の成人を、これまで通り少年法の保護規定や減刑規定を適用するというのは、道理に反しているように思える。
例えば、見方によっては「司法書士として他人の代理として裁判に訴える権利は与える一方で、本人が刑事裁判に訴えられた場合の法的義務は減免する」ということになるわけだ。このように『権利だけ与えて義務は保留する』というのは、いかがなものか。
少年犯罪において、犯罪を犯した少年の責任を軽減するのは、例えば、未成年者であるから「本人の責任が50%で、保護者の責任が50%」というように考えるからだが、もはや、成人として法的に保護者の手を離れている以上、もとの保護者に本人の犯した罪の責任を負わせることはできない。そうである以上、やはり、本人が100%責任を負うべきだろう。
どんな凶悪犯罪を犯しても、少年法の規定により、実名報道や顔写真の公表など、加害者本人の特定に繋がる報道はできないというのは、やはり、理不尽なことである。
例えば、凄惨極まる殺人事件の主犯が19歳の少年(?)で、共犯が20歳の成人だとして、メディアが法令遵守すると、共犯者の方だけが、実名報道され、顔写真も公表されるというおかしなことになる。
一方、被害者の方は、実名・顔写真含めて、一切包み隠さず事細かにしつこく報道されるのだから、なおさら納得がいかない。
「自らの言動・行為に責任を負う」ということは、最終的には「自らの心の在り方に責任を負う」ということに繋がる。
「自らの心を見つめる」ということは、本来、青少年の心の成長において、もっとも重要なことなのだが、現代の家庭や学校での教育では、とかく欠落しがちであるように思う。
甘やかされて育ち、内省を知らずに、生活基盤の社会的安定と、個人としての周囲の評価だけを求めて極めて外見重視で生きている大人も多い。
つまり、大人も子どもも「外からどう見られるか」だけを気にし、加えて「自分が人前で実際にどういう言動をしたか」だけをチェックして、正解の行動を行おうと努力するのである。しかし、そこには心がない。心のない大人に育てられた子どもはどうなるだろうか。今、負の連鎖が、社会全体の深いところで続いているのではないか。
そして、このような内面の問題がないがしろにされ、外見だけにとらわれがちな社会で育ってきた子供たちに対して、責任の自覚を促す手段は限られてくるのではないだろうか。
そうした観点からも、「成人としての法的な責任の所在を明示する」のは、青少年の自覚を促す数少ない貴重な手段となりうる。
ともかく少年裁判においては、検察側には尋問権も発言権もなく、当然、検察側の証人も呼べず、弁護側の独壇場である。そればかりか、検察官のオブザーバーとしての裁判への同席すら裁判官の許可が必要で、検察が同席できる裁判自体限られている。さらに、成人が同じ罪を犯した場合に比べ、将来ある加害少年保護の立場から、更生を期待して著しく減刑されることになっている。近年、少年犯罪に対する厳罰化の傾向があるとはいえ、基本は今も変わっていない。
だから、被疑者の少年の親が裕福な場合には、少年裁判は弁護士の格好の稼ぎどころとなっている。これはもう、ある種の〝利権〟と言っていい。
18歳成人への少年法適用を擁護する悪徳(?)弁護士たちの口車に乗って、新成人をいたずらに甘やかすのは、本当にやめてもらいたい。18・19歳に、新たに権利を与えるなら、相応の義務も負わせるのが当然である。
よって、〝18歳以上の成人に少年法を適用するのは適当ではない〟とわたしは考える。成人は、あくまでも成人として扱うべきだ。
そのように私が考える最大の理由は、〝子どもの心〟の「時代」による質的な変化を痛切に感じているからだ。
そもそも、更生とは何だろうか?
反省とは何だろうか?
被害者の痛みを感じること?
自分の罪を自覚すること?
簡単に起こることではないだろう。
特に現代においては、人の心は、そう簡単に更生するとは思えない。
日本社会の犯罪発生率が下がりつづけているのは、単に金があるから、余裕があるから、保護が行き届いているから、ではないのか?
殺人件数が減っているのは、殺したいほど憎むこともないほど、人と人の繋がりが薄れているからではないのか?
自分に害が及ばないなら、他人のことなど一切気にしないからではないのか?
この現代日本社会で、いったい誰が本当に更生するというのか。
「人の痛みって何ですか?」
「感じなきゃいけないんですか?」
「よくわかんないけど、死ぬ気で良い子を演じればいいんでしょう?」
凶悪犯罪や重大犯罪においては、家裁の裁判官の判断によって、家庭裁判所から地方裁判所への「逆送」があり得るから、少年法を適用しても問題がないとか、少年院は刑務所よりも反省を促す点では〝厳しい〟から、服役(収容)期間が短くても少年院の方が効果的だというのは、やはり、納得がいかない面がある。
2000年、2007年、2014年と少年法は徐々に改正されてはいるが、例えば、犯行時17歳の少年の場合、たとえ凶悪な殺人を犯しても、5年から10年の不定期刑しか科せられないとか、違和感しかない。(2009年、大阪富田林市男子高校生殺害事件)
一方、「成人の場合は起訴猶予が多い」というのは確かに問題だ。そこは、18・19歳においては、更生のため全件送致とするのがよいとは思う。そして、刑事事件であれば不起訴処分になるような軽微な事件については、更生のために保護処分にして少年院に収容するという特例手段は、あってもよいのではないか。
「18・19歳は、もはや、成人であるから、保護・教育の必要がない」などと言っているわけではないのだ。大人であっても、保護・教育が必要な場合は当然ある。
しかし、例えば、平成24(2012)年度に逆送された少年による殺人事件は8件、そのうち検察官送致となり刑事処分を受けて懲役を科せられた者は、たったの2名である。残り6名は保護処分とされ少年院送致となった。この6名は、少年法の保護規定により前科もつかない上に、早ければ2年程度で更生したものとして少年院を出てくる。
こうした、これまでの家裁から地裁へのまだまだ加害者に甘い(?)「逆送」を、18・19歳においては「順走」として、基本は刑事処分相当とし、情状酌量の余地が甚だしく大きい場合は、特に地裁から家裁に「逆送」して保護処分とするシステムに、少年法を抜本的に改正するのでなければ、そもそも「成人」の意味がわからない。
今日の日本社会における18歳は、一般に精神的に成熟しておらず、まだ幼い。けれども、20歳でも、25歳でも、精神が幼いまま成熟しない若者は大勢いる。経済的にも自立できないパラサイト・シングルや引きこもりは、30歳でも沢山いる。
だからと言って「心が幼いから責任を問わない」というわけにはいかないだろう。法的に、もはや少年でない者に、少年法を適用するのは、やはり何か間違っている。
凶悪犯罪については、少年であっても実名報道がなされてよいだろうし、18・19歳の凶悪事件については、少年法によって加害者のプライバシーが保護されること自体が理不尽である。
私が一番強く感じて懸念しているのは、現代人の他者に対する「無関心」「無感動」「冷血」である。
もちろん、そのせいで、確かに、「憎くて、憎くて、どうしようもなくて、その憎しみの末に思いあまって殺す」というような怨恨殺人は、ずいぶん減っているに違いない。(もっとも、金のためなら、簡単に殺すかもしれないが。)
しかし、怨恨殺人が減ったかわりに、「相手は誰でもいいから殺したかった」というような、理由のわからない不特定の相手を狙った通り魔的な無差別殺人は、逆に若者を中心に増えているのではないか。
社会全体の変化や犯罪者の心の質的な変容を考慮せず、単に統計の数字だけ比べて何の意味があるだろうか。数字の上で犯罪発生率が下がっているから、少年院は刑務所よりうまくいっているなどと安易に言えるのか。
殺人件数は、年間400件にも満たないかもしれないが、年間2万人が自殺し、3万人が遺骨の引き取り手もなく孤独に無縁死していく無葬社会で、日本人は本当にうまくいっているのだろうか。
親が死んでも、仏壇も持たず位牌もつくらず、葬儀の直後に永代供養して、初七日も待たずに遺骨を厄介払いしてしまう子どもも多い。それに比べたら、憎まれて我が子に殺された親の方が、まだ成仏できるのではないだろうか。
憎しみからではなく、金のためですらなく、「ちょっと殺してみたくなって、人を実際に殺してみた」「弄んでいるうちに、殺さないと面倒なことになると思って殺しちゃった」という社会病質者の〝最果ての異邦人〟に、どんな更生があり得るというのか。
本人も幼少時に虐待されていたかもしれない。けれども、ここまで心が壊れてしまっていて、今さら、他人に何ができる?
と言うことで、繰り返しになるが、以上述べてきたような理由から、私は、『18歳成人に少年法を適用するべきではない』と考える。
そして、日弁連の「少年法の適用年齢の18歳未満への引き下げに反対する」という主張に反対する。
日弁連の主張は「少年犯罪は統計上、増加も凶悪化もしていない」「それどころか、少年犯罪は激減しており、しかも、殺人・傷害致死の件数については、年間数十件に過ぎない」「少年犯罪は過激化も悪質化もしていない」「だから、少年法は更生制度としてうまくいっている」というものだ。
しかし、少年犯罪の激減と少年法による更生努力との相関関係は、実際には何もわかっていない。かえって今後の少年法改正によって、もっと凶悪犯罪が減るかもしれない。あるいは、これまでうやむやにされてきた凶悪犯罪が、白日の下に晒されるかもしれない。
また、私も、少年の凶悪犯罪が増えていないことは知っている。そして、凶悪な少年犯罪は、昔の方が多かったことも知っている。「無知の涙」を著した死刑囚永山則夫もその一人であった。
繰り返すが、凶悪犯罪を起こす少年の心そのものの質的な変容が気になるのだ。永山則夫は無知の涙を流したが、果たして現在の少年犯罪者たちはどうだろうか。
例えば、大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件(1994)の場合はどうだろう。3人の死刑囚含めて、関わった10人の犯人たちのうち、本当に反省している者など一人としているだろうか。そもそも、反省する能力がないのだ。
石巻3人殺人事件(2010)を起こした死刑囚などは、新聞記者による獄中でのインタビューによると、自分が殺害したこと自体もよく覚えていないそうだ。記憶にないのだから、反省などあり得ないし、更生など永久に出来るはずもない。
川崎市中1男子殺害事件(2015)の18歳の主犯格少年は、殺人罪で懲役9年以上13年以下で刑が確定したが、7、8年で刑務所から仮釈放されるのかと思うと、これも遺族からすればやりきれないだろう。しかも、この連中、主犯少年は似たような事件を起こして鑑別所から出てきたばかり、共犯の2人も公判中、反省の様子などかけらも見られなかったようだ。
いずれにしても、私の求めているのは、18歳成人の民法改正に伴う必然的な少年法改正であり、少年院の役割や家裁の未成年者保護の役割を全否定しているわけではないし、少年を更生させる制度の根幹を変えたいわけでもない。
民法改正にともなって、行わなければならない当然の少年法改正を、滞りなく正当に行えばよいのだ。
それから、もう一つ、ふと疑問に思うのだが、凄惨極まるリンチ殺人事件の加害者の多くが、成人・未成人を問わず、なぜ「殺人」罪にならず、より罪の軽い「傷害致死」罪が認められてしまうのだろうか。
殺人の場合は、少年と言えども死刑もあり得るが、傷害致死の場合は、法定刑が3年以上の有期懲役に限定される。
何時間も、何日も、監禁して暴行を繰り返しておきながら、傷害致死はないだろう。「監禁して一週間、1日10時間程度、死なない程度に虐待を繰り返していたら、思いがけず死んじゃいました」というのが、なぜ殺人や未必の故意より罪が軽いのか、私にはよくわからない。
例えば、東松山リンチ殺人(2016)の主犯格少年(犯行当時16歳)の地裁一審判決(2017)は、傷害致死罪で懲役6〜9年の不定期刑だった。つまりは、うまくすれば4、5年で仮釈放である。どんなに長くとも、25歳までには自由の身になって少年刑務所を出てくる。
「5人で、石で殴る蹴るの暴行を2時間も続けた後、川に沈めて水に顔を押し付けたら、痙攣して動かなくなった。」「あれ、なんでだろう、死んじゃったよ。」
これが〝殺人〟でなくて何なのか。それどころか〝未必の故意〟さえ認められないというのは、どうしたことか。
殺人罪の適用のためには「殺意」があったことが証明されねばならない。また、未必の故意(殺意)の成立のためには「これで死んでもいいと思った」という認識があったことを証明しなければならない。結局、問題となるのは、意思の有無であり、それは本人にしかわからない。
「人一人なぶり殺しにしても、殺意を認めさえしなければ、この程度の刑罰で済む」と弁護士が教えているのだ。
「少年法改正で厳罰化が進んでいるって、どこで?」と言いたくもなる。
私見だが、「殺意がなかった」というのは、場合によっては、殺意があった場合よりも、むしろ罪が重いのではないだろうか。
遺族にしてみれば、ネット上で、少年法で守られているはずの加害者たちの顔写真や名前や経歴が晒されているのが、せめてもの慰めではないだろうか。