「グレイス・スリックの肖像」は、松任谷由実が1981.11にリリースした12thアルバム「昨晩お会いしましょう」の8曲目にある曲です。同アルバムに先行して1981.6にリリースされたシングル・レコード「守ってあげたい」のB面の曲でもあります。
アルバム「昨晩お会いしましょう」は、第2期ユーミン・ブームの幕開けを飾った作品であり、かなり有名な曲がたくさん入っています。代表曲「守ってあげたい」以外にも、「カンナ8号線」「A HAPPY NEW YEAR」など、名曲揃いです。
しかし、わたしは、このアルバムの醍醐味は、「カンナ8号線」の疾走感、「守ってあげたい」の幸せ感、「A HAPPY NEW YEAR」の静かで平和な祈りの感覚とあいまって、とても切ない哀しい曲がさらに二つ、強烈な存在感を放っているところにあると思うのです。陰(−)と陽(+)のバランスと言うのでしょうか。陰の曲があるからこそ、陽の曲が一層引き立つということもあると思うのです。
しかし、残念ながら、その2曲は、上記の3曲に比べて、あまり、正当に評価されていないという気がします。実際、この2曲は、ユーミンのベスト・アルバムには一度も入っていません。
その日陰の2曲のうち1曲は、アルバム・リリースと同時に1981.11にシングル・カットされた「夕闇をひとり」です。この曲は、直前に年間シングル売上10位の大ヒットをしていた「守ってあげたい」とは違って、週間ランキング最高48位と、セールス的には、まったく振るわなかった曲です。ただし、アルバム・ジャケットは、完全に、この曲のイメージでデザインされていますし、ユーミンとしても、かなり思い入れの強い曲だったのではないでしょうか。
歌詞のイメージは、「ふられた男に未練タラタラの病的なストーカー、壊れたやばい女のホラーストーリーとしか感じない」という人もいるようですが、わたしには「夕闇をひとり歩いていく決意」を感じさせる、凛々しい曲に思えるのです。ちょっと感覚が違いすぎて、わたしの感じ方がおかしいかもしれませんが、わたしとしては、今もとても好きな曲です。
そして、もう一曲、アルバム全体の中でも、とりわけ重く切ない存在感を放っているのが、このしんみりとしたスローバラード曲「グレイス・スリックの肖像」です。


この曲について、グレイス・スリックが、どこの誰なのかとか、個人的には、そんなことは、どうでもいいのです。
実は、グレイスは、アメリカのロック・バンド、ジェファーソン・エアプレインのボーカルであるとか、曲のイントロに、印象的なフランス民謡「フレール・ジャック」の旋律が使われているとか、そういうことは、瑣末なことに過ぎません。
「彼女の長い髪と激しい歌が好きだった」という詞にあるように、ユーミン自身は、一時期、グレイスの大ファンだったのかもしれません。けれども、わたしにとっては知らない人です。
ただ、それにもかかわらず、この「グレイス・スリックの肖像」という歌自体は、初めて聴いた時から、わたしの心を鷲掴みにしました。以来、40年近く経った今も、わたしは、この曲に魅せられています。
その昔、「わたしを忘れてから、もうどれくらいたちますか」という歌い出しの最初の呼び掛けのフレーズを聴いただけで、強烈に惹かれるものを感じていました。
それにも増して、「あなたを忘れてから、いろんな人を傷つけて、それさえ忘れて、わたしは、過ごしてしまった」という二番の出だしにある慨嘆の詞などは、心の中で、思わず、唸ってしまうぐらい痺れました。
ともかく、この曲は、一番も二番も、歌い出しの詞が、素晴らしく、引き込まれるのです。
それに加えて、何と言っても、サビがいいのです。言葉にならないぐらい心を掴まれて、たちどころにノックアウトされました。
「みんな、ここに来て、アンプに火をつけて、ひとりの、心の扉、ノックして。」
「みんな、ここに来て、哀しいプレイをして、さまよう乾いた日々を慰めて。」
「みんな、ここに来て、過ぎた時を見せて、深まる夜のしじまへ、連れてって。」
もう、けっして取り戻せない過去へ向かって、現実にはいない記憶の中の幻の人たちに向かって、心が叫ぶのです。「お願い、みんな、ここへ来て、わたしを暖めて」と。
この曲は、私としては、松任谷由実の代表曲の一つだと思うのです。どうして、ベスト盤に、一度も入っていないのでしょうか。いつか、もっと、この曲が正当に評価される日が来ると良いな、と思います。


「過ぎし日の素敵な思い出は、今の、ひとりぼっちのわたしの心を、暖めてくれるのです」という、印象的な言葉を思い出しました。それは、絵本の中の台詞です。過去の幸せな思い出を大切にすることで、老後の孤独な生活に耐えている、可愛らしい老婦人の出てくる絵本です。物語のラスト・シーンは、老婦人の呟く、この台詞で終わるのです。ゴフスタインの「私のノアの箱舟」という絵本です。
どこか、「グレイス・スリックの肖像」と、相通じるものを感じます。
人の過去は、けっして喜びだけではないでしょう。それどころか、孤独や挫折や裏切りや別れや哀しみに満ちているのが、普通ではないでしょうか。
それでも、記憶の中から、人は自分を暖めてくれる思い出を探し出します。まるで、奇跡のように。