村下孝蔵と言えば、「春雨(1981)」を思い出します。そのような思い入れは、一方的ではないかと言われれば、確かに、それに違いはないのですが、それでも、敢えて言いたいのです。
「春雨」は、デビュー2年目のセカンド・シングルですが、それほど売れた曲ではありません。オリコン・チャートは最高位58位で、シングルの売り上げは4.2万枚にすぎません。当時、村下孝蔵の名は、世間にほとんど知られていなかったのです。
ちなみに、4枚目シングルの「ゆうこ」はチャート最高23位で売り上げ15.3万枚、5枚目シングルの「初恋」はチャート最高3位で売り上げ52.6万枚、6枚目シングルの「踊り子」はチャート24位で売り上げ8.6万枚でした。
したがって、一般的には、村下孝蔵の代名詞と言えば「初恋」、次点で「ゆうこ」か「踊り子」ということになるのでしょう。
たしかに、フォーク独特の〝語り〟の持つ、聴く者に訴える力と、ピアノ・アレンジのドラマチックな感性を併せ持った佳曲「ゆうこ(1982)」は、わたしとしても忘れられない曲です。当時、婚約していた同名の女性に向けて贈ったとされる〝サビ〟の部分のフレーズの〝キレ〟は、天才的とさえ思えます。
「言いだせない愛は、海鳴りに似ている、遠くから絶え間なく寄せ、僕を強く揺さぶる。」
もしかしたら、この曲が、村下の彼女への愛の告白の代わりだったのかもしれません。作者自身の思い入れも、深く感じられる曲だと思います。
それに、フォークの抒情性とポップスのアップテンポでキャッチーな感性を、絶妙のバランスで融合させた「初恋(1983)」が、時代を超えた名曲であることは認めます。一般的には、この「初恋」が代表曲であることに異議を申し立てるつもりはないのです。村下の楽曲で、もっとも売り上げを伸ばした曲であり、一番カバーされている曲(50人以上)であることも確かです。村下自身も、「初恋」が自分の代表曲だ、と考えていたかもしれません。
また、同一路線でつくられた楽曲である「踊り子(1983)」や「少女(1984)」の存在感が、今も、けっして色褪せることがないということも認めます。
しかし、それでも、村下孝蔵の代表曲と言えば「春雨」という気がするのです。暗すぎると言えば暗すぎる。冴えない地味な歌といえば、それもそうかもしれません。それでも、こればかりは、誰が何と言おうと譲れません。
なぜ「春雨」なのか。
曲調は、発表当時でさえ、レトロな感じがしたほど、時節はずれの王道フォークです。センスの古い、野暮ったい曲と言ってもいいくらいです。
特に、古いフォークの歌が大好きだというわけではありません。ピアノ曲よりギター曲の方が好きというわけでもないのです。また、ヴァイオリンの音色が、そこまで気に入っているわけでもありません。
しかし、当時、わたしは、この曲で村下孝蔵に出会ったのです。そして、一気に引きこまれました。以来、村下の曲で、この曲を超える〝思い入れ〟を持つことができた曲はありません。
出会ってから40年近く経った今も、時々、この曲を聴くと、心の深いところに震えがきます。何でこんなに心に響くのか、よくわかりません。
失恋の歌が、特に好きというわけではないのです。暗い救いようのない悲しい曲が、好みというわけでもありません。
それなのに、なぜ、この歌を聴くと、心が軽くなるというか、どこか救われたような感じがするのでしょうか。
人は、時に、心の奥深くに癒されない傷を負っていることがあります。その痛みに共鳴する何かが、この歌にはあるのかもしれません。
「繰り返す声が、いまもこだまのように、心の中で、まわり続ける。」
「電話の度に、さよなら、言ったのに、どうして、最後は、黙っていたの、哀しすぎるわ。」
どれほど思いの丈をぶつけても、黙られ、無視されて、置き去りにされることって、誰しもあるのではないでしょうか。受け止めてもらえず、黙って去られるのはつらいものです。
「遠く離れたことがいけなかったの、それとも、夢がわたしを捨てたの。」
「もう誰も、わたし、見ないで欲しい、二度と会わないわ、いつか、この街に帰ってきても。」
サビのギターの響きが、心の弦を掻き鳴らします。
そして、「それとも、夢がわたしを捨てたの」という詞が、あまりにも鮮烈で、いつまでも、耳から離れません。
村下孝蔵は、1953(昭和28)年、熊本県水俣市の資産家の家に生まれました。それで、小中学の間は水俣に住んでいました。高校は、熊本市の私立高校に進学し、その後、広島市のデザイナー専門学校に2年通いました。卒業後は、広島でピアノ調律師として働きながら、広島フォーク村に参加したり、ギターの弾き語りのバイトなどをして音楽活動をしていました。
1980年に、27歳でプロデビュー。同期には、仙台出身のHOUND DOGや北海道出身の五十嵐浩晃らがいます。そして、翌1981年に出した2ndシングルが「春雨」です。ちなみに、この同じ年に、五十嵐浩晃は「ペガサスの朝」を大ヒットさせ、「ディープ・パープル」を発表しています。
ニューミュージック全盛の当時において、村下孝蔵の「春雨」は、何とも目立たない地味すぎる楽曲でした。
けれども、この、かけらも格好をつけるということを知らない、「周回遅れでやって来た、素朴で飾り気のない、素直で正直すぎる男」の歌には、誠実すぎると言っていいほどの、溢れるばかりの真心と真実味がありました。
その歌声は、21世紀を待たずに、1999年に、村下が突然逝ってしまった(享年46歳)後、今でも、なお、人の心の琴線に触れる力を持ち続けています。中でも、特に「春雨」は、今のフィフティーズの心に訴えるものがあるのではないでしょうか。
「春雨」の歌詞は、村下自身が書いた第1稿を、レコード会社側に、全面的に書き直させられたものなのだそうです。村下は初稿の方が気に入っていたのだとか。
それでも、1stシングルが4000枚ぐらいしか売れなくて、崖っぷちの状態にいた村下は、「何が何でも、この2ndシングルを売らなければならない」と必死でした。
この曲の詞には、おそらくは無理やり意に添わぬ書き換えを強いられたためか、プロらしからぬ、滑らかさを欠いた、ある種のもどかしさ、たどたどしさが感じられます。ところが、そのせいで、かえって、人の心の一番深いところに、言葉にならない何かを伝えることに成功しているのです。
おそらく、村下自身の心の中にも、癒されない傷の痛みはあったのでしょう。そして、村下は、自らの痛みを癒すために、歌い続けていたのかもしれません。
「春雨」を聴くと、ふと、そんなことを感じてしまうのです。
リアルタイムでは、村下を知らない若い世代の人でも、昭和の歌に心惹かれる人ならば、もしかすると、この歌に何かを感じるかもしれません。
「春雨」は、デビュー2年目のセカンド・シングルですが、それほど売れた曲ではありません。オリコン・チャートは最高位58位で、シングルの売り上げは4.2万枚にすぎません。当時、村下孝蔵の名は、世間にほとんど知られていなかったのです。
ちなみに、4枚目シングルの「ゆうこ」はチャート最高23位で売り上げ15.3万枚、5枚目シングルの「初恋」はチャート最高3位で売り上げ52.6万枚、6枚目シングルの「踊り子」はチャート24位で売り上げ8.6万枚でした。
したがって、一般的には、村下孝蔵の代名詞と言えば「初恋」、次点で「ゆうこ」か「踊り子」ということになるのでしょう。
たしかに、フォーク独特の〝語り〟の持つ、聴く者に訴える力と、ピアノ・アレンジのドラマチックな感性を併せ持った佳曲「ゆうこ(1982)」は、わたしとしても忘れられない曲です。当時、婚約していた同名の女性に向けて贈ったとされる〝サビ〟の部分のフレーズの〝キレ〟は、天才的とさえ思えます。
「言いだせない愛は、海鳴りに似ている、遠くから絶え間なく寄せ、僕を強く揺さぶる。」
もしかしたら、この曲が、村下の彼女への愛の告白の代わりだったのかもしれません。作者自身の思い入れも、深く感じられる曲だと思います。
それに、フォークの抒情性とポップスのアップテンポでキャッチーな感性を、絶妙のバランスで融合させた「初恋(1983)」が、時代を超えた名曲であることは認めます。一般的には、この「初恋」が代表曲であることに異議を申し立てるつもりはないのです。村下の楽曲で、もっとも売り上げを伸ばした曲であり、一番カバーされている曲(50人以上)であることも確かです。村下自身も、「初恋」が自分の代表曲だ、と考えていたかもしれません。
また、同一路線でつくられた楽曲である「踊り子(1983)」や「少女(1984)」の存在感が、今も、けっして色褪せることがないということも認めます。
しかし、それでも、村下孝蔵の代表曲と言えば「春雨」という気がするのです。暗すぎると言えば暗すぎる。冴えない地味な歌といえば、それもそうかもしれません。それでも、こればかりは、誰が何と言おうと譲れません。
なぜ「春雨」なのか。
曲調は、発表当時でさえ、レトロな感じがしたほど、時節はずれの王道フォークです。センスの古い、野暮ったい曲と言ってもいいくらいです。
特に、古いフォークの歌が大好きだというわけではありません。ピアノ曲よりギター曲の方が好きというわけでもないのです。また、ヴァイオリンの音色が、そこまで気に入っているわけでもありません。
しかし、当時、わたしは、この曲で村下孝蔵に出会ったのです。そして、一気に引きこまれました。以来、村下の曲で、この曲を超える〝思い入れ〟を持つことができた曲はありません。
出会ってから40年近く経った今も、時々、この曲を聴くと、心の深いところに震えがきます。何でこんなに心に響くのか、よくわかりません。
失恋の歌が、特に好きというわけではないのです。暗い救いようのない悲しい曲が、好みというわけでもありません。
それなのに、なぜ、この歌を聴くと、心が軽くなるというか、どこか救われたような感じがするのでしょうか。
人は、時に、心の奥深くに癒されない傷を負っていることがあります。その痛みに共鳴する何かが、この歌にはあるのかもしれません。
「繰り返す声が、いまもこだまのように、心の中で、まわり続ける。」
「電話の度に、さよなら、言ったのに、どうして、最後は、黙っていたの、哀しすぎるわ。」
どれほど思いの丈をぶつけても、黙られ、無視されて、置き去りにされることって、誰しもあるのではないでしょうか。受け止めてもらえず、黙って去られるのはつらいものです。
「遠く離れたことがいけなかったの、それとも、夢がわたしを捨てたの。」
「もう誰も、わたし、見ないで欲しい、二度と会わないわ、いつか、この街に帰ってきても。」
サビのギターの響きが、心の弦を掻き鳴らします。
そして、「それとも、夢がわたしを捨てたの」という詞が、あまりにも鮮烈で、いつまでも、耳から離れません。
村下孝蔵は、1953(昭和28)年、熊本県水俣市の資産家の家に生まれました。それで、小中学の間は水俣に住んでいました。高校は、熊本市の私立高校に進学し、その後、広島市のデザイナー専門学校に2年通いました。卒業後は、広島でピアノ調律師として働きながら、広島フォーク村に参加したり、ギターの弾き語りのバイトなどをして音楽活動をしていました。
1980年に、27歳でプロデビュー。同期には、仙台出身のHOUND DOGや北海道出身の五十嵐浩晃らがいます。そして、翌1981年に出した2ndシングルが「春雨」です。ちなみに、この同じ年に、五十嵐浩晃は「ペガサスの朝」を大ヒットさせ、「ディープ・パープル」を発表しています。
ニューミュージック全盛の当時において、村下孝蔵の「春雨」は、何とも目立たない地味すぎる楽曲でした。
けれども、この、かけらも格好をつけるということを知らない、「周回遅れでやって来た、素朴で飾り気のない、素直で正直すぎる男」の歌には、誠実すぎると言っていいほどの、溢れるばかりの真心と真実味がありました。
その歌声は、21世紀を待たずに、1999年に、村下が突然逝ってしまった(享年46歳)後、今でも、なお、人の心の琴線に触れる力を持ち続けています。中でも、特に「春雨」は、今のフィフティーズの心に訴えるものがあるのではないでしょうか。
「春雨」の歌詞は、村下自身が書いた第1稿を、レコード会社側に、全面的に書き直させられたものなのだそうです。村下は初稿の方が気に入っていたのだとか。
それでも、1stシングルが4000枚ぐらいしか売れなくて、崖っぷちの状態にいた村下は、「何が何でも、この2ndシングルを売らなければならない」と必死でした。
この曲の詞には、おそらくは無理やり意に添わぬ書き換えを強いられたためか、プロらしからぬ、滑らかさを欠いた、ある種のもどかしさ、たどたどしさが感じられます。ところが、そのせいで、かえって、人の心の一番深いところに、言葉にならない何かを伝えることに成功しているのです。
おそらく、村下自身の心の中にも、癒されない傷の痛みはあったのでしょう。そして、村下は、自らの痛みを癒すために、歌い続けていたのかもしれません。
「春雨」を聴くと、ふと、そんなことを感じてしまうのです。
リアルタイムでは、村下を知らない若い世代の人でも、昭和の歌に心惹かれる人ならば、もしかすると、この歌に何かを感じるかもしれません。