ここ数日、京都にいる。
初日、着いて早々の午後遅く、タクシーの運転手の勧めで、年中無休で24時間開いているので、閉館時間がまったくないという伏見稲荷大社へ行ってみた。
現在、京都市内には800の神社があると言われるが、中でも、この大社は代表的な神社の一つである。
伏見稲荷大社の創建は、平安京遷都より70年も前の715年と伝えられる。建てたのは渡来系の秦氏で、稲作の神である稲荷神を氏神(祖先神)としていた。平安京遷都後は、稲荷神は東寺の守護神とされ、伏見稲荷大社は、都の東南(左京)を守護する農業神として崇められたという。稲荷神の使いは狐とされ、やがて、民間では狐さまと稲荷神が同一視されるようになる。さらに江戸期以降は、商業の神様として、特別に広く拝まれるようになり、〝流行り神〟となったのだそうだ。現在では、全国に3万社あると言われる稲荷神社の本部となっている。
さて、人でごった返す、この全国の〝お稲荷さん〟の総本山は、行ってみると、なんと参拝者(?)の9割近くが外国人だった。しかし、彼ら外国人が〝お稲荷さん(狐さま?)〟の熱心な信者とは思えない。日本人が普通に神社に参拝する時のように、お賽銭を投げ入れて、鈴を鳴らし、柏手を打って、頭を下げて、お祈りをする人など、ほとんどいない。多分、彼ら一般外国人観光客の目的は、単純に、インスタ映えのする有名な「千本鳥居」を、くぐることなのだろう。境内の参道には、「外国人に人気の日本の観光スポット・ランキング、四年連続で第1位!」ののぼりが、いくつも立っていた。
アメリカの大手旅行誌の観光都市ランキングで、京都は2014・2015年と1位を獲得した。それが、あまりに観光客が多すぎるという理由で、2016年には6位になった。2017年は4位だそうだ。ともかく、京都は外国人が多い。その中でも、この神社は別格で外国人の数が一日中多い。
しかし、参道沿いのお店は、夕方5時半には、どこもそそくさと閉店してしまう。日差しも充分明るく、往来もまだまだ賑やかなのに、どうしてこんなに早く店じまいしてしまうのか、と疑問に思って、若い店員さんに尋ねてみると、「僕らも、サラリーマンなんでね」という返事が返ってきた。神社は閉まらないし、お客さんは、まだいるんじゃないの、と重ねて訊いてみると、「直ぐに人っ子一人居なくなります」という実につれない返事だった。なんだか取りつく島もない。
だが、実際には、参道のすべての店が閉まった後、夕方7時を過ぎても、人の往来はあいかわらず多かった。「参道に人っ子ひとりいなくなる」のは、さて、いったい何時頃なのだろう。
ちなみに「千本鳥居」の鳥居は、実際には、どんどん増えて、現在では3500〜1万基と言われるが、お稲荷さんの霊力による現世での御利益を求めて、人々が競って奉納したものだ。場所がないから、もうこれ以上は立てられないという状態であっても、商売繁盛祈願を求めて、今も奉納の予約は絶えないという。
だが、たとえ、その隙間なく立っている鳥居を願掛けをしてくぐったところで、限りない欲望と我執の回廊を巡るようなもので、「福・禄・寿」交換の法則が働くだけのように思える。
「福・禄・寿」交換というのは、人がもともと神様から授かっている、一生分の幸せとお金と寿命を、霊の力にすがって、分不相応に得ようとする時に、霊との取引が生じるという原理のことである。
だから、たとえば、狐さまに禄(お金)を願えば、それを叶えてもらう代わりに、福(幸せ)か寿(健康・寿命)を取られてしまうのである。
これが、人と霊との「福・禄・寿」の交換なのだが、その〝物々交換市場〟を、パワー・スポットなどと言って有り難がるのは筋違いだし、ましてや、そこで安易な願い事をするのは考えものだ。
特に、寿命というのは、本人には、わからないものだから、いつ命をとられるか、わかったものではない。機会あるごとに、好んで社寺に願い事を続けているうちに、「ある日、突然、ころっと逝ってしまった」ということにもなりかねない。
実際、鳥居のトンネルの中は、歩き回る外国人の香水と体臭の混じりあった独特の臭いが充満していて、何とも澱んだ陰の氣に満ちている感じであった。聖地というよりは、なんだか、むしろ、浮遊霊の吹き溜まりという気もする。
もちろん、ここを歩いている外国人は、誰一人として、お稲荷さんの霊の存在など信じてはいないのだろうが。
印象的だったのは、参道の帰り道で偶然見つけた年代物の石の手水鉢だった。道端にほったらかされて、鉢の中には瓦礫やゴミやタバコの吸い殻が散乱している。しかし、隣の立て札には、「元禄7(1694)年、京町奉行小出淡路守によって奉納されたもの」とある。
なんで、こんな事になっているのだろうか。
京都はご飯が美味しい。
着いた当日の夜は、鷗外の「高瀬舟」で有名な江戸時代の運河、高瀬川沿いの木屋町通をぶらぶらと歩いて、西木屋町通の「瓢正(ひょうまさ)」で夕食をとった。
「瓢正」は、谷崎潤一郎の愛した京都南禅寺畔にある創業450年の老舗にしてミシュラン7年連続三つ星の評価を受けている名店「瓢亭」で修行した先代が、暖簾分けをしてもらって、昭和27(1952)年に開いた板前割烹で、川端康成の小説「古都」にも名前が出てくる京料理の名店である。こじんまりとした店内の大部分を占める檜造りの素朴なカウンターは、昭和43(1968)年から使っているという風格のある年代物で、塗料を一切塗っていない檜の手触りが心地よい。全体として、装飾を廃した、昭和の風情漂う懐かしい雰囲気の店だ。
実は、居酒屋ばかりが立ち並ぶ高瀬川沿いで、外国人が行き交う木屋町通を、京都らしい適当な食事処を求めて、ずいぶんうろうろと歩いた後で、ようやく偶然見つけた京料理のお店だった。
幸い、狭い店内に、先客はいなかった。何よりも、予約のない人や一見さんは、お断りという敷居の高い店ではなかったのが幸いだった。
お任せの献立は、有名な瓢亭の半熟鶏卵、筍(若竹煮)、山菜の天婦羅、明石の真鯛(お造り・白子豆腐・笹巻ずし)、ハモ素麺のお吸い物など。特に先代考案の笹巻ずしは、川端康成が惚れ込んだという逸品だ。
昭和36(1961)年の川端の小説「古都」の中にも、
「今日は、島村はんから、瓢正の笹巻きずしを、たんといただきましたさかい、うちでは、おつゆだけで、かにしてもらいました。」と、母は父に言った。「そうか。」 鯛(たい)の笹巻きずしは、父の好物である。
という部分がある。
鯛とご飯の間に山椒の葉が挟んである可愛らしい一口大の鞠ずしが、笹の葉に包んである。そのバランスが絶妙である。
その他の料理も、派手な技巧や小手先の味付けに逃げない。塩や砂糖やダシでごまかさない。薄味の京生醤油に旬の京野菜。ホンモノの味へのこだわり。お吸物も、パンチのあるダシには頼らない。スキッとした薄味。これが、きっと変わらない京都の味なのだろう。
気さくで話好きの2代目は、「最近の若者は、みんなフレンチやイタリアンに行きたがる」「和食はあまり人気がない」と嘆いていた。「それに、ホンモノの京料理をつくる人も食べたがる人も、だんだん減っているのかもしれないですね」「きっと、みんな、若いうちからホンモノの味を、教わってきていないんですよ」と、しみじみおっしゃっていた。
確かに、京都の若者に、お勧めの食事処を訊いたら、「一乗寺の『ラーメン街道』に、行列のできる、おいしいラーメン屋が、いっぱいありますよ!」と言っていたのを思い出した。
わたしもラーメンは大好きだが、最近は「京都と言えば、ラーメンが名物」ということなのだろうか。札幌や博多じゃあるまいし、何か、ちょっと違和感が。
京都のラーメンは、スープの濃厚な「こってり味」が主流だが、その理由は、京料理の「薄味」に耐えられない、全国から上京した学生たちの間で、味が濃く、値段が安く、お腹いっぱいになるラーメン店への人気が広まったせいらしい。つまり、地方から来た田舎者が、京都の「こってりラーメン」を生み出したのだ。
「育ちの過程で、食生活の文化面でのがさつさから、舌の繊細な感覚が育っていない来日外国人にとって、『和食の代表は、何と言ってもラーメン!』『京都の料理と言えばラーメン!』になるのはいっこうに構わないが、日本人までそう言ってしまってどうする!」と、嘆きたくなる。
次の日は、昼に、京都駅八条口構内の「京都おもてなし小路」にある食事処「竃炊き立てごはん『竃』土井」で、昼食をとった。
「竃炊き立てごはん『竃』土井」は、明治34(1901)年創業の大原の柴漬けメインの漬物屋さん「土井志ば漬本舗」が、平成元年に開いた大衆食堂だ。老舗の漬物屋さんらしく、サイド・ビュッフェは、10種類ほども並ぶ漬物とおばんざい(京都家庭料理の惣菜)である。それが、すべて食べ放題だ。メインディッシュは、地鶏の卵とじを注文した。程よい甘さで味が尖っていない。ともかく食べやすい。ご飯と味噌汁もおかわりができる。味噌汁もまろやかで飲みやすいし、やはり、竃炊きの炊き立てご飯はとても美味しい。これで、消費税込みで1500円は、リーズナブルだ。
面白かったのは、この店の隣が回転寿司のチェーン店で、こちらはずっと外国人の行列が途切れることがなかったが、隣の和の定食屋「『竃』土井」は、いつでも待たずにすぐ入れる上に、店内のお客さんが日本人ばかりだったことだ。わたしとしては、回転寿司よりは、こっちの定食屋の方がずっといいので助かった。
ただ、この「おもてなし小路」のお隣の京都駅八条口に面したお団子屋さんで、お土産に和菓子をいくつか買ったのだが、その後、ついでに、向かいの薬局マツモトキヨシに行こうとして、ちょっとの間、買ったばかりの手提げ袋を預かってもらおうと、「ちょっと、これ、預かっててもらえますか」と訊いたら、即座に素っ気なく「預かれません」という返事が返ってきた。それで、ちょっとムッときたわたしは、「じゃあ、自己責任で、ここに置いていきます」と言って、袋を店の前に置き、「文句ないでしょ!」と睨みつけてから、向かいのマツキヨで買い物をして、戻ってきてから、また袋を取り上げた。店員さんは、ドギマギしている様子だったが、少しは、いい薬になったかもしれない。「それにしても、いったい、どこが『おもてなし小路』なのだろう」と訝しく思いながら、わたしは京都駅を後にした。
夕食は、祇園へ向かった。そして、ちょっと風情のある「花見小路」に入ってみた。「花見小路」は、京都を代表する花街として名高い祇園にあって、そのメインストリートと言われるだけあって、西木屋町通りにも増して、ともかく往来の外国人が多かった。散策していて、たまに聴こえてくる日本語が珍しく感じるほどだ。そして、待たせてあるタクシーに乗り込むために、茶屋(置屋?)から舞妓さんや芸妓さんが出てくると、シャッターチャンスを狙っていた外国人が、ワッと群がってくる。その様子たるや、まるで、有名人に群がるパパラッチの一群のようで、何かちょっと異様に華やいだ眺めだ。
けれども、この小路自体は、それほど眼を見張るほど立派というわけでもない。こう言ってはなんだが、出来の悪い映画村みたいな雰囲気もあって、意外と安っぽい感じもする。稲荷神社の場合もそうだが、これほどまでに外国人が有り難がる理由が、さっぱりわからない。
ところで、この辺りのお店は、予約なしで入れる店が少ない。結局、花見小路に面した料理屋「ぎをん 西坂(にしさか)」に入った。そこで、どうせ食べるならと、会席料理を注文した。京料理の老舗「京都岡崎つる家(つるや)」で修業をしたという板さんの料理は、なかなか洗練されていて、美味しかった。
何より、予約の必要がなく、飛び込みでも食べられるのが嬉しい。おそらく祇園花見小路でも、一番気取らない雰囲気の店の一つではないだろうか。
鯛の鞠ずし、鱧の湯引き、季節の筍、鴨の焼き物、甘鯛の若狭焼きなど、なかなか豪勢にいただいた。楽しかったのは、笹の葉で作った飛蝗(イナゴ)が、本物そっくりで良くできていたこと。実に器用な職人技である。
その次の日のことだった。この祇園の花見小路の目と鼻の先で、大きな火事があって、ミシュラン9年連続三つ星の有名な板前割烹の店「千花(ちはな)」が焼けてしまったのは。司馬遼太郎や白洲次郎・正子夫妻も懇意にしていた店だったというが。
三日目にして、初めて、ホテルの朝食ビュッフェを頂いた。
やはり、京都は、味噌汁とご飯が、どこへ行っても美味しい。それから、漬物やおひたしや煮物など、野菜のメニューが充実している。味付けもあっさりしていて程よい塩梅だ。デザートは、わらび餅とお団子と、実に京都らしい感じだ。
わらび餅は、京都の和菓子の代表の一つだが、実は沖縄でも以前から食べられている。さらに、沖縄産の黒糖が、わらび餅には実によく合う。沖縄との縁の深いスイーツだ。
さて、この日は、弘法大師空海ゆかりの東寺(教王護国寺)を訪れたのだが、こちらは祇園の「花見小路」や伏見稲荷大社の「千本鳥居」とは違って、外国人の姿がまったくなく、広大な境内はひっそりと静まりかえっていた。遠くに徳川家光が寄進したという立派な五重塔が見える。落ち着いた佇まいが美しい。
平安京は都を東西に分ける朱雀大路を境に、西に右京、東に左京と分かれていた。このうち、左京に建てられたのが東寺だ。右京には西寺があったが、都の西側はどんどん寂れて人が住まない沼地と化し、西寺もとうに無くなった。今、残っているのは、左京の護りとして空海に任された東寺だけである。現在、京都市内には1700の寺があるそうだが、中でも、この東寺は、代表的な寺院の一つと言えるだろう。
真言宗総本山である、この寺には、我が国最古の不動明王像が講堂にある。さらに、御影堂にも、もう一体の幻の秘仏とされる不動明王像がある。
残念ながら、空海の手彫りの作と伝えられる、この御影堂の不動明王像は、やはり、秘仏であるだけに、じかには観られなかった。これまで明治から昭和にかけて、数回調査で写真が取られているが、実物を生で見たことのある人は非常に少ないという。
不動明王は、真言密教の根本仏である大日如来の怒りの化身である。牙をむき出し、眼光鋭く睨みつける。邪を祓う破魔の剣を持ち、全ての悪を焼き尽くす紅蓮の炎を身に帯びている。
「ノウマク サンマンダ バサラダン センダンマカロシャダヤ ソハタヤ ウンタラタ カンマン」(不動明王の真言。真言とは、古代インド語であるサンスクリット語によるマントラ・呪文。)と、唱えてみる。
さらに、次に、京都の北東、鬼門を守るために、1200年前に伝教大師最澄によって建てられた比叡山延暦寺を訪れた。比叡山は、すでに桜の季節は終わっていたが、盛りの藤と杜若が咲き誇っていて美しかった。ただ、京都市から遠いということもあってか、こちらも境内の中に外国人の姿はあまり見られない。
山頂近くにある、建立以来1200年間法灯を絶やしたことがない(「不滅の法灯」)という、目当ての総本堂根本中堂は、あいにく改修工事中だった。それでも、幸い、参拝者が中堂の内部に入ることは許されていた。
残念ながら、中堂内の中央厨子に安置されている、最澄の自作と言われる御本尊の薬師如来像は、秘仏として厨子の中に大切に納められており、まったく見られなかった。この像は、これまで1988年、2000年、2006年に、天皇陛下御親拝の機に開張されているという。しかし、一般の人で、実物を見たことのある人はほとんどいないだろう。
薬師如来は、病気を治してくださる薬師の仏様として、もっとも古くから人々の信仰を集める仏様だが、最澄が天台宗総本山延暦寺の総本堂御本尊として薬師如来を選んだことは興味深い。
今日の日本の健康維持の常識は、医療も代替医療も健康管理も、すべて、金儲け主義の薬漬け、製品漬け、健康食品漬けである。さぞや薬師如来が嘆いているのではないだろうか。
山頂駐車場近くの蕎麦屋さんで、蕎麦を頂いた。クセのないスッキリした味だった。旅の疲れはあったが、体調があまり良くなくても、京都の食事は胃にもたれない。それが救いだ。
それに、比叡山にしても東寺にしても、この国の信仰の中心地を訪れる来訪者は、日本人ばかりで、外国人がほとんどいなかったことに、妙に感心してしまった。つまり、それが、逆に、なんだか、好ましく感じられたのだ。日本文化の中の肝心の部分は、まだ荒らされていないという気がして、ホッとしたということだろうか。
「暗きより暗き道にぞ入りぬべき、遥に照らせ、山の端の月」和泉式部
初日、着いて早々の午後遅く、タクシーの運転手の勧めで、年中無休で24時間開いているので、閉館時間がまったくないという伏見稲荷大社へ行ってみた。
現在、京都市内には800の神社があると言われるが、中でも、この大社は代表的な神社の一つである。
伏見稲荷大社の創建は、平安京遷都より70年も前の715年と伝えられる。建てたのは渡来系の秦氏で、稲作の神である稲荷神を氏神(祖先神)としていた。平安京遷都後は、稲荷神は東寺の守護神とされ、伏見稲荷大社は、都の東南(左京)を守護する農業神として崇められたという。稲荷神の使いは狐とされ、やがて、民間では狐さまと稲荷神が同一視されるようになる。さらに江戸期以降は、商業の神様として、特別に広く拝まれるようになり、〝流行り神〟となったのだそうだ。現在では、全国に3万社あると言われる稲荷神社の本部となっている。
さて、人でごった返す、この全国の〝お稲荷さん〟の総本山は、行ってみると、なんと参拝者(?)の9割近くが外国人だった。しかし、彼ら外国人が〝お稲荷さん(狐さま?)〟の熱心な信者とは思えない。日本人が普通に神社に参拝する時のように、お賽銭を投げ入れて、鈴を鳴らし、柏手を打って、頭を下げて、お祈りをする人など、ほとんどいない。多分、彼ら一般外国人観光客の目的は、単純に、インスタ映えのする有名な「千本鳥居」を、くぐることなのだろう。境内の参道には、「外国人に人気の日本の観光スポット・ランキング、四年連続で第1位!」ののぼりが、いくつも立っていた。
アメリカの大手旅行誌の観光都市ランキングで、京都は2014・2015年と1位を獲得した。それが、あまりに観光客が多すぎるという理由で、2016年には6位になった。2017年は4位だそうだ。ともかく、京都は外国人が多い。その中でも、この神社は別格で外国人の数が一日中多い。
しかし、参道沿いのお店は、夕方5時半には、どこもそそくさと閉店してしまう。日差しも充分明るく、往来もまだまだ賑やかなのに、どうしてこんなに早く店じまいしてしまうのか、と疑問に思って、若い店員さんに尋ねてみると、「僕らも、サラリーマンなんでね」という返事が返ってきた。神社は閉まらないし、お客さんは、まだいるんじゃないの、と重ねて訊いてみると、「直ぐに人っ子一人居なくなります」という実につれない返事だった。なんだか取りつく島もない。
だが、実際には、参道のすべての店が閉まった後、夕方7時を過ぎても、人の往来はあいかわらず多かった。「参道に人っ子ひとりいなくなる」のは、さて、いったい何時頃なのだろう。
ちなみに「千本鳥居」の鳥居は、実際には、どんどん増えて、現在では3500〜1万基と言われるが、お稲荷さんの霊力による現世での御利益を求めて、人々が競って奉納したものだ。場所がないから、もうこれ以上は立てられないという状態であっても、商売繁盛祈願を求めて、今も奉納の予約は絶えないという。
だが、たとえ、その隙間なく立っている鳥居を願掛けをしてくぐったところで、限りない欲望と我執の回廊を巡るようなもので、「福・禄・寿」交換の法則が働くだけのように思える。
「福・禄・寿」交換というのは、人がもともと神様から授かっている、一生分の幸せとお金と寿命を、霊の力にすがって、分不相応に得ようとする時に、霊との取引が生じるという原理のことである。
だから、たとえば、狐さまに禄(お金)を願えば、それを叶えてもらう代わりに、福(幸せ)か寿(健康・寿命)を取られてしまうのである。
これが、人と霊との「福・禄・寿」の交換なのだが、その〝物々交換市場〟を、パワー・スポットなどと言って有り難がるのは筋違いだし、ましてや、そこで安易な願い事をするのは考えものだ。
特に、寿命というのは、本人には、わからないものだから、いつ命をとられるか、わかったものではない。機会あるごとに、好んで社寺に願い事を続けているうちに、「ある日、突然、ころっと逝ってしまった」ということにもなりかねない。
実際、鳥居のトンネルの中は、歩き回る外国人の香水と体臭の混じりあった独特の臭いが充満していて、何とも澱んだ陰の氣に満ちている感じであった。聖地というよりは、なんだか、むしろ、浮遊霊の吹き溜まりという気もする。
もちろん、ここを歩いている外国人は、誰一人として、お稲荷さんの霊の存在など信じてはいないのだろうが。
印象的だったのは、参道の帰り道で偶然見つけた年代物の石の手水鉢だった。道端にほったらかされて、鉢の中には瓦礫やゴミやタバコの吸い殻が散乱している。しかし、隣の立て札には、「元禄7(1694)年、京町奉行小出淡路守によって奉納されたもの」とある。
なんで、こんな事になっているのだろうか。
京都はご飯が美味しい。
着いた当日の夜は、鷗外の「高瀬舟」で有名な江戸時代の運河、高瀬川沿いの木屋町通をぶらぶらと歩いて、西木屋町通の「瓢正(ひょうまさ)」で夕食をとった。
「瓢正」は、谷崎潤一郎の愛した京都南禅寺畔にある創業450年の老舗にしてミシュラン7年連続三つ星の評価を受けている名店「瓢亭」で修行した先代が、暖簾分けをしてもらって、昭和27(1952)年に開いた板前割烹で、川端康成の小説「古都」にも名前が出てくる京料理の名店である。こじんまりとした店内の大部分を占める檜造りの素朴なカウンターは、昭和43(1968)年から使っているという風格のある年代物で、塗料を一切塗っていない檜の手触りが心地よい。全体として、装飾を廃した、昭和の風情漂う懐かしい雰囲気の店だ。
実は、居酒屋ばかりが立ち並ぶ高瀬川沿いで、外国人が行き交う木屋町通を、京都らしい適当な食事処を求めて、ずいぶんうろうろと歩いた後で、ようやく偶然見つけた京料理のお店だった。
幸い、狭い店内に、先客はいなかった。何よりも、予約のない人や一見さんは、お断りという敷居の高い店ではなかったのが幸いだった。
お任せの献立は、有名な瓢亭の半熟鶏卵、筍(若竹煮)、山菜の天婦羅、明石の真鯛(お造り・白子豆腐・笹巻ずし)、ハモ素麺のお吸い物など。特に先代考案の笹巻ずしは、川端康成が惚れ込んだという逸品だ。
昭和36(1961)年の川端の小説「古都」の中にも、
「今日は、島村はんから、瓢正の笹巻きずしを、たんといただきましたさかい、うちでは、おつゆだけで、かにしてもらいました。」と、母は父に言った。「そうか。」 鯛(たい)の笹巻きずしは、父の好物である。
という部分がある。
鯛とご飯の間に山椒の葉が挟んである可愛らしい一口大の鞠ずしが、笹の葉に包んである。そのバランスが絶妙である。
その他の料理も、派手な技巧や小手先の味付けに逃げない。塩や砂糖やダシでごまかさない。薄味の京生醤油に旬の京野菜。ホンモノの味へのこだわり。お吸物も、パンチのあるダシには頼らない。スキッとした薄味。これが、きっと変わらない京都の味なのだろう。
気さくで話好きの2代目は、「最近の若者は、みんなフレンチやイタリアンに行きたがる」「和食はあまり人気がない」と嘆いていた。「それに、ホンモノの京料理をつくる人も食べたがる人も、だんだん減っているのかもしれないですね」「きっと、みんな、若いうちからホンモノの味を、教わってきていないんですよ」と、しみじみおっしゃっていた。
確かに、京都の若者に、お勧めの食事処を訊いたら、「一乗寺の『ラーメン街道』に、行列のできる、おいしいラーメン屋が、いっぱいありますよ!」と言っていたのを思い出した。
わたしもラーメンは大好きだが、最近は「京都と言えば、ラーメンが名物」ということなのだろうか。札幌や博多じゃあるまいし、何か、ちょっと違和感が。
京都のラーメンは、スープの濃厚な「こってり味」が主流だが、その理由は、京料理の「薄味」に耐えられない、全国から上京した学生たちの間で、味が濃く、値段が安く、お腹いっぱいになるラーメン店への人気が広まったせいらしい。つまり、地方から来た田舎者が、京都の「こってりラーメン」を生み出したのだ。
「育ちの過程で、食生活の文化面でのがさつさから、舌の繊細な感覚が育っていない来日外国人にとって、『和食の代表は、何と言ってもラーメン!』『京都の料理と言えばラーメン!』になるのはいっこうに構わないが、日本人までそう言ってしまってどうする!」と、嘆きたくなる。
次の日は、昼に、京都駅八条口構内の「京都おもてなし小路」にある食事処「竃炊き立てごはん『竃』土井」で、昼食をとった。
「竃炊き立てごはん『竃』土井」は、明治34(1901)年創業の大原の柴漬けメインの漬物屋さん「土井志ば漬本舗」が、平成元年に開いた大衆食堂だ。老舗の漬物屋さんらしく、サイド・ビュッフェは、10種類ほども並ぶ漬物とおばんざい(京都家庭料理の惣菜)である。それが、すべて食べ放題だ。メインディッシュは、地鶏の卵とじを注文した。程よい甘さで味が尖っていない。ともかく食べやすい。ご飯と味噌汁もおかわりができる。味噌汁もまろやかで飲みやすいし、やはり、竃炊きの炊き立てご飯はとても美味しい。これで、消費税込みで1500円は、リーズナブルだ。
面白かったのは、この店の隣が回転寿司のチェーン店で、こちらはずっと外国人の行列が途切れることがなかったが、隣の和の定食屋「『竃』土井」は、いつでも待たずにすぐ入れる上に、店内のお客さんが日本人ばかりだったことだ。わたしとしては、回転寿司よりは、こっちの定食屋の方がずっといいので助かった。
ただ、この「おもてなし小路」のお隣の京都駅八条口に面したお団子屋さんで、お土産に和菓子をいくつか買ったのだが、その後、ついでに、向かいの薬局マツモトキヨシに行こうとして、ちょっとの間、買ったばかりの手提げ袋を預かってもらおうと、「ちょっと、これ、預かっててもらえますか」と訊いたら、即座に素っ気なく「預かれません」という返事が返ってきた。それで、ちょっとムッときたわたしは、「じゃあ、自己責任で、ここに置いていきます」と言って、袋を店の前に置き、「文句ないでしょ!」と睨みつけてから、向かいのマツキヨで買い物をして、戻ってきてから、また袋を取り上げた。店員さんは、ドギマギしている様子だったが、少しは、いい薬になったかもしれない。「それにしても、いったい、どこが『おもてなし小路』なのだろう」と訝しく思いながら、わたしは京都駅を後にした。
夕食は、祇園へ向かった。そして、ちょっと風情のある「花見小路」に入ってみた。「花見小路」は、京都を代表する花街として名高い祇園にあって、そのメインストリートと言われるだけあって、西木屋町通りにも増して、ともかく往来の外国人が多かった。散策していて、たまに聴こえてくる日本語が珍しく感じるほどだ。そして、待たせてあるタクシーに乗り込むために、茶屋(置屋?)から舞妓さんや芸妓さんが出てくると、シャッターチャンスを狙っていた外国人が、ワッと群がってくる。その様子たるや、まるで、有名人に群がるパパラッチの一群のようで、何かちょっと異様に華やいだ眺めだ。
けれども、この小路自体は、それほど眼を見張るほど立派というわけでもない。こう言ってはなんだが、出来の悪い映画村みたいな雰囲気もあって、意外と安っぽい感じもする。稲荷神社の場合もそうだが、これほどまでに外国人が有り難がる理由が、さっぱりわからない。
ところで、この辺りのお店は、予約なしで入れる店が少ない。結局、花見小路に面した料理屋「ぎをん 西坂(にしさか)」に入った。そこで、どうせ食べるならと、会席料理を注文した。京料理の老舗「京都岡崎つる家(つるや)」で修業をしたという板さんの料理は、なかなか洗練されていて、美味しかった。
何より、予約の必要がなく、飛び込みでも食べられるのが嬉しい。おそらく祇園花見小路でも、一番気取らない雰囲気の店の一つではないだろうか。
鯛の鞠ずし、鱧の湯引き、季節の筍、鴨の焼き物、甘鯛の若狭焼きなど、なかなか豪勢にいただいた。楽しかったのは、笹の葉で作った飛蝗(イナゴ)が、本物そっくりで良くできていたこと。実に器用な職人技である。
その次の日のことだった。この祇園の花見小路の目と鼻の先で、大きな火事があって、ミシュラン9年連続三つ星の有名な板前割烹の店「千花(ちはな)」が焼けてしまったのは。司馬遼太郎や白洲次郎・正子夫妻も懇意にしていた店だったというが。
三日目にして、初めて、ホテルの朝食ビュッフェを頂いた。
やはり、京都は、味噌汁とご飯が、どこへ行っても美味しい。それから、漬物やおひたしや煮物など、野菜のメニューが充実している。味付けもあっさりしていて程よい塩梅だ。デザートは、わらび餅とお団子と、実に京都らしい感じだ。
わらび餅は、京都の和菓子の代表の一つだが、実は沖縄でも以前から食べられている。さらに、沖縄産の黒糖が、わらび餅には実によく合う。沖縄との縁の深いスイーツだ。
さて、この日は、弘法大師空海ゆかりの東寺(教王護国寺)を訪れたのだが、こちらは祇園の「花見小路」や伏見稲荷大社の「千本鳥居」とは違って、外国人の姿がまったくなく、広大な境内はひっそりと静まりかえっていた。遠くに徳川家光が寄進したという立派な五重塔が見える。落ち着いた佇まいが美しい。
平安京は都を東西に分ける朱雀大路を境に、西に右京、東に左京と分かれていた。このうち、左京に建てられたのが東寺だ。右京には西寺があったが、都の西側はどんどん寂れて人が住まない沼地と化し、西寺もとうに無くなった。今、残っているのは、左京の護りとして空海に任された東寺だけである。現在、京都市内には1700の寺があるそうだが、中でも、この東寺は、代表的な寺院の一つと言えるだろう。
真言宗総本山である、この寺には、我が国最古の不動明王像が講堂にある。さらに、御影堂にも、もう一体の幻の秘仏とされる不動明王像がある。
残念ながら、空海の手彫りの作と伝えられる、この御影堂の不動明王像は、やはり、秘仏であるだけに、じかには観られなかった。これまで明治から昭和にかけて、数回調査で写真が取られているが、実物を生で見たことのある人は非常に少ないという。
不動明王は、真言密教の根本仏である大日如来の怒りの化身である。牙をむき出し、眼光鋭く睨みつける。邪を祓う破魔の剣を持ち、全ての悪を焼き尽くす紅蓮の炎を身に帯びている。
「ノウマク サンマンダ バサラダン センダンマカロシャダヤ ソハタヤ ウンタラタ カンマン」(不動明王の真言。真言とは、古代インド語であるサンスクリット語によるマントラ・呪文。)と、唱えてみる。
さらに、次に、京都の北東、鬼門を守るために、1200年前に伝教大師最澄によって建てられた比叡山延暦寺を訪れた。比叡山は、すでに桜の季節は終わっていたが、盛りの藤と杜若が咲き誇っていて美しかった。ただ、京都市から遠いということもあってか、こちらも境内の中に外国人の姿はあまり見られない。
山頂近くにある、建立以来1200年間法灯を絶やしたことがない(「不滅の法灯」)という、目当ての総本堂根本中堂は、あいにく改修工事中だった。それでも、幸い、参拝者が中堂の内部に入ることは許されていた。
残念ながら、中堂内の中央厨子に安置されている、最澄の自作と言われる御本尊の薬師如来像は、秘仏として厨子の中に大切に納められており、まったく見られなかった。この像は、これまで1988年、2000年、2006年に、天皇陛下御親拝の機に開張されているという。しかし、一般の人で、実物を見たことのある人はほとんどいないだろう。
薬師如来は、病気を治してくださる薬師の仏様として、もっとも古くから人々の信仰を集める仏様だが、最澄が天台宗総本山延暦寺の総本堂御本尊として薬師如来を選んだことは興味深い。
今日の日本の健康維持の常識は、医療も代替医療も健康管理も、すべて、金儲け主義の薬漬け、製品漬け、健康食品漬けである。さぞや薬師如来が嘆いているのではないだろうか。
山頂駐車場近くの蕎麦屋さんで、蕎麦を頂いた。クセのないスッキリした味だった。旅の疲れはあったが、体調があまり良くなくても、京都の食事は胃にもたれない。それが救いだ。
それに、比叡山にしても東寺にしても、この国の信仰の中心地を訪れる来訪者は、日本人ばかりで、外国人がほとんどいなかったことに、妙に感心してしまった。つまり、それが、逆に、なんだか、好ましく感じられたのだ。日本文化の中の肝心の部分は、まだ荒らされていないという気がして、ホッとしたということだろうか。
「暗きより暗き道にぞ入りぬべき、遥に照らせ、山の端の月」和泉式部