2018年5月現在、5月3日の憲法記念日を迎えて、今年も日本国憲法に関する論議が、各地で行われているようです。しかし、改憲派は改憲派の仲間同士で、護憲派は護憲派の身内同士で、お茶を濁すような井戸端話をするだけで、改憲派の論客と護憲派の論客が、がっぷり四つに組んで、真っ向から正々堂々と、誠実に真剣にとことん議論を交わす場は、今のところ、この国のどこにもないという気がします。
「憲法は、権力を縛るためにあり、その権力とは安倍政権である!」「その安倍政権が憲法改正を望むのは、憲法の軛から解放されたいがためだ!」「そのような、権力を抑制できない方向への憲法改正は、絶対にしてはならない!」そう、護憲派は主張します。
一方で、改憲派は、「そもそも、この国の権力を握っている主権者は国民であり、安倍政権を選挙で選んだのも主権者たる国民だ!」「そして、主権者である国民には、当然、法に則って憲法改正を行う権利がある!」と主張します。
しかしながら、わたしは、そのような枝葉末節の議論ではなく、もっと根源的で切迫した問題を、追求したいのです。その根源的問題というのは、冷戦終結(1989)以降、この30年間で、世界情勢が劇的に変化し、世界のかたちが急速に変容していく中で、「果たして現行憲法下で、わたしたちは、この先も生き延びられるだろうか?」ということ、言い換えれば、多極化していく世界の中で「我が国は、現行の平和憲法の下で、今後も存続し続けることが可能なのか?」という最も緊急かつ深刻な問題です。
しかし、その判断を下す前に、まずは、基本中の基本ではありますが、「日本国憲法とは何か?」ということを、真正面から論じてみたいと思うのです。
核となる部分は、やはり、憲法前文と9条です。この二箇所に、日本国憲法の他に類を見ない独特の博愛思想が表現されているからです。
護憲派の方々の多くは「この憲法は〝愛〟に満ちている」「実際に『愛』という言葉が出てくるのは憲法前文だが、内容的に、それを受けたものが憲法9条なのだ」「したがって前文と9条こそが、日本国憲法の最も大切な根幹である」と感じていらっしゃるようです。
しかし、改憲派側から、もっとも多くの批判を受けている部分もまた、この前文と9条なのです。改憲派は「現実の世界は、『武器はいらない』『基地はいらない』といった子供じみた感傷で、なんとかなるほど甘いものではない」と感じています。
護憲派と改憲派は、一切の妥協の余地がないほどに、完全に対立しているわけですが、この最大の対立点である前文と9条含めて、日本国憲法を改めて基本的な原理原則から考えてみます。
日本国憲法は、その根幹に三つの大前提を持っています。その大前提とは、「国民主権」「基本的人権の尊重」、そして、もっともよく改正の課題として取り上げられる「平和主義」、この三つの大原則です。
この三つの柱は、日本国憲法の土台(基礎部分)であり、たとえ、国民投票で過半数の賛成によって、憲法改正を行なうことが可能であるとしても、この根本3原則を根底から変更するような改定はできない、とする学説があります。なぜなら、憲法改正の手続きもまた、日本国憲法の条項のひとつとして定められているに過ぎず、憲法そのものの根幹である3大原則にメスを入れる権限を意味しないから、と言うのです。これを「改憲の限界」説と言います。
この学説によれば、たとえば「平和主義」の原則を否定するかたちでの改憲は、不可能ということになります。つまり、憲法前文や憲法9条の削除は、できないということです。
たとえ、衆参両院で、各々総議員の3分の2以上の賛成で発議し、国民投票で過半数の賛成があったとしても、日本国憲法の根幹に関わる内容は、絶対に崩すことは許されないというわけです。しかし、これも、考えてみれば、おかしな話です。いったん作ってしまえば、永久に誰にも変えられない憲法というのは、いったいどういうことなのでしょうか?
そもそも、この日本国憲法自体、GHQ占領下において、大日本帝国憲法の改定手続きを利用して、ほぼ全文を入れ替えて、国会の承認のみで改定決議されたものです。国民投票で承認されたものではないのです。
それなのに、なぜ、大日本帝国憲法は、国会の承認のみで全文の書き換えが可能で、日本国憲法は、国民投票を経ても根幹部分の書き換えは不可能という考え方が成立しうるのでしょうか?
確かに、どなたかがおっしゃっていたように、日本国憲法前文には、憲法には珍しい「愛」という言葉が使用されています。しかし、「愛があれば、何でも許される」というものではないと思うのですが。
実は、3大原則を否定するかたちでの現行憲法の改正が不可能であるのには、それなりの根拠があります。
それは、3大原則が、人が生まれながらに持つとされる〝自然権〟に基づく〝自然法〟を成文化(実定化)したものだからです。
自然権というのは、万人が神によって生れながらに賦与されている権利のことです。このような考え方を「天賦人権思想」と言います。福沢諭吉が、著作「学問のすゝめ」の冒頭で、この天賦人権思想を「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」と著して紹介しています。
そして、自然法とは、この神の与えたもうた自然権に基づく法のことです。自然法は、本来、文字にかかれない不文法であり、人為的に定められた実定法(慣習法・成文法)の上位に存在すると考えられています。自然法が、なぜ、実定法の上位にあるのか、というと、それは、「自然法もまた、自然権とともに、神によって定められたものである」と、考えられてきたからです。
ですから、立法権・行政権・司法権の三権を有する「絶対権力者と言えども、この神の定めた自然法には従わなければならない」のです。つまり、自分の意思で自由に法律(成文法・制定法)を定めることができる「絶対君主も、自然法に逆らう内容の法律は定めることができない」ということです。
イギリスで主張された「国王と言えども法に従わなければならない」という言葉は、もともとは、こうした実定法(人為法)に対する自然法(神為法)の優位を表す言葉であり、当初は「国王も議会の制定する法律(制定法)に従わなければならない」という議会制民主主義を意味するものではなかったのです。むしろ、当時は「国王と言えども、神の言葉には従わなければならない」という意味に近かったのだろうと思います。
民主的な立法議会があろうがなかろうが、あるいは、議会を解散して三権を一手に握った「ヒトラーや金正恩のような独裁者の政権であっても、神の定めた自然法には、無条件で当然に従わねばならない」ということです。
こうした人為に対する自然法優位の考え方を「人の支配」に対して「法の支配」と言います。けれども、これ(「法の支配」)は、むしろ、「神の支配」と言った方が、良いのかもしれません。
「法の支配」の理念の発祥地であるイギリスでは、自然法の多くは、不文法のままでイギリス憲法の一部として認められています。それは、自明の理である神の法を、敢えて人為的に成文化(実定化)する必要を感じなかったためです。
けれども、原住民を殺戮しつつ、力づくで奪った土地を、神に約束された地と称するという欺瞞の上に建国したアメリカ合衆国では、神の法による支配に確信が持てなかったのでしょうか、自然法の成文化が目立つようになります。
たとえば、アメリカ独立宣言には「我々は、造物主(神)によって、自然権を与えられている」と記されてあり、「これは自明の真理である」と、わざわざ強調されています。1ドル紙幣にも「We trust God」と書かれています。
このしつこさは、ある意味、彼らの確信の無さと後ろめたさの現れです。確信が持てないからこそ、人は饒舌になるものです。本当に、自明の真理であるなら、何もわざわざ成文化する必要はないのです。
それは、日本国憲法にも、当てはまります。そもそも、日本人は、「人は造物主(神)によって、生まれながらに権利を与えられている」という理念を、自明の真理とはしていません。というのも、日本人の多くは、西欧的な一神教の絶対神への信仰を持たないからです。したがって、唯一神によって定められた自然法という概念を、信じることもできません。
自明の真理ではないからこそ、この憲法は、不文法であっては絶対に機能しません。そこで、いちいち、こと細かく成文化する必要があったのです。
同時に、成文化した自然法は、人為法であるとは言え、内容的には、本来は神に帰属する法なのですから、原理的には人間の手で改定することはできないはずです。なので、自然法部分に関する憲法改正は、ほぼ不可能とする必要があったのです。
これが、日本国憲法が、制度上、極めて硬性の憲法になっている理由でもあり、同時に、「制度上適法であっても憲法の根幹の改変は許されない」という「改憲の限界」説が正当とされる根拠となっています。
ですから、たとえ、国民の90%が、前文と9条の改憲に賛成したとしても、その削除は不可能ということなのです。つまり、この国は、なぜか「主権者である国民の上に、憲法がある」という特殊な構造の国家となっているわけです。
これは、厳密にいうと、『国民主権』の原則に反した状態であり、憲法が自己矛盾を起こしているとも見えます。
ところで、自然法の根拠となっている自然権とは、具体的にどういうものなのでしょうか?
国王夫妻を断頭台に送ったフランス革命時に、平民の立場の正当性を謳って書かれた人権宣言の文言と対比しつつ、日本国憲法の3大原則と自然権との関係を、順に考えてみましょう。
まず、フランス人権宣言に明記されている「人間は生まれながらに自由・平等に生まれついている」という考え方と「人間には幸福追求の権利がある」という考え方が、日本国憲法の『基本的人権の尊重』の原則の基になっています。この自然権としての人権に関する具体的な記述が、日本国憲法の記述全体の3分の1を占めています。しかも、その大部分は、日本でも人権が社会的に認められるようになることを願った、ひとりのアメリカ人女性の手によって書かれた文章なのです。それらは、日本国憲法の中でも、もっとも優れた素晴らしい条文だと思います。
さらに、これも人権宣言の記述にある「人間は圧政への抵抗権を自然権として有している」という考え方と「主権の根源は、本質的に国民のうちにある」という考え方が、日本国憲法の『国民主権』の原則の基となっています。(ここが、「日本国憲法においては、自己矛盾をはらんでいる」というのは前述のとおりです。)
加えて、人権宣言中の「人間は平和のうちに安全に生きる権利がある」という考え方を中心に、「所有権は神聖不可侵であり、何人も他者の所有権を侵してはならない」という考え方を含めて、『平和主義』の原則の基となっています。(この部分の問題については、後で詳しく検証します。)
また、日本人は、そもそも自然権を自明の理とする理念や信仰を持たないため、不文法を重んじることができない、とは言いましたが、日本に不文法がないというわけではありません。
不文法のない社会には、成文法も意味をなさないものです。日本人の信ずる不文法は「書かれたものは重んじる」というものです。この不文法がなければ、成文化された憲法も、絵に描いた餅になってしまいます。
この不文法(「書かれたものは信じる」)の基に日本国憲法(「成文化された自然法」)が、日本という国家の根幹として成り立っているのです。
「自然法が成文化されたことによって、一言一句、正確に法が守られるなら、こんな素晴らしいことはないではないか」という意見もあります。しかし、一方では、「自己矛盾をはらんだ文言を、一言一句遵守することなど不可能であり、そのために『法治主義』の理念が危うくなっている」という意見もあります。
実際、日本国民の多くは、この憲法の自己矛盾に気付きながら、見て見ぬ振りをしているのではないか、と思います。つまり、現実には「信じてもいないのに、後生大事にして、守る気もないのに、有難がっている」ということです。
では、さらに焦点を絞ってみましょう。本来、自然権の一部である『平和主義』の条文の何が問題なのでしょうか?
つまり、憲法条文が、どのような自己矛盾をはらんでいるのか、具体的に考察を進めるために、個々の成文化された文言について、それぞれ一文づつ考えてみたいと思います。
まず、平和主義を謳った憲法前文には、次のようにあります。
『①日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。②われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。③われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。』
①は、簡単に言うと「日本は、周辺の諸外国が皆、平和を愛しており、決して攻めてくることがないことを信頼して、軍事力による国防を一切考えないことにした」ということです。また、見方を変えれば、「日本国民は、諸外国の国民を信頼しつつ、自らの安全と生存に自己責任を持つことを決意した」とも読めます。
②は、9条との関連で「日本人は、平和を愛する諸国民によって成り立つ国際社会で、(非戦と非武装を貫くことで)名誉ある地位を占めたいと願っている」という意味にとれます。
③は、「日本は、世界中のすべての国の国民が、平和のうちに生きる権利を持っていることを認める」と、あらためて『平和主義』の根拠である自然権について述べています。
さらに、憲法9条には次のようにあります。
まず、第1項には『④日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。』とあります。
そして、第2項には『⑤前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。』とあります。
④の第1項は、戦争放棄の条文ですが、「日本は、永久に、戦争をしないし、武力による威嚇も行わない」と述べています。
⑤の第2項は、戦力の不保持と交戦権の否認の条文ですが、「日本は、陸海空軍といった軍隊を持たないし、交戦権も持たない」と述べています。交戦権がないということは、防戦も含めて、他国との間で、いかなる戦闘行為も行わないということです。
それでは、上記の成文法の何が問題か、順を追って考えてみましょう。
憲法前文の根幹である①の文章については、その理想主義の思想が、現実の国際社会への国民の理解と、まったく一致していないという矛盾があります。
そもそも、日本国民は、「諸国民の公正と正義」を信頼していません。よって、日本国民が、自らのサバイバルを自己責任と考えているなら、国防の不要を安易に信じることはできないはずです。
②についても同様で、そんな理想的な国際社会はどこにもないのに、どこにもない幻の国際社会で、名誉ある地位を占めることを夢見てどうするのでしょうか?
③もまた、建前としては立派ですが、この「絵に描いた餅」のような建前によって、この国の平和と安全を担保するというのは、いかにも無理があります。
④の9条一項に関しては、何も問題がないとする識者も多いのですが、実は大きな問題があります。なぜなら、武力による威嚇を認めないとするなら、アメリカとの軍事同盟も、アメリカの「核の傘」による威嚇も、法的に許されないことになるからです。
⑤の9条二項については、問題しかありません。世界中に軍隊を持たないという憲法を持っているのは日本だけです。その上、交戦権を認めないとなると、自衛のための武力行使すらできないので、主権国家として独立を維持することが、事実上困難になります。
なぜ、こんな非現実的な条文が、憲法として成り立ったのかというと、この憲法が日本の非軍事化をすすめる占領軍によって、たった8日間で英文で作られたものだからです。
当時、日本の非軍事化に関して、占領軍には二つの動機がありました。一つは、あまりにも手強かったアジア最強の軍事大国を無力化し、二度とアメリカに楯突くことがないようにすることです。もう一つは、日本の占領政策に深く関わったクェーカーの思想的影響があります。
クェーカー(フレンド派)は、無教会主義のキリスト教の一派ですが、友愛の都フィラデルフィアの建設などアメリカ建国にも深く関わった宗教グループです。
彼らの思想の最大の特色は、非戦・非武装の思想です。一切の武器を認めないし、あらゆる争いを悪として否定するという点で、アーミッシュとも深い繋がりがあります。クェーカーの信者は、太平洋戦争においても、徴兵を拒否して投獄されました。
日本でも、古くは札幌農学校でクラーク博士に強く影響された新渡戸稲造が、渡米後クェーカーに帰依していますし、稲造の妻君もニューヨークのフレンド派コミュニティー出身の敬虔なクェーカーの女性でした。
戦後、昭和天皇も、皇太子の教育係として、アメリカ人のクェーカーの女性を招いたことは有名です。さらには、美智子皇后の最も信頼した主治医の神谷美恵子(精神科医・哲学者)もまたクェーカーの信徒でした。
こうしたクェーカーの信念が、日本国憲法の成立に大きな影響を与えたことは間違いありません。つまり、日本国憲法は、極めて宗教的な信念の下に書かれた成文法なのです。
単なる9条教ではない、クェーカーの信仰に裏打ちされた平和主義の信念は素晴らしいもので、敬意を持って扱われるべきものだと、わたしも思っています。
しかし、こうした信仰と信念は、あくまでも、ごく一部の人々の確信であって、日本国の憲法のバックボーンとなるべき万人に通じる自然法の理念とは、なり得ていないように思います。
一方で、GHQ(占領軍司令部)は、「日本の国防については、世界最強のアメリカ軍が受け持つから何の心配もない」として、当時の憲法承認に際しての日本側の不安と逡巡を一蹴しました。「アメリカ軍が守るから、日本が軍隊を持つ必要はない」ということです。
この考えのもと、1951年、日本の独立に際しては、日米安全保障条約が日本の国防を担保しました。つまり、アメリカが、日本の平和と安全を保障したのです。
しかし、同時期、1950年の朝鮮戦争をきっかけに、GHQは日本に再軍備を命じました。「ソ連と対立し、中国・北朝鮮と戦争している状況では、日本が再び武装することが必要」とマッカーサーは判断したのです。
問題は、憲法9条の戦力不保持の条文との整合性でした。そこで、前文③にある「日本国民が平和のうちに生きる権利」を保障するためには、「いざ、敵に攻められた場合には、日本の自衛権が認められなければならない」として、専守防衛の自衛隊の存在を認める解釈改憲をひねり出したわけです。
専守防衛というのは、厳密に言うと、敵の放ったミサイルは撃ち落としていいが、敵の戦闘機は撃ち落としてはいけないというものです。敵の戦闘機とドッグファイトをすることになれば、それは即ち〝交戦する〟ということになってしまうからです。もちろん、敵のミサイル基地や航空基地を攻撃することなど絶対にできません。しかし、これでは実質的には自衛は不可能です。
また、憲法前文①にあるように「諸国民の公正と正義を信頼」するなら、自衛権も自衛隊もまったく必要ないわけで、憲法条文と現実との間には、明らかな矛盾があることを認めざるを得ません。また、上記したように、9条二項の「交戦権の否認」と自衛権の容認も、厳密には合致しません。そもそも、交戦しないで防衛できるわけがないからです。
米軍基地にしてもそうで、憲法前文の理想主義とも矛盾しますし、9条一項の「武力による威嚇の禁止」にも反しています。米軍の核戦力や空母や海兵隊は、明確に周辺国への威嚇として機能しているからです。
こうして、1950〜51年の段階で、日本国憲法の平和主義の条文のほとんどは、現実の国家運営との間で齟齬をきたし、ある意味、有名無実化したのです。
にも関わらず、今日まで、「憲法前文と9条を全面的に改正したい」という意見が、国民の過半数を占めることができない理由は、この憲法が、元々、平和主義に関する宗教的信念を謳ったものだからです。前文と9条の文言が、現実とどれほど齟齬をきたそうと、〝9条教〟信仰者にしてみれば、「信じるものは救われる」という確信を揺るがすものではないということでしょう。第一、教典というものは、信者の都合によって、安易に書き換えられるものではないのです。
憲法が教典化したのは、それだけ、第二次世界大戦の災厄と悪夢の刻印が、日本国民にとって深刻なものだったという証でもあります。しかし、一方では、実質的な日米同盟に安住して、自律的な国家の安全と平和の維持を、一切考えずに済ましてきたということでもあります。
もう一つ、日本における憲法論議の厄介な点は、国民の護憲の意識の中に、西欧的なリベラリズムの思想に対する根深いコンプレックがあることです。つまり、9条改憲を主張するよりも、あくまでも護憲を主張する方が、リベラルを標榜する戦後日本人としては、疑問の余地なく〝気持ちよかった〟のです。もっと言えば、「護憲の立場をとることで、自分が優秀であるかのように、容易に勘違いしたまま、知識人のプライドを守っていられる」ということです。
戦後、73年が経ち、日本をめぐる国際環境は、劇的に変化しつつあります。冷戦構造は崩れ去り、もはや、アメリカは、無条件で日本の防衛を肩代わりしてくれる絶対的な存在ではありません。
習近平独裁の反日中国の経済的・軍事的台頭は著しく、北朝鮮と韓国もまた統一核武装反日国家へのプロセスを模索しつつあります。ロシアもプーチンの指導の下で、強力な自立した軍事大国の道を歩んでいます。
ロシア・中国・北朝鮮の共通点は、独裁的な権力の集中と核武装によって、政治的に自立した外交戦略を遂行できる体制にあることです。
そこが、日本との大きな違いです。日本には、残念ながら、自立した外交戦略を展開できる基盤がありません。もちろん、わたしは「日本も直ちに核武装するべきだ」とか「日本にも9条改憲を可能とする独裁的な権力を持つ圧倒的に強いリーダーが必要だ」などと、性急に主張したいわけではありません。
ただ、「9条及び前文の全面削除か全面改定」とか「独自核武装の実現可能性」などの最重要議題についての公の議論すらはばかられる状態では、この国の未来への展望が、まったく描けないのではないでしょうか。
繰り返しますが、現実の世界は、諸国民の公正と正義を無邪気に信頼できる状態にはありません。
それどころか、世界は、とほうもない〝差別〟のかたまりで、できています。嫉妬と憎しみと怨みに満ちています。そして、日々、人々の心の中で戦争が生まれているのです。
日本だけが、これからもずっと、そうした災厄の外にいられる保証はどこにもありません。国民が、9条教カルトの影響下で、気持ちの良い甘い夢に微睡んでいる間にも、我が国は徐々に破滅への道を辿りつつある。そんな気がしてなりません。
「書かれていることだけが憲法ではない」ということを、しっかり踏まえて、憲法について考えてみることが大事です。成文法だけが憲法ではなく、むしろ、不文法こそが、国を支える根幹の理念なのです。
憲法第9条や前文のように、文言として書かれてしまったが故に、非常に厄介なことになってしまうこともあれば、イギリスの自然法のように、文言に書かれていないからこそ、かけがえもなく貴重である、ということもあるのです。
大切なことは、わたしたちが何を信じ、何を求めるか、なのです。さあ、もう一度、鎖に繋がれていない自由な心で、自らの責任において憲法について深く考えてみましょう。
わたしたちにとって、もっとも大切な不文法は、何なのでしょう?
「わたしたち日本国民は、日本国の主権者として、日本国及び日本国民の平和と安全の維持に、第一の責任を負っている。なぜなら、わたしたちが平和に生存する権利を保障しうるのは、わたしたち日本国民のみだからである。
かかる責任を果たすために、わたしたちは日本国憲法前文と9条を、全面的に改正することを決意した。
国土と国民の防衛の責任は、主権者である国民にあるのであるから、戦力の保持と自衛権を含む交戦権の行使は、国民の意思によらねばならない。武力の行使及び武力による威嚇は、国際平和と諸国民の安寧を切に希求する日本国民の意思によって遂行されるものである。
以上の目的を達成するため、日本国は、陸海空および、その他の自衛軍を創設し、日本国民の平和に生存する権利を、国民の名において保障するよう不断の努力をするものである。」
「憲法は、権力を縛るためにあり、その権力とは安倍政権である!」「その安倍政権が憲法改正を望むのは、憲法の軛から解放されたいがためだ!」「そのような、権力を抑制できない方向への憲法改正は、絶対にしてはならない!」そう、護憲派は主張します。
一方で、改憲派は、「そもそも、この国の権力を握っている主権者は国民であり、安倍政権を選挙で選んだのも主権者たる国民だ!」「そして、主権者である国民には、当然、法に則って憲法改正を行う権利がある!」と主張します。
しかしながら、わたしは、そのような枝葉末節の議論ではなく、もっと根源的で切迫した問題を、追求したいのです。その根源的問題というのは、冷戦終結(1989)以降、この30年間で、世界情勢が劇的に変化し、世界のかたちが急速に変容していく中で、「果たして現行憲法下で、わたしたちは、この先も生き延びられるだろうか?」ということ、言い換えれば、多極化していく世界の中で「我が国は、現行の平和憲法の下で、今後も存続し続けることが可能なのか?」という最も緊急かつ深刻な問題です。
しかし、その判断を下す前に、まずは、基本中の基本ではありますが、「日本国憲法とは何か?」ということを、真正面から論じてみたいと思うのです。
核となる部分は、やはり、憲法前文と9条です。この二箇所に、日本国憲法の他に類を見ない独特の博愛思想が表現されているからです。
護憲派の方々の多くは「この憲法は〝愛〟に満ちている」「実際に『愛』という言葉が出てくるのは憲法前文だが、内容的に、それを受けたものが憲法9条なのだ」「したがって前文と9条こそが、日本国憲法の最も大切な根幹である」と感じていらっしゃるようです。
しかし、改憲派側から、もっとも多くの批判を受けている部分もまた、この前文と9条なのです。改憲派は「現実の世界は、『武器はいらない』『基地はいらない』といった子供じみた感傷で、なんとかなるほど甘いものではない」と感じています。
護憲派と改憲派は、一切の妥協の余地がないほどに、完全に対立しているわけですが、この最大の対立点である前文と9条含めて、日本国憲法を改めて基本的な原理原則から考えてみます。
日本国憲法は、その根幹に三つの大前提を持っています。その大前提とは、「国民主権」「基本的人権の尊重」、そして、もっともよく改正の課題として取り上げられる「平和主義」、この三つの大原則です。
この三つの柱は、日本国憲法の土台(基礎部分)であり、たとえ、国民投票で過半数の賛成によって、憲法改正を行なうことが可能であるとしても、この根本3原則を根底から変更するような改定はできない、とする学説があります。なぜなら、憲法改正の手続きもまた、日本国憲法の条項のひとつとして定められているに過ぎず、憲法そのものの根幹である3大原則にメスを入れる権限を意味しないから、と言うのです。これを「改憲の限界」説と言います。
この学説によれば、たとえば「平和主義」の原則を否定するかたちでの改憲は、不可能ということになります。つまり、憲法前文や憲法9条の削除は、できないということです。
たとえ、衆参両院で、各々総議員の3分の2以上の賛成で発議し、国民投票で過半数の賛成があったとしても、日本国憲法の根幹に関わる内容は、絶対に崩すことは許されないというわけです。しかし、これも、考えてみれば、おかしな話です。いったん作ってしまえば、永久に誰にも変えられない憲法というのは、いったいどういうことなのでしょうか?
そもそも、この日本国憲法自体、GHQ占領下において、大日本帝国憲法の改定手続きを利用して、ほぼ全文を入れ替えて、国会の承認のみで改定決議されたものです。国民投票で承認されたものではないのです。
それなのに、なぜ、大日本帝国憲法は、国会の承認のみで全文の書き換えが可能で、日本国憲法は、国民投票を経ても根幹部分の書き換えは不可能という考え方が成立しうるのでしょうか?
確かに、どなたかがおっしゃっていたように、日本国憲法前文には、憲法には珍しい「愛」という言葉が使用されています。しかし、「愛があれば、何でも許される」というものではないと思うのですが。
実は、3大原則を否定するかたちでの現行憲法の改正が不可能であるのには、それなりの根拠があります。
それは、3大原則が、人が生まれながらに持つとされる〝自然権〟に基づく〝自然法〟を成文化(実定化)したものだからです。
自然権というのは、万人が神によって生れながらに賦与されている権利のことです。このような考え方を「天賦人権思想」と言います。福沢諭吉が、著作「学問のすゝめ」の冒頭で、この天賦人権思想を「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」と著して紹介しています。
そして、自然法とは、この神の与えたもうた自然権に基づく法のことです。自然法は、本来、文字にかかれない不文法であり、人為的に定められた実定法(慣習法・成文法)の上位に存在すると考えられています。自然法が、なぜ、実定法の上位にあるのか、というと、それは、「自然法もまた、自然権とともに、神によって定められたものである」と、考えられてきたからです。
ですから、立法権・行政権・司法権の三権を有する「絶対権力者と言えども、この神の定めた自然法には従わなければならない」のです。つまり、自分の意思で自由に法律(成文法・制定法)を定めることができる「絶対君主も、自然法に逆らう内容の法律は定めることができない」ということです。
イギリスで主張された「国王と言えども法に従わなければならない」という言葉は、もともとは、こうした実定法(人為法)に対する自然法(神為法)の優位を表す言葉であり、当初は「国王も議会の制定する法律(制定法)に従わなければならない」という議会制民主主義を意味するものではなかったのです。むしろ、当時は「国王と言えども、神の言葉には従わなければならない」という意味に近かったのだろうと思います。
民主的な立法議会があろうがなかろうが、あるいは、議会を解散して三権を一手に握った「ヒトラーや金正恩のような独裁者の政権であっても、神の定めた自然法には、無条件で当然に従わねばならない」ということです。
こうした人為に対する自然法優位の考え方を「人の支配」に対して「法の支配」と言います。けれども、これ(「法の支配」)は、むしろ、「神の支配」と言った方が、良いのかもしれません。
「法の支配」の理念の発祥地であるイギリスでは、自然法の多くは、不文法のままでイギリス憲法の一部として認められています。それは、自明の理である神の法を、敢えて人為的に成文化(実定化)する必要を感じなかったためです。
けれども、原住民を殺戮しつつ、力づくで奪った土地を、神に約束された地と称するという欺瞞の上に建国したアメリカ合衆国では、神の法による支配に確信が持てなかったのでしょうか、自然法の成文化が目立つようになります。
たとえば、アメリカ独立宣言には「我々は、造物主(神)によって、自然権を与えられている」と記されてあり、「これは自明の真理である」と、わざわざ強調されています。1ドル紙幣にも「We trust God」と書かれています。
このしつこさは、ある意味、彼らの確信の無さと後ろめたさの現れです。確信が持てないからこそ、人は饒舌になるものです。本当に、自明の真理であるなら、何もわざわざ成文化する必要はないのです。
それは、日本国憲法にも、当てはまります。そもそも、日本人は、「人は造物主(神)によって、生まれながらに権利を与えられている」という理念を、自明の真理とはしていません。というのも、日本人の多くは、西欧的な一神教の絶対神への信仰を持たないからです。したがって、唯一神によって定められた自然法という概念を、信じることもできません。
自明の真理ではないからこそ、この憲法は、不文法であっては絶対に機能しません。そこで、いちいち、こと細かく成文化する必要があったのです。
同時に、成文化した自然法は、人為法であるとは言え、内容的には、本来は神に帰属する法なのですから、原理的には人間の手で改定することはできないはずです。なので、自然法部分に関する憲法改正は、ほぼ不可能とする必要があったのです。
これが、日本国憲法が、制度上、極めて硬性の憲法になっている理由でもあり、同時に、「制度上適法であっても憲法の根幹の改変は許されない」という「改憲の限界」説が正当とされる根拠となっています。
ですから、たとえ、国民の90%が、前文と9条の改憲に賛成したとしても、その削除は不可能ということなのです。つまり、この国は、なぜか「主権者である国民の上に、憲法がある」という特殊な構造の国家となっているわけです。
これは、厳密にいうと、『国民主権』の原則に反した状態であり、憲法が自己矛盾を起こしているとも見えます。
ところで、自然法の根拠となっている自然権とは、具体的にどういうものなのでしょうか?
国王夫妻を断頭台に送ったフランス革命時に、平民の立場の正当性を謳って書かれた人権宣言の文言と対比しつつ、日本国憲法の3大原則と自然権との関係を、順に考えてみましょう。
まず、フランス人権宣言に明記されている「人間は生まれながらに自由・平等に生まれついている」という考え方と「人間には幸福追求の権利がある」という考え方が、日本国憲法の『基本的人権の尊重』の原則の基になっています。この自然権としての人権に関する具体的な記述が、日本国憲法の記述全体の3分の1を占めています。しかも、その大部分は、日本でも人権が社会的に認められるようになることを願った、ひとりのアメリカ人女性の手によって書かれた文章なのです。それらは、日本国憲法の中でも、もっとも優れた素晴らしい条文だと思います。
さらに、これも人権宣言の記述にある「人間は圧政への抵抗権を自然権として有している」という考え方と「主権の根源は、本質的に国民のうちにある」という考え方が、日本国憲法の『国民主権』の原則の基となっています。(ここが、「日本国憲法においては、自己矛盾をはらんでいる」というのは前述のとおりです。)
加えて、人権宣言中の「人間は平和のうちに安全に生きる権利がある」という考え方を中心に、「所有権は神聖不可侵であり、何人も他者の所有権を侵してはならない」という考え方を含めて、『平和主義』の原則の基となっています。(この部分の問題については、後で詳しく検証します。)
また、日本人は、そもそも自然権を自明の理とする理念や信仰を持たないため、不文法を重んじることができない、とは言いましたが、日本に不文法がないというわけではありません。
不文法のない社会には、成文法も意味をなさないものです。日本人の信ずる不文法は「書かれたものは重んじる」というものです。この不文法がなければ、成文化された憲法も、絵に描いた餅になってしまいます。
この不文法(「書かれたものは信じる」)の基に日本国憲法(「成文化された自然法」)が、日本という国家の根幹として成り立っているのです。
「自然法が成文化されたことによって、一言一句、正確に法が守られるなら、こんな素晴らしいことはないではないか」という意見もあります。しかし、一方では、「自己矛盾をはらんだ文言を、一言一句遵守することなど不可能であり、そのために『法治主義』の理念が危うくなっている」という意見もあります。
実際、日本国民の多くは、この憲法の自己矛盾に気付きながら、見て見ぬ振りをしているのではないか、と思います。つまり、現実には「信じてもいないのに、後生大事にして、守る気もないのに、有難がっている」ということです。
では、さらに焦点を絞ってみましょう。本来、自然権の一部である『平和主義』の条文の何が問題なのでしょうか?
つまり、憲法条文が、どのような自己矛盾をはらんでいるのか、具体的に考察を進めるために、個々の成文化された文言について、それぞれ一文づつ考えてみたいと思います。
まず、平和主義を謳った憲法前文には、次のようにあります。
『①日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。②われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。③われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。』
①は、簡単に言うと「日本は、周辺の諸外国が皆、平和を愛しており、決して攻めてくることがないことを信頼して、軍事力による国防を一切考えないことにした」ということです。また、見方を変えれば、「日本国民は、諸外国の国民を信頼しつつ、自らの安全と生存に自己責任を持つことを決意した」とも読めます。
②は、9条との関連で「日本人は、平和を愛する諸国民によって成り立つ国際社会で、(非戦と非武装を貫くことで)名誉ある地位を占めたいと願っている」という意味にとれます。
③は、「日本は、世界中のすべての国の国民が、平和のうちに生きる権利を持っていることを認める」と、あらためて『平和主義』の根拠である自然権について述べています。
さらに、憲法9条には次のようにあります。
まず、第1項には『④日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。』とあります。
そして、第2項には『⑤前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。』とあります。
④の第1項は、戦争放棄の条文ですが、「日本は、永久に、戦争をしないし、武力による威嚇も行わない」と述べています。
⑤の第2項は、戦力の不保持と交戦権の否認の条文ですが、「日本は、陸海空軍といった軍隊を持たないし、交戦権も持たない」と述べています。交戦権がないということは、防戦も含めて、他国との間で、いかなる戦闘行為も行わないということです。
それでは、上記の成文法の何が問題か、順を追って考えてみましょう。
憲法前文の根幹である①の文章については、その理想主義の思想が、現実の国際社会への国民の理解と、まったく一致していないという矛盾があります。
そもそも、日本国民は、「諸国民の公正と正義」を信頼していません。よって、日本国民が、自らのサバイバルを自己責任と考えているなら、国防の不要を安易に信じることはできないはずです。
②についても同様で、そんな理想的な国際社会はどこにもないのに、どこにもない幻の国際社会で、名誉ある地位を占めることを夢見てどうするのでしょうか?
③もまた、建前としては立派ですが、この「絵に描いた餅」のような建前によって、この国の平和と安全を担保するというのは、いかにも無理があります。
④の9条一項に関しては、何も問題がないとする識者も多いのですが、実は大きな問題があります。なぜなら、武力による威嚇を認めないとするなら、アメリカとの軍事同盟も、アメリカの「核の傘」による威嚇も、法的に許されないことになるからです。
⑤の9条二項については、問題しかありません。世界中に軍隊を持たないという憲法を持っているのは日本だけです。その上、交戦権を認めないとなると、自衛のための武力行使すらできないので、主権国家として独立を維持することが、事実上困難になります。
なぜ、こんな非現実的な条文が、憲法として成り立ったのかというと、この憲法が日本の非軍事化をすすめる占領軍によって、たった8日間で英文で作られたものだからです。
当時、日本の非軍事化に関して、占領軍には二つの動機がありました。一つは、あまりにも手強かったアジア最強の軍事大国を無力化し、二度とアメリカに楯突くことがないようにすることです。もう一つは、日本の占領政策に深く関わったクェーカーの思想的影響があります。
クェーカー(フレンド派)は、無教会主義のキリスト教の一派ですが、友愛の都フィラデルフィアの建設などアメリカ建国にも深く関わった宗教グループです。
彼らの思想の最大の特色は、非戦・非武装の思想です。一切の武器を認めないし、あらゆる争いを悪として否定するという点で、アーミッシュとも深い繋がりがあります。クェーカーの信者は、太平洋戦争においても、徴兵を拒否して投獄されました。
日本でも、古くは札幌農学校でクラーク博士に強く影響された新渡戸稲造が、渡米後クェーカーに帰依していますし、稲造の妻君もニューヨークのフレンド派コミュニティー出身の敬虔なクェーカーの女性でした。
戦後、昭和天皇も、皇太子の教育係として、アメリカ人のクェーカーの女性を招いたことは有名です。さらには、美智子皇后の最も信頼した主治医の神谷美恵子(精神科医・哲学者)もまたクェーカーの信徒でした。
こうしたクェーカーの信念が、日本国憲法の成立に大きな影響を与えたことは間違いありません。つまり、日本国憲法は、極めて宗教的な信念の下に書かれた成文法なのです。
単なる9条教ではない、クェーカーの信仰に裏打ちされた平和主義の信念は素晴らしいもので、敬意を持って扱われるべきものだと、わたしも思っています。
しかし、こうした信仰と信念は、あくまでも、ごく一部の人々の確信であって、日本国の憲法のバックボーンとなるべき万人に通じる自然法の理念とは、なり得ていないように思います。
一方で、GHQ(占領軍司令部)は、「日本の国防については、世界最強のアメリカ軍が受け持つから何の心配もない」として、当時の憲法承認に際しての日本側の不安と逡巡を一蹴しました。「アメリカ軍が守るから、日本が軍隊を持つ必要はない」ということです。
この考えのもと、1951年、日本の独立に際しては、日米安全保障条約が日本の国防を担保しました。つまり、アメリカが、日本の平和と安全を保障したのです。
しかし、同時期、1950年の朝鮮戦争をきっかけに、GHQは日本に再軍備を命じました。「ソ連と対立し、中国・北朝鮮と戦争している状況では、日本が再び武装することが必要」とマッカーサーは判断したのです。
問題は、憲法9条の戦力不保持の条文との整合性でした。そこで、前文③にある「日本国民が平和のうちに生きる権利」を保障するためには、「いざ、敵に攻められた場合には、日本の自衛権が認められなければならない」として、専守防衛の自衛隊の存在を認める解釈改憲をひねり出したわけです。
専守防衛というのは、厳密に言うと、敵の放ったミサイルは撃ち落としていいが、敵の戦闘機は撃ち落としてはいけないというものです。敵の戦闘機とドッグファイトをすることになれば、それは即ち〝交戦する〟ということになってしまうからです。もちろん、敵のミサイル基地や航空基地を攻撃することなど絶対にできません。しかし、これでは実質的には自衛は不可能です。
また、憲法前文①にあるように「諸国民の公正と正義を信頼」するなら、自衛権も自衛隊もまったく必要ないわけで、憲法条文と現実との間には、明らかな矛盾があることを認めざるを得ません。また、上記したように、9条二項の「交戦権の否認」と自衛権の容認も、厳密には合致しません。そもそも、交戦しないで防衛できるわけがないからです。
米軍基地にしてもそうで、憲法前文の理想主義とも矛盾しますし、9条一項の「武力による威嚇の禁止」にも反しています。米軍の核戦力や空母や海兵隊は、明確に周辺国への威嚇として機能しているからです。
こうして、1950〜51年の段階で、日本国憲法の平和主義の条文のほとんどは、現実の国家運営との間で齟齬をきたし、ある意味、有名無実化したのです。
にも関わらず、今日まで、「憲法前文と9条を全面的に改正したい」という意見が、国民の過半数を占めることができない理由は、この憲法が、元々、平和主義に関する宗教的信念を謳ったものだからです。前文と9条の文言が、現実とどれほど齟齬をきたそうと、〝9条教〟信仰者にしてみれば、「信じるものは救われる」という確信を揺るがすものではないということでしょう。第一、教典というものは、信者の都合によって、安易に書き換えられるものではないのです。
憲法が教典化したのは、それだけ、第二次世界大戦の災厄と悪夢の刻印が、日本国民にとって深刻なものだったという証でもあります。しかし、一方では、実質的な日米同盟に安住して、自律的な国家の安全と平和の維持を、一切考えずに済ましてきたということでもあります。
もう一つ、日本における憲法論議の厄介な点は、国民の護憲の意識の中に、西欧的なリベラリズムの思想に対する根深いコンプレックがあることです。つまり、9条改憲を主張するよりも、あくまでも護憲を主張する方が、リベラルを標榜する戦後日本人としては、疑問の余地なく〝気持ちよかった〟のです。もっと言えば、「護憲の立場をとることで、自分が優秀であるかのように、容易に勘違いしたまま、知識人のプライドを守っていられる」ということです。
戦後、73年が経ち、日本をめぐる国際環境は、劇的に変化しつつあります。冷戦構造は崩れ去り、もはや、アメリカは、無条件で日本の防衛を肩代わりしてくれる絶対的な存在ではありません。
習近平独裁の反日中国の経済的・軍事的台頭は著しく、北朝鮮と韓国もまた統一核武装反日国家へのプロセスを模索しつつあります。ロシアもプーチンの指導の下で、強力な自立した軍事大国の道を歩んでいます。
ロシア・中国・北朝鮮の共通点は、独裁的な権力の集中と核武装によって、政治的に自立した外交戦略を遂行できる体制にあることです。
そこが、日本との大きな違いです。日本には、残念ながら、自立した外交戦略を展開できる基盤がありません。もちろん、わたしは「日本も直ちに核武装するべきだ」とか「日本にも9条改憲を可能とする独裁的な権力を持つ圧倒的に強いリーダーが必要だ」などと、性急に主張したいわけではありません。
ただ、「9条及び前文の全面削除か全面改定」とか「独自核武装の実現可能性」などの最重要議題についての公の議論すらはばかられる状態では、この国の未来への展望が、まったく描けないのではないでしょうか。
繰り返しますが、現実の世界は、諸国民の公正と正義を無邪気に信頼できる状態にはありません。
それどころか、世界は、とほうもない〝差別〟のかたまりで、できています。嫉妬と憎しみと怨みに満ちています。そして、日々、人々の心の中で戦争が生まれているのです。
日本だけが、これからもずっと、そうした災厄の外にいられる保証はどこにもありません。国民が、9条教カルトの影響下で、気持ちの良い甘い夢に微睡んでいる間にも、我が国は徐々に破滅への道を辿りつつある。そんな気がしてなりません。
「書かれていることだけが憲法ではない」ということを、しっかり踏まえて、憲法について考えてみることが大事です。成文法だけが憲法ではなく、むしろ、不文法こそが、国を支える根幹の理念なのです。
憲法第9条や前文のように、文言として書かれてしまったが故に、非常に厄介なことになってしまうこともあれば、イギリスの自然法のように、文言に書かれていないからこそ、かけがえもなく貴重である、ということもあるのです。
大切なことは、わたしたちが何を信じ、何を求めるか、なのです。さあ、もう一度、鎖に繋がれていない自由な心で、自らの責任において憲法について深く考えてみましょう。
わたしたちにとって、もっとも大切な不文法は、何なのでしょう?
「わたしたち日本国民は、日本国の主権者として、日本国及び日本国民の平和と安全の維持に、第一の責任を負っている。なぜなら、わたしたちが平和に生存する権利を保障しうるのは、わたしたち日本国民のみだからである。
かかる責任を果たすために、わたしたちは日本国憲法前文と9条を、全面的に改正することを決意した。
国土と国民の防衛の責任は、主権者である国民にあるのであるから、戦力の保持と自衛権を含む交戦権の行使は、国民の意思によらねばならない。武力の行使及び武力による威嚇は、国際平和と諸国民の安寧を切に希求する日本国民の意思によって遂行されるものである。
以上の目的を達成するため、日本国は、陸海空および、その他の自衛軍を創設し、日本国民の平和に生存する権利を、国民の名において保障するよう不断の努力をするものである。」