池上彰さんの「戦争を考えるSP」で、「昭和天皇が特攻を褒め称えたため、現場の意に反して特攻は止められなくなった」「近衛文麿の早期講和の提案に、昭和天皇が『もっと戦果をあげなければ有利な講和に持ち込めない』と退けたために、早期講和ができなかった」という説明があったのだそうです。そのため、「昭和天皇は、若者たちの命を惜しまず、身勝手に戦果を喜んだ冷血漢だった」「昭和天皇は、不利な講和によって自分の命が危うくなることを恐れて、早期講和を望まなかった卑怯な男だ」「昭和天皇は、国の行く末よりも自分の命を惜しんだ最低の君主だ」という受け取り方をした視聴者の方が多かったようです。
けれども、いよいよ日本が追い詰められた1944(昭和19)年11月、当時の状況から考えて、戦闘から数日を経って特攻兵たちの勇戦を事後報告として聞かされ、天皇陛下に英霊を褒め称える以外にどんな事ができたのか、わたしにはわかりません。
また、東京大空襲後の1945(昭和20)年2月、「米英に国体変革の意思はないから、降伏してもさほど問題はない」「それより、軍の一部による共産主義革命による国体変革こそ危惧すべきで、軍を粛清して早々に降伏すべきだ」という近衛文麿の上奏文に対し、陛下は「どういう方針で粛軍するのか?」と尋ねています。近衛はそれに対して「それは陛下のお考え次第で」と言葉を濁します。
当時、軍部の中では、「国体護持のため徹底抗戦すべし」という考えが主流でした。そのため、陛下は、彼ら主戦派を説得して条件付き降伏を連合国に申し入れ、それを連合国に認めさせるためには、どうしても今ひとつの戦果が、軍の面目を立てるためにも必要ではないかと答えます。近衛は、「それでは手遅れになるでしょう」と言います。
軍の主戦派を説得できる材料がなければ早期講和は難しいという陛下の判断は、冷静な正しい状況分析でした。もちろん、それでは手遅れになるという近衛の判断も間違っていたわけではありません。
しかし、少なくとも、「昭和天皇が、降伏後、連合軍の国体変革によって自らの命が危うくなることを恐れていたから、近衛の上奏を無視した」とか、「特攻隊の若者たちの命を犠牲にしても、自らの命を惜しんだ」などというのは、まったく見当違いの誤った言説です。
昭和天皇がそのような方ではなかったことは、あらゆる文献・証言からも明らかであり、そのような心ない誹謗中傷の虚偽イメージが、公共の電波を使って流されたことは、とても残念なことです。
例えば、昭和天皇は、沖縄県民が「沖縄戦の責任を取って腹を切れ!」と迫るなら、「それを国民が望むなら」と迷わず自ら腹を切ったでしょう。「国民が必要ないと言うなら、生き延びて何になろう」と陛下は仰っていました。真の帝王とは、そうしたものではないでしょうか。


1945(昭和20)年8月10日、最後の御前会議で、初めてご聖断を求められた昭和天皇は「軍のいうことは、予定と結果が大変に違う事が多い。本土決戦に勝つ自信があると軍は言うが、私にはとてもそうは思えない。現実には兵士に銃剣すら行き渡っていない。このまま本土決戦に突入したら日本民族は一人残らず死に絶えてしまうのではないか。そうしたら誰がこの日本という国を子孫に伝えていくのか。私の使命は先祖から受け継いだこの国を子孫に伝えることだ。この際、自分のことはどうなっても構わない。今日となっては、一人でも多くの日本人に生き残ってもらって、将来再び立ち上がってもらうほかに、この国を子孫に伝えていく方法はないと思う。世界人類のためにも、この悲惨な戦争を続けるのは不幸なことである。私は明治天皇の三国干渉の時のお心も考えて、耐え難きを耐えて、この戦争をやめる決心をした。」と終戦の決断を下されました。
「この際、私の命はどうなっても構わない」と、君主として自ら決断を下したのは、明治天皇の保身を顧みない生き様に従ったものと考えて良いと思います。
そもそも、昭和天皇は、田中義一の対中国侵略には、徹底して反対して、結果、田中を死に追いやってしまいました。その反省から、昭和天皇は、内閣への不信任を表立って表明することには、極めて慎重になっていたのです。
それでも、関東軍による満州事変、陸軍反乱軍による2・26事件、松岡洋右らが推進したヒトラーやムッソリーニとの三国同盟には極めて批判的でした。陛下は「ドイツやイタリアのようなファシズム国家と同盟を結び、私の代は良いとしても、私の子孫の代が思いやられる。本当に大丈夫なのか?」「この同盟に対して、米英はすぐに日本に対するくず鉄・石油の禁輸措置に踏み切るだろう。そうなったら、この国の自立はどうなるのか。この先、大変な苦境と暗黒が訪れるかもしれない。その覚悟が、お前にあるのか?」と、当時はナチスに心酔していた国民総動員運動の推進者近衛文麿に向かって、何度も問いただしています。
また、美濃部達吉の天皇機関説にも理解を示し、美濃部の貴族院追放を残念に思っていらっしゃいました。「機関説でよいではないか。美濃部ほどの学者をなぜ追放するのか。」
日中戦争で共産党軍のゲリラ戦に手を焼きつつ太平洋戦争開戦を主張する軍部に対しては、「支那の奥地が広いと言うなら、太平洋はなお広いではないか。いかなる確信があって3ヶ月でアメリカを倒すと言うのか!」と激怒されました。さらに開戦決定の御前会議においても「よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ(四方の海には、皆友邦があると思う時代に、どうしてこのように波風が立つのか) 」とだけおっしゃられ、開戦に否定的な意向を示されたのです。
昭和天皇をヒトラーやムッソリーニやスターリンと同列に考えて、その戦争責任を問うのは、まったく歴史を知らない愚昧の徒の軽薄極まりない物言いです。
「国体は国民の自由意思によって決められるべき」とするポツダム宣言の受諾に関しても、陛下は「たとえ連合軍が天皇制維持を決めても、人民が離反したのではどうしようもない。人民の自由意思によって決めてもらって少しも差し支えない。」「戦争を終え、これから、この国を復興せねばならない。それはとても困難なことであり、時間もかかるであろう。けれども、国民が心を一つにして努力すれば、必ず成し遂げられるであろう。私も国民と共に努力する。」と仰り、家臣をなだめてポツダム宣言の受け入れを決断されました。自分が死んだら、後は野となれ山となれという他国の独裁者たちとは、まったくもって比較になりません。
昭和天皇は、君主として、自分の命より、「祖先から受け継いだ国を維持する」という自分の義務・使命を、はるかに重いと考えていらっしゃったのです。