ナポリは、ローマ、ミラノに次ぐ、イタリア第三の都市で、人口は300万人ほどです。ローマから特急で1時間あまり南に下ったところにある港湾都市で、南にサンタルチア湾、東にヴェスビオ火山が見えます。そして、ナポリからさらに南東へ下ると、順にポンペイ、ソレント、アマルフィ、サレルノといった歴史的な港湾都市が点在しています。
ナポリは、紀元前5世紀前半に、現在のナポリ中心部から北西に15kmほどの距離にあったギリシャ植民市クーマエの植民者たちによって建設され、ネアポリス(新しい都市)と名付けられました。紀元前800年以降、南イタリアとシチリア島に多数建設されたギリシャ植民市の中では、比較的新しい都市でした。ちょうど、当時、全盛期のアテネでは、ソクラテスが生まれた頃の話です。
ちなみにクーマエは、紀元前800年頃、南イタリアに最初に作られたギリシャ植民市であり、古代ローマ世界で最も権威のあるシビュラ(巫女)のいる地でした。紀元前1世紀には、詩人ヴェルギリウスが、叙事詩「アエネイス」の中で、クーマエのシビュラに冥界への案内役をさせています。
クーマエ・ネアポリスの周辺には、当時、多数のギリシャ植民港湾都市が集中的に建設されていました。そして、実際、古代ギリシャ人は、この地域をマグナ・グラエキア(大ギリシャ)の一部と考えていました。そういう経緯から、ナポリ地域及び南イタリアでは、昔からギリシャ系の人口が多く、紀元11世紀頃まではギリシャ語が日常言語として使用されていたのです。
しかし、ネアポリスは、紀元前4世紀から3世紀初頭にかけてのローマ人と南方山岳民族サムニウム人の紛争において、ギリシャ系周辺諸都市とともにサムニウム人と結んでローマに対抗しましたが、最終的にサムニウム人は敗北し、紀元前3世紀には、同盟という名の下でネアポリスはローマの支配(以後約800年間)下に入ります。
その後、紀元前1世紀に、三頭政治期のローマとイタリア諸都市との間で起こった同盟市戦争の結果として、ローマとの結びつきが強まり、ネアポリスはさらなる繁栄を続けます。紀元1世紀には、ポンペイを滅ぼした二つの大自然災害(地震と噴火)からも復興します。
この頃、ネアポリスの西隣にあるイタリア最古のギリシャ系港湾都市クーマエには、コロッセオの建築家が、帝国で三番目に巨大な円形闘技場を建設しています。また、ネアポリスの北25kmほどの位置にあった内陸都市カプアにも、剣闘士の養成所と円形闘技場がありました。当時、この地域全体がギリシャ系文化の根付いた先進地域として、ローマの特別な保護を受けて、大いに栄えていたことがわかります。
しかし、5世紀に西ローマ帝国が滅亡すると、ネアポリスは、ゲルマン人(東ゴート族・ランゴバルド族)の掠奪・支配を受けたり、6世紀にはユスティニアヌス帝期の東ローマ(ビザンツ)帝国の支配を受けたりしつつ、激動の混乱期に入ります。
紀元前から11世紀中頃まで、1000年以上もの間、ナポリの人たちが埋葬された共同墓地が、複数のカタコンベとして残っています。墓地に付設されていたギリシャ・ローマ時代の神殿も、4世紀頃に教会・礼拝堂に改造され、それ以降はキリスト教徒専用の墓地となっていたようです。ただし、11世紀半ばまでは、ナポリはギリシャ文化圏であるビザンツとの結びつきが強く、ローマ教皇の支配はなかなか及ばなかったようです。
11世紀半ば以降、これらの墓地が使われなくなり、忘れ去られたのは、やはり、それだけノルマンの破壊と征服が徹底的だったせいかもしれません。少なくとも、それまで6世紀以降(約500年間)根強かったギリシャ系のビザンツ帝国の影響力は一掃されたでしょう。
こうして、ナポリは、11世紀中頃には、好戦的で勇猛なノルマン人(北方ヴァイキング)のオートヴィル一族の支配下に入ることになります。この一族の支配領域(シチリア島及び南イタリア)は、12世紀にはシチリア王国(オートヴィル朝1130-1194)となります。
このナポリを征服したノルマン人の王朝が、サンタルチア湾に突出した小島につくった城塞が、有名な「卵城」です。卵城の建設は12世紀ですが、ノルマン人が、城塞建設の時に基盤部に卵を埋め込み、「この卵が割れる時、城もナポリも滅びる」という呪いをかけた、というのが名称の由来です。その後、13世紀に、フランスの貴族アンジュー伯が、シチリア島を失ったものの南イタリア一帯を支配するナポリ王国(アンジュー朝1266-1442)を受け継いだ時には、卵城は王城として使用されたりもしました。
現在は、なぜか結婚式の名所となっており、1日に何組もの新郎新婦が、親族とともに卵城を訪れます。純白のウェディングドレスを着た花嫁が、何人も中世の城塞へ向かう橋を歩いて渡って行きます。古来「ナポリを見てから死ね」と言われてきた風光明媚なロケーションが、祝福された場所という強い印象を与えるからでしょうか。
小島には、城塞の周りに、所狭しとレストランが立ち並び、富裕層のヨットやクルーザーがぎっしり停泊しています。さらに、その中を、漁師の小船が行き交い、新鮮な魚介類が売り買いされています。その魚介類は、すぐに調理されて、レストランのお客に供されるのです。小島の周囲では、ムール貝の大規模な養殖が行われており、カニやエビや魚もたくさん採れます。サンタルチア湾は、大都市の港湾なのに、汚水を流す排水口を全てふさいでいるので、湾内の海水が透明に澄んでいて、海の幸が豊富なのです。
さて、繰り返しますが、12世紀には、ナポリは、最初はノルマン系オートヴィル家のシチリア王国の一部(途中からは首都)として、13世紀前半にはホーエンシュタウフェン家のシチリア王国の首都として、13世紀半ば以降は、フランス貴族アンジュー家のナポリ王国の首都として、350年ほどの間、神聖ローマ帝国及びローマ=フランスの支配を間接的に受けます。一方で、アラブ人の勢力の強かったシチリア島からのイスラム文化圏の影響もありました。
ところで、このナポリ王国だった領域(ほぼ南イタリア全体)で、現在も話されている言語が「ナポリ語」です。古代イタリア語と俗ラテン語とギリシャ語とアラビア語が混ざった言語で、標準イタリア語の話者とは意思の疎通が難しいと言われる独自性の強い言語です。
ナポリ中央駅で会ったポルトガル系ブラジル人の旅行者が、「ナポリでは、誰もまともなイタリア語を話さない」「スペイン語とイタリア語はわかるが、ナポリ語はさっぱりだ」とぼやいていました。「ナポリ人は、ちょうどスペインのバスク人みたいだ」と言うのです。言語も民族も、周辺地域(北部・中部イタリア)とはかなり異質だと言いたいのでしょう。
ナポリ民謡「サンタルチア」も、元々の歌詞はナポリ語ですし、「帰れ、ソレントへ」の歌詞も、イタリア語ではなくナポリ語なのだそうです。ソレント、アマルフィ、サレルノなど含めて、やはり、旧ナポリ王国地域(南イタリア)は、今でも、かなり言語的・文化的に独自色が強いようです。
ちなみに、ナポリの南西46kmに位置する港湾都市サレルノは「ヒポクラテスの街」と呼ばれ、9世紀から13世紀にかけてヨーロッパの医学をリードした医科研究機関「サレルノ医科大学」がありました。9・10世紀には、ギリシャ・ローマの医術・医学をベースに研究・実践が行われていましたが、十字軍遠征以前の11世紀中頃からはイスラム圏の先進医療が取り入れられ、医療技術が高度に発達していたのです。11世紀のサレルノ医学校には女性の優秀な医師がいたことも知られています。
十字軍の負傷兵の治療などで名声が轟いていた12・13世紀には、欧州中から王侯貴族が病を癒すために療養にやってきたのだそうです。13世紀前半の神聖ローマ帝国の法典では「医療行為はサレルノ医学校で学んだ者だけに許される」と定められていました。やはり、ルネッサンス以前の13世紀までは、南イタリアこそが、トスカーナ(中部イタリア)や北イタリアを凌ぐ文明の先進地域と考えられていたのは確かだと思います。
15世紀半ばになり、スペイン(アラゴン)によって、ナポリ王国は征服・継承(1442)され、その後、フランス王ルイ12世のわずかな支配期間の後、アラゴンに再征服されて、約240年続いたナポリ王国は滅亡(1504)します。
その後、ナポリは、2世紀の間、スペインの直接支配を受けますが、18世紀初めに、オーストリア・ハプスブルク家がナポリを占領して、スペイン総督を追い出します。しかし、すぐにスペイン・ブルボン家へと支配は移り、新ナポリ王国(国王はスペイン・ブルボン家の王子)が成立します。
それから、ナポレオンの支配を挟んで、1816年、再度、スペインの支配が復活し、今度はナポリを首都とする両シチリア王国(国王はスペイン・ブルボン家の王子)が成立します。スペインによる支配(1442-1860)は、2度の中断を挟んで、およそ400年ほど続いたわけです。
大まかに考えても、紀元前3世紀から19世紀にかけて、2200年の間にローマ⇨ビザンツ⇨フランス⇨スペインと、ナポリの支配者は移り変わったということですね。さらに細かく見ると、さまざまな征服者や支配者が現れては消えていきました。
けれども、都市創設から現代まで2500年に渡って、「ナポリを見てから死ね」という有名な言葉に表されているように、この港湾都市は輝きを失うことなく、美しい宝石であり続けています。イタリアの魅力は、まさに、この都市に結実しているように思えるのです。
さて、このナポリを首都とする両シチリア王国を征服(1860)したのが、ニース出身の救国の英雄ガリバルディです。ガリバルディは、その後、両シチリア王国だった領域(南イタリア全域及びシチリア島)を、サルディニア王のヴィットリーオ・エマヌエーレ2世に献上し、翌年のイタリア統一に貢献しました。彼の名は、ナポリ中央駅の別称(ガリバルディ駅)として残っています。
しかし、統一後の南イタリアは、言語や文化や習俗や歴史的伝統の違いもあり、開発が進む北イタリアとの格差の拡大に悩むようになります。あるいは格差意識・差別意識の拡大と言ってもいいかもしれません。ローマとは、列車で1時間で結ばれるようになりましたが、意識の距離はそんなに縮まってはいないのかもしれません。
世界的な観光地として旅行者が訪れ、富裕層もいる一方で、貧困層が非常に多いため、この貧富の格差ゆえに犯罪も多いと聞きます。最近は、移民の増加が大きな問題となってもいます。それでも、ナポリには不思議な魅力があります。ローマよりも、ミラノよりも、フィレンツェよりも。
ところで、ナポリはピザ発祥地として有名ですが、ナポリでピザの原型に当たるバジルとチーズをのせて焼いたフォカッチャが作られはじめたのは17世紀のことです。ピザと言えばトマトですが、当時はまだトマトは食材として使われていませんでした。
すでに16世紀に、スペイン人が、インカからトマトを持ち帰っていましたが、猛毒を持つベラドンナに似ていることから、食用としてはまったく利用されていなかったのです。しかし、18世紀に、南イタリアの飢えに苦しむ青年が初めて食べてみたら、とても美味しかった(死ななかった)ということで、ナポリの貧しい人々の間で、当時は観賞用だったトマトをソースにして生地にのせて焼いたもの(マリナーラ)が作られるようになりました。
ですから、その当時は、ピザは、質素で素朴な庶民の食べ物で、冬場に貧民が食べる唯一の食べ物だったのです。実際、今でも、ある程度の格式ある料理を出すリストランテでは、パスタは出してもピザは出さないところが多いです。
その後、19世紀後半に、統一イタリアの王妃マルゲリータが、ナポリに立ち寄った時に、庶民がピザを食べているのを見て興味を持ち、王宮にピザ職人を招いてピザを作らせました。この時、王族に出すために、初めて考案されて作られたピザが、バジルとチーズとトマトを生地にのせたピザ・マルゲリータでした。緑(バジル)と白(モッツアレラチーズ)と赤(トマト)の取り合わせを、王妃がいたく気に入ったのだとか。
ちなみにナポリのピザ協会では、トマトソースのみのマリナーラと、バジル・チーズ・トマトのマルゲリータだけが、ホンモノのナポリのピザである、と認定しているそうです。マリナーラは、トマトの味だけではなくて、複雑な香辛料の香りがして、なかなか美味しかったです。
20世紀後半になり、第二次大戦後にイタリアへ進駐した兵士たちを中心に、アメリカでピザの一大ブームが起きて、それまでイタリア系移民しか食べなかったピザが、一般のアメリカ人にも浸透するようになりました。さらに、今度はアメリカ文化として、ピザが日本にも入ってくるようになったのです。
沖縄の場合は、特にそうでした。沖縄の老舗レストラン「ピザハウス」が開業したのは、1958年のことです。当時、アメリカでは、すでにピザが大ブームになっていました。
こうして、19世紀のナポリの貧民の主食(貧乏飯)が、20世紀の世界のスタンダード料理の一つとなったのです。
ナポリで、卵城と並ぶ名所と言えば、やはりナポリ国立考古学博物館でしょう。
ナポリ国立考古学博物館は、ナポリ中央駅(ガリバルディ駅)から、タクシーで10〜15€で行けます。メーター付きのタクシーなら10€かからない距離ですが、メーターのないタクシーなら、「どこでも一律で15€だよ」とか言われたりします。
博物館の入場料は1人12€します。リュックなどは鍵付きロッカーに預けて入ります。館内では水以外の飲食はできません。食料の持ち込みも不可ですし、レストランやカフェも館内にはありません。カメラの所持は自由です。
主な展示品は、古代ギリシャ・ローマ時代の大理石の彫像の大コレクションと、ポンペイから発掘されたモザイク画・フレスコ画の壁画、床のタイル、ガラス製品、焼き物、石製工芸品など無数の出土品、さらに古代エジプトのミイラや副葬品のコレクションです。
館内はかなり広く、展示品も膨大なので、全部見ようとしたら、ざっと歩くだけでも半日がかりになります。古代ギリシャ・ローマとポンペイのコレクションを観てまわるだけでも、3時間は必要だと思います。
1世紀の古代都市ポンペイからの出土品の中には、有名な戦場でのアレクサンダーを描いたモザイク画や、サッフォーの肖像を描いたフレスコ画もあります。実に生き生きと繊細に描かれた絵画が多く、2000年前の絵画の技術水準の高さに驚かされます。猛犬のモザイク画は、ポンペイの玄関の床にあったらしいのですが、それで泥棒よけになったのだろうか。
彫刻のコレクションは、やはり、1世紀前後のローマやポンペイで出土した作品が多いのですが、元々のオリジナル作品は、紀元前5世紀頃のギリシャの有名作品だったりします。ともかく、彫像は巨大で重厚な作品が数多く、その迫力に圧倒されます。ここでもやはり、等身大の犬の彫刻がいくつも展示されていましたが、これも泥棒よけ、それともペットのレプリカだったのでしょうか。
「秘密の小部屋」と題された展示室には、ポンペイ出土の性的交わりに関するモザイク画・フレスコ画・彫刻・焼き物などが展示されています。歌麿の春画の世界のようで、素朴で赤裸々な性の表現に引き込まれます。ヤギと男性が行為に及んでいる彫刻が複数あるのですが、ポンペイで流行っていたのでしょうか。
「パンとカーニバルの政治」と言われたように、1世紀のローマ帝国では、食事と娯楽は皇帝によってタダで市民に提供されていました。それゆえ、円形闘技場も、入場料・観覧料は無料でした。何の生活の心配もなく、義務も責任もない、史上稀に見る安楽な生活を享受していたローマ市民は、次第により強い刺激を求めるようになっていきました。性的な欲求もどんどん肥大し、表現も過激になっていったのかもしれません。
この博物館は、初め、18世紀中頃にナポリ王国の王立ブルボン家博物館として、国王の膨大なコレクションを保存・展示するために、作られ始めました。完成は19世紀に入ってからの1816年のことです。ルーブル美術館の開館が1793年ですから、似たような時期ですね。その後、イタリア統一にしたがって、1861年に現在の「ナポリ国立考古学博物館」という名称になりました。





ナポリは、紀元前5世紀前半に、現在のナポリ中心部から北西に15kmほどの距離にあったギリシャ植民市クーマエの植民者たちによって建設され、ネアポリス(新しい都市)と名付けられました。紀元前800年以降、南イタリアとシチリア島に多数建設されたギリシャ植民市の中では、比較的新しい都市でした。ちょうど、当時、全盛期のアテネでは、ソクラテスが生まれた頃の話です。
ちなみにクーマエは、紀元前800年頃、南イタリアに最初に作られたギリシャ植民市であり、古代ローマ世界で最も権威のあるシビュラ(巫女)のいる地でした。紀元前1世紀には、詩人ヴェルギリウスが、叙事詩「アエネイス」の中で、クーマエのシビュラに冥界への案内役をさせています。
クーマエ・ネアポリスの周辺には、当時、多数のギリシャ植民港湾都市が集中的に建設されていました。そして、実際、古代ギリシャ人は、この地域をマグナ・グラエキア(大ギリシャ)の一部と考えていました。そういう経緯から、ナポリ地域及び南イタリアでは、昔からギリシャ系の人口が多く、紀元11世紀頃まではギリシャ語が日常言語として使用されていたのです。
しかし、ネアポリスは、紀元前4世紀から3世紀初頭にかけてのローマ人と南方山岳民族サムニウム人の紛争において、ギリシャ系周辺諸都市とともにサムニウム人と結んでローマに対抗しましたが、最終的にサムニウム人は敗北し、紀元前3世紀には、同盟という名の下でネアポリスはローマの支配(以後約800年間)下に入ります。
その後、紀元前1世紀に、三頭政治期のローマとイタリア諸都市との間で起こった同盟市戦争の結果として、ローマとの結びつきが強まり、ネアポリスはさらなる繁栄を続けます。紀元1世紀には、ポンペイを滅ぼした二つの大自然災害(地震と噴火)からも復興します。
この頃、ネアポリスの西隣にあるイタリア最古のギリシャ系港湾都市クーマエには、コロッセオの建築家が、帝国で三番目に巨大な円形闘技場を建設しています。また、ネアポリスの北25kmほどの位置にあった内陸都市カプアにも、剣闘士の養成所と円形闘技場がありました。当時、この地域全体がギリシャ系文化の根付いた先進地域として、ローマの特別な保護を受けて、大いに栄えていたことがわかります。
しかし、5世紀に西ローマ帝国が滅亡すると、ネアポリスは、ゲルマン人(東ゴート族・ランゴバルド族)の掠奪・支配を受けたり、6世紀にはユスティニアヌス帝期の東ローマ(ビザンツ)帝国の支配を受けたりしつつ、激動の混乱期に入ります。
紀元前から11世紀中頃まで、1000年以上もの間、ナポリの人たちが埋葬された共同墓地が、複数のカタコンベとして残っています。墓地に付設されていたギリシャ・ローマ時代の神殿も、4世紀頃に教会・礼拝堂に改造され、それ以降はキリスト教徒専用の墓地となっていたようです。ただし、11世紀半ばまでは、ナポリはギリシャ文化圏であるビザンツとの結びつきが強く、ローマ教皇の支配はなかなか及ばなかったようです。
11世紀半ば以降、これらの墓地が使われなくなり、忘れ去られたのは、やはり、それだけノルマンの破壊と征服が徹底的だったせいかもしれません。少なくとも、それまで6世紀以降(約500年間)根強かったギリシャ系のビザンツ帝国の影響力は一掃されたでしょう。
こうして、ナポリは、11世紀中頃には、好戦的で勇猛なノルマン人(北方ヴァイキング)のオートヴィル一族の支配下に入ることになります。この一族の支配領域(シチリア島及び南イタリア)は、12世紀にはシチリア王国(オートヴィル朝1130-1194)となります。
このナポリを征服したノルマン人の王朝が、サンタルチア湾に突出した小島につくった城塞が、有名な「卵城」です。卵城の建設は12世紀ですが、ノルマン人が、城塞建設の時に基盤部に卵を埋め込み、「この卵が割れる時、城もナポリも滅びる」という呪いをかけた、というのが名称の由来です。その後、13世紀に、フランスの貴族アンジュー伯が、シチリア島を失ったものの南イタリア一帯を支配するナポリ王国(アンジュー朝1266-1442)を受け継いだ時には、卵城は王城として使用されたりもしました。
現在は、なぜか結婚式の名所となっており、1日に何組もの新郎新婦が、親族とともに卵城を訪れます。純白のウェディングドレスを着た花嫁が、何人も中世の城塞へ向かう橋を歩いて渡って行きます。古来「ナポリを見てから死ね」と言われてきた風光明媚なロケーションが、祝福された場所という強い印象を与えるからでしょうか。
小島には、城塞の周りに、所狭しとレストランが立ち並び、富裕層のヨットやクルーザーがぎっしり停泊しています。さらに、その中を、漁師の小船が行き交い、新鮮な魚介類が売り買いされています。その魚介類は、すぐに調理されて、レストランのお客に供されるのです。小島の周囲では、ムール貝の大規模な養殖が行われており、カニやエビや魚もたくさん採れます。サンタルチア湾は、大都市の港湾なのに、汚水を流す排水口を全てふさいでいるので、湾内の海水が透明に澄んでいて、海の幸が豊富なのです。
さて、繰り返しますが、12世紀には、ナポリは、最初はノルマン系オートヴィル家のシチリア王国の一部(途中からは首都)として、13世紀前半にはホーエンシュタウフェン家のシチリア王国の首都として、13世紀半ば以降は、フランス貴族アンジュー家のナポリ王国の首都として、350年ほどの間、神聖ローマ帝国及びローマ=フランスの支配を間接的に受けます。一方で、アラブ人の勢力の強かったシチリア島からのイスラム文化圏の影響もありました。
ところで、このナポリ王国だった領域(ほぼ南イタリア全体)で、現在も話されている言語が「ナポリ語」です。古代イタリア語と俗ラテン語とギリシャ語とアラビア語が混ざった言語で、標準イタリア語の話者とは意思の疎通が難しいと言われる独自性の強い言語です。
ナポリ中央駅で会ったポルトガル系ブラジル人の旅行者が、「ナポリでは、誰もまともなイタリア語を話さない」「スペイン語とイタリア語はわかるが、ナポリ語はさっぱりだ」とぼやいていました。「ナポリ人は、ちょうどスペインのバスク人みたいだ」と言うのです。言語も民族も、周辺地域(北部・中部イタリア)とはかなり異質だと言いたいのでしょう。
ナポリ民謡「サンタルチア」も、元々の歌詞はナポリ語ですし、「帰れ、ソレントへ」の歌詞も、イタリア語ではなくナポリ語なのだそうです。ソレント、アマルフィ、サレルノなど含めて、やはり、旧ナポリ王国地域(南イタリア)は、今でも、かなり言語的・文化的に独自色が強いようです。
ちなみに、ナポリの南西46kmに位置する港湾都市サレルノは「ヒポクラテスの街」と呼ばれ、9世紀から13世紀にかけてヨーロッパの医学をリードした医科研究機関「サレルノ医科大学」がありました。9・10世紀には、ギリシャ・ローマの医術・医学をベースに研究・実践が行われていましたが、十字軍遠征以前の11世紀中頃からはイスラム圏の先進医療が取り入れられ、医療技術が高度に発達していたのです。11世紀のサレルノ医学校には女性の優秀な医師がいたことも知られています。
十字軍の負傷兵の治療などで名声が轟いていた12・13世紀には、欧州中から王侯貴族が病を癒すために療養にやってきたのだそうです。13世紀前半の神聖ローマ帝国の法典では「医療行為はサレルノ医学校で学んだ者だけに許される」と定められていました。やはり、ルネッサンス以前の13世紀までは、南イタリアこそが、トスカーナ(中部イタリア)や北イタリアを凌ぐ文明の先進地域と考えられていたのは確かだと思います。
15世紀半ばになり、スペイン(アラゴン)によって、ナポリ王国は征服・継承(1442)され、その後、フランス王ルイ12世のわずかな支配期間の後、アラゴンに再征服されて、約240年続いたナポリ王国は滅亡(1504)します。
その後、ナポリは、2世紀の間、スペインの直接支配を受けますが、18世紀初めに、オーストリア・ハプスブルク家がナポリを占領して、スペイン総督を追い出します。しかし、すぐにスペイン・ブルボン家へと支配は移り、新ナポリ王国(国王はスペイン・ブルボン家の王子)が成立します。
それから、ナポレオンの支配を挟んで、1816年、再度、スペインの支配が復活し、今度はナポリを首都とする両シチリア王国(国王はスペイン・ブルボン家の王子)が成立します。スペインによる支配(1442-1860)は、2度の中断を挟んで、およそ400年ほど続いたわけです。
大まかに考えても、紀元前3世紀から19世紀にかけて、2200年の間にローマ⇨ビザンツ⇨フランス⇨スペインと、ナポリの支配者は移り変わったということですね。さらに細かく見ると、さまざまな征服者や支配者が現れては消えていきました。
けれども、都市創設から現代まで2500年に渡って、「ナポリを見てから死ね」という有名な言葉に表されているように、この港湾都市は輝きを失うことなく、美しい宝石であり続けています。イタリアの魅力は、まさに、この都市に結実しているように思えるのです。
さて、このナポリを首都とする両シチリア王国を征服(1860)したのが、ニース出身の救国の英雄ガリバルディです。ガリバルディは、その後、両シチリア王国だった領域(南イタリア全域及びシチリア島)を、サルディニア王のヴィットリーオ・エマヌエーレ2世に献上し、翌年のイタリア統一に貢献しました。彼の名は、ナポリ中央駅の別称(ガリバルディ駅)として残っています。
しかし、統一後の南イタリアは、言語や文化や習俗や歴史的伝統の違いもあり、開発が進む北イタリアとの格差の拡大に悩むようになります。あるいは格差意識・差別意識の拡大と言ってもいいかもしれません。ローマとは、列車で1時間で結ばれるようになりましたが、意識の距離はそんなに縮まってはいないのかもしれません。
世界的な観光地として旅行者が訪れ、富裕層もいる一方で、貧困層が非常に多いため、この貧富の格差ゆえに犯罪も多いと聞きます。最近は、移民の増加が大きな問題となってもいます。それでも、ナポリには不思議な魅力があります。ローマよりも、ミラノよりも、フィレンツェよりも。
ところで、ナポリはピザ発祥地として有名ですが、ナポリでピザの原型に当たるバジルとチーズをのせて焼いたフォカッチャが作られはじめたのは17世紀のことです。ピザと言えばトマトですが、当時はまだトマトは食材として使われていませんでした。
すでに16世紀に、スペイン人が、インカからトマトを持ち帰っていましたが、猛毒を持つベラドンナに似ていることから、食用としてはまったく利用されていなかったのです。しかし、18世紀に、南イタリアの飢えに苦しむ青年が初めて食べてみたら、とても美味しかった(死ななかった)ということで、ナポリの貧しい人々の間で、当時は観賞用だったトマトをソースにして生地にのせて焼いたもの(マリナーラ)が作られるようになりました。
ですから、その当時は、ピザは、質素で素朴な庶民の食べ物で、冬場に貧民が食べる唯一の食べ物だったのです。実際、今でも、ある程度の格式ある料理を出すリストランテでは、パスタは出してもピザは出さないところが多いです。
その後、19世紀後半に、統一イタリアの王妃マルゲリータが、ナポリに立ち寄った時に、庶民がピザを食べているのを見て興味を持ち、王宮にピザ職人を招いてピザを作らせました。この時、王族に出すために、初めて考案されて作られたピザが、バジルとチーズとトマトを生地にのせたピザ・マルゲリータでした。緑(バジル)と白(モッツアレラチーズ)と赤(トマト)の取り合わせを、王妃がいたく気に入ったのだとか。
ちなみにナポリのピザ協会では、トマトソースのみのマリナーラと、バジル・チーズ・トマトのマルゲリータだけが、ホンモノのナポリのピザである、と認定しているそうです。マリナーラは、トマトの味だけではなくて、複雑な香辛料の香りがして、なかなか美味しかったです。
20世紀後半になり、第二次大戦後にイタリアへ進駐した兵士たちを中心に、アメリカでピザの一大ブームが起きて、それまでイタリア系移民しか食べなかったピザが、一般のアメリカ人にも浸透するようになりました。さらに、今度はアメリカ文化として、ピザが日本にも入ってくるようになったのです。
沖縄の場合は、特にそうでした。沖縄の老舗レストラン「ピザハウス」が開業したのは、1958年のことです。当時、アメリカでは、すでにピザが大ブームになっていました。
こうして、19世紀のナポリの貧民の主食(貧乏飯)が、20世紀の世界のスタンダード料理の一つとなったのです。
ナポリで、卵城と並ぶ名所と言えば、やはりナポリ国立考古学博物館でしょう。
ナポリ国立考古学博物館は、ナポリ中央駅(ガリバルディ駅)から、タクシーで10〜15€で行けます。メーター付きのタクシーなら10€かからない距離ですが、メーターのないタクシーなら、「どこでも一律で15€だよ」とか言われたりします。
博物館の入場料は1人12€します。リュックなどは鍵付きロッカーに預けて入ります。館内では水以外の飲食はできません。食料の持ち込みも不可ですし、レストランやカフェも館内にはありません。カメラの所持は自由です。
主な展示品は、古代ギリシャ・ローマ時代の大理石の彫像の大コレクションと、ポンペイから発掘されたモザイク画・フレスコ画の壁画、床のタイル、ガラス製品、焼き物、石製工芸品など無数の出土品、さらに古代エジプトのミイラや副葬品のコレクションです。
館内はかなり広く、展示品も膨大なので、全部見ようとしたら、ざっと歩くだけでも半日がかりになります。古代ギリシャ・ローマとポンペイのコレクションを観てまわるだけでも、3時間は必要だと思います。
1世紀の古代都市ポンペイからの出土品の中には、有名な戦場でのアレクサンダーを描いたモザイク画や、サッフォーの肖像を描いたフレスコ画もあります。実に生き生きと繊細に描かれた絵画が多く、2000年前の絵画の技術水準の高さに驚かされます。猛犬のモザイク画は、ポンペイの玄関の床にあったらしいのですが、それで泥棒よけになったのだろうか。
彫刻のコレクションは、やはり、1世紀前後のローマやポンペイで出土した作品が多いのですが、元々のオリジナル作品は、紀元前5世紀頃のギリシャの有名作品だったりします。ともかく、彫像は巨大で重厚な作品が数多く、その迫力に圧倒されます。ここでもやはり、等身大の犬の彫刻がいくつも展示されていましたが、これも泥棒よけ、それともペットのレプリカだったのでしょうか。
「秘密の小部屋」と題された展示室には、ポンペイ出土の性的交わりに関するモザイク画・フレスコ画・彫刻・焼き物などが展示されています。歌麿の春画の世界のようで、素朴で赤裸々な性の表現に引き込まれます。ヤギと男性が行為に及んでいる彫刻が複数あるのですが、ポンペイで流行っていたのでしょうか。
「パンとカーニバルの政治」と言われたように、1世紀のローマ帝国では、食事と娯楽は皇帝によってタダで市民に提供されていました。それゆえ、円形闘技場も、入場料・観覧料は無料でした。何の生活の心配もなく、義務も責任もない、史上稀に見る安楽な生活を享受していたローマ市民は、次第により強い刺激を求めるようになっていきました。性的な欲求もどんどん肥大し、表現も過激になっていったのかもしれません。
この博物館は、初め、18世紀中頃にナポリ王国の王立ブルボン家博物館として、国王の膨大なコレクションを保存・展示するために、作られ始めました。完成は19世紀に入ってからの1816年のことです。ルーブル美術館の開館が1793年ですから、似たような時期ですね。その後、イタリア統一にしたがって、1861年に現在の「ナポリ国立考古学博物館」という名称になりました。




