アメリカの国民的作家マーク・トウェインの古典的文学作品に「王子と乞食」という小説があります。主人公の乞食の少年トム・カンティとエドワード王子は、ひょんな事から出会い、互いの容姿がそっくりなのを知って、互いの立場を取り替えること思いつくのです。それから乞食のトムは王子として、王子エドワードは乞食の子として、それまでとは、まったく違う生活を送るようになります。互いに慣れない生活の中で苦しみを味わい尽くしますが、それによって得難い経験をすることになり、人間について多くを学ぶことにもなります。
2012年度のテレビドラマ「Wの悲劇」も、天涯孤独の少女と大財閥の令嬢の同じような入れ替わりのストーリーでした。ドン底と頂点の入れ替わりというテーマは、非常に魅力のある設定のようです。この変転は、一人の人間の人生の中で起こっても、やはり、ドラマチックな物語となります。「小公子」「小公女」しかり、「モンテクリスト伯」しかり、「レ・ミゼラブル」しかり、「ケインとアベル」しかり。
昔、森繁久弥さんが、こんなことをおっしゃっていました。「いい演技をするためには、人間を知らねばならない。人間を知るためには、ピンとキリを経験しなければならない。これが、意外と難しい。キリは知っていても、ピンは知らないとか、そんな一方だけではダメなんだ。〝ふつう〟なんてのは一番つまらない。〝ふつう〟しか知らないなんてのは、話にもならない。」
「ピン」というのは、頂上、頂点、てっぺん、一番、勝者、強者、成功者、富裕者を指します。スティーブ・ジョブズとか、ビル・ゲイツなどが、典型的なピンを極めた人ですね、一方で、「キリ」というのは、ドン底、最底辺、最下位、敗者、弱者、失敗者、貧困者を指します。服役者とか、ホームレスとか、借金地獄とか、無戸籍者とか、その日暮らしの生活がキリです。森繁さんがおっしゃっているのは、そのどちらの生活も、身をもって味わい尽くして、初めて人間というものをいくばくか知ることができる、ということです。
例えば、ドストエフスキーの小説には、生々しい人間そのものの姿が描かれています。けれども、ピンとキリを知らない者が、はたして「罪と罰」を「カラマーゾフの兄弟」を理解できるでしょうか。多少なりとも、双方を経験して味わっている者でなければ、その世界をリアルに感じることはできないでしょう。
ドストエフスキー自身は、私生活の中で、その双方を味わい尽くしていた人です。天才的作家と評価される一方で、シベリア送りの刑務所生活も味わいました。富を築いても、賭博に身をやつし、恋愛にのぼせ上がっては、大借金をこしらえ、隠れ家に身を潜めて、返済のために死に物狂いで小説を書く。結婚と離婚を繰り返し、また恋と酒とギャンブルに溺れる。それでも、その非凡な才能ゆえに国民的作家として大成したのです。その作品世界は、まさに、ピンとキリを体験し尽くした生々しい息遣いに満ちています。
スティーブ・ジョブズもまた、ピンとキリを味わい尽くした人です。生まれる前に、実の親に捨てられ、貧しかった育ての親を助けるために、せっかく入った大学を三ヶ月で辞め、何のあてもないままに、人生の荒海に漕ぎ出したのです。そして、その後も、紆余曲折を経ながら、ついには空前絶後の成功をおさめたのです。生きる意欲もまた、ピンとキリを知ることから、湧いてくるものではないでしょうか。
日本人でも、リヤカーの屑屋から財閥を創始した住友吉左衛門や電球売りから財界の大立物となった松下幸之助、町工場のオヤジから世界的な自動車メーカーをつくりあげた本田宗一郎、丁稚奉公から世界的に有名な寿司職人となった数寄屋橋次郎さんなどは、ピン・キリを知る成功者たちです。
こうしたピンとキリを知る人々の特徴は、たとえ経済界の人物であろうと、ただお金を稼いだだけの人ではないということです。彼らの興味は、人間そのもの、生きることそのものにあります。彼らは哲学者であり、信仰者であり、永遠の求道者なのです。
彼らは皆、人生を愛しています。そして、生きる哀しみと喜びを、人一倍深く味わっています。忍耐強く、自分にも他人にも正直で、真摯に率直に自己反省のできる人たちです。何より、意欲に満ちています。


そういう意味では、格差のない社会では、深い人間理解も力強い表現力も生きる意欲も、生れようがない、と言えるかもしれません。激しい生存競争に勝ち抜く闘志も、めくるめく芸術的表現の衝動も、あふれる愛の情動も、全ては濃厚なピン・キリ経験の賜物です。
ピンもキリも知らなければ、人の心は貧弱で薄っぺらいものになってしまう。逆に、ピンとキリのうち、どちらかだけでも、今、これでもか、と経験している真っ最中という人は、実に得難い良い経験をしていることになります。
わたしが気になっていることは、今の子供たちの多くが、ピンもキリも知ろうとしない傾向が強いように思えるということです。競争は嫌いで、何でもほどほどでよい。理屈や批判ばかりで、生身の喧嘩をしようとしない。いい子になって、本音を隠し、自分の心の闇を覗こうとはしない。しかし、それでは、人間として深みも味もある心の成長は期待できません。
男が大成するための三つの条件というのを聞いたことがあります。「一つは悪妻を持つこと、二つ目は大病を患うこと、三つ目は刑務所に服役すること」だそうです。そういえば、歴史上の偉大な哲学者には、悪妻を持った、と言われている人が、確かにけっこういます。ソクラテス、マルクス・アウレリウス・アントニヌス、サン=テグジュペリなどがそうです。それから、大病を経て大成した哲学者としては、男ではありませんが、神谷美恵子さんやシモーヌ・ヴェーユなどがいます。刑務所に入った人としては、ドストエフスキーやホリエモン(哲学者?)がいます。
要するに、挫折や失敗や敗北を知ること、どうにもならない現実に向き合うことが、人を成長させるということです。そういう意味では、一度の失敗や小さな挫折さえも許さないこの国の社会は、人の成長を促す環境としては、極めて劣悪ではないかと思うのです。子どもをエスカレーターに乗せて育てようとするのは、その環境の劣悪さを助長しているだけです。
最近、日本の大人や子供たちは、人の悲しい話や苦しい話や悩みを聞くと、「重い」と言って、聴くのを拒絶するようになりました。他人の面倒くさい話を捨てるのが上手なのです。だから、心に重荷を背負った人は、口をつぐむしかありません。孤独な子供たちは、誰にも口を開かなくなります。辛い思いを吐露できる相手が見つけられず、人知れず苦しみ続けるのです。そして、自殺者が増えます。どんな重い話にも、多くの人が耳を傾け共感できた昭和の時代には、そんなになかったことです。
しかし、そんな風に人を簡単に切り捨てられるのは、実に不自然なことなのです。本来、人は己の欠けたるものを満たそうとするものです。ピンしか知らない者は、苦しみの中からでもキリを知ろうとし、キリしか知らない者は、努力してピンを知ろうとします。それが、生の充足感、生きる意欲につながるからです。
ところが、親たちも、子どもたちがそういうことを学ぶのを望みません。心に負担のかかることですし、勉強の妨げになるので。しかし、そういう風に負担になる面倒な相手は避け、重い話に耳をふさぐようでは、子どもの心は広がりません。そして、ピンもキリも知らず、どちらをも知ろうとしない者は、生の充足感を持ち得ません。生きる喜びを感じられないということです。現代人の多くが、生気や覇気に欠けるのはそのためです。
フランスの哲学者シモーヌ・ヴェーユは、何不自由ない貴族の令嬢に生まれましたが、幼い頃から人の苦しみに強く反応しました。若くして、労働者として過酷な工場労働に従事したり、スペイン内戦に義勇兵として参加し、負傷したりしました。シモーヌには、他者の苦しみを無視することは、到底できなかったからです。彼女自身の恵まれた環境に身を潜めて安住を貪ることはできなかったのです。
「人はピンとキリを知らなければダメ。」本当に意味深い言葉です。
マーク・トウェインの「王子と乞食」の最後で、王位についたエドワードが、「国王は庶民に甘すぎる」「なぜ、もっと厳しくしないのか」と詰め寄る家臣たち、居並ぶ大貴族たちに向かって、憂鬱そうに悲しげに言うセリフが印象的でした。「諸君に国民の何がわかる。国民のことがわかっているのは、国民とただ私だけなのだよ。」