タイムリーではないが、去年の流行語大賞トップ10に入った匿名のネット上のつぶやき「保育園落ちた日本死ね!!!」について、ある程度、まとまったことを、どうしても書いておきたくなった。時節ハズレではあるが、論争に結論は出ていないようなので。
結局、流行語大賞選出擁護派と批判派の論争は、左翼vs右翼の思想対立の表出の場となり、また、野党vs与党の政争の道具となってしまった。本来であれば、政治哲学的に言えば、リベラルvsコミュニタリアンの論争となるはずだが、そうした哲学的議論の深まりはあまりみられないようだ。
例えば「マスコミ死ね!」という言葉を目にすれば、「その発言者は、マスコミ嫌いなのだろうな」と思う。あるいは「アメリカ死ね!」という言葉を吐く人は、相当なアメリカ嫌いだろうと感じる。同様に「日本死ね!」という言葉を使う人は、きっと日本が嫌いなのだろうと想像できる。
もちろん、個人が「日本死ね!」と表現するのは、憲法で保障されている「表現の自由」であり、国民の権利の一つだ。けれども、その言葉を流行語大賞に選ぶかどうかは、選者の良識が問われる。さらに、その選出の是非を論じる場合には、ますます個人の見識・教養が問題となるだろう。
「死ね!」というのは「死んで欲しい」という呪詛であり、同時に「殺す!」という意思の表現でもある。そうすると、「日本死ね!」は、「日本よ、お願いだから死んでくれ!」という呪詛であり、同時に「日本を殺してやる!」という意思表現でもあるということだ。
「日本」は、擬人化されてはいるが、本来は国である。国は死なない。正確には滅びるのだ。そうすると、「日本死ね!」は、「日本よ、滅びろ!」という呪詛であり、同時に「日本を滅ぼす!」という意思の表現とも受け取れる。
これが流行語大賞に選ばれるということは、アメリカ人が「アメリカ合衆国よ、滅びよ!(滅ぼすぞ!)」という言葉を選ぶのに等しい。あるいはフランス人が「フランス滅びろ!」を流行語に選ぶようなものである。そんな無残なことは、天地がひっくり返っても絶対に有り得ない。「自国よ、滅びるがいい!」そういう言葉を選出するのに賛同したら、どこの国でも「お前はテロリストか?」と言われるだろう。
本来、「日本(自国)」の中には、発言者本人も含まれるはずだ。ところが、奇妙なことに、この文脈では、発言者は、自己の存在のスタンスを自国の外に位置付けている。だから、たとえ「日本の行政府死ね」「日本の行政システム死ね」「日本の自民党政治死ね」の意味で使っている可能性はあっても、「日本死ね」というヘイト発言への賛同者は、「テロ予備軍(広義の)」と受け取られても不思議はない。海外であれば、当然そうなるだろう。
日本人が「日本死ね」と言うのは、天に向かって唾を吐くようなものだ。(特に、政治家であれば、なおさらだろう。)そんなバカな言葉を流行語大賞トップ10に選ぶのは、日本人ぐらいである。しかも、その表彰を、かりにも、ついこの間まで政権を担っていた政党(民進党)に所属する国会議員(山尾志桜里衆議院議員)が満面の笑みで受ける(発言者本人でもないのに)というのは、世界的に見ても前代未聞の珍事と言える。
それにしても、自国をdisる言動に対して、日本ほど寛容な国が他にあるだろうか。
次に、「保育園落ちた日本死ね!!!」を一文として考えると、「保育園落ちた」と「日本死ね!」の間に脈絡がなさすぎる。
ブログ本文の言葉だが、自分が活躍できないのは、本当に国のせいなのか。保育園の抽選に落ちたことで、 日本国民が日本の国を呪いたくなるとしたなら、家族を自国政府に虐殺されたシリアやイラクの国民は何と言って訴えればいいだろうか?
日本のようなまともな健康保険制度もない、世界の大多数の国々の国民は、満足な医療を受けられずに死んだ我が子の亡骸を抱きながら、その気持ちをどう表現すればいい?
日本のように憲法で生存権が保障されていないアメリカのホームレスは、親兄弟すら見捨てる生活保護者が手厚く政府に保護される日本人が「日本死ね」と叫ぶのを横目で見ながら、どんな言葉を叫べばいいのだ?
それでも、彼らは「イラク死ね」「シリア死ね」「アメリカ死ね」とは、決して言わないだろう。それを、なぜ、日本人はためらいなく言えるのか、それが問題だ。
この世界に理想の国など、どこにも存在しない。どこに住んでいても、多少の不満はあるだろう。改善すべき点を議論するのは大切だ。しかし、世界の中で、最も恵まれた国の一つで暮らしながら、それでも、その国を呪うなら、いったいどこの国に住めば満足なのだろうか。
とはいえ、止むに止まれぬ個人的な心情や情念を問題視するつもりはない。本人にとって切に辛いと訴えていることを、他人がとやかく言うことはできないからだ。また、その言動を、どのように受け止めるのも、個々人の感性の問題であるし、発言者本人の心情についても、他人が踏み込んであれこれ批判するのは、なかなか難しい。
例えば、もしも「『日本死ね』は、コンチクショーぐらいの自暴自棄の悪態の言葉だったのだ」と言われれば、それは、その通りなのだろうと思う。自分の気持ちを表現する言葉として、そういう汚い語彙を使いたければ、使うのは本人の自由だ。
また、「この文脈における『日本』は、日本のシステムや行政府や政権与党の政治家を指しているのであって、日本という国そのものや総体としての日本人を指しているわけではない」と発言者が主張するなら、それも、そうなんだろうとは思う。実際、ブログの文章は、そういう文脈で読める。その内容についての感想は、あえて述べないが、自分のブログに、どういう言葉を書き連ねようと、本人の自由ではある。(しかし、何度読んでも、好きになれない。)
けれども、その言葉を流行語大賞に選ぶとなると話が別だ。発言者本人はともかく、選者の方は、当然、厳しい批判にさらされてしかるべきだろう。また、この匿名の発言者のブログ本文を、政争の道具として利用した民進党は、その品位を疑われても仕方がないとは思う。
「ブログ本文が過激であったからこそ、この言葉が評判になって、お陰で保育園の数が増えた」というのは、お門違いだろう。保育園の待機児童の問題は、もっと多面的なものだ。
認可保育園の数は、少子化の中でも、ずっと一貫して地道に増え続けている。民主党時代よりも自民党政権になって予算も増えている。それでも、保育園が足りない最大の理由は、本来なら面倒を見れるはずの家族が、子どもの面倒を見ないこと、もう一つは、住民の反対で保育園の新設が難航していることだ。
経済力に余裕があり、健康で元気で暇な祖父母が、孫を預かるのを拒絶する。その割合が夥しい。「悠々自適に暮らす自分たちを煩わしてくれるな!」と。あるいは、近所に保育園が建設されるというと反対住民の先頭に立って建設を阻止する老人たち。「子どもの声がうるさい!」「迷惑施設はお断りだ!」「我々の老後の邪魔をするな!」と。こうした醜い日本人の姿を指して「醜悪な日本人は死ね!」と言うなら、まだ理解できる。
しかし、その場合は「保育園作れない、反対地域住民死ね!!!」「余裕があるのに孫を預からない、自己中祖父母死ね!!!」になるのではないだろうか。いずれにしても「保育園落ちた日本死ね!!!」はないだろう。この国を、より幸せな国にするために、命がけで頑張っている多くの日本人を、深く傷つけることになるかもしれないではないか。
子どもの側も、親兄弟親戚身内や友人や近所の人に向っては気兼ねして言いたいことも言えないのに、国に対しては言いたい放題というのは、やはり、どこかおかしい。同じ「呪う」なら、漠然とした国よりも、生身の親や個人に向って呪うべきだろう。国を呪うというのは、国土を呪い、祖先を呪い、神々を呪うことに通じる。それに比べたら、具体的に特定の個人を呪った方が、はるかにマシだし救いもある。例えば「日本死ね」よりも「子育て助けない親死ね」「兄弟死ね」「友人死ね」「近隣住民死ね」「安倍死ね」の方が、まだマシだということだ。
「個人を呪うのはマズイが、社会を呪うのは良い」とする意見があるが、わたしは逆だと思っている。対等な存在であるさまざまな個人を呪い続けたその先に、社会全体を呪うという感覚が生まれる。それは天を呪うのにも似ている。それを憚らないのは、完全無神論者の左翼ぐらいだろう。
「保育園落ちた日本死ね!!!」という表現を公に評価するのは、どう考えても感心しない。そして、その点で、わたしは俵万智さんの意見にはまったく賛同できない。もちろん、当時、同じく審査委員だった姜尚中さん、やくみつるさん、そして、リベラル論客の鳥越俊太郎さん、古市憲寿さんの評価にも、わたしは賛同しない。
*俵万智さんの意見⇨選出に賛成。確かに毒のある言葉だが、その毒が世の中を動かした。そこには言葉の力があった。本当は、そんな毒など必要のない世の中になって欲しい。(⇦こんな駄文の毒で世の中変わるなら苦労はない。)
*鳥越俊太郎さん(前年度までの審査員)の意見⇨選出に賛成。待機児童問題への政府や自治体の無策に、母親の怒りが爆発した。(⇦これほど口汚く罵るほど生活に困窮しているなら、生活保護を受けるべきだ。)
*やくみつるさんの意見⇨選出に賛成。この過激な言葉によって、待機児童問題の議論が広まったのだから、広い意味で流行語と言える。言葉が過激だからダメなんてことはない。(⇦過激なのではなく、品性のかけらもない文章だと言っているのだが。)
*古市憲寿さんの意見⇨選出に賛成。非難している人は、ブログの文章全体を読んでいない。読んでいたら、文句など言わないはずだ。実際、ブログは、多くの人の共感を呼んだ。(⇦このブログの文章に共感できる人がそれほど多いなら、この国も本当におしまいだ。)
最後に、発言者のブログ全文を読んで感じたこと、騒動全体を通して気になっていることを書いておく。
最悪なのは、自分が希薄な人間関係しかつくれないのを、すべて国や社会のせいにしてしまうことだ。至らない自分の生き方を省みることもせず、視点を社会システムや行政の問題にすり替えてしまう。内に目を向けることなく、外にばかり目が向く。リベラルに典型的な、そんな安易な責任転嫁に未来はない。
子どもをきちんと扱えない親や祖父母が、本当に増えた。人間同士の生身の濃密な関わりをいとう人も、ますます増えている。他人に必死にすがることも、頭を下げることもできない。互いに迷惑をかけあうことを、お互いさまと許しあえる度量もない。真剣に諭すことも諭されることもない。本音でぶつかりあうことも、ケンカすることもない。本気で叱ることも、叱られることもない。温かい心が通いあうこともない。そんな状態で、どうして信頼が生まれるだろうか。教育が成り立つだろうか。知恵が育つだろうか。
ともかく、人と人が繋がれない。人間関係が保てない。結婚も維持できないから、未婚の親や離婚した片親世帯ばかりが増える。貧しくても、二人で知恵を絞って、必死に頑張るということが、できないのだ。実の親との関係もよくない。それでも、働けば、生活はなんとか維持できる。だが、金を稼ぐためには、どうしても保育園は必要になる。
一方で、裕福な家庭の親たちは、育児や教育に関しては、金を払ってプロに任せるのが一番と思っている。そして、安い給料で必死に真心込めて働いている保育士を、「金を払っているから、やってもらって当然」と平気で顎でつかう。けれども、それは、見方を変えれば、一種の親の育児放棄ではないか。愛情を、お金に換えて、お金の力で育てても、子どもの心は育たない。
今の人の多くは、絆を結ぶことを知らない。与えられるだけで、与えることを知らないからだ。そして、それゆえ婚姻数が減り続け、少子化はとまらない。けれど、子どもは減っているのに、親の育児放棄のせいで、保育園は増やしても増やしても足りない。待機児童は減らない。
たとえ何不自由なく育っても、孤独で愛情を知らない子どもたちは、空虚な心を抱えた大人になっていく。しかし、これは行政府の無策のせいではない。もっと、根本的な欠如があるのだ。
その欠如を埋めるために、闇の中を手探りで、泥の中をはいつくばり、のたうちまわって生きているなら、本気で殺したいほど憎い相手の一人や二人、必ずいるものだ。人間一匹、必死で生きていれば、呪いたい相手もいるし、自分の運命を呪うこともあるだろう。それが当然だ。そういう時に、漠然と「日本(行政システムや政治)」に文句を言っている余裕などない。目の前の火の粉を払うのに精一杯で、責任転嫁や自己正当化などしていられない。
そもそも、子育ての問題は、根源的には、日本人一人一人の価値観や絆や生き方の問題であって、行政による社会システムの改善で、なんとかなる問題ではない。国が、子育て支援に、もっとお金を使えば、状況が好転するというものではないのだ。
この社会が変わっていくために、何より大切なことは、一人一人が自分自身の心を見つめることだ。人生にとって、何が一番大切なのか、よく考えてみて欲しい。
どんなに強がってみたところで、人間なんて独りでは脆いものだ。独りで生きていてはダメなのだ。誰かと寄り添って生きることができて、初めて自分の心の中の氷を溶かすことができる。「何が本当の幸せか?」を、日本人一人一人が、どれだけ真剣に考えられるかが、問われているのだと思う。
☪️それにしても、「5泊の観光で訪れた外国人旅行者の大学生が、ホテルに貼ってあった政府のプロパガンダ・ポスターを一枚盗んだだけで(帰国時にバッグに入れた靴が、金正恩の写真の載った新聞で包んであったのを、手荷物検査で咎められたため、という話もある)逮捕され、懲役15年というとんでもなく重い刑を宣告されただけでなく、でっち上げられた自白文をテレビの前で読まされ、刑務所に入れられた途端に、強制労働中の看守の拷問によって、数日中に意識不明の重体になり、1年半後に本国に送還されたものの、意識を取り戻すことなく帰国後数日で死亡する。」そんな仕打ちをする国に向かってさえ、「北朝鮮死ね!」とは言わないのに、かわりに、保育園の抽選に落ちたからといって「日本死ね!」になってしまうのは、なぜなのだろうか。
それに、こういうニュースを大々的に報じることなく、強く非難することもなく、その代わりに、小学校や大学の獣医学部の新設に内閣が関与したとかしないとかで、何ヶ月もの間、限られた報道時間の大部分を費やし続けるマスコミって、いったい何を考えているのだろう。
結局、流行語大賞選出擁護派と批判派の論争は、左翼vs右翼の思想対立の表出の場となり、また、野党vs与党の政争の道具となってしまった。本来であれば、政治哲学的に言えば、リベラルvsコミュニタリアンの論争となるはずだが、そうした哲学的議論の深まりはあまりみられないようだ。
例えば「マスコミ死ね!」という言葉を目にすれば、「その発言者は、マスコミ嫌いなのだろうな」と思う。あるいは「アメリカ死ね!」という言葉を吐く人は、相当なアメリカ嫌いだろうと感じる。同様に「日本死ね!」という言葉を使う人は、きっと日本が嫌いなのだろうと想像できる。
もちろん、個人が「日本死ね!」と表現するのは、憲法で保障されている「表現の自由」であり、国民の権利の一つだ。けれども、その言葉を流行語大賞に選ぶかどうかは、選者の良識が問われる。さらに、その選出の是非を論じる場合には、ますます個人の見識・教養が問題となるだろう。
「死ね!」というのは「死んで欲しい」という呪詛であり、同時に「殺す!」という意思の表現でもある。そうすると、「日本死ね!」は、「日本よ、お願いだから死んでくれ!」という呪詛であり、同時に「日本を殺してやる!」という意思表現でもあるということだ。
「日本」は、擬人化されてはいるが、本来は国である。国は死なない。正確には滅びるのだ。そうすると、「日本死ね!」は、「日本よ、滅びろ!」という呪詛であり、同時に「日本を滅ぼす!」という意思の表現とも受け取れる。
これが流行語大賞に選ばれるということは、アメリカ人が「アメリカ合衆国よ、滅びよ!(滅ぼすぞ!)」という言葉を選ぶのに等しい。あるいはフランス人が「フランス滅びろ!」を流行語に選ぶようなものである。そんな無残なことは、天地がひっくり返っても絶対に有り得ない。「自国よ、滅びるがいい!」そういう言葉を選出するのに賛同したら、どこの国でも「お前はテロリストか?」と言われるだろう。
本来、「日本(自国)」の中には、発言者本人も含まれるはずだ。ところが、奇妙なことに、この文脈では、発言者は、自己の存在のスタンスを自国の外に位置付けている。だから、たとえ「日本の行政府死ね」「日本の行政システム死ね」「日本の自民党政治死ね」の意味で使っている可能性はあっても、「日本死ね」というヘイト発言への賛同者は、「テロ予備軍(広義の)」と受け取られても不思議はない。海外であれば、当然そうなるだろう。
日本人が「日本死ね」と言うのは、天に向かって唾を吐くようなものだ。(特に、政治家であれば、なおさらだろう。)そんなバカな言葉を流行語大賞トップ10に選ぶのは、日本人ぐらいである。しかも、その表彰を、かりにも、ついこの間まで政権を担っていた政党(民進党)に所属する国会議員(山尾志桜里衆議院議員)が満面の笑みで受ける(発言者本人でもないのに)というのは、世界的に見ても前代未聞の珍事と言える。
それにしても、自国をdisる言動に対して、日本ほど寛容な国が他にあるだろうか。
次に、「保育園落ちた日本死ね!!!」を一文として考えると、「保育園落ちた」と「日本死ね!」の間に脈絡がなさすぎる。
ブログ本文の言葉だが、自分が活躍できないのは、本当に国のせいなのか。保育園の抽選に落ちたことで、 日本国民が日本の国を呪いたくなるとしたなら、家族を自国政府に虐殺されたシリアやイラクの国民は何と言って訴えればいいだろうか?
日本のようなまともな健康保険制度もない、世界の大多数の国々の国民は、満足な医療を受けられずに死んだ我が子の亡骸を抱きながら、その気持ちをどう表現すればいい?
日本のように憲法で生存権が保障されていないアメリカのホームレスは、親兄弟すら見捨てる生活保護者が手厚く政府に保護される日本人が「日本死ね」と叫ぶのを横目で見ながら、どんな言葉を叫べばいいのだ?
それでも、彼らは「イラク死ね」「シリア死ね」「アメリカ死ね」とは、決して言わないだろう。それを、なぜ、日本人はためらいなく言えるのか、それが問題だ。
この世界に理想の国など、どこにも存在しない。どこに住んでいても、多少の不満はあるだろう。改善すべき点を議論するのは大切だ。しかし、世界の中で、最も恵まれた国の一つで暮らしながら、それでも、その国を呪うなら、いったいどこの国に住めば満足なのだろうか。
とはいえ、止むに止まれぬ個人的な心情や情念を問題視するつもりはない。本人にとって切に辛いと訴えていることを、他人がとやかく言うことはできないからだ。また、その言動を、どのように受け止めるのも、個々人の感性の問題であるし、発言者本人の心情についても、他人が踏み込んであれこれ批判するのは、なかなか難しい。
例えば、もしも「『日本死ね』は、コンチクショーぐらいの自暴自棄の悪態の言葉だったのだ」と言われれば、それは、その通りなのだろうと思う。自分の気持ちを表現する言葉として、そういう汚い語彙を使いたければ、使うのは本人の自由だ。
また、「この文脈における『日本』は、日本のシステムや行政府や政権与党の政治家を指しているのであって、日本という国そのものや総体としての日本人を指しているわけではない」と発言者が主張するなら、それも、そうなんだろうとは思う。実際、ブログの文章は、そういう文脈で読める。その内容についての感想は、あえて述べないが、自分のブログに、どういう言葉を書き連ねようと、本人の自由ではある。(しかし、何度読んでも、好きになれない。)
けれども、その言葉を流行語大賞に選ぶとなると話が別だ。発言者本人はともかく、選者の方は、当然、厳しい批判にさらされてしかるべきだろう。また、この匿名の発言者のブログ本文を、政争の道具として利用した民進党は、その品位を疑われても仕方がないとは思う。
「ブログ本文が過激であったからこそ、この言葉が評判になって、お陰で保育園の数が増えた」というのは、お門違いだろう。保育園の待機児童の問題は、もっと多面的なものだ。
認可保育園の数は、少子化の中でも、ずっと一貫して地道に増え続けている。民主党時代よりも自民党政権になって予算も増えている。それでも、保育園が足りない最大の理由は、本来なら面倒を見れるはずの家族が、子どもの面倒を見ないこと、もう一つは、住民の反対で保育園の新設が難航していることだ。
経済力に余裕があり、健康で元気で暇な祖父母が、孫を預かるのを拒絶する。その割合が夥しい。「悠々自適に暮らす自分たちを煩わしてくれるな!」と。あるいは、近所に保育園が建設されるというと反対住民の先頭に立って建設を阻止する老人たち。「子どもの声がうるさい!」「迷惑施設はお断りだ!」「我々の老後の邪魔をするな!」と。こうした醜い日本人の姿を指して「醜悪な日本人は死ね!」と言うなら、まだ理解できる。
しかし、その場合は「保育園作れない、反対地域住民死ね!!!」「余裕があるのに孫を預からない、自己中祖父母死ね!!!」になるのではないだろうか。いずれにしても「保育園落ちた日本死ね!!!」はないだろう。この国を、より幸せな国にするために、命がけで頑張っている多くの日本人を、深く傷つけることになるかもしれないではないか。
子どもの側も、親兄弟親戚身内や友人や近所の人に向っては気兼ねして言いたいことも言えないのに、国に対しては言いたい放題というのは、やはり、どこかおかしい。同じ「呪う」なら、漠然とした国よりも、生身の親や個人に向って呪うべきだろう。国を呪うというのは、国土を呪い、祖先を呪い、神々を呪うことに通じる。それに比べたら、具体的に特定の個人を呪った方が、はるかにマシだし救いもある。例えば「日本死ね」よりも「子育て助けない親死ね」「兄弟死ね」「友人死ね」「近隣住民死ね」「安倍死ね」の方が、まだマシだということだ。
「個人を呪うのはマズイが、社会を呪うのは良い」とする意見があるが、わたしは逆だと思っている。対等な存在であるさまざまな個人を呪い続けたその先に、社会全体を呪うという感覚が生まれる。それは天を呪うのにも似ている。それを憚らないのは、完全無神論者の左翼ぐらいだろう。
「保育園落ちた日本死ね!!!」という表現を公に評価するのは、どう考えても感心しない。そして、その点で、わたしは俵万智さんの意見にはまったく賛同できない。もちろん、当時、同じく審査委員だった姜尚中さん、やくみつるさん、そして、リベラル論客の鳥越俊太郎さん、古市憲寿さんの評価にも、わたしは賛同しない。
*俵万智さんの意見⇨選出に賛成。確かに毒のある言葉だが、その毒が世の中を動かした。そこには言葉の力があった。本当は、そんな毒など必要のない世の中になって欲しい。(⇦こんな駄文の毒で世の中変わるなら苦労はない。)
*鳥越俊太郎さん(前年度までの審査員)の意見⇨選出に賛成。待機児童問題への政府や自治体の無策に、母親の怒りが爆発した。(⇦これほど口汚く罵るほど生活に困窮しているなら、生活保護を受けるべきだ。)
*やくみつるさんの意見⇨選出に賛成。この過激な言葉によって、待機児童問題の議論が広まったのだから、広い意味で流行語と言える。言葉が過激だからダメなんてことはない。(⇦過激なのではなく、品性のかけらもない文章だと言っているのだが。)
*古市憲寿さんの意見⇨選出に賛成。非難している人は、ブログの文章全体を読んでいない。読んでいたら、文句など言わないはずだ。実際、ブログは、多くの人の共感を呼んだ。(⇦このブログの文章に共感できる人がそれほど多いなら、この国も本当におしまいだ。)
最後に、発言者のブログ全文を読んで感じたこと、騒動全体を通して気になっていることを書いておく。
最悪なのは、自分が希薄な人間関係しかつくれないのを、すべて国や社会のせいにしてしまうことだ。至らない自分の生き方を省みることもせず、視点を社会システムや行政の問題にすり替えてしまう。内に目を向けることなく、外にばかり目が向く。リベラルに典型的な、そんな安易な責任転嫁に未来はない。
子どもをきちんと扱えない親や祖父母が、本当に増えた。人間同士の生身の濃密な関わりをいとう人も、ますます増えている。他人に必死にすがることも、頭を下げることもできない。互いに迷惑をかけあうことを、お互いさまと許しあえる度量もない。真剣に諭すことも諭されることもない。本音でぶつかりあうことも、ケンカすることもない。本気で叱ることも、叱られることもない。温かい心が通いあうこともない。そんな状態で、どうして信頼が生まれるだろうか。教育が成り立つだろうか。知恵が育つだろうか。
ともかく、人と人が繋がれない。人間関係が保てない。結婚も維持できないから、未婚の親や離婚した片親世帯ばかりが増える。貧しくても、二人で知恵を絞って、必死に頑張るということが、できないのだ。実の親との関係もよくない。それでも、働けば、生活はなんとか維持できる。だが、金を稼ぐためには、どうしても保育園は必要になる。
一方で、裕福な家庭の親たちは、育児や教育に関しては、金を払ってプロに任せるのが一番と思っている。そして、安い給料で必死に真心込めて働いている保育士を、「金を払っているから、やってもらって当然」と平気で顎でつかう。けれども、それは、見方を変えれば、一種の親の育児放棄ではないか。愛情を、お金に換えて、お金の力で育てても、子どもの心は育たない。
今の人の多くは、絆を結ぶことを知らない。与えられるだけで、与えることを知らないからだ。そして、それゆえ婚姻数が減り続け、少子化はとまらない。けれど、子どもは減っているのに、親の育児放棄のせいで、保育園は増やしても増やしても足りない。待機児童は減らない。
たとえ何不自由なく育っても、孤独で愛情を知らない子どもたちは、空虚な心を抱えた大人になっていく。しかし、これは行政府の無策のせいではない。もっと、根本的な欠如があるのだ。
その欠如を埋めるために、闇の中を手探りで、泥の中をはいつくばり、のたうちまわって生きているなら、本気で殺したいほど憎い相手の一人や二人、必ずいるものだ。人間一匹、必死で生きていれば、呪いたい相手もいるし、自分の運命を呪うこともあるだろう。それが当然だ。そういう時に、漠然と「日本(行政システムや政治)」に文句を言っている余裕などない。目の前の火の粉を払うのに精一杯で、責任転嫁や自己正当化などしていられない。
そもそも、子育ての問題は、根源的には、日本人一人一人の価値観や絆や生き方の問題であって、行政による社会システムの改善で、なんとかなる問題ではない。国が、子育て支援に、もっとお金を使えば、状況が好転するというものではないのだ。
この社会が変わっていくために、何より大切なことは、一人一人が自分自身の心を見つめることだ。人生にとって、何が一番大切なのか、よく考えてみて欲しい。
どんなに強がってみたところで、人間なんて独りでは脆いものだ。独りで生きていてはダメなのだ。誰かと寄り添って生きることができて、初めて自分の心の中の氷を溶かすことができる。「何が本当の幸せか?」を、日本人一人一人が、どれだけ真剣に考えられるかが、問われているのだと思う。
☪️それにしても、「5泊の観光で訪れた外国人旅行者の大学生が、ホテルに貼ってあった政府のプロパガンダ・ポスターを一枚盗んだだけで(帰国時にバッグに入れた靴が、金正恩の写真の載った新聞で包んであったのを、手荷物検査で咎められたため、という話もある)逮捕され、懲役15年というとんでもなく重い刑を宣告されただけでなく、でっち上げられた自白文をテレビの前で読まされ、刑務所に入れられた途端に、強制労働中の看守の拷問によって、数日中に意識不明の重体になり、1年半後に本国に送還されたものの、意識を取り戻すことなく帰国後数日で死亡する。」そんな仕打ちをする国に向かってさえ、「北朝鮮死ね!」とは言わないのに、かわりに、保育園の抽選に落ちたからといって「日本死ね!」になってしまうのは、なぜなのだろうか。
それに、こういうニュースを大々的に報じることなく、強く非難することもなく、その代わりに、小学校や大学の獣医学部の新設に内閣が関与したとかしないとかで、何ヶ月もの間、限られた報道時間の大部分を費やし続けるマスコミって、いったい何を考えているのだろう。