いま、保育園や幼稚園の保母さん、小中高等学校の先生など、教育関係者に、精神を病む人が増えています。そうでなくとも、疲れやストレスをうったえたり、アレルギーや慢性病に悩んだり、体調を崩しやすい人が多いようです。
よく、人ごみの中で気分が悪くなる人がいます。俗に〝人に酔う〟とも言いますね。それは、たくさんの人の思念の渦に取巻かれて、それらの思念を意図せず取り込んでしまい、無意識の領域が蝕まれることによって生じると考えられます。
最近の親子関係の相剋がもたらす強烈な思念・想念の歪みは、大人の想像以上に子どもたちの無意識を蝕んでいるのかもしれません。すでに、親の世代自体が、思念の渦に巻かれて成長し、無意識の底に強固な魂魄を抱え込んでしまっているので、子どもの自然な成長を促す力を失っているのだと思います。
そのしわ寄せが、学校や保育園に覆いかぶさってきているのです。子どもたちが10人以上集まると、そこに生じる負の波動は、大人1人の力で浄化できる範囲を、はるかに超えることも多いでしょう。「一体、私に何をしろと言うんだ!」と言いたくもなります。特に、霊的に過敏な人にとっては、思念の波動を身に受けるのは、とても辛いことです。時に、その苦痛は耐えられないものになることもあるはずです。
子供にとっても、その環境は劣悪ですが、親子で密着している家庭内よりは、教室は、まだしもラクかもしれません。あるいは、家庭が〝お菓子の家〟か〝無菌室〟状態で、教室が〝ジャングル〟か〝戦場〟のように感じる子もいるでしょう。そして、教室内では、さまざまな葛藤や軋轢が生じ、生徒にも、胃潰瘍やアレルギーや鬱やイジメによる自殺などが起こってきます。
そういう過酷な教育の現場では、ヒーラーの素質のある人などは、かえって、すぐに疲労困憊してしまいます。そうして、良心的で誠実な良い先生から力尽きて辞めていき、鈍感で保身意識に凝り固まった先生たちだけが、イジメの横行する病的な雰囲気の教室の中で、平気で威張り腐って授業を続けるようになるのです。
けれども、それは、元を正せば、先生たちの人間的な質の問題というよりも、むしろ、生徒たち一人一人の家庭環境というか、親子関係を背景とした思念の奔流が生み出す環境弊害の面が大きいのです。特に、わたしの経験では、親や祖父母が教師や公務員だったり、医師や銀行員だったりと、立派な職業の方の子どもや孫に限って、問題の根が深いという気がします。


それでも、結果として、学校の中では、ひたすら保身に勤しむ教条的で真実味のない先生たちしか生き残れないというのも確かです。
このような〝事なかれ主義〟の傲慢極まりない無神経な教師たちは、茨城県取手市の市教委や藤代南中学校及び「いじめ調査第三者委員会(通称やらせ第三者委)」の関係者にも数多くいるのではないでしょうか。中央官庁の文部省に対しては、猫に睨まれたネズミ並みに弱く従順でありながら、一方で、打ちひしがれているいじめ被害者の家族に対しては、猛々しい虎のように無慈悲に獰猛に振る舞う連中です。特に、取手市教委教育長(矢作進氏)がヒドイ。大津・出水に始まって、どこを見渡しても、教育長にはろくな人間がいないという気がします。
昔、灰谷健次郎さんが、「教師を落第してから、自分は少しマシな人間になれた気がする」とおっしゃっていましたが、正しい言葉ではないかと思います。林竹二先生も、1980年代に日本の教育の崩壊を心配なさっていらっしゃいました。
そもそも、まともな教育が行われていないのが、今の学校の現実であるならば、そこで高く評価される〝よい教師〟になることは、実に大変恐ろしいことです。現代の学校現場で、〝良い教師〟と見做されるようになるのは、あるいは〝人間失格の教師〟になるということかもしれません。
ですから、みなさん。もしも教師を目指すのなら、お願いですから、是非とも最低の〝落第教師〟になってください。落第教師になるというのは、あなた自身の中の〝良い子〟の殻を破るということです。もう〝良い子〟でいるのはやめましょう。教師のあなたが〝良い子〟のままでいると、子供たちが、生徒が救われないのです。
あなたは、ある程度、経済的に恵まれた、教育熱心な良い家庭に育ち、これまで、真面目に手堅く、安全に計画的に、敷かれたレールの上を歩くように生きてきたかもしれません。けれども、さあ、いいかげんに〝良い子〟は卒業しましょう。そして、これからは〝不良教師〟になってください。自分の成績を気にせず、決められた作業やノルマを頑張らないで、人の心をゆっくりとみつめる怠け者のぐうたら教師になってください。
この国のために、どうか、どうか、お願いします。


自殺というのは、大人にとっても、子供にとっても、〝諦め〟の結果であると同時に、〝問いかけ〟の究極的表現でもあるのです。そして、その問いは、生きている者すべてに、激しく突きつけられます。
「いま、あなたは、何を感じていますか?」「この死を、この心を、どれほど、重く捉えていますか?」「そもそも、何かを感じているのですか?」と。
細やかに、心の底の底まで理解されることで、人ははじめて救われる(成仏できる)のですから。そして、その理解の第一歩は、事実を事実として認めるところから始まるのです。



*茨城県取手市藤代南中学校のイジメ自殺問題に関する補足として記す。ところで、教員というのは基本的に政治的左派が多いと思うのだが、しかし、ここまで明け透けに弱者を強圧的に黙らせ、権威に卑屈におもねる、呆れるほど権威主義的で保身的な人々が、「庶民のため、弱者のための政治」を、建前上、表面的には求めているのかと思うと、何か悪夢のような冗談としか感じられない。
彼らの左翼思想からは、朝鮮の『事大主義』に通じる腐臭が感じられる。その共通点は、自己の立場を守るための極端な正統性・正当性の重視である。しかも、もともと本質的・内面的には正統性・正当性がまったく認められない自己の立場を、無理やり守ろうとして『事大(建前上、表面上の正統的権威)』にしがみつくところが、本当によく似ている。
例えば、「いじめは認められない」とする見解が、彼らの自己正当性の柱であり、それを守るために、〝やらせ第三者委員会〟まで組織して真実を隠蔽しようとしたわけだ。しかし、彼らの認める最大の権威である文部科学省が彼らの正当性を否定すると、その権威に即座に従うことで、自己の正統性だけは守ろうとする。すべては自分の保身のためである。
その我欲に支配された心の内では、他者を思いやる心など、とうに打ち捨てられて久しい。その人を人と思わぬ姿勢を非難すれば、傲岸不遜な冷たい怒りが返ってくる。彼らにつける薬はない。