最近、年末の風物詩「餅つき」の行事を、自治体や子ども会や民間団体がおこなうのを、自粛・禁止する自治体が増えているようです。菌やウイルス(ノロウイルスなど)による食中毒の発生を防ぐためだそうです。こうした動きは、地域によっては、10年以上前から始まっているといいます。それにしても、行政は、「とりあえず注意を喚起して、後は自己責任でおこなってもらう」という発想はないのでしょうか。
何か起こったら、何でもすべて行政の責任にしたがる、普段からの住民側の姿勢も問題だと思うのです。結局は、人々の間で責任回避のための防衛意識が高まり、被害者意識と警戒心が社会に蔓延し、行政の方でもクレーム対策ばかりが助長される傾向があります。
「こちらでは、10年以上前から、餅つきをしないように、住民の方たちに強く呼びかけ、指導してきました」と、胸を張っておっしゃる自治体の方もいます。禁止することが〝善〟という、迷いのない意識が、うかがえます。
また、子ども会などのイベントとして、せっかく餅をついても、それを一切食べないというのでは、食べ物を無駄に捨てるのが、教育に悪いように思えますし、かえってバチが当たりそうです。「鏡餅にすればいい」という意見にも、ちょっとうなずけません。
こうして、古くから続く恒例行事が、また一つ消えて(変容して)いきます。ところが、日本には、個人の人権や自然保護を熱心に求める思想や活動やグループはあっても、共同体の文化保護を熱心に求める思想や活動やグループはほとんどありません。残念ながら、文化破壊に関しては、完全に放置されている状況です。

例えば、近隣住民の苦情(「夜中に何やってんだ、てめえ!」「うるさい!」など)によって、大晦日の深夜から元旦にかけて、除夜の鐘を突くのを取りやめるお寺が、各地で増えているようです。一年にたった一度の除夜の鐘の音が、人によっては耐え難くうるさく感じるらしいのです。
そして、寺の側にも、このような〝しょうもないクレーム〟に対して、毅然とした対応をとる信念が見られません。「伝統を守る」という強い志がなければ、文化は消えてしまいます。鐘が響かないように、プチプチでぐるぐるに巻いた鐘つき棒で、パコっと鐘をつくのも悲しいです。
「鐘の音を聴くことで、自分の中の108の煩悩を一つづつ消して、新たな気持ちで新年を迎える」という素晴らしい伝統行事が、こうして失われていきます。日本各地に響く除夜の鐘の音を放映する年越しの夜のNHKの恒例番組「ゆく年くる年」も、そのうち取りやめになるかもしれません。
新年に、邪気を払うために神社で振舞われる「お屠蘇」も、「飲酒運転を誘発するのではないか」という苦情から、ノンアルコールに切り替える神社もでてきています。今年の夏には、「盆踊り」に対しても、「うるさい」というクレームがあり、参加者全員が、イヤホンで音楽を聴きながら、輪になって踊るという奇妙な風景が、愛知県で見られましたね。
「除夜の鐘もお屠蘇もお盆も、それぞれ仏教・神道・儒教の行事だが、信者でない人からすれば、どれも、ただの〝めいわく行事〟だ」と言うのです。そのうち、結婚式も葬儀も〝迷惑行事〟になるんじゃないでしょうか。

最近は、保育園の開園に関しても、「子どもがうるさいのは我慢できない」という周辺住民(主に高齢者)からのクレームに悩まされ、各地で難航しがちです。今年に入ってからでも、千葉県市川市、東京都武蔵野市、兵庫県芦屋市と、次々と開園断念のニュースが続いています。
「子供の声はうるさい!」「送り迎えの車が迷惑!」「騒音で地価が下がったらどうするのか!」
クレーマーは、地域に古くから住む70〜80代の高齢者たちが多いそうです。つまり、戦中派の老人たちが、保育園を迷惑施設と考えていて、自分たちの静かな余生を邪魔させないために、開園反対の抗議や苦情に熱心なのです。
今年の流行語大賞「保育園落ちた、日本死ね」を書いた人や支持した人は、まずは、こうした理不尽な熟年クレーマーたちに対して、抗議の声をあげて欲しい。子どもの声は騒音なのですか、と。
「保育園つくれ!」といくら叫んだところで、それを阻止しようとする近隣住民が、あまりに多く、新設が困難なのです。行政より政治家よりシステムより、実は市民の側の態度こそが問題です。
高齢者が子供を慈しむことを知らない社会というのは寂しいものです。いくら保育所を増やしても待機児童が増える理由の一つに、「元気で暇な年寄りが、孫をあずかりたがらない」ということがあります。(逆に、親に子どもを任せっぱなしで放置しっぱなしというお母さんもいますが。)ともかく、歳を重ねても年の功も少なく、権利意識ばかりが肥大して、心に余裕のない大人たちが、急速に増えているようです。

秋田県の伝統文化の「ナマハゲ」も、「子どもが怖がるから来ないで欲しい」という親の抗議が殺到して、もはや、怖いナマハゲの姿は、どこにも見られないということです。ナマハゲが子どもに優しく宿題を教えている光景なんて、まったく笑えない話です。
日本各地の保育園でも、節分の豆まきの行事の時、かつては子どもたちを追い回していた鬼が、今では、とても優しくなったそうです。豆で追い払うのではなく、鬼と子どもたちが仲直りして終わるというのです。豆まきは、目に当たると危険だから、おこなわないのです。
運動会では、棒倒しも騎馬戦も組み立て体操も禁止。競争で順位をつけるのも禁止。川で遊ぶのも禁止。ブランコも鉄棒も砂場もボール遊びも禁止。禁止。禁止。禁止。
子どもを真綿でくるむように育てる恐ろしさを自覚していない親の問題が、深刻すぎます。グリム童話にある、ヘンデルとグレーテルが囲われた〝お菓子の家〟で子育てする愚に、気づいて欲しいと思います。
本来、ナマハゲや獅子舞や節分などの伝統行事には、子育てに関わる深い知恵が隠されています。父性の権威の喪失が著しい現代において、いずれやってくる母子分離と子供の自立の準備を促す貴重な装置の一つが、こうした「ナマハゲ」的儀式です。
風習や習俗には、古くからの日本人の知恵があります。みだりに自己本位に改変して良いものではありません。そのことに気づかず、自らの子育ての盲点を反省できないのは、つくづく教養のない痛い親たちと言わざるを得ません。

上記のような、さまざまなクレームは、10年ほど前から見られるようになったということです。日本人の心が、ますます情けなく変質・変貌しているようです。
家族や自分の〝健康〟に神経質になるあまり、無菌状態で生活しないと気が済まなくなり、風邪もひいていないのに、マスクをつけて過ごす人が増えています。精神的にも「無菌状態」であることを好むので、子どもが怖がって泣くのを虐待と感じて、親たちは古くからの郷土の伝統文化に対しても、強硬にクレームをつけるのです。
「ナマハゲは来なくていい。豆まきもやめて。運動会で順位をつけるのもやめて。うちの子が傷ついたら、どうしてくれるの!」と。
確かに、ジャングルジムや棒倒しは危険です。けれども、幼い頃から〝怖いこと〟を知らないで育つというのは、実は、それ以上に危険なことなのです。そして、傷ついたことがないというのは、さらに恐ろしいことです。
一方で、老人たちは、子どもの存在が耐えられず、近所に保育園もつくらせません。寺の近隣住民は、年一回の「除夜の鐘つき」の音も耐えられず、「夜中に何やってんだ!」と、寺に中止を求めます。死者の存在にも耐えられないので、火葬場も葬儀場も、近所には絶対につくらせません。夏の風物詩「盆踊り」も、太鼓や笛の音がうるさくて耐えられないので、主催者に猛抗議します。
挙げ句の果てに、彼らはこう叫びます。「お前たちのせいで、私の土地の地価が下がったら、どうしてくれるんだ!」
そして、苦情を受けた側は、みんな思うのです。「こんな理不尽な文句を言われて、頭を下げるくらいなら、ウザイし、面倒くさいし、割に合わないし、バカラシイから、全部やめる。」

人々は、皆、ますます「他人のことなどどうでもよい」と感じるようになり、世の中のためとか、人のために何かすることを厭うようになります。自分のことだけに専念している方が、はるかに楽だし、人生の成功のために、理にかなっているからです。
けれども、知性では感知できない〝生命の充足感〟は、理屈や思考で理解できる範疇の外にあるものです。科学や学問の物差しでは測りようもなく、生命の危機を乗り越える経験の中で養われた〝直観〟に従うことで、かろうじて得られる(感知できる)のです。極限状況をくぐり抜ける過程で、「何が自分を根底で支えているのか」に、ようやく気づけるようになります。
しかし、平成の日本人には、そうした命懸けの濃密な経験が、致命的に欠落しています。この国が、あまりにも豊かだからです。東京では、ホテルのベッドメイキングやコンビニ、食堂やラーメン店で、必死に働いている日本人の若者を見たことがありません。一生懸命働いているのは、みんな中国人の若者です。今の日本の大学生が、いかにアルバイトをしないか、驚くばかりです。明らかに、お小遣いのやりすぎです。
飽食のお菓子の家で贅沢に育ち、親の敷いたレールの上を何の疑問も持たずに歩いてきて、自立した経験を積み重ねることなく、考える力も身に付けてこないで、いたずらに歳だけとってしまった人もいます。人生の成功も、本当の幸せも、自分に一番必要なものも、何もわからないまま、虚しく心をさまよわせる人も、増えています。
そして、極限の安全を担保するクレーム社会が、そのさまよえる状況に拍車をかけています。至れり尽くせりの過保護社会の安心と安全が、人間精神を堕落させ、いつまでも幼稚化させているのかもしれません。この国に爆弾でも落ちない限り、誰も問題の切実さに気づけないのでしょうけれど。