北海道の道南の山の中に幌別鉱山という鉱山があります。ふもとの登別市幌別の町から、10㎞以上、山の中の砂利道(2017年にアスファルト舗装されたようです)を登っていったところにある山村の鉱山です。
幌別鉱山は、明治40年頃(1907〜)から徐々に開発された鉱山で、その後、大正9年頃(1920〜)から始まる最盛期には、日本一の硫黄の採掘量を誇った鉱山です。硫黄の他にも、金、銀、銅、鉄鉱石なども掘っていました。
その鉱石の種類の豊かさは、北海道でも随一を誇り、その最盛期は第二次大戦後の昭和29年(1954)頃まで続きました。鉱山町には鉄道が敷かれ、バスが通り、小学校と中学校がつくられました。その頃は、小中学校併せて、生徒数が100人以上もいたそうです。平均して、一学年に10人以上もいたわけです。おそらく、村落人口も最盛期には1500名ぐらいはいたでしょう。
けれども、昭和30年代以降、原油精製時に採れる安価な硫黄におされて、硫黄の需要が減り始め、昭和40年頃からは、鉄の鉱脈にも陰りが出てきて、その他の鉱石も産出量が減り続けたために、鉱山町は急速に寂れていきました。やがて、すべての坑道が廃坑となり、昭和46年(1971)には、ついに硫黄精錬所も生産を完全に停止しました。そして、昭和49年(1974)3月をもって、幌別鉱山小中学校が閉鎖され、鉱山町は無人の完全な廃村となったのです。
こうして幌別鉱山は、住む人もいない山の中の廃墟と化したまま、30年近くの歳月が過ぎていき、住む人のいない村の家々は朽ち果てていきました。
けれども、1990年代に入ると、鉱山町の遺構を再利用しようという構想が、市民の間で持ち上がり、さらに2000年代になって、その再利用構想が、ようやく実現する運びとなりました。
そして、今では、かつての幌別鉱山小中学校の校舎を使い、さらに新しい建物も増築して、体験型の自然学習施設として再利用されています。
2002年に設立されたNPO法人が運営する「ふぉれすと鉱山」という宿泊学習・リクレーション施設がそうです。かつて鉱山町の学校だった建物や校庭が、30年の空白の歳月を経て、自然体験教室や研修施設やキャンプ場として、再活用されているのです。最近では、11世帯が移り住み、法人の事業収入規模が、年間4000万円を超えると言いますから、キャンプ地及び宿泊施設として、なかなか流行っているようです。
しかし、「かつて、この森には、自然を破壊する鉱山が存在し、森はひどく汚染されていたが、鉱山がなくなって40年、ようやく森はここまで再生した」という、このNPO法人のスタンスに対しては、当時を知る人間としては、あまりにも違和感があります。そういう鉱山町による開発の負の側面を否定するつもりはありませんが、それがすべてではないはずです。
一方で、近年、これも2000年前後から始まった廃墟ブームの高まりから、鉱山の廃坑や遺構を訪れる人もますます増えているようです。とはいえ、こちらの〝廃墟マニア〟の人たちは、新設されたキャンプ施設や自然保護の思想や自然と触れ合う活動には、まったく興味がなさそうで、目もくれません。廃墟に惹かれる人たちは、そもそもの興味の対象が、一般的なアウトドア感覚の人たちや、環境問題の運動家の方たちとは、根本的に異なっているようです。
わたしは、廃墟や遺構に惹かれる感覚は、わからないでもないのです。けれども、現実の廃村を前にすると、やはり、かつての村が、荒れ果ててしまった切なさや、失われた哀しみや、誰もいない寂しさが先に立ち、胸が締め付けられる思いがします。そして、打ち捨てられた廃墟から、往時の生き生きとした活力や生身の人々の温かさを想像することは、なかなか難しいことだと感じています。それに、正直に言えば、そうした〝抜け殻〟に惹かれる心が、健康的な精神のあり方とは、とても思えないのです。
かと言って、自然教室にやって来るアウトドア派の親子が、鉱山の過去の歴史や文化の継承に深い関心があるようにも思えません。彼らの目的は、山の中の自然を体感し、満喫することだからです。過去の歴史や遺産には、あまり関心がないのです。
ということで、皆さんの興味・関心の範囲にはないかもしれませんし、たとえ興味があるとしても、幌別鉱山町の過去の姿についての、血の通った生々しい想像や共感の一助になるかどうかはわかりませんが、当時、鉱山に住んでいた方の証言を、稀少な記録として記しておきます。
以下は、本人に記憶をたどってもらった語りの言葉に基づいて、わたしが文章化したものです。



私(証言者)が知っているのは、鉱山町の歴史の末期にあたる昭和40年(1965)から昭和48年(1973)頃までのことです。その頃の村の人口は、おそらく100名をかなり下回っていたでしょう。小中学校の生徒数も年々減り続けて、昭和46年度には小中学併せて生徒数は十数名となりました。そして、中三生の先輩たちがみんな卒業していった後には、小学生4名、中学生3名となりました。閉村直前の昭和47年のことです。校長先生含めて先生が5名いるのに対して、小中学併せての生徒数が総勢わずか7名だったのです。その頃には、村民の数も、50名を割っていたはずです。そして、48年度学級を最後に、翌49年3月には小中学校は廃校となり、それを期に、村は完全に廃村となりました。ですから、私が知っている村は、鉱山の最晩年の姿です。
緑の森の中の小さな学校は、心をかき乱す騒音も映像も一つもない、静かなお伽の世界でした。図書室で一人で本を読んでいると、この世界に自分独りきりでいるようで、邪魔するものは何もないのです。心ゆくまで本の世界に浸りきることができました。タンポポの咲き乱れる校庭も、自分一人のものでした。倒れたひまわりの花に、ぎっしり詰まった種子も、自分だけのものでした。
教室は、小学校低学年のクラス、高学年のクラス、中等部のクラスに別れていて、小学部の先生が2人、中学部の先生が2人、校長先生が1人でした。一つの教室に、机が二つ離れておかれ、その前方中央に教壇がありました。1年生と2年生とか、5年生と6年生とかが、一緒に同じ教室で、一人の先生から別々の授業を受けていました。そうではなく、近い学年に他の生徒が一人もいない場合には、教室の真ん中に机を一つだけおいて、先生と向かい合って、一人で授業を受けることになりました。
学校全体の人数が少ないので、給食は、先生も生徒も、小学生も中学生も、全員が一つの教室で、みんなで一緒に食べました。配膳は上級生がやってくれ、お兄ちゃん、お姉ちゃんたちと一緒に食べる給食は、とても楽しかったです。
それから夏には、これも全校全員で、一日かけて遠い上流の滝まで歩いて行って、滝壺に入って泳ぎました。プールがなかったので、あれが水泳の授業(のつもり?)だったのでしょう。先生たちも、涼しそうに、岩場で水に浸かっていました。
冬には、雪がたくさん降り積もった日に、あらかじめ、先生たちが、何日もかけてグラウンドに作っておいた二つの〝巨大な〟雪の砦に、先生も生徒も全員が2チームに分かれて立てこもり、昼休みの雪合戦をしました。上級生たちが砦の外で雪玉を投げ合っている間、下級生は砦の壁の影で、次々と雪玉を作って、肩の強い上級生に玉を供給するのです。敵の砦から、弧を描いて飛んでくる雪玉をかいくぐって、前線の味方に玉を補給する時など、さながら〝戦場〟にいるような気分でした。
それから、学校の裏山で、スキーの授業もありました。スキーを履いて、山を一生懸命登って、ようやく上に着くと、後は一気に滑り降りる。これで、その日の体育の授業はお終いです。なんとも、牧歌的な日々でした。

鉱山の運動会や神社の村祭は、ずいぶん賑やかなものでした。この時だけは、日頃は山をおりて街に住んでいる、鉱山出身の家族や親戚が勢ぞろいします。
運動会の時には、普段はヤギが雑草を食べているグラウンドの周りが、観客の敷物でいっぱいになります。そして、観客・家族も、大人も子どもも村人が全員参加で競技を楽しむのです。
村祭りでは、神社の境内で相撲大会が開かれ、小学生がいっぱい参加していました。やっぱり、相撲は神事だったのですね。裸に廻しを付けて、裸足で砂だらけになって、厳かな行司の掛け声が響き渡る中で、小中学生が本格的で真剣な勝負をするのでした。
それから、獅子舞もありました。獅子の中には、鉱山中の三年の先輩が2人、木製の頭を付けた風呂敷のような布の中に入っていて、息のあった動きで獅子を演じていました。その獅子を狩る鎌を持った若者も、三年の先輩でした。みんな15歳だったのですよね。若いのに本当に立派な獅子舞でした。
この獅子と鎌を持った若者は、村中の家から家へと追いかけっこをしながら、戦いを繰り広げるのです。獅子と若者の周りには、笛太鼓の楽器を持った老人たちが、軽快な演奏を続けて、付き従います。それはそれは賑やかなものです。獅子は、最後には、若者によって魔力を鎮められ、大人しくなって終わるのです。
この時、獅子と鎌の若者は、すべての家のすべての部屋を土足で通り抜けるのが慣わしです。そして、その途中で、小さい子供たちは、親の手で無理やり獅子の口の前に頭を差し出され、獅子にがぶりと頭を噛まれるのです。突然、恐ろしい獅子の口が迫ってきて、首ごと口の中に呑み込まれ、目の前が真っ暗になった時、子供は一つの〝死〟を体験します。しかも、最も信頼している親によって、無理やり猛獣の前に引き出され、生贄にされるのです。死と再生を体験させられるわけです。この時、獅子に頭を噛まれると、その後、子供は健康に育つのだそうです。今、思うと、先人の知恵というか、なかなか意味深い行事です。
昭和49年(1974)に村が消滅して以来、幌別鉱山の神社で村祭は行われていません。神社そのものも消失しました。けれども、獅子舞の方は、その後、ふもとの幌別の町の方にある神社で、保存会によって、町の神社の祭の出し物として続けられ、現在に至っているとのことです。こうして『幌別鉱山獅子舞』は、平成5年(1993)には登別市の無形民俗文化財に指定されました。けれども、肝心の村が消滅しているのですから、獅子舞も過去の遺跡のようなものです。
村も村人もいないので、獅子と若者が土足で家々を通り抜けるとか、獅子が幼子の頭をがぶりと噛むとか、その辺のところまで忠実に伝承・再現されているとは思えません。ホンモノの村祭の獅子舞は、もはや取り戻せない、過去の幻影(まぼろし)です。

春には雪の中からふきのとうが姿をあらわし、三つ葉が自生し、川ではウドがとれ、山では細竹のタケノコがとれます。初夏には家の裏の畑にイチゴができて、おやつに摘まみます。秋には校庭の周囲の森に山葡萄が鈴なりにできるので、木に登って房を摘んでは口に運びます。畑や山では、季節ごとに、美味しい旬のものが生えてくるのです。
タケノコは茹でてから皮をむいて瓶に詰め、一年中食べられます。山葡萄は樽につけられて、自家製の葡萄酒が造られます。畑では、自家製の椎茸やらトマトやらキュウリやらナスやらピーマンやらアスパラやらレタスやらさやえんどうやら、朝に採ってきたものが、すぐに朝食に調理されるのです。そして、今より、野菜の味は、濃厚で峻烈で深いものでした。他にも、大根やらジャガイモやらごぼうやら人参やら玉ねぎやら白菜やら、家の裏の畑で何でも作っていました。もちろん、トウモロコシも枝豆も。野菜はすべて自給自足です。そして、旬の時期には、そればかり食べるのです。
冬の訪れは、雪虫の大発生によって始まります。雪虫は、一週間ほどの間、村を覆い尽くし、家の外に出ると、真っ白いふわふわした綿毛が舞い飛んで、ほとんど前が見えないほどです。歩いていると、口の中にも鼻の中にも入ってきます。学校に着くと、頭は白髪になっていて、服にも雪虫がたくさん張り付いています。綿毛以外の身体は本当に小さくて、服に張り付くと、もう死んでいます。儚い命です。
雪虫が出なくなると、朝には地面に霜が立つようになり、やがて今度は本物の雪が降ってきます。畑の土の下には、収穫した大根が埋めてあります。冬の間、畑は野菜の凍結を防ぐ天然の冷蔵庫になります。
冬の間の暖房は灯油ストーブ(新)と薪ストーブ(旧)です。燃料の薪は、外の倉庫の壁に積み上げてあります。秋の冬支度の一つは、この薪割りでした。そして、薪ストーブは、お風呂に使われていました。100数え切るまでは、熱いお湯からあがれません。顔も身体も真っ赤になるぐらい温まらないと、すぐに布団に入っても風邪をひいてしまうのです。
年末の風物詩は餅つきです。臼と杵で、タイミング良く、男たちが交代で餅をついていきます。相方として、餅を整えるのは女の役目です。2人のタイミングが合わないと、テンポが乱れてしまい、杵をつくことができなくなります。「下手だなあ」「速い、速い」とか言い合いながら、大勢で賑やかにはやし立て、自然と心が通い合う楽しいひとときです。
当時(昭和40年代半ばまで)は、遠く宮城県から幌別鉱山に移住した人々の間に、まだ郷里での生活文化が息づいていて、それが、何気ない日常生活を暖かく彩っていたのではないかと思います。

村には、お店は、自宅の一角に雑多な商品を置いているよろず屋一軒しかありませんでした。けれども、そのお店に置いてあるのは、蚊取り線香とか、電池とか、ハサミとか、日常生活に使う品々ばかりで、ジュースもアイスキャンディーも駄菓子もパンも漫画も置いてはいません。
それ以外には、食堂はおろか、自動販売機さえないので、お金を使える場所が、まったくありませんでした。もっとも近い、近隣の町までは、周囲に人のほとんど住んでいない寂しい山路(砂利道)を、10kmも下らなければならなかったのです。本当に、何もない、山の中の、小さな小さな集落でした。
もともと交通機関は、舗装されていない10㎞の砂利道を、幌別の町までバスが1日に朝晩2往復していましたが、それもいつしか廃線となり、自家用車以外の交通手段はなくなってしまいました。それでも、その一本の道だけが、外界と繋がる唯一の幹線道路でした。
学校を除けば、村で稼働している唯一の施設だった営林所までの道は、森の中をどこまでも続く、ほとんど〝けもの道〟のような小径でした。その道を歩いていくと、深い渓流の上に、手すりも何もない古い朽ちかけた小さな丸木橋がかかっていて、その上を歩くのがとても怖かったのを覚えています。リスが、ぴょんぴょんと道を横切っていったこともありました。昔は、よく熊も出て、夜の間に、電信柱で爪を研いでいったり、昼間でも、のそのそ歩いているのを見かけたものだそうです。
学校からそう遠くないところに、かつての鉱山の採掘場跡があります。そこは、幼い子供にとって、最高の遊び場の一つでした。地面に長方形に掘られた採掘場跡には、大きな銅鉱石がいくつも転がっていました。切り出した石の断面には、キラキラと金色や銀色に輝く金属質の層があって、まるで金や銀が混じっているように見えました。この採掘場から、かつては金・銀も採れたのですから、もしかしたら、という宝探しの思いも膨らみます。近くには、実際、大きな黄色い硫黄の塊も、ごろごろ転がっていました。運び出す時に、トラックからこぼれ落ちたものだそうです。
その採掘場の素晴らしいところは、周囲に家も人通りもまったくないことです。山の中のたて堀の採掘坑の中で、私が鉱石を探しているところは、誰にも見えないし知られることもないのです。そこは、私だけの秘密の遊び場でした。そもそも、村では、外で歩いたり遊んでいても、人に会うことは滅多にありません。そのくらい人影がなかったのです。
この山のすべての場所が、私だけのものでした。近い学年の仲間がいなかった私は、毎日独りで、自然だけを相手にして遊んでいました。今、考えると、それは、他人の視線がどこにもない、誰にも邪魔されることのない、とても贅沢な時間だったと思うのです。
コンビニも、マックも、ラーメン屋も、スーパーやデパートも、バスや電車などの交通機関も、公園も、遊園地も、ゲームセンターも、鉱山には何もなかった。スマホも、パソコンも、ipadも、ステレオも、大画面液晶テレビも、家にも何もなかった。近所には本屋すらないから漫画雑誌すら読めなかった。
けれども、もはや、今では決して味わうことのできない、かつての日本の当たり前の日常が、昭和30年代までの日本人の生活の営みの濃厚な香りの残り香が、幌別鉱山の村には、まだあったのです。
それから40数年の時が過ぎて、私たちの国は、いつの間に、こんなにも味も素っ気もない、香りも温もりもない、のっぺらと無味乾燥な、清潔で退屈で寒々とした国になってしまったのでしょうね。
それを思うにつけても、歳を経るにつれて、ますます、この鉱山の記憶が、私にとって、宝石のように貴重なものに思えてくるのです。そして、その記憶は、私の心の本当に深いところに、今でもある種の〝潤い〟を与えてくれている、そんな気がしてなりません。



過ぎた日の記憶は、もうここには存在しない〝幻〟かもしれません。けれども、その幻影の記憶は、いつまでも、人の心を暖めてくれる、確かな力を持っているのです。人を生かしている力って、そんなものかもしれません。