山路を歩きながら考えた。


知に働けば角が立つ。情に竿させば流される。意地を通すのも窮屈だ。
とかくこの世は住みにくい。
住みにくさが高じると、住みやすいところに移りたくなる。
何処に移り住んでも住みにくいと知った時、詩が生まれ、歌が生まれ、絵画が生まれる。

と、夏目漱石(1916年、49歳で没)の「草枕(1906年、39歳の作品)」にあります。


『性格的に知性の働きが強く現れる人は、気軽には付き合いにくい。また逆に、情を大切にしようとすると、ついつい人に流されることが多くなる。かと言って、ことさらに人を突っぱねて、独りで意地を張って生きるのも、これまた不自然で窮屈なことだ。』
この歯切れの良い七五調の言い回しに、漱石の江戸っ子らしい粋を感じます。



働けど、働けど、なお我が暮らし、楽にならざり、じっと手をみる(1910年7月、24歳の作)
実務には役に立たざる歌人と、我をみる人に金借りにけり(1910年9月、同「一握の砂」)

一度でも我に頭を下げさせし、人みな死ねと、いのりてしこと(1910年10月、同詩集)

戯れに母を背負いて、そのあまり軽きに泣きて、三歩あゆまず(1910年、同詩集)

命なき砂の哀しさよ、さらさらと、握れば指の間より落つ(1910年10月、同詩集)

何故かうかとなさけなくなり、弱い心を何度も叱り、金かりに行く(1912年、「悲しき玩具」)


と、夭折した石川啄木(1912年4月、26歳没/1912年6月、第二詩集「悲しき玩具」刊行)にはあります。


啄木には『人を殺したいと思った』と綴った歌もあります。その他、世間に蔑まれる弱い者の心に潜む強い憤り、金持ちに虐げられる貧しい者の胸の内の怒りや哀しみを、強く感じさせる歌が数多くあります。



柔肌の熱き血潮に触れもみで、淋しからずや、道を説く君(「みだれ髪」1901年、23歳)
道を云はず、後を思はず、名を問はず、ここに恋ひ恋ふ君と我と見る(「みだれ髪」1901年)
清水へ、祇園をよぎる桜月夜、こよひ逢ふ人、みなうつくしき(「みだれ髪」1901年)
しら玉は、くろき袋にかくれたり、わが啄木はあらず、この世に(1912年4月、愛弟子啄木の死を悼んで)
ああ皐月、仏蘭西の野は火の色す、君も雛罌粟、われも雛罌粟(1912年5月、34歳、パリにて/コクリコ=ポピー=ひなげし/往路5月にウラジオストクからシベリア鉄道で、夫鉄幹の待つ欧州へ~復路11月にマルセイユから船で、子供たちの待つ日本へ)

と、与謝野晶子(1942年、63歳没)は歌っています。


与謝野晶子は、パリに遊学していた夫鉄幹に呼ばれて、7人の幼い子どもたちを日本において、34歳の春5月にフランスへと独りで旅立ちます。ちょうどその一月前に愛弟子の啄木が病死し、数多くの啄木の死を悼む歌を発表してから、慌ただしく日本を発ったのです。
まだ大正になったばかりの1912年、女性の身でただ独り、日本海を越えてロシアのウラジオストク港に入り、そこから愛する夫の待つ花の都パリを目指してシベリア鉄道に乗り、ユーラシア大陸を二週間で横断したのです。
パリでは夫と共にベルサイユ宮殿の庭を散策し、パリの街を満喫しました。けれども、秋になると残してきた子どもたちに会いたくてたまらなくなります。そして、11月には、また独りで、マルセイユ港から日本へ帰る船に乗るのです。
与謝野晶子は、まだまだ男尊女卑の傾向の強い明治から大正期にかけて、心のままに、本当に自由に生きた、愛らしくもたくましい女性です。



月日は百代の過客にして、行きかう時もまた旅人なり。船の上に生涯を浮かべ、馬の口捕らえて老いを迎える者は、日々旅にして、旅をすみかとす。古人も多く旅に死せるあり。(「奥の細道」1694年校了)

旅に病んで、夢は枯れ野を駆け巡る(1694年、50歳、辞世の句)

と、旅に生き、旅に死んだ松尾芭蕉の言葉にあります。





わが門へ来さうにしたり配り餅(39歳頃、近所で正月の餅つきがあった時。江戸にて)
これがまあ、終の住処か雪五尺(1812年、50歳~江戸から信州に帰った時の句/五尺=1.5m)
痩せがえる、負けるな、一茶、ここにあり!(1816年、54歳~生後20日の虚弱な初児を思って/その数ヶ月後、初児を亡くす)
めでたさも、中くらいなり、おらが春(1819年、57歳の新年の句~この6月に長女を亡くす)

と、小林一茶(1828年、64歳没)は歌っています。


近所で餅つきがあるから、きっと餅を配りに来るだろうと、ご飯をよそい、ちゃぶ台に座って、今か今かと待っていたのですが、ついに配り餅は来なかったのです。ご飯は冷たくコチコチになってしまいました。とっても切ない話です。



いくたびも雪の深さを尋ねけり(1896年、脊椎カリエス悪化で病床の句、28歳)
今年はと思ふことなきにしもあらず(1897年数えで30歳になる新年の句、29歳)
めでたさも、一茶くらいや、雑煮餅(1898年、新年の句、30歳)

と、病に苦しんで早逝した正岡子規(1902年、34歳没)の歌にあります。





天地のいずれの神を祈らばか、うつくし母に、また言問はむ(755年、千葉県成田近辺出身の防人の歌)
唐衣、裾に取り付き、泣く子らを、置きてぞ来のや、母なしにして(防人の歌)
家にして、恋ひつつあらずは、汝がつける大刀になりても、そひてしかも(防人の父の歌)
防人に行くは誰が背と、問ふ人を、見るが羨(とも)しさ、物思ひもせず(防人の妻の歌)
父母が、頭かきなで、幸あれて、言いし言葉ぜ、忘れかねつる(防人の歌)

と、防人たちは歌を残しています。

遠く関東から、三年間の兵役で、九州福岡の大宰府に行かされた防人とその家族を想わされます。





あはれ、さればこれはまことか、猶もただ夢にやあらむとこそ覚ゆれ(親しくしていた平家一門の人々の非業の死の報せを聞いて)
なべて世のはかなきことを悲しとは、かかる夢見ぬ人やいひけむ(恋人平資盛の死の報を聞き、その悪夢のような衝撃の最中にて)
月をこそ眺め慣れしが、星の夜の深きあわれを、今宵知りぬる(資盛の冥福を祈る旅の途上で)

と、平安末期に源平の戦の哀しみを歌った女流歌人建礼門院右京大夫の歌にあります。





海底に目の無き魚の棲むという、目の無き魚の恋しかりけり(「路上」1911年、26歳)
白鳥は哀しからずや、海の青、空の青にも、染まずただよう(「別離」1910年、25歳)
幾山河超えさりゆかば、淋しさの終てなむ国ぞ、今日も旅ゆく(「別離」1910年、25歳)

と、旅に生き、青春の心を歌い続けた若山牧水(1928年、43歳没)は歌っています。




もの思へば、沢の蛍も、我が身より、あくがれいづる魂かとぞみる(夫に忘れられてしまったと思い込み、落ち込んでいる時、縁結びの貴船神社の川辺にて詠む)
暗きより暗き道にぞ入りにける、遥かに照らせ、山の端の月(40代で尼寺に出家した時、敬愛する僧侶へ宛てたもの)
あらざらむ、この世のほかの思ひ出に、いまひとたびの逢ふこともがな(余命いくばくもない不治の病の病床にて詠み、時世の歌として人に託したもの)

と、紫式部と同時代にあたる平安王朝時代、随一の女流歌人、恋多き和泉式部の歌にあります。




日本の歌・詩は、趣き深く素晴らしいですね。