今から2500年ほど前、紀元前6〜5世紀の中国で、孔子とその弟子たちが、日常繰り広げていた会話の一部を、弟子たちが覚えておきたくて書き留めていました。それらの断片を、孔子の死後に、一冊の書物にまとめたものが「論語」です。
この書物が編纂された頃、日本は、まだ、縄文から弥生へと移り変わる過渡期にありました。まだ、文字もなく、貨幣もなく、国もありませんでした。邪馬台国の女王卑弥呼が生まれるより、700年も昔の話です。
地球規模でみると、紀元前6〜5世紀というのは、人類史上でもまれなほど、文化の興隆した爛熟期で、偉大な精神的指導者が各地に次々と現れた時期です。たとえば、インドでは釈迦が、ギリシャではソクラテスが、バビロン捕囚期のユダヤでは預言者エレミヤが、孔子と同じように弟子たちを教導していました。
それに先立つ紀元前14〜13世紀、文明の最先進地域であるオリエントでは、ヒッタイトの興隆によって鉄器の製造法が広まり、激しい紛争が絶えませんでした。そして、この時代、人類最初の宗教改革者であるゾロアスター(ザラスシュトラ)、イクナアトン(アメンホテプ4世)、モーゼが活躍しました。彼らは、古代の多神教世界に、初めて〝一神教〟が確立されるのに、寄与しました。また、同時期に、インド地域では、アーリア人の侵入(BC18c〜)の後、人種的階級制度であるカーストと、神への賛歌である古ヴェーダ(リグ・ヴェーダ)が成立しました。
この第一次文明爛熟期の後、富の蓄積によって貨幣の使用(BC7世紀〜)が常態化し、貨幣経済が発達し、社会に貧富の格差が生まれ、人心が乱れた紀元前6〜5世紀に、再び人類の優れた精神的指導者が多数輩出したのです。人類史上、第二の宗教改革期であり、最初の思想・哲学興隆期であったと考えられています。
オリエント世界は、アッシリアによる史上初の統一と直後の急速な崩壊(BC7c)の後、アケメネス朝ペルシャによって再統一(BC525)され、光と闇の二元論に立つゾロアスター教が栄えました。インドは、マガダ国、コーサラ国など、十六大国の抗争の時代(BC6〜5c)であり、ジャイナ教やウパニシャッド哲学(バラモン教奥義/梵我一如)が成立しました。中国でも、周王朝が衰えて、春秋戦国時代に突入しており、諸子百家の思想が起こりました。ギリシャ都市国家群も抗争を続けており、その中で、BC6世紀に自然哲学が興りました。
この時期、文明が高度に発達した先進地域だった中東オリエント、ギリシャ、インド、中国において、人々の苦悩のあり方は、現代の社会に生きる人々の悩み、苦しみ、惑いと、ほとんど変わらないものでした。当時、著された「ソクラテスの弁明」「仏教経典」「論語」「エレミヤ書(旧約聖書)」などの書物にある彼らの言葉や対話から、そのことが窺い知れるのです。
ソクラテスもシャカも孔子もエレミヤも、実は難しいことは何も言っていません。極めて当たり前のことを、当たり前に話しているだけです。偉ぶることもなく、聖人ぶることもなく、自然に、わかりやすく、話しているだけなのです。それが、同時代に活躍した、その他の数多の思想家や宗教家たちとの相違点の一つです。
ソクラテスとシャカと孔子に共通する、もう一つの特異な点は、三人とも一切の著作を遺さなかったことです。彼らの言行、人と為りについて、弟子たちが記した書物が、遺っているだけです。三人とも、著作を成すよりも、直接、生身の相手に語りかけること、気張らず、ざっくばらんに、率直に対話することを好んだのです。
けれども、そのように誠実に当たり前に振る舞うということが、簡単なようでいて、実は一番難しいことなのかもしれません。人が聴きづらい本当のことを、正直に話す人は、どこでも嫌われます。彼ら、特に、ソクラテスとエレミアと孔子の三者に関わる、もう一つの共通点は、生涯、世間の無理解と排斥と迫害に苦しんだことです。
というのも、シャカの場合は、曲がりなりにも、王子という恵まれた身分に生まれましたが、他の三人は、生まれた時、何者でもなかったからです。それどころか、ソクラテスと孔子については、貧しく、身寄りのない、社会的に重んじられることの少ない卑しい身分の生まれでした。二人とも、貧困というものを、身を持って知っていました。
さらに、ソクラテスと孔子には、もう一つ、共通点があります。それは、長身の勇猛な戦士(ないしは司令官)として、生身の戦争を、生涯に何度も経験していることです。二人とも、人を殺した経験が豊富で、命のやり取りの生々しい現場を知り尽くしていました。頭でっかちで現実を知らない、ただの、青びょうたんの学者ではなかったのです。
彼らの言葉が、後世の学者に、あまりよく理解されていないのは、そのためです。生身の経験の乏しい優等生ほど、何事も妙に道徳臭く考えてしまい、意味を取り違えてしまいます。ソクラテスの言葉も、孔子の言葉も、せっかくの旨味を感じきれず、深く味わえないとしたら、残念なことです。『論語読みの論語知らず』という諺には、実はそうした「知っているつもり」の頭でっかちで教条主義の人を揶揄する意味もあります。
孔子は、苦労人であると同時に、生涯、芸術を愛した人でもあります。詩を詠じ、音楽をこよなく愛しました。(孔子「人の心は、詩によって芽生え、礼によって形が定まり、楽によって醸成されるものだ」)また、晩年には、人生の指針として、運勢学(易/占い)を学びました。決して、頭の固い、面白味のない人ではなかったということです。
(*春秋戦国時代には、運命を占う「易」が、急速に発達しました。)
さて、「論語」には、本当は、どのような会話が記されているのでしょうか。ここに、その一部を、わかりやすい現代語にして、書き連ねてみました。皆さんは、どう感じられますか。
読む時に、注意して欲しいことは、孔子は、万人一般に語りかけているのではなく、あくまでも、目の前の一人の弟子に話しているということです。弟子の性格や状況を考えて、いま、本人が必要としている言葉を選んでいるのです。
子遊「先生、親孝行って、何でしょうか。」
孔子「そうだね。どうも、最近は、親に衣食住の不自由をさせないことを〝孝行〟と言うようだ。しかし、たいていの人は、犬や馬にだって、衣食住の不自由をさせないし、とても可愛がっている。家畜だって、しっかり養っているではないか。親に対する敬いの心がないなら、犬や馬と、どうやって区別できるだろうか。親も犬も馬も、まったく区別がつかないのじゃないかね。」
孔子「人に〝優しい心〟がなければ、形式的に礼儀作法を気にかけても、何になるだろうか。音楽を演奏し、歌を歌っても、心がこめられていなければ、何になるだろうか。」
弟子「先生、礼の根本は何でしょうか。」
孔子「大事な質問だね。冠婚葬祭は、贅沢せずに質素に行うことだ。何事も、豪勢にやるより、倹約するのが一番だ。葬儀や喪に服す時は、形式的な儀礼にこだわるより、本当に心から悲しんでいるかどうかが大切だ。何事も、見かけよりも中身だからね。」
孔子「さあ、お前に〝知る〟ということを教えよう。自分が知らないことは『知らない』と、知っていることは『知っている』と、素直に言えることが〝知る〟ということだ。」
子路「先生、神を篤く信仰し、神に仕えるには、どうしたらいいのでしょうか。」
孔子「そんなことを私に訊くのかね。この歳になるまで、人間にすらまともに仕えられないのに、どうして神に仕えることまで考えられようか。私には思いも寄らないことだ。」
子路「先生、では、死についてはどう考えますか。」
孔子「何だって。死についてだって。いまだに、生についてすら、考えてもよくわからないのに、どうして死についてなど考えられるだろうか。本当に思いも寄らないことだよ。」
弟子「Aさんは、何事も、三回は深く吟味して、慎重に考え抜いてしか、物事を決断しないのだと訊きました。考え深い立派な方だとは思いませんか。」
孔子「そうかね。二回で十分じゃないかね。」
大臣「先生は、本当に何でもできますよね。やはり、天に選ばれた聖人というのは、何事にも通用する、万能の人なのですね。」
子貢「そうです。先生は、生まれながらにして、天に選ばれた聖人です。その上、本当に多才・多能な方です。」
(孔子は、後で、その話を聞いて、首を振る。)
孔子「いやいや、そういうことじゃないんだ。私が今、何でもできるのは、若い頃、地位も縁故もなく、貧乏だったから、つまらないことでも、何でもやらないと生活できなかったからだよ。必要に迫られて、無理矢理にでも身に付けないといけなかったんだ。聖人は、むしろ、何もできなくても、かまわないんではないかね。」
弟子「またしても、国を追われるのですね。このように流浪の憂き目を見て、いつになっても日の目を見ないで、どこへ行っても冷遇されているのはどうしたことでしょう。私は先生のことを信じてついてきたのに、もし先生に本当に天命があるなら、どうしてこんな困難や災厄にばかり遭うのでしょうか。私は納得が行きません。もう我慢できません。」
孔子「こういう時こそ、人がよく見えると言うよ。信念を持って困苦によく耐える者もいれば、軟弱に弱音を吐く者もいる。天命は、その選別のために、適した時に適した困難を与えてくださるようだね。」
子路「このままでは、敵に囲まれてしまいます。先生、聖人でも、こんな窮地に陥るのでしょうか。」
孔子「もちろん、聖人でも、窮地に陥ることもある。しかし、小人が窮地に陥ると、慌てふためいて、何をしでかすか、わからない。」
孔子「冬の寒さが厳しくなって、初めて、松や柏が、他の木々のようには、寒さによって萎まないのがわかる。そのように、人もまた、苦難にぶつかって、初めて、その真価が問われるものだ。」
(孔子に、「戦車千両を有する国の軍を率いるに足る」と評された武人、弟子の子路との会話)
孔子「この国では、正しい政治が行われず、正しい生き方が重んじられない。そこで、私が筏を浮かべて海に漕ぎ出すとしたら、真っ先についてくるのは、子路、お前を置いて他にいないね。」
(子路は嬉しそうに頷く。)
孔子「確かに、お前は、私以上に勇敢だ。けれども、お前は、筏を組む材料をどこから調達するか、そういうことは、まったく考えていないんじゃないかね。」
(また、孔子は、子路について、その武人らしさを評して、「どうも、畳の上では、死ねそうもないね」と、述べられたことがある。)
孔子「貧乏でも、恨みがましくならずに、静かに余裕を持って居るのは、それほどたやすいことではないよ。それに比べれば、金持ちであっても、人を見下したり、奢り高ぶらないで、謙虚に居るのは、それほど難しいことではない。」
(生涯、赤貧を貫き、貧乏な生活を余裕をもって朗らかに生きることのできた、弟子の顔回を、門下の一番弟子として、孔子は深く愛した。孔子は子貢に尋ねたことがある。「お前と顔回と、どちらが優れているだろうか。」子貢は答えた。「どうして私が顔回と比べられましょうか。顔回は一を聞いて十を知る者です。私はせいぜい一を聞いて、一か二を知るだけです。」孔子は頷いて「そうだねえ、私もお前も、顔回には及ばないね」と言った。また、一方で、孔子は次のように述べたこともある。「顔回は、古代の聖賢に近いが、貧乏で、時に食糧にも事欠くことがある。子貢は、官職に取り立てられていない時でも、金儲けが得意だ。予想したことは、よく当たる。」)
(顔回と子路が、孔子のそばに控えていた。)
孔子「どうだ。それぞれ、自分の目指している理想の生き方について話してみないか。」
子路「できるなら、立派な馬や車、衣服や毛皮を、友と一緒に使って、たとえ、友がこれを破損しても、惜しんで恨んだりしない人間になりたいものです。」
顔回「良い行いをしても、それを誇ることなく、苦労を人に押し付けることのない人間でありたいものです。」
子路「先生のお志も、ぜひお伺いしたいものですね。」
孔子「願わくば、老人の心を安らかにし、友を心から信じ、若者には懐かれ、親しまれる人間でありたいね。」
(後継者と目していた愛弟子顔回の死に臨んで、人目も憚らず、身を揉んで、子どものように泣きじゃくりながら)
孔子「顔回死す。天、我を滅ぼせり。天、我を滅ぼせり。」
(顔回の弔いの後)
弟子「先生、さっきは、まるで赤子のように、身悶えして泣いていらっしゃいましたね。」
孔子「そうだったかね。しかし、顔回のために泣かなかったら、一体いつ泣くのだね。」
(顔回の葬儀について、弟子の子貢との会話)
弟子「先生、葬儀はうちで立派にやりましょうね。棺も一番上等なものでやりますよ。」
孔子「それではあんまり派手じゃないかね。もっと質素にやってくれんか。」
弟子「そんなわけにいきません。」
孔子「ああ、顔回。お前は私を実の親のように思ってくれたのに、私の方はお前を実の子のようにひっそりしめやかに送ってはやれない。でもそれは、私のせいじゃないんだ。私は派手で大袈裟な葬儀などぜんぜん好きではないのに、そうしなければいけないのは、すべて、この分からず屋の弟子たちのせいなんだよ。」
孔子「小人は、メンツを重んじ、自分の顔が潰されることを恥じ恐れ憎む。しかし、君子は、見栄外聞よりも、自分が節度を保ち寛容でいられないことを恥じ恐れ憎む。また、小人は、世間に自分の名が知られず、人に評価されないことに心を痛めて嘆く。しかし、君子は、世間の評判よりも、自分が努力や反省を怠り、日々の進歩がないことに、心を痛めて恥じ入る。」
(小人➡知識ばかり詰め込み、己の立身出世だけを願う、つまらない人間/君子➡真実を重んじ、無私の愛に生きる立派な人)
孔子「志の卑しい、つまらない人間とは、一緒に仕事はできないね。まだ地位や高給を得ていない時には、どうやってこれを得ようかと気を揉み、得てしまうと、今度は失うことを心配する。かりにも、これを失うことになれば、何をしでかすか、わからない。」
孔子「たとえ、詩経の詩三百篇を暗唱できたとしても、政治を任せれば無能で任務を果たせず、諸国に使いに出しても自分の裁量と責任で交渉できないようなら、詩の暗誦が多くても何の役に立つだろうか。何事も、実践が伴わなければ意味がないのだよ。」
(弟子の子貢は、弁舌に長けており、外交能力に優れ、有能な政治家として、諸国にその名が轟いていた。孔子は、子貢の才能の使い方を厳しく戒めたが、同時に、その才能を愛した。孔子は子貢を評して「祭に用いる立派な器のような人物」と述べた。また、子貢は、経済的才覚があり、当時の長者番付に名を連ねるほど、成功した資産家となった。)
子貢「一生行うべき大切なことを、一言で言うと、何でしょうか。」
孔子「それは、〝恕〟だろうか。自分がされたくないことを、人に押し付けないことだ。」
孔子「何か一つ、一生かけて貫きたいと考えている、一番大切に思っていることを訊こう。」
弟子「はい、私は、自分がして欲しくないことを、人に対して決してしないようにしたいと思います。」
孔子「そうか。それは、今のお前には、到底できることではないね。」
子貢「私は、人に無理難題を押し付けられるのが嫌いなので、私も、人に無理難題を押し付けないようにしたいと思います。」
孔子「子貢よ、それは、今のお前の実力の及ぶところではないね。」
(さらに、子貢は独り言う)
「先生の詩書礼楽についての教えや、政治の諸制度についての教えは、いつでも容易に理解できるが、人の本性や宇宙の真理についての教えは、理解することが本当に難しい。」
子貢「先生、お訊きしますが、国にとって欠くことのできない最も大切なものを三つ挙げるとしたら、何を挙げますか。」
孔子「軍隊と食糧と信頼だろうな。」
子貢「その三つのうち、一つを省くとしたら、何を取り去りますか。」
孔子「軍隊だね。」
子貢「では、残った食糧と信頼の二つのうち、一つを省くとしたら、何を取り去りますか。」
孔子「その場合は食糧を省く。食べ物があろうとなかろうと、人は誰しも、いずれは死ぬのだよ。だが、信頼がなければ国や社会は成り立たない。」
孔子「真に偉大な指導者でなくとも、一生懸命に民を導こうとする人ならば、七年も時間をかけて教えれば、身を捨てて戦いに赴かせることができる。何のために戦うか、何に命をかけるのか、何をどうやって守るのか、教えることもなく戦わせるのは、民を捨てるのと同じだ。」
孔子「腹一杯食べては寝て、一日中、ボケらっと意味もなく怠惰に過ごして、何一つ心を働かせることをしないようでは、生きていると言えるのかね。それぐらいなら、いっそのことパチンコでも賭博でも、やったらどうだね。何かギャンブルにでも熱中していた方が、(熱狂と破滅の淵に生きているという分だけ)まだマシじゃないかね。」
孔子「昔の民謡に、思い焦がれても、遠くて行くことができない、という歌があるが、それは、まだ、本当には深く思っていないのだ。もしも、心底、思っているなら、何を遠いことがあるだろうか。」
孔子「私はいまだに、恋愛に熱中するように、恋人の愛を求めるように、色事に耽溺するように、熱烈に人生の真実の道を求める人を見たことがない。」
(魯の君主哀公が、孔子に尋ねた。)
哀公「弟子の中で、誰が本当に学を好みますか。」
孔子「顔回という者がおりました。学を好みました。怒りを持て余して人にあたることがなく、過ちを決して繰り返すことがありませんでした。しかし、不幸にして短命でした。今はもう、この世におりません。それ以来、学を好むものは、いないようです。」
(晩年の孔子より45歳以上年少の二人の若い弟子たち、子張と子夏を、孔子が評した。)
子貢「子張と子夏と、どちらが優っているでしょうか。」
孔子「子張は、やり過ぎるし、子夏は、やり足りない。」
子貢「では、子張の方が、優っているのでしょうか。」
孔子「過ぎたる(子張)は猶及ばざる(子夏)が如し」
(才気が走り過ぎて、やり過ぎてしまうのも、一歩及ばず到達しない者と同様に、少し考えものなのだ。)
子張は才気煥発で、意気軒昂、自信家で行動力のある堂々たる若者だったようです。一方で、子夏は、どこかのんびりした鷹揚な性格で、少々引っ込み思案なところがあったのかもしれません。ただ、子夏の方が、人には好かれたようです。
(孔子が大病をした時、子路は、若い弟子たちを、孔子の家臣とする手筈を整え、葬儀に備えた。幸い、病が小康を得て、回復に向かいつつある時、孔子は子路に言った。)
孔子「子路よ、お前が、私を騙そうとして、久しいようだ。家臣がいないのに、いるように装うとは、私はいったい誰を騙すのだ。天を欺くのか。私は、その家臣の手によって死ぬより、お前たちの中で死にたい。それに、たとえ盛大で立派な葬儀ができなくとも、よもや、私が路上で野垂れ死ぬことはあるまい。(お前たちが、いるのだから。)」
孔子年表(BC552-BC479)
70歳の大夫の父と16歳の身分の低い巫女の母との間で、庶子として生まれる。
3歳で父を喪う(戦死)。母子で別の街に移り住み、貧苦の中、葬儀巫女の家業で、女手一つで育てられる。
15歳で、学問を修めることを志す。(十五にして学を志す)以後、14年間、苦学す。身の丈、190cmの巨躯に成長する。
17歳で母を失い孤児となる。母、享年34歳。
19歳で結婚し、翌年、子の鯉(り)が生まれる。生活は困窮したが、学問の志を失わず、努力を続けたものと思われる。
28歳で、魯の国の官吏として仕官する。その後、持ち前の才能を発揮し、次第に出世する。(三十にして立つ)
35歳で、初めて弟子をとる。
36歳で、専横する家臣を倒そうとした君主のクーデターに失敗し、斉へ亡命する。
この頃、斉の古典音楽(韶/伝舜作曲)の演奏を聴いて、三ヶ月もの間、好きな肉の味もわからないほど感動する。「音楽が、これほど素晴らしいものになりうるとは思わなかった。」また、素晴らしい歌い手には、必ず、もう一度、歌ってもらい、自分も声を合わせて歌った。
38歳で、斉の景公に召し抱えられて仕官する寸前に、斉内部の諸官の反対で実現しなかった。孔子は、失意のうちに、斉を去り、魯に戻る。
しかし、魯でも、長く仕官せず、この時期、顔回、子貢など、多くの弟子をとり、14年間、教育に専念(四十にして惑わず)する。しかし、その間にも、魯の政治の堕落を憂い、一度はクーデターに加わろうとしたこともある。また、この頃、周代の歌謡311編を、「詩経」に編纂したと言われる。
50歳で、易学(占い)を修める。「あと数年して、50歳になるまでに易を学べば、人生において、大きな過ちはしないですむようになるだろう。(五十にして天命を知る)」
52歳で、魯の国の中都の知事となる。
53歳で、斉との和議の席上で、歌舞団による魯の主君暗殺の陰謀を未然に防ぎ、その功をもって、最高裁長官となる。「外交交渉で、軍備を引き連れないのは、もってのほか」との進言が有名。
56歳で、家臣の専横を防ぐため、魯の軍を指揮して進軍したが、裏切りで失敗し、目的を果たせなかった。官を辞して、弟子たちと諸国巡遊の旅に出る。
以後、14年間、安住の地を求めて諸国を巡る。この間、一行は、何度か、襲撃、命懸けの戦闘をくぐり抜ける。
旅の途中、ある襲撃を受けた時、逃走の途中で、顔回が遅れて追いついた。孔子は喜んで、「回よ、お前は、もう死んでしまったと思っていた」と言った。顔回は「先生が、いらっしゃるのに、どうして私が死ねましょうか」と答えた。
しかし、どこの国に赴いても、結局は仕官することなく、安住の地を見出せなかった。
あるところで、二人の隠者が、畑にいた。そこを馬車で通りかかった孔子は、子路に渡し場を尋ねさせた。
まず一人が、「あの馬車で手綱を持っているのは誰かな」と訊いてきた。子路は「孔丘です」と答えた。「あの魯の孔丘かな?」「そうです。」「それなら、渡し場ぐらい知っている筈だ」と言って、教えてくれなかった。
そこで子路は、もう一人に尋ねた。すると「あなたは誰かな」と訊いてきた。子路は「宙由です」と答えた。「魯の孔丘の弟子かな?」「そうです。」男は「大河が滔滔と流れて、とどまることがないように、世の中も皆そうだ。そうして、あの男は、いったい誰と一緒に、この世の中を変えようというのか。そんな相手が見つかる訳はない。それで、お前さんは、その、人を選り好みして、結局は、すべての人を避けるような男と一緒にいるよりは、世の中すべてを避ける者(隠者)に従った方が良くはないかな。」と言って、種の土をかけるのをやめなかった。
子路は、戻って孔子に伝えた。孔子はガッカリして言った。「鳥や獣とは、一緒に生きることはできない。私は、この世の中の人と一緒に生きないで、誰と一緒に生きようか。天下に道が行われているなら、私は誰かと、世の中を変えたいなどと思うだろうか。」
69歳で、失意のうちに魯の国に帰国する。この年、子の鯉が50歳で死す。
70歳で、君主を殺した大夫が専横する隣国の斉を討つために進軍するよう、四度哀公に進言するも聞き入れられなかった。孔子は「いやしくも、大夫の末席にいる以上、受け入れられないとわかっていても、正しいと信ずることは、進言せざるを得なかった」と述べている。
72歳の時、最愛の弟子顔回が、赤貧の中で死す。享年41歳。長年、書き綴ってきた魯の歴史書『春秋』を絶筆する。
73歳の時、最大の理解者である弟子子路が、謀反に際して、衛の主君を守って殺される。享年64歳。
74歳で、孔子は失意の中、他界す。死後、子貢ら、弟子たちの手で、生前の孔子の言葉をまとめた『論語』が編纂される。弟子たちは、三年墓のそばで喪に服したが、子貢は、六年孔子の墓を離れなかった。
孔子の言葉で、もっとも重要かつ難解なのは、学、道、仁という言葉です。学とは、仁を求めることであり、道とは、仁に至る生き方です。
孔子は、生涯、「彼こそは仁者だ」と、自分を含めて、生きている人を評することは、一度もありませんでした。「道を得た」と述べたこともありません。道とは、仁とは、それほどに奥深いものだということでしょう。
孔子にとって、仁とは、女手一つで自分を育て上げ、若くして貧苦の中で死んだ母の愛にほかなりません。孔子は、生涯、その母の無償の愛に及ばない自分の心を見つめ、深い喜びを持って無私の愛に生きる道を求め続けたのでしょう。
ひるがえって、今日の社会において、現代的な「学問」とは、立身出世の手段に過ぎず、道とは社会的成功へと続く「出世街道(サクセスロード)」のことです。孔子の考える仁は、人の生きる糧とは考えられていません。「人のために生きることを、自ら生きる糧とし、生きる活力を汲み出す尽きせぬ喜びの源とする」という生き方は、多くの人にとって無縁のものとなりつつあるようです。
しかし、孔子にとっては、たとえどれほど社会的に成功しようと、富や権力を得ようと、心に仁を育てることに関心がないなら、そのような生き方には、何の意味もないと感じていました。
孔子「人間にとって、仁とは、この世で、水や火よりも大切なものだ。私は、水に溺れたり、火に焼け死ぬ者を見たことがあるが、いまだかつて、仁を踏んで死んだ者を見たことがない。」
この書物が編纂された頃、日本は、まだ、縄文から弥生へと移り変わる過渡期にありました。まだ、文字もなく、貨幣もなく、国もありませんでした。邪馬台国の女王卑弥呼が生まれるより、700年も昔の話です。
地球規模でみると、紀元前6〜5世紀というのは、人類史上でもまれなほど、文化の興隆した爛熟期で、偉大な精神的指導者が各地に次々と現れた時期です。たとえば、インドでは釈迦が、ギリシャではソクラテスが、バビロン捕囚期のユダヤでは預言者エレミヤが、孔子と同じように弟子たちを教導していました。
それに先立つ紀元前14〜13世紀、文明の最先進地域であるオリエントでは、ヒッタイトの興隆によって鉄器の製造法が広まり、激しい紛争が絶えませんでした。そして、この時代、人類最初の宗教改革者であるゾロアスター(ザラスシュトラ)、イクナアトン(アメンホテプ4世)、モーゼが活躍しました。彼らは、古代の多神教世界に、初めて〝一神教〟が確立されるのに、寄与しました。また、同時期に、インド地域では、アーリア人の侵入(BC18c〜)の後、人種的階級制度であるカーストと、神への賛歌である古ヴェーダ(リグ・ヴェーダ)が成立しました。
この第一次文明爛熟期の後、富の蓄積によって貨幣の使用(BC7世紀〜)が常態化し、貨幣経済が発達し、社会に貧富の格差が生まれ、人心が乱れた紀元前6〜5世紀に、再び人類の優れた精神的指導者が多数輩出したのです。人類史上、第二の宗教改革期であり、最初の思想・哲学興隆期であったと考えられています。
オリエント世界は、アッシリアによる史上初の統一と直後の急速な崩壊(BC7c)の後、アケメネス朝ペルシャによって再統一(BC525)され、光と闇の二元論に立つゾロアスター教が栄えました。インドは、マガダ国、コーサラ国など、十六大国の抗争の時代(BC6〜5c)であり、ジャイナ教やウパニシャッド哲学(バラモン教奥義/梵我一如)が成立しました。中国でも、周王朝が衰えて、春秋戦国時代に突入しており、諸子百家の思想が起こりました。ギリシャ都市国家群も抗争を続けており、その中で、BC6世紀に自然哲学が興りました。
この時期、文明が高度に発達した先進地域だった中東オリエント、ギリシャ、インド、中国において、人々の苦悩のあり方は、現代の社会に生きる人々の悩み、苦しみ、惑いと、ほとんど変わらないものでした。当時、著された「ソクラテスの弁明」「仏教経典」「論語」「エレミヤ書(旧約聖書)」などの書物にある彼らの言葉や対話から、そのことが窺い知れるのです。
ソクラテスもシャカも孔子もエレミヤも、実は難しいことは何も言っていません。極めて当たり前のことを、当たり前に話しているだけです。偉ぶることもなく、聖人ぶることもなく、自然に、わかりやすく、話しているだけなのです。それが、同時代に活躍した、その他の数多の思想家や宗教家たちとの相違点の一つです。
ソクラテスとシャカと孔子に共通する、もう一つの特異な点は、三人とも一切の著作を遺さなかったことです。彼らの言行、人と為りについて、弟子たちが記した書物が、遺っているだけです。三人とも、著作を成すよりも、直接、生身の相手に語りかけること、気張らず、ざっくばらんに、率直に対話することを好んだのです。
けれども、そのように誠実に当たり前に振る舞うということが、簡単なようでいて、実は一番難しいことなのかもしれません。人が聴きづらい本当のことを、正直に話す人は、どこでも嫌われます。彼ら、特に、ソクラテスとエレミアと孔子の三者に関わる、もう一つの共通点は、生涯、世間の無理解と排斥と迫害に苦しんだことです。
というのも、シャカの場合は、曲がりなりにも、王子という恵まれた身分に生まれましたが、他の三人は、生まれた時、何者でもなかったからです。それどころか、ソクラテスと孔子については、貧しく、身寄りのない、社会的に重んじられることの少ない卑しい身分の生まれでした。二人とも、貧困というものを、身を持って知っていました。
さらに、ソクラテスと孔子には、もう一つ、共通点があります。それは、長身の勇猛な戦士(ないしは司令官)として、生身の戦争を、生涯に何度も経験していることです。二人とも、人を殺した経験が豊富で、命のやり取りの生々しい現場を知り尽くしていました。頭でっかちで現実を知らない、ただの、青びょうたんの学者ではなかったのです。
彼らの言葉が、後世の学者に、あまりよく理解されていないのは、そのためです。生身の経験の乏しい優等生ほど、何事も妙に道徳臭く考えてしまい、意味を取り違えてしまいます。ソクラテスの言葉も、孔子の言葉も、せっかくの旨味を感じきれず、深く味わえないとしたら、残念なことです。『論語読みの論語知らず』という諺には、実はそうした「知っているつもり」の頭でっかちで教条主義の人を揶揄する意味もあります。
孔子は、苦労人であると同時に、生涯、芸術を愛した人でもあります。詩を詠じ、音楽をこよなく愛しました。(孔子「人の心は、詩によって芽生え、礼によって形が定まり、楽によって醸成されるものだ」)また、晩年には、人生の指針として、運勢学(易/占い)を学びました。決して、頭の固い、面白味のない人ではなかったということです。
(*春秋戦国時代には、運命を占う「易」が、急速に発達しました。)
さて、「論語」には、本当は、どのような会話が記されているのでしょうか。ここに、その一部を、わかりやすい現代語にして、書き連ねてみました。皆さんは、どう感じられますか。
読む時に、注意して欲しいことは、孔子は、万人一般に語りかけているのではなく、あくまでも、目の前の一人の弟子に話しているということです。弟子の性格や状況を考えて、いま、本人が必要としている言葉を選んでいるのです。
子遊「先生、親孝行って、何でしょうか。」
孔子「そうだね。どうも、最近は、親に衣食住の不自由をさせないことを〝孝行〟と言うようだ。しかし、たいていの人は、犬や馬にだって、衣食住の不自由をさせないし、とても可愛がっている。家畜だって、しっかり養っているではないか。親に対する敬いの心がないなら、犬や馬と、どうやって区別できるだろうか。親も犬も馬も、まったく区別がつかないのじゃないかね。」
孔子「人に〝優しい心〟がなければ、形式的に礼儀作法を気にかけても、何になるだろうか。音楽を演奏し、歌を歌っても、心がこめられていなければ、何になるだろうか。」
弟子「先生、礼の根本は何でしょうか。」
孔子「大事な質問だね。冠婚葬祭は、贅沢せずに質素に行うことだ。何事も、豪勢にやるより、倹約するのが一番だ。葬儀や喪に服す時は、形式的な儀礼にこだわるより、本当に心から悲しんでいるかどうかが大切だ。何事も、見かけよりも中身だからね。」
孔子「さあ、お前に〝知る〟ということを教えよう。自分が知らないことは『知らない』と、知っていることは『知っている』と、素直に言えることが〝知る〟ということだ。」
子路「先生、神を篤く信仰し、神に仕えるには、どうしたらいいのでしょうか。」
孔子「そんなことを私に訊くのかね。この歳になるまで、人間にすらまともに仕えられないのに、どうして神に仕えることまで考えられようか。私には思いも寄らないことだ。」
子路「先生、では、死についてはどう考えますか。」
孔子「何だって。死についてだって。いまだに、生についてすら、考えてもよくわからないのに、どうして死についてなど考えられるだろうか。本当に思いも寄らないことだよ。」
弟子「Aさんは、何事も、三回は深く吟味して、慎重に考え抜いてしか、物事を決断しないのだと訊きました。考え深い立派な方だとは思いませんか。」
孔子「そうかね。二回で十分じゃないかね。」
大臣「先生は、本当に何でもできますよね。やはり、天に選ばれた聖人というのは、何事にも通用する、万能の人なのですね。」
子貢「そうです。先生は、生まれながらにして、天に選ばれた聖人です。その上、本当に多才・多能な方です。」
(孔子は、後で、その話を聞いて、首を振る。)
孔子「いやいや、そういうことじゃないんだ。私が今、何でもできるのは、若い頃、地位も縁故もなく、貧乏だったから、つまらないことでも、何でもやらないと生活できなかったからだよ。必要に迫られて、無理矢理にでも身に付けないといけなかったんだ。聖人は、むしろ、何もできなくても、かまわないんではないかね。」
弟子「またしても、国を追われるのですね。このように流浪の憂き目を見て、いつになっても日の目を見ないで、どこへ行っても冷遇されているのはどうしたことでしょう。私は先生のことを信じてついてきたのに、もし先生に本当に天命があるなら、どうしてこんな困難や災厄にばかり遭うのでしょうか。私は納得が行きません。もう我慢できません。」
孔子「こういう時こそ、人がよく見えると言うよ。信念を持って困苦によく耐える者もいれば、軟弱に弱音を吐く者もいる。天命は、その選別のために、適した時に適した困難を与えてくださるようだね。」
子路「このままでは、敵に囲まれてしまいます。先生、聖人でも、こんな窮地に陥るのでしょうか。」
孔子「もちろん、聖人でも、窮地に陥ることもある。しかし、小人が窮地に陥ると、慌てふためいて、何をしでかすか、わからない。」
孔子「冬の寒さが厳しくなって、初めて、松や柏が、他の木々のようには、寒さによって萎まないのがわかる。そのように、人もまた、苦難にぶつかって、初めて、その真価が問われるものだ。」
(孔子に、「戦車千両を有する国の軍を率いるに足る」と評された武人、弟子の子路との会話)
孔子「この国では、正しい政治が行われず、正しい生き方が重んじられない。そこで、私が筏を浮かべて海に漕ぎ出すとしたら、真っ先についてくるのは、子路、お前を置いて他にいないね。」
(子路は嬉しそうに頷く。)
孔子「確かに、お前は、私以上に勇敢だ。けれども、お前は、筏を組む材料をどこから調達するか、そういうことは、まったく考えていないんじゃないかね。」
(また、孔子は、子路について、その武人らしさを評して、「どうも、畳の上では、死ねそうもないね」と、述べられたことがある。)
孔子「貧乏でも、恨みがましくならずに、静かに余裕を持って居るのは、それほどたやすいことではないよ。それに比べれば、金持ちであっても、人を見下したり、奢り高ぶらないで、謙虚に居るのは、それほど難しいことではない。」
(生涯、赤貧を貫き、貧乏な生活を余裕をもって朗らかに生きることのできた、弟子の顔回を、門下の一番弟子として、孔子は深く愛した。孔子は子貢に尋ねたことがある。「お前と顔回と、どちらが優れているだろうか。」子貢は答えた。「どうして私が顔回と比べられましょうか。顔回は一を聞いて十を知る者です。私はせいぜい一を聞いて、一か二を知るだけです。」孔子は頷いて「そうだねえ、私もお前も、顔回には及ばないね」と言った。また、一方で、孔子は次のように述べたこともある。「顔回は、古代の聖賢に近いが、貧乏で、時に食糧にも事欠くことがある。子貢は、官職に取り立てられていない時でも、金儲けが得意だ。予想したことは、よく当たる。」)
(顔回と子路が、孔子のそばに控えていた。)
孔子「どうだ。それぞれ、自分の目指している理想の生き方について話してみないか。」
子路「できるなら、立派な馬や車、衣服や毛皮を、友と一緒に使って、たとえ、友がこれを破損しても、惜しんで恨んだりしない人間になりたいものです。」
顔回「良い行いをしても、それを誇ることなく、苦労を人に押し付けることのない人間でありたいものです。」
子路「先生のお志も、ぜひお伺いしたいものですね。」
孔子「願わくば、老人の心を安らかにし、友を心から信じ、若者には懐かれ、親しまれる人間でありたいね。」
(後継者と目していた愛弟子顔回の死に臨んで、人目も憚らず、身を揉んで、子どものように泣きじゃくりながら)
孔子「顔回死す。天、我を滅ぼせり。天、我を滅ぼせり。」
(顔回の弔いの後)
弟子「先生、さっきは、まるで赤子のように、身悶えして泣いていらっしゃいましたね。」
孔子「そうだったかね。しかし、顔回のために泣かなかったら、一体いつ泣くのだね。」
(顔回の葬儀について、弟子の子貢との会話)
弟子「先生、葬儀はうちで立派にやりましょうね。棺も一番上等なものでやりますよ。」
孔子「それではあんまり派手じゃないかね。もっと質素にやってくれんか。」
弟子「そんなわけにいきません。」
孔子「ああ、顔回。お前は私を実の親のように思ってくれたのに、私の方はお前を実の子のようにひっそりしめやかに送ってはやれない。でもそれは、私のせいじゃないんだ。私は派手で大袈裟な葬儀などぜんぜん好きではないのに、そうしなければいけないのは、すべて、この分からず屋の弟子たちのせいなんだよ。」
孔子「小人は、メンツを重んじ、自分の顔が潰されることを恥じ恐れ憎む。しかし、君子は、見栄外聞よりも、自分が節度を保ち寛容でいられないことを恥じ恐れ憎む。また、小人は、世間に自分の名が知られず、人に評価されないことに心を痛めて嘆く。しかし、君子は、世間の評判よりも、自分が努力や反省を怠り、日々の進歩がないことに、心を痛めて恥じ入る。」
(小人➡知識ばかり詰め込み、己の立身出世だけを願う、つまらない人間/君子➡真実を重んじ、無私の愛に生きる立派な人)
孔子「志の卑しい、つまらない人間とは、一緒に仕事はできないね。まだ地位や高給を得ていない時には、どうやってこれを得ようかと気を揉み、得てしまうと、今度は失うことを心配する。かりにも、これを失うことになれば、何をしでかすか、わからない。」
孔子「たとえ、詩経の詩三百篇を暗唱できたとしても、政治を任せれば無能で任務を果たせず、諸国に使いに出しても自分の裁量と責任で交渉できないようなら、詩の暗誦が多くても何の役に立つだろうか。何事も、実践が伴わなければ意味がないのだよ。」
(弟子の子貢は、弁舌に長けており、外交能力に優れ、有能な政治家として、諸国にその名が轟いていた。孔子は、子貢の才能の使い方を厳しく戒めたが、同時に、その才能を愛した。孔子は子貢を評して「祭に用いる立派な器のような人物」と述べた。また、子貢は、経済的才覚があり、当時の長者番付に名を連ねるほど、成功した資産家となった。)
子貢「一生行うべき大切なことを、一言で言うと、何でしょうか。」
孔子「それは、〝恕〟だろうか。自分がされたくないことを、人に押し付けないことだ。」
孔子「何か一つ、一生かけて貫きたいと考えている、一番大切に思っていることを訊こう。」
弟子「はい、私は、自分がして欲しくないことを、人に対して決してしないようにしたいと思います。」
孔子「そうか。それは、今のお前には、到底できることではないね。」
子貢「私は、人に無理難題を押し付けられるのが嫌いなので、私も、人に無理難題を押し付けないようにしたいと思います。」
孔子「子貢よ、それは、今のお前の実力の及ぶところではないね。」
(さらに、子貢は独り言う)
「先生の詩書礼楽についての教えや、政治の諸制度についての教えは、いつでも容易に理解できるが、人の本性や宇宙の真理についての教えは、理解することが本当に難しい。」
子貢「先生、お訊きしますが、国にとって欠くことのできない最も大切なものを三つ挙げるとしたら、何を挙げますか。」
孔子「軍隊と食糧と信頼だろうな。」
子貢「その三つのうち、一つを省くとしたら、何を取り去りますか。」
孔子「軍隊だね。」
子貢「では、残った食糧と信頼の二つのうち、一つを省くとしたら、何を取り去りますか。」
孔子「その場合は食糧を省く。食べ物があろうとなかろうと、人は誰しも、いずれは死ぬのだよ。だが、信頼がなければ国や社会は成り立たない。」
孔子「真に偉大な指導者でなくとも、一生懸命に民を導こうとする人ならば、七年も時間をかけて教えれば、身を捨てて戦いに赴かせることができる。何のために戦うか、何に命をかけるのか、何をどうやって守るのか、教えることもなく戦わせるのは、民を捨てるのと同じだ。」
孔子「腹一杯食べては寝て、一日中、ボケらっと意味もなく怠惰に過ごして、何一つ心を働かせることをしないようでは、生きていると言えるのかね。それぐらいなら、いっそのことパチンコでも賭博でも、やったらどうだね。何かギャンブルにでも熱中していた方が、(熱狂と破滅の淵に生きているという分だけ)まだマシじゃないかね。」
孔子「昔の民謡に、思い焦がれても、遠くて行くことができない、という歌があるが、それは、まだ、本当には深く思っていないのだ。もしも、心底、思っているなら、何を遠いことがあるだろうか。」
孔子「私はいまだに、恋愛に熱中するように、恋人の愛を求めるように、色事に耽溺するように、熱烈に人生の真実の道を求める人を見たことがない。」
(魯の君主哀公が、孔子に尋ねた。)
哀公「弟子の中で、誰が本当に学を好みますか。」
孔子「顔回という者がおりました。学を好みました。怒りを持て余して人にあたることがなく、過ちを決して繰り返すことがありませんでした。しかし、不幸にして短命でした。今はもう、この世におりません。それ以来、学を好むものは、いないようです。」
(晩年の孔子より45歳以上年少の二人の若い弟子たち、子張と子夏を、孔子が評した。)
子貢「子張と子夏と、どちらが優っているでしょうか。」
孔子「子張は、やり過ぎるし、子夏は、やり足りない。」
子貢「では、子張の方が、優っているのでしょうか。」
孔子「過ぎたる(子張)は猶及ばざる(子夏)が如し」
(才気が走り過ぎて、やり過ぎてしまうのも、一歩及ばず到達しない者と同様に、少し考えものなのだ。)
子張は才気煥発で、意気軒昂、自信家で行動力のある堂々たる若者だったようです。一方で、子夏は、どこかのんびりした鷹揚な性格で、少々引っ込み思案なところがあったのかもしれません。ただ、子夏の方が、人には好かれたようです。
(孔子が大病をした時、子路は、若い弟子たちを、孔子の家臣とする手筈を整え、葬儀に備えた。幸い、病が小康を得て、回復に向かいつつある時、孔子は子路に言った。)
孔子「子路よ、お前が、私を騙そうとして、久しいようだ。家臣がいないのに、いるように装うとは、私はいったい誰を騙すのだ。天を欺くのか。私は、その家臣の手によって死ぬより、お前たちの中で死にたい。それに、たとえ盛大で立派な葬儀ができなくとも、よもや、私が路上で野垂れ死ぬことはあるまい。(お前たちが、いるのだから。)」
孔子年表(BC552-BC479)
70歳の大夫の父と16歳の身分の低い巫女の母との間で、庶子として生まれる。
3歳で父を喪う(戦死)。母子で別の街に移り住み、貧苦の中、葬儀巫女の家業で、女手一つで育てられる。
15歳で、学問を修めることを志す。(十五にして学を志す)以後、14年間、苦学す。身の丈、190cmの巨躯に成長する。
17歳で母を失い孤児となる。母、享年34歳。
19歳で結婚し、翌年、子の鯉(り)が生まれる。生活は困窮したが、学問の志を失わず、努力を続けたものと思われる。
28歳で、魯の国の官吏として仕官する。その後、持ち前の才能を発揮し、次第に出世する。(三十にして立つ)
35歳で、初めて弟子をとる。
36歳で、専横する家臣を倒そうとした君主のクーデターに失敗し、斉へ亡命する。
この頃、斉の古典音楽(韶/伝舜作曲)の演奏を聴いて、三ヶ月もの間、好きな肉の味もわからないほど感動する。「音楽が、これほど素晴らしいものになりうるとは思わなかった。」また、素晴らしい歌い手には、必ず、もう一度、歌ってもらい、自分も声を合わせて歌った。
38歳で、斉の景公に召し抱えられて仕官する寸前に、斉内部の諸官の反対で実現しなかった。孔子は、失意のうちに、斉を去り、魯に戻る。
しかし、魯でも、長く仕官せず、この時期、顔回、子貢など、多くの弟子をとり、14年間、教育に専念(四十にして惑わず)する。しかし、その間にも、魯の政治の堕落を憂い、一度はクーデターに加わろうとしたこともある。また、この頃、周代の歌謡311編を、「詩経」に編纂したと言われる。
50歳で、易学(占い)を修める。「あと数年して、50歳になるまでに易を学べば、人生において、大きな過ちはしないですむようになるだろう。(五十にして天命を知る)」
52歳で、魯の国の中都の知事となる。
53歳で、斉との和議の席上で、歌舞団による魯の主君暗殺の陰謀を未然に防ぎ、その功をもって、最高裁長官となる。「外交交渉で、軍備を引き連れないのは、もってのほか」との進言が有名。
56歳で、家臣の専横を防ぐため、魯の軍を指揮して進軍したが、裏切りで失敗し、目的を果たせなかった。官を辞して、弟子たちと諸国巡遊の旅に出る。
以後、14年間、安住の地を求めて諸国を巡る。この間、一行は、何度か、襲撃、命懸けの戦闘をくぐり抜ける。
旅の途中、ある襲撃を受けた時、逃走の途中で、顔回が遅れて追いついた。孔子は喜んで、「回よ、お前は、もう死んでしまったと思っていた」と言った。顔回は「先生が、いらっしゃるのに、どうして私が死ねましょうか」と答えた。
しかし、どこの国に赴いても、結局は仕官することなく、安住の地を見出せなかった。
あるところで、二人の隠者が、畑にいた。そこを馬車で通りかかった孔子は、子路に渡し場を尋ねさせた。
まず一人が、「あの馬車で手綱を持っているのは誰かな」と訊いてきた。子路は「孔丘です」と答えた。「あの魯の孔丘かな?」「そうです。」「それなら、渡し場ぐらい知っている筈だ」と言って、教えてくれなかった。
そこで子路は、もう一人に尋ねた。すると「あなたは誰かな」と訊いてきた。子路は「宙由です」と答えた。「魯の孔丘の弟子かな?」「そうです。」男は「大河が滔滔と流れて、とどまることがないように、世の中も皆そうだ。そうして、あの男は、いったい誰と一緒に、この世の中を変えようというのか。そんな相手が見つかる訳はない。それで、お前さんは、その、人を選り好みして、結局は、すべての人を避けるような男と一緒にいるよりは、世の中すべてを避ける者(隠者)に従った方が良くはないかな。」と言って、種の土をかけるのをやめなかった。
子路は、戻って孔子に伝えた。孔子はガッカリして言った。「鳥や獣とは、一緒に生きることはできない。私は、この世の中の人と一緒に生きないで、誰と一緒に生きようか。天下に道が行われているなら、私は誰かと、世の中を変えたいなどと思うだろうか。」
69歳で、失意のうちに魯の国に帰国する。この年、子の鯉が50歳で死す。
70歳で、君主を殺した大夫が専横する隣国の斉を討つために進軍するよう、四度哀公に進言するも聞き入れられなかった。孔子は「いやしくも、大夫の末席にいる以上、受け入れられないとわかっていても、正しいと信ずることは、進言せざるを得なかった」と述べている。
72歳の時、最愛の弟子顔回が、赤貧の中で死す。享年41歳。長年、書き綴ってきた魯の歴史書『春秋』を絶筆する。
73歳の時、最大の理解者である弟子子路が、謀反に際して、衛の主君を守って殺される。享年64歳。
74歳で、孔子は失意の中、他界す。死後、子貢ら、弟子たちの手で、生前の孔子の言葉をまとめた『論語』が編纂される。弟子たちは、三年墓のそばで喪に服したが、子貢は、六年孔子の墓を離れなかった。
孔子の言葉で、もっとも重要かつ難解なのは、学、道、仁という言葉です。学とは、仁を求めることであり、道とは、仁に至る生き方です。
孔子は、生涯、「彼こそは仁者だ」と、自分を含めて、生きている人を評することは、一度もありませんでした。「道を得た」と述べたこともありません。道とは、仁とは、それほどに奥深いものだということでしょう。
孔子にとって、仁とは、女手一つで自分を育て上げ、若くして貧苦の中で死んだ母の愛にほかなりません。孔子は、生涯、その母の無償の愛に及ばない自分の心を見つめ、深い喜びを持って無私の愛に生きる道を求め続けたのでしょう。
ひるがえって、今日の社会において、現代的な「学問」とは、立身出世の手段に過ぎず、道とは社会的成功へと続く「出世街道(サクセスロード)」のことです。孔子の考える仁は、人の生きる糧とは考えられていません。「人のために生きることを、自ら生きる糧とし、生きる活力を汲み出す尽きせぬ喜びの源とする」という生き方は、多くの人にとって無縁のものとなりつつあるようです。
しかし、孔子にとっては、たとえどれほど社会的に成功しようと、富や権力を得ようと、心に仁を育てることに関心がないなら、そのような生き方には、何の意味もないと感じていました。
孔子「人間にとって、仁とは、この世で、水や火よりも大切なものだ。私は、水に溺れたり、火に焼け死ぬ者を見たことがあるが、いまだかつて、仁を踏んで死んだ者を見たことがない。」