『現実のありのままの世界を受け入れないこと』は、現代文明に顕著な特徴です。現実改変の意志こそが、19世紀以降、科学技術や人類社会の進歩や発展に欠かすことのできない、文明の原動力と考えられてきました。それどころか、夢を育み実現していくことは、豊かな人生をおくるために不可欠の要素とさえ考えられています。ですから、たとえば、自然に徹底して人間の手を加えるイングリッシュ・ガーデンの庭づくりも、驚異の人工世界を作り上げるディズニーランドのビジネスも、現代人の心を惹きつけてやまないのです。
「夢を持とう!」とか「夢を生きよう!」とか「夢を現実に!」とか、〝夢〟に関するフレーズは、100%肯定的な意味で使われ、巷の至るところでもてはやされています。スピリチュアル・カウンセリングでも、自己啓発セミナーでも、「夢を思い描き、それに向かって生きましょう」と、必ず言われるでしょう。それが実は落とし穴なのです。
誰も言わないことですが、こうした「空想世界の現実化」「あるがままの自然な現実の拒絶」は、決してマイナスの要素がないわけではないのです。たとえば、目の前の現実を厭うあまり、夢見ることが我執へと変質していき、脳内イメージの現実化だけに執着するようになると、深刻な問題がいくつか生じてきます。
一つには、脳内や周囲の環境に構築していく擬似世界の幻想を、都合よく真実の世界と信じ込むようになってしまうことです。「目の前の気に入らない現実は受け入れずに拒絶して、心地良い夢(実は妄想)の中にいると思い込もうとする」ということが起こってくるわけです。
他人に何と言われても平気な人がいます。自我意識内部のファンタジー世界では、本人は非の打ちどころがなく完璧であり、その思いや行動は常に正当です。だから「悪や忌まわしいものは、いつも外からやってくる」ということになります。ですから何か問題が生じても、自分はどこまでも正しく、悪いのは居心地の良い空気をかき乱した周囲の誰かなのです。そして、悪者になって逆恨みされる誰かとは、その人の妄想に付き合わず、客観的で的確な批判をする人です。
こうした自己への盲信は、特殊な宗教カルトだけでなく、一般の家庭や企業や学校や友人関係などでも、しばしば起こるものです。さまざまな場で、個人や集団のファンタジーが、現実を徐々に侵食していきます。そして、共同幻想の影響力が支配的になった場では、その妄想に付き合えない人間は、身近な人であっても、その場から排除されるのです。韓国でニューライトと呼ばれる学者の方々の境遇など、まさに典型的な例と言えます。国をあげての慰安婦刷り込み教育に異議を申し立てる人は、ことごとく社会的に抹殺されるのです。
中国人、韓国人に広まりつつある「日本が攻めてくる!」という妄想にしてもそうです。このままでは、いずれは理性的な中国人・韓国人が「日本が攻めてくるわけがないだろう」と言えない状況が生じてくるのではないでしょうか。
ですから病的な仮想空間で、支配的な力を振るう人物に排除・抹殺されたくなければ、不本意であっても、自分のものではない妄想ファンタジーに、なんとかして付き合っていくしかありません。しかし、その結果、『ありのままの自分自身で、現実を生きること』を諦めるように強いられ、時には無理がたたって寿命を縮める人もいるのです。わかりやすい例で言えば、ブラック企業に過労死を強いられる新入社員などもそうでしょう。

夢は本来、その人の実存と深い関わりがあるものです。夢を見ることは、真に自分自身を生きることにつながります。しかし、妄想は、主に我欲や執着まつわる空想なのです。そうした妄執を生きることは、肥大する自我を現実に投射することにほかなりません。
脳内妄想の中で生きる人は、他者に対して冷たいものです。たとえそれが親兄弟などの肉親でも、伴侶でも、我が子でも、ひとたび自分の創造しようとしている仮想空間を揺るがし崩す存在、かき乱し破る存在となった時には、決して容赦しません。己の野望(あるいは居心地のいい空間)の障害になりそうな存在は、すべて殲滅すべき敵となります。
普段は内向的で柔和そうで、物静かに見えていたとしても、そういう邪魔な相手に対しては、突如態度が豹変し、徹底して強気で攻撃的になれるのです。そして、自らの生活空間から、その存在を無慈悲に締め出し、完全に遮断し、冷酷に消し去ろうとします。
一見大人しく、普段は柔らかい態度で物静かにしている人が、些細なことで突如豹変し、激しく逆ギレして、周囲の人が呆気にとられるということがあります。些細ではあっても、当人の妄想を邪魔する何かに対して、過激に反応して牙を剥いたのです。表面上は受容的に見えるのですが、実はものすごく自己愛が強いのです。
本人の空想が、現実的な野心や願望と結びついている場合には、とりわけその攻撃衝動が強くなります。「誰にも、私のゆく道を邪魔させない!」というわけです。
彼らには、他人をありのままの姿で愛することはできません。実は根っからの人間嫌いなのです。愛することができるのは、自分の頭の中にある架空の世界の住人だけです。そして、その思い込みの脳内世界に収まらない現実は、すべて必要のないもの、余計なもの、邪魔なもの、消去すべきものとなります。
それが彼らにとっては〝自分のスタイル〟〝効率的な生き方〟なのです。そして、あくまでも自己本位の勝手な理屈で「私の生き方の邪魔をする人は許せない!」と、自分を煩わせる相手を激しく憎み始めるのです。
例えば、自分の社会的外聞に傷をつけた相手には、たとえ身内であっても「人(わたし)に迷惑ばかりかけて、あなたに何の生きている価値があるの!」と、無慈悲に徹底的に追い詰めて、胸に痛みを感じません。たとえ、それで相手が自殺したとしても、彼らは良心の呵責に苦しむことはありません。自分にとって邪魔な存在を排除できたことで、むしろ「厄介な問題が片付いて、ようやく安心して眠れる」と、大いに喜ぶでしょう。
東日本大震災で、東北の沿岸の都市が津波に飲み込まれた時、その驚愕の悲劇的映像をテレビで見ていながら、韓国各地のいたるところで「おめでとう!」「お祝いします!」「当然の天罰だ!」の大合唱がおこったのがいい例です。
あるいは、自分のコントロールに従わなかった愚かな存在が、勝手に死んだだけのことです。かえって、「これ見よがしに死んで見せるなんて、本当にあてつけがましい!」と、不愉快になるかもしれません。
いずれにしても、「一つの命ある存在(肉親や伴侶や友人など)が、自分と関わったために(自分のせいで)死んでしまった」という罪悪感は一切生じません。そういう意味では、彼らは生身の現実を生きてはいないのです。


彼らの脳内イメージの現実化は、日常の隅々にまで、本当に多岐に渡ります。衣服、持ち物、家、庭造り、趣味、ライフスタイル、仕事、子育て、友人関係、親族、伴侶、価値観、人生観、信念、信仰など、実生活のあらゆる要素を、徹底的に差別化し、いらないものは切り捨て、残った部分は自分が心地よいと感じる仮想ファンタジー世界へと再構築していきます。
家具や衣服やアクセサリーに不必要にお金をかけるのも、親の面倒を見ずに施設に入れてしまうのも、子どもを塾や私立の学校に入れるのも、付き合う友人を選ぶのも、美容・整形やフィットネスにお金をかけ、自分の見栄えを良くすることに努力を傾けるのも、好きでもない習い事に熱中するのも、すべては同じ目的の一部です。あくまでも自分だけを中心に据えた、人工的演劇世界の〝創造〟のためなら、どんな労力も惜しみません。
そして、その成果は、時として、めざましいものがあります。彼らの多くは、空想を現実化していく意欲と才能に溢れているのです。たゆまない努力、演出や策略への情熱によって、ある程度は名声を勝ち得、地位や権力やお金もそこそこ得られるでしょう。
もともと〝夢(野望)の実現〟のためなら、その他のことは一切どうでもよく、すべてを犠牲にして悔いはないのです。彼らにとって「人生の成功とは、夢を実現すること」だからです。そして、現代に特有の〝Dreams come true〟を至上とする価値観に一身を委ね、目的意志に純化した形でストイックに専心する人生をおくるのです。その徹底した功利主義的信念の揺るぎなさから、学者、芸術家、政治家、実業家として、それなりに一応の成功を収めるかもしれません。
気に入らないものすべてを排除して、自分一人だけの夢(野望)を実現し、その成果に誇らしげで、「私は人生の勝ち組だ」と、いつも愉悦の笑みをうかべています。元来の比較・差別意識の強さから、何らかの形で〝世間の勝ち組〟にならなければ、絶対に気が済まないのです。本当に勝気です。
そして、その自信に満ちた顔で、「私は、一貫して、人との絆、信頼関係を、大切にして生きてきました」と言います。それから感慨深げに、「それなのに、恩知らずで心ない人々に、私はいつも裏切られ、犠牲になってきました」と溜息をつき、「おかげでずいぶん苦労をしたわ」と、うっすらと涙を流すのです。
しかし本当は、もともと他人に興味などないのです。単に自分の野望実現のために、まだ利用価値のある必要な相手には、造りモノの笑顔と見せかけの親身な態度で応対するだけです。そして、心の奥底では、誰も愛さず、自分の内なる〝空想世界〟だけを愛しているのです。
たとえ、一時的に他人に同情したとしても、それは強い自己愛の裏返しであり、自分の感情を勝手に相手に投射しながら、「わたしは相手のことを、こんなに深く思っている」と都合良く思い込んでいるに過ぎません。そして、家族や友人など身近な人々を、自分の架空のイメージの枠にがっちり固定してしまい、ますます肥大する妄想の餌食として、周囲の他人の人生や命までも呑み込んでいきます。

人生経験が、人格を円熟させ、寛容にするなどということは、まったく期待できません。なぜなら、自分以外の生身の人生・人間に関心がないからです。それで、深い悲しみを知ることで、他人に優しくなるということもないのです。彼らに特有の利己的な悲しみは、常に激しい恨みに変わりやすく、一度恨みに転ずると、どこまでも執念深く、人を許すということを知りません。
運命の恵みや周囲からの愛情に感謝することも、一切ありません。これまでの成功は、すべて、自分の力(お金・権力・策略・駆引・努力)で成し遂げてきたことと考えている上に、どんな成果にも心の底から満足することはないからです。心の奥底には、何か得体のしれない巨大なコンプレックスの化け物が潜んでいるのに違いありません。
彼らが、よく人に裏切られるのは、本人自身が人を信じていないためです。そして、繰り返される失意が、ますます彼らを孤独に追い込み、もともと乏しかった潤いのある情感を奪い去っていきます。年月は、干からびた精神をいよいよ頑なにさせ、見せかけだけの空虚な情愛の演技に磨きをかけさせ、冷徹な抜け目なさや策略も研ぎ澄まされていきます。そして、ついには、誰も対抗できないような、恐るべきサイコ・モンスターに育っていくのです。
中には、愛や怒りや哀しみや喜びといった豊かな感情表現に、とても長けている演技者もいます。けれども、良心と真心が完全に欠落しており、時折表出されるむき出しの感情は、あまりにも身勝手で自己中心的で幼児的です。ですから、普段見せている柔らかい表情や、丁寧で共感的な受け答えは、すべて中身の伴わない〝お芝居〟だとわかるのです。痛いところを突かれて、化けの皮が剥がれた時の豹変ぶりで、真実の醜い心が窺い知れます。
あなたの隣にも、現実を受け入れることを拒絶し、自分の身勝手な妄想世界を守るために、手段を選ばず徹底して他者に残忍になれる人々がいるはずです。ニッコリと満面の笑顔で相手を拒絶し、冷酷に他人をコントロールすることができる人々です。
その人は、同僚や友人かもしれないし、上司や先生かもしれません。あるいは、人生のパートナーである伴侶や、血をわけた親兄弟かもしれません。たとえどんなに身近な人であっても、自分が頼りとしている人であっても、彼らに心を支配させてはならないのです。自分のかけがえのない人生を失いたくなければ。
大切なことは、あなた自身が、真の意味で「夢を生きる」ということです。逆説的に聞こえるかもしれませんが、夢を生きる人だけが、他人の妄想の世界を見抜き、その影響・干渉を完全に拒絶することができるのです。そして、夢を生きるというのは、本当に好きなことをするということです。誰も見ていなくても、誰にも知られなくても、評価されなくても、ただ夢中になれること。それが、あなたの本当に好きなことです。それを大切に生きてください。


同時に、あなた自身の内なる性向にも気をつけてください。内的な心地よさ(妄想)を、自らの神として、絶対的な価値をおいて生きてはなりません。あなたの強引さや身勝手さや頑なさは、時に人を傷つけるでしょう。
都合よく改変された架空現実の中で生きるなら、その弛まない努力も、独創性あふれる創造も、何のためにもならず、誰も幸せにはできないのです。あなたは、すり替えられた夢(妄想の世界)を生きているのであって、本当の意味で夢(真実の自分)を生きているわけではないのです。そのことに気づかなければ、あなたは周囲に対して暴君となり、長い目で見て人生は無残なものになるでしょう。
それどころか、負の連鎖は、子や孫へと連綿と続いていきます。あなたが他人を支配したように、そして必要のない存在を拒絶したように、あなたの子孫はもっと直接的なかたちで、それをするようになるでしょう。また、あなた以上に、もっとあからさまに〝ファンタジーの中に生きる〟ようになります。むやみに新興宗教にのめり込む人も出てくるはずです。
「自分一人の心の内で、何を考えていようと、他人には関係ない」などと安易に思わないことです。「親の〝因果(業)〟が、子に報いる」ということもあるのです。
その破壊的な影響は、もちろん自分自身にもふりかかってきます。「一人の人間が脳内で構築した緻密な妄想が、個人の精神世界を越えて、現実の世界に浸み出していく」というイメージを描いた悪夢のような近未来小説があります。鬼才フィリップ・K・ディックが1974年に発表した「流れよ我が涙、と警官は言った」というSF小説です。
この作品の影の主人公バックマン警察本部長の双子の妹であり恋人でもあるアリスは、自分の空想を現実世界に干渉させる強力な薬物を使用し、その結果、脳に強烈な過剰負荷がかかって、一瞬のうちに頭部が吹き飛んでしまいます。自我肥大による現実改変の末路について語られた、実に暗示的な小説です。
ディックにとって、この「妄想が現実に干渉する、あるいは取って代わる」というテーマは、非常に重要だったようで、この作品の他にも他の多くの作品の中で、繰り返しこのテーマが語られています。例えば「パーマー・エルドリッチの三つの聖痕」や「宇宙の眼」なども同系統の作品と言えるでしょう。
そして、いずれの作品においても、個人の妄想が現実化した世界というのは、生命が幻想に支配される究極の悪夢でしかないのです。そこには、生身の人間同士に通い合うはずの共感と情愛が欠けており、他者の痛みに向けられた想像力が働く余地がありません。

そんな情愛薄く共感の欠如したさびしい家庭で、自分の夢(我執)だけを愛する情の薄い母親の庇護下に育った子どもが、自分の夢(真の意味での)を鮮やかに思い描く能力を持ち得なかったとしても、驚くにはあたらないのです。生きる喜びが感じられず、具体的な人生の目標すらたてられないとしても、極めて当然のことと言えましょう。と言うのも、そういう子どもは、〝夢を持つこと〟そのものに、根深い拒絶反応を示しているからです。
「夢」にもいろいろあります。周りを明るく照らし、みんなを幸せにする夢もあります。本来、夢とは、想像力の助けを借りて自我(と我欲)を超越し、自己と永遠を結びつけるものなのです。夢見ることは、全き自分を生きることであり、過去と未来を見通すことです。
けれども、あくまでも卑小な自我意識に執着し、結果と成果と評価のみに固執し、自己愛の権化となって、周囲の人を利用し尽くし、ついには喰い殺してしまう、無慈悲で強欲な夢もあります。このすり替えられた夢(妄想)は、内なる自分と結びつくよりも、むしろ物質的な執着に強く結びつきます。
例えば、我が子に「世間に自慢できる高校に入って欲しい。」「海外に留学させて箔をつけさせたい。」「医者にあらずんば人にあらず。」と願う親たちがいます。それは、子の幸せを願っているようで、どこか自己本位です。そんな親の欲や競争心としての〝夢(執着・野望)〟に、幼い頃から晒されている子どもが、〝真に夢見ること〟に拒絶反応を示すのは当たり前です。
勝気な親の利己的な夢の正体を、子どもたちは自我の肥大化と捉えています。その巨大化した自我の妖怪(親の願望・執着)が、今にも自分を飲み込もうとしていると、子どもは感じるのです。ある種の妄想は本当に人を食い殺します。ですから、その感覚は的を得ているのです。
人の子の親として、どうせ夢を見るのなら、人を慰め、人を生かす、瑞々しい夢を見て欲しいと思います。そうでなければ、夢見ることを知らない(あるいは拒絶する)子どもが、ますます増えるばかりです。
それから、「親を悲しませて!」とか「あなたのためを思って言っているのよ!」という言葉が、子どもに罪悪感を与えて支配を強めるためだけに、日常的に家庭で使われるのも、真の情愛を知らない可哀想な子どもたちを、いたずらに苦しめ惑わせています。そういう孤独な子どもは、いずれは親を見限って思い立ち、真実の愛を掴むために、安住の地を求めて長い旅をすることになるでしょう。
結局、自分の執着からも、他者の執着からも自由であること、そして、本来の意味で「夢を生きる」こと、それがありのままの自然なあなた自身であるための第一条件なのです。また、それは〝本当の幸せ〟を見つけるための第一歩でもあります。ずっと探し求めてきた安住の地は、きっとその向こうに見つかるはずです。


『チェコには、こういう予言があります。お母さんが子どもたちを、子どもがお母さんを、お父さんが息子を、息子がお父さんを、兄弟が兄弟を理解できなくなり、言葉や約束が何の役にも立たなくなった時、その国は滅びるのです。国というのは、お母さんのようなものです。お前たちが大きくなった時、子供がお母さんを愛するように、この国を愛し、この国に尽くしておくれ。そうすれば、この恐ろしい予言が実現しないですむだろう。』
(「おばあさん」ニェムツォヴァー作/1856)
しかし、そもそも母親が子どもを愛さず、子どもが親を愛することを知らないこの国で、一体誰がどうやって、国を愛することを教えられるでしょう。如何にして、国が滅びるのを防ぐことができるでしょう。わたしたちは、まだ間に合うのでしょうか。