北海道の南東地域を「道南」と言いますが、その道南の太平洋側の沿岸部の西側を、「胆振地方(*)」といいます。その胆振地方にあって、北海道を代表する港湾都市である「苫小牧市」と、これまた、北海道を代表する温泉として有名な「登別温泉」のある「登別市」とに挟まれて、昔からアイヌ人が多く住む「白老町」があります。そして、その白老町の中心から、さほど遠くないところにあるポロト湖の湖畔に、アイヌ民族博物館を含む〝アイヌ文化村〟ポロトコタンがあります。
この文化村は、昔から近隣にあったアイヌ集落から、昭和40年代に、住居などを湖畔に移設してつくられた復元集落です。なので、実際に、ここでアイヌの人々の生活が営まれたことはありません。アイヌの人々も、今では皆、白老の街の中で暮らしています。
ですから、続縄文文化に起源を持つ、昔ながらの伝統的な生活を営むアイヌ人は、今はどこにもいないのです。けれども、この復元された集落ポロトコタンが、北海道を代表するアイヌ文化のシンボルの一つ(**)であることは、間違いありません。
コタンと言うのは、アイヌ語で集落・村落という意味の言葉です。ですから、ポロトコタンは、ポロト湖畔の集落(正確には「大きな沼のある村」)という意味になります。しかし、集落とは言っても、上記したように、今は実際に人が住んでいるわけではありません。実際にコタンの中に住んでいるのは、大きな檻の中で飼われている熊と北海道犬だけです。人間は誰もここで生活を営んではいないのです。
ですから、このコタンで、昼間の間、時間を過ごしているアイヌの人々は、白老の町から通っています。コタンの中には、合掌造りの茅葺の大きな建物(チセ)が六棟並んで建っていて、それらのチセの内部では、伝統的なアイヌの生活の様子がわかるように、地元のアイヌの人々がいろいろな作業をしてみせているのです。
チセの中は、とても天井が高く、広々としています。囲炉裏が二つも備えてあって、片方には生木を燻らせ、天井にはシャケがたくさん吊るされています。暖をとりながら、自然と燻製ができるようにしてあるわけです。このヤニを含んだ煙が、白川郷と一緒で、家を腐敗や腐食から守ってもいるのです。
もう一方の囲炉裏は炭火です。五月とはいえ、周囲の山裾はまだまだ真っ白で、雪がたくさん残っています。天気はあいにく霧雨で、気温はなんと6度と、沖縄からきたわたしたちにとっては、真冬以上の寒さです。
コタン唯一のカフェ兼軽食堂では、オイルストーブが燃えていて、地元の店員さんでさえも「五月にしては、今日は寒い」と言っています。あったまりたくて、クルミの粉の入ったうどんを食べました。あっさりしていて、なかなか美味しかったです。隣の中国人の若いカップルは、シャケの入った水煮のようなものを食べていました。どちらも、アイヌの伝統料理だそうです。
コタンにくる観光客のお客さんは、日本人より中国人の方が多くて、そこは沖縄と一緒です。特に大型バスでやってくる団体客は、皆、中国からのようでした。
博物館とコタンは隣接して建っています。博物館の建物の中の売店の女性は、白老生まれの白老育ちで、旦那さんは白老漁港の漁師さんだったそうです。「わたしはアイヌじゃなくて和人なんです」という言い方が新鮮でした。「自分は〝和人〟です」という言い方を、生まれて初めて聞きました。沖縄なら「自分は内地人(ないちゃー)です」というところです。
ポロトコタンでは、内部が劇場型になっている建物で、一日に五回ほど、アイヌの民族舞踊や民族音楽を見せてくれます。口につけて鳴らす不思議な楽器「ムックリ」の演奏や、赤児を背負っての子守唄や、輪になっての演舞(リムセ)など、どれも興味深くなぜか懐かしく感じるものが多かったです。
子守唄での「ルルルルル」と喉を鳴らして出す音は、エチオピアの女性もよく踊る時に出す音に似ています。輪になっての演舞は、宮古島の演舞「クイチャー」に似ています。民謡の歌声は、本当に心に響くものでした。
2010年に甲子園で春夏連覇した沖縄興南高校の我喜屋監督は、一時期、白老の製紙工場の野球部の監督をしていたそうです。その縁で、興南高校の生徒は毎年修学旅行でポロトコタンに見学にくるのだと聞きました。その我喜屋監督の知人というアイヌの職員の方と、じっくり話すことができました。気持ちを落ち着かせてくれる深い声で、穏やかにゆっくりと話す人でした。
アイヌの集落では、木の皮を薄く割いた紐を束にしたもの(イナウ)を、たくさんチセの中に吊るしているのですが、それは「神様の守り」を意味するそうです。アイヌの人たちと話していて、とてもしっくりきたのは、先祖崇拝の伝統を大切にしているところと、神様への信仰心を守り続けている生き方(アイヌプリ)です。
アイヌの人たちは、宮古島の人たちに似ていて、初対面でも古くからの友だちのように、親しみ深く気兼ねのない自然な調子で接してくれます。その振る舞い方から、内なる精神世界の根底に、人間への信頼を宿していることを感じさせます。この何とも言えず〝しっくりくる感じ〟は、理屈ではないのです。どう説明していいかわかりません。けれども、一つ言えることは、北海道で出会った誰よりも、ここのアイヌの人たちに、親近感を感じたということ、それだけは確かです。
アイヌには、コロボックルがいて、沖縄にはキジムナーがいます。コロボックルはかわいいけど、キジムナーはかわいくありませんが、どちらも〝小さい人〟です。こうした〝小さきものへの信仰〟は、この国の古神道の源流につながる信仰のあり方だと思うのです。
また、沖縄に「ヒヌカン(火の神)」の信仰があるように、アイヌの人々の間でも火のカムイは一番身近な神様だそうです。そのあたりも、沖縄とアイヌには共通点がある(***)ように思います。
「最近は、特に若い人たちの間では、伝統的な信仰や先祖への敬いの気持ちが、どんどん薄れてきています。けれども、わたしたちは、先祖から受け継いだ伝統的な価値観を、これからも大切に守って生きていきます。」
「ただ、どんなに昔の風習や生活のあり方を、標本や単なる記録ではなく生きた状態で保存し、後世に伝えたいと思っても、こうしたコタンを維持運営していくのは、とてもお金がかかります。結局のところ、誰だって実社会で生活していかなければならない。経済的に立ちゆかなくなれば、コタンを解散するしかないのです。」
そう語られた館長さんの言葉がとても印象的でした。
1980年代まで、世界的に見ても、少数民族への差別意識は、非常に根深いものがありました。インディアンは西部劇の悪者でした。北海道でも「アイヌ人は臭い」と言われて、忌み嫌われていました。その頃のポロトコタンは、陰気な場末の見世物小屋のようでした。
しかし、1990年代以降、事情は一変しました。北海道旧土人保護法(1899~1997)はアイヌ文化振興法(1997~)になり、沖縄では「世界少数民族会議」が開かれました。沖縄の音楽が日本中で聴かれるようになり、アイヌの民族音楽のCDも制作されるようになりました。
アメリカでも、エスキモーはイヌイット、インディアンはネイティブ・アメリカンと呼ばれるようになり、「ダンス・ウィズ・ウルブズ(1990)」がアカデミー作品賞を受賞し、ディズニーが「ポカホンタス(1995)」を制作してヒットさせました。ハワイでも、ケアリイ・レイシェルのハワイ語の歌がCD化され、世界的にヒットするようになりました。
多くの教養深い白人たちが、アボリジニーの世界観に興味を惹かれ、ネイティブ・アメリカンの知恵に心の救いを見出すようになりました。ハワイのカフナの秘法や、沖縄の古神道の伝統も、注目を受けるようになってきました。
それでも、今回の旅で、わたしは一つの確信をもつようになりました。おそらく、多くの一般的な〝普通の日本人〟は、アイヌの人たちにまったく興味がないのです。これまでも、そして、これからも。ですから彼らは、アイヌの人々の培ってきた伝統的な価値観の素晴らしさと、その生活のあり方の真の意味での尊さに、永遠に気づくことはないでしょう。
今日の社会では、〝和人〟の心から、信仰心は薄れていく一方です。それは本当に寂しく哀しいことですが、残念ながら、わたしにはどうすることもできません。事態の深刻さは、沖縄とて同じです。生きることも、死ぬことも、どんどん軽くなっていく時代です。
アイヌの人たちと話ができたことで、どんなに心が救われたか、わたしが感じている感謝の気持ちを、どう表現したらいいのかもわかりません。人への敬意も神への敬意も薄いこの時代に、たとえひとときだけでも、アイヌの人々にお会いできたことが、わたしにとっては大きな慰めでした。北海道滞在中の唯一の救いだったと言ってもいいでしょう。
北国の薄黄緑色の樹々は、南国の濃すぎる緑色の植物とは違って、どことなく色気があって、本当に美しいです。けれども、その美しいモスグリーンの風景の中にいて、いつの間にか、わたしはひしひしと〝独り〟を感じていました。家々の庭に咲くチューリップの花を見ても、あまりに人工的で不自然に見えて、何かが違うと感じるのです。
唯一、アイヌの人々の集うポロトコタンのチセの中でだけ、わたしは〝独り〟を思わずにすみました。アイヌの人たちの接し方が、和人のそれとは何かが違っていて、ずっと自然な気がしたのです。和人は冷たいとか、アイヌの人は優しいとか、そういうことでもないのです。何というか、アイヌの人とは、話していて、違和感がなく、しっくりくる感じなのです。チセの中でだけは、身体も心もくつろげる、そんな感じです。
何よりも、アイヌの人からは、他者への不信感や警戒心があまり伝わってきません。そして、人の心を信じることは、神を信じることにつながります。そのことが、あらためて確認できた旅でした。
〝人をも神をも裏切らない人々は信頼できる。なぜなら、彼らは決して差別しないからだ。〟
〈注釈及び解説〉
*北海道に住んでいるアイヌ人総数は、道内総人口500万人の中で、約3~7万人ぐらい、つまり総人口の1%ほどではないかと言われています。そのうち白老町のある胆振地方は、道内の全アイヌ人の約30%(およそ1~2万人か?)が住む地域で、平取町のあるお隣の日高地方(約30%)と並んで、アイヌ人の最も多く住んでいる地域です。また、その他の地域では、阿寒町のある釧路地方(約10%)と札幌市のある石狩地方(約10%)が、胆振・日高に次いでアイヌ人口が多く、この4つの地方だけで道内のアイヌ人総数の約80%を占めます。
残りの10地方では、全部あわせても道内アイヌ人全体の20%にしかなりません。そのうち、旭川市のある上川地方は2%、函館市のある渡島地方は3%、帯広市のある十勝地方は4%、根室地方も4%、網走地方は6%です。北見市のある宗谷地方などは0.5%しかいません。残りの留萌、空知、後志、檜山地方は、アイヌ人はほぼ0です。
ですから、道内のアイヌ人は、白老町(胆振地方)・平取町(日高地方)・阿寒町(釧路地方)といった限られた地域に、それぞれかたまって住んでいるのではないかと思われます。
ちなみに、アイヌの世界人口については、国連が10万人程度と考えているそうです。
**胆振地方(白老町)にある白老ポロトコタン(アイヌ民族博物館/1984年開設)以外の、その他の代表的なコタンや文化施設としては、石狩地方(札幌市南区)のサッポロピリカコタン(札幌市アイヌ文化交流センター/2003年開設)や、日高地方(平取町二風谷)の二風谷アイヌ文化博物館(1992年開設/二風谷遺跡が近い/2010年コタン再現ゾーン開設)、それに『阿寒の母』前田光子さんの好意による土地の無償提供で生まれた、現在日本最大のコタンである釧路地方(釧路市阿寒町)の阿寒湖アイヌコタン(戸数36・住人120名)などがあります。
白老町、平取町、阿寒町など、どの施設も、上記のように、アイヌ人口の比較的多い地域に、つくられています。アイヌのいない土地に、アイヌの施設をつくっても、しかたがないということでしょう。
ただ、近年のアイヌ文化への注目度の上昇に刺激されてか、各地にアイヌ資料館がつくられる傾向があります。例えば、北海道第二の都市である旭川市(上川地方)の旭川市博物館は、2008年に全面的にアイヌ文化の展示中心にリニューアルされました。また、2006年には旭川市博物館分館としてアイヌの聖地であった嵐山にチセ(アイヌ文化の森・伝承のコタン)が復元されています。
また、網走市には、北海道立北方民族博物館(1991年開設)があります。イヌイットからラップ人までの北方民族の展示をしています。アイヌと交流のあったオホーツク文化についての日本唯一の博物館でもあります。
***かつて蝦夷と呼ばれた関東以北の東北・北海道地域と、熊襲・隼人などと呼ばれた南九州から琉球弧にかけての地域は、ともに、弥生時代以降に建設された大和国家の外にある異民族の地であったと言われます。従って、蝦夷と熊襲は、ともに弥生人襲来以前からこの国に住んでいた縄文人の子孫だったのではないか、という推測が成り立ちます。そして、現代において、蝦夷の血統が最も色濃いのがアイヌ人であり、熊襲の血統が最も色濃いのが琉球人であろうということも推測できます。
中でもB型比率が約40%と目立って高く、さらにAB型が約20%もいて、O型が約10%しかいないという、世界的にも珍しい血液型比率のアイヌ人は、おそらく徐々に北方の血が混ざった東日本縄文人の末裔であり、一方、岩手と並んでO型が多い琉球人(O型32%)は、のちに多少は南方の血が混ざったものの、ほぼ西日本縄文人の末裔なのではないかと、わたしは考えています。
そして、アイヌも琉球も、どちらも、A型が多い弥生人が、中国・朝鮮半島から島根・北九州地域(A型41%)を中心に、大挙して渡ってくるより前、紀元前5世紀(2500年前)以前に栄えた縄文人の文化を、色濃く現代に伝える有形無形の遺産を有していると思われます。ですから、これからも、アイヌ人・琉球人のもつ記憶・知識は、日本人のルーツを探る上で、ますます貴重なものになるに違いありません。
ちなみに、アイヌ人と琉球人だけが、縄文人と同じ遺伝子配列を持っていることは、2012年の東大のゲノム解析でも明らかになっています。また、2014年の調査では、沖縄本島と宮古島では遺伝子配列に少し差があり、宮古人の遺伝子がアイヌ人にもっとも近いということもわかっています。石垣は、宮古と本島の中間なのだそうです。
おそらく沖縄本島の方では、弥生系の血が相当混じっているのではないかと思うのです。その一方、元来、山がなく、川もなく、水田が作れない(****)上に、台風がくると隠れる場所もない宮古島の方には、倭人はほとんど移ってこなかったのでしょう。
ですから、アイヌと琉球の中でも特に宮古は、現代日本人の中で、血縁関係が一番近いというだけでなく、ともに原日本人のDNAをもっとも多く持っているという点でも、遺伝子情報が共通していると考えられます。内地はむしろ、遺伝的に縄文系と弥生系の混血であり、特に西日本の日本海側などは、中国・朝鮮由来の弥生系の遺伝子の方が縄文系遺伝子より多いのです。
そう考えると、「アイヌと宮古にこそ、縄文以来の古神道の源流があり、原日本人の文化(*****)が伝承されているに違いない」というわたしの直感も、あながち的外れでもないのではないか、と思えてきます。
実際、伊良部の人の顔の彫りの深さなどは、アイヌの顔立ちに通じる気もします。おそらくは、宮古人=アイヌ人=縄文人ということなのでしょう。つまり、古代には沖縄から北海道まで、アイヌ人が住んでいたということです。このことは、『われわれは何者なのか、そして、われわれは何処からきたのか』を考える上で、極めて重要な情報と言えます。あとは、宮古島だけの血液型調査のデータが、もしあるなら知りたいものです。
ただし、もっとも当てになるのは、やはり、遺伝情報です。特に、Y染色体ハプログループの詳しい正確な解析と比較が待たれます。
****沖縄で、米作りが盛んに行われてきたのは、険しい山と水源となる川が多い起伏に富んだ島だけです。特に代表的な水田地帯を持つ島をいくつか挙げれば、険しい山並みを持つ伊平屋島、石垣島、西表島です。北部に山の多い沖縄本島でも、以前は水田が各地に見られましたが、現代ではほとんど見られなくなりました。
逆に、土地が平坦で、山川がまったくないために、ほとんど水田がつくれず、米が食べられなかった宮古島は、かつては本当に貧しい島だったのです。それで、水が豊富で米が作れる石垣島への移民が盛んに行われました。(石垣島の方は、コメの食べられる豊かな島だからこそ、仕事の暇に遊べる時間があるので、「恋愛の島」「芸能の島」「民謡の島」として知られるようにもなったのです。)
従って、古代においても、米作りにまったく向かない宮古島には、弥生系の人々は住み着かなかったと考えられます。誰も行きたがらないので、琉球王府時代は流刑地とされていたくらいです。それで、縄文系の血筋が、他の血統と混血して薄まらずに、手付かずのまま、ほぼ純血種のかたちで残されたのではないでしょうか。
また、今日、石垣が芸能の島なら、宮古は産業の島です。貧しい環境を生き抜いてきた宮古人には、働き者の血が流れているのです。ちなみに現在の宮古島圏域の人口は、伊良部島・池間島・下地島などの島の人口もあわせて、5万人ほどです。奇しくも、この人口は、現在の北海道のアイヌ人の人口に重なります。南と北の縄文系文化圏が、今後もその粋を保存したまま存続繁栄していくことを願ってやみません。
*****たとえば琉球王府の中心地である沖縄本島では、先祖崇拝の行事として中国由来の清明祭が行われます。本島は、冊封の時代から、中国の影響が非常に強いのです。けれども、宮古島や八重山諸島、さらに久米島や伊江島など、ほとんどの離島では、唐由来の清明祭は行わず、代わりに仏様の正月として一月十六日祭を行う風習が残っています。ぎゃくに、旧暦3月に清明祭(シーミー)のある本島では、一月十六日祭はほとんど祝われません。そこから考えて、おそらく旧暦十六日の先祖崇拝行事は、中国由来ではなく、古来からつづく縄文由来の風習なのではないかとも思われます。特に、古神道の伝承が根強い宮古島の狩俣などでは、一族のみの行事ではなく、地域の行事として祝うところから考えても、もとになる古代の神事があったのではと、実に不思議に思われるのです。

この文化村は、昔から近隣にあったアイヌ集落から、昭和40年代に、住居などを湖畔に移設してつくられた復元集落です。なので、実際に、ここでアイヌの人々の生活が営まれたことはありません。アイヌの人々も、今では皆、白老の街の中で暮らしています。
ですから、続縄文文化に起源を持つ、昔ながらの伝統的な生活を営むアイヌ人は、今はどこにもいないのです。けれども、この復元された集落ポロトコタンが、北海道を代表するアイヌ文化のシンボルの一つ(**)であることは、間違いありません。
コタンと言うのは、アイヌ語で集落・村落という意味の言葉です。ですから、ポロトコタンは、ポロト湖畔の集落(正確には「大きな沼のある村」)という意味になります。しかし、集落とは言っても、上記したように、今は実際に人が住んでいるわけではありません。実際にコタンの中に住んでいるのは、大きな檻の中で飼われている熊と北海道犬だけです。人間は誰もここで生活を営んではいないのです。
ですから、このコタンで、昼間の間、時間を過ごしているアイヌの人々は、白老の町から通っています。コタンの中には、合掌造りの茅葺の大きな建物(チセ)が六棟並んで建っていて、それらのチセの内部では、伝統的なアイヌの生活の様子がわかるように、地元のアイヌの人々がいろいろな作業をしてみせているのです。
チセの中は、とても天井が高く、広々としています。囲炉裏が二つも備えてあって、片方には生木を燻らせ、天井にはシャケがたくさん吊るされています。暖をとりながら、自然と燻製ができるようにしてあるわけです。このヤニを含んだ煙が、白川郷と一緒で、家を腐敗や腐食から守ってもいるのです。
もう一方の囲炉裏は炭火です。五月とはいえ、周囲の山裾はまだまだ真っ白で、雪がたくさん残っています。天気はあいにく霧雨で、気温はなんと6度と、沖縄からきたわたしたちにとっては、真冬以上の寒さです。
コタン唯一のカフェ兼軽食堂では、オイルストーブが燃えていて、地元の店員さんでさえも「五月にしては、今日は寒い」と言っています。あったまりたくて、クルミの粉の入ったうどんを食べました。あっさりしていて、なかなか美味しかったです。隣の中国人の若いカップルは、シャケの入った水煮のようなものを食べていました。どちらも、アイヌの伝統料理だそうです。
コタンにくる観光客のお客さんは、日本人より中国人の方が多くて、そこは沖縄と一緒です。特に大型バスでやってくる団体客は、皆、中国からのようでした。
博物館とコタンは隣接して建っています。博物館の建物の中の売店の女性は、白老生まれの白老育ちで、旦那さんは白老漁港の漁師さんだったそうです。「わたしはアイヌじゃなくて和人なんです」という言い方が新鮮でした。「自分は〝和人〟です」という言い方を、生まれて初めて聞きました。沖縄なら「自分は内地人(ないちゃー)です」というところです。
ポロトコタンでは、内部が劇場型になっている建物で、一日に五回ほど、アイヌの民族舞踊や民族音楽を見せてくれます。口につけて鳴らす不思議な楽器「ムックリ」の演奏や、赤児を背負っての子守唄や、輪になっての演舞(リムセ)など、どれも興味深くなぜか懐かしく感じるものが多かったです。
子守唄での「ルルルルル」と喉を鳴らして出す音は、エチオピアの女性もよく踊る時に出す音に似ています。輪になっての演舞は、宮古島の演舞「クイチャー」に似ています。民謡の歌声は、本当に心に響くものでした。
2010年に甲子園で春夏連覇した沖縄興南高校の我喜屋監督は、一時期、白老の製紙工場の野球部の監督をしていたそうです。その縁で、興南高校の生徒は毎年修学旅行でポロトコタンに見学にくるのだと聞きました。その我喜屋監督の知人というアイヌの職員の方と、じっくり話すことができました。気持ちを落ち着かせてくれる深い声で、穏やかにゆっくりと話す人でした。
アイヌの集落では、木の皮を薄く割いた紐を束にしたもの(イナウ)を、たくさんチセの中に吊るしているのですが、それは「神様の守り」を意味するそうです。アイヌの人たちと話していて、とてもしっくりきたのは、先祖崇拝の伝統を大切にしているところと、神様への信仰心を守り続けている生き方(アイヌプリ)です。
アイヌの人たちは、宮古島の人たちに似ていて、初対面でも古くからの友だちのように、親しみ深く気兼ねのない自然な調子で接してくれます。その振る舞い方から、内なる精神世界の根底に、人間への信頼を宿していることを感じさせます。この何とも言えず〝しっくりくる感じ〟は、理屈ではないのです。どう説明していいかわかりません。けれども、一つ言えることは、北海道で出会った誰よりも、ここのアイヌの人たちに、親近感を感じたということ、それだけは確かです。
アイヌには、コロボックルがいて、沖縄にはキジムナーがいます。コロボックルはかわいいけど、キジムナーはかわいくありませんが、どちらも〝小さい人〟です。こうした〝小さきものへの信仰〟は、この国の古神道の源流につながる信仰のあり方だと思うのです。
また、沖縄に「ヒヌカン(火の神)」の信仰があるように、アイヌの人々の間でも火のカムイは一番身近な神様だそうです。そのあたりも、沖縄とアイヌには共通点がある(***)ように思います。
「最近は、特に若い人たちの間では、伝統的な信仰や先祖への敬いの気持ちが、どんどん薄れてきています。けれども、わたしたちは、先祖から受け継いだ伝統的な価値観を、これからも大切に守って生きていきます。」
「ただ、どんなに昔の風習や生活のあり方を、標本や単なる記録ではなく生きた状態で保存し、後世に伝えたいと思っても、こうしたコタンを維持運営していくのは、とてもお金がかかります。結局のところ、誰だって実社会で生活していかなければならない。経済的に立ちゆかなくなれば、コタンを解散するしかないのです。」
そう語られた館長さんの言葉がとても印象的でした。
1980年代まで、世界的に見ても、少数民族への差別意識は、非常に根深いものがありました。インディアンは西部劇の悪者でした。北海道でも「アイヌ人は臭い」と言われて、忌み嫌われていました。その頃のポロトコタンは、陰気な場末の見世物小屋のようでした。
しかし、1990年代以降、事情は一変しました。北海道旧土人保護法(1899~1997)はアイヌ文化振興法(1997~)になり、沖縄では「世界少数民族会議」が開かれました。沖縄の音楽が日本中で聴かれるようになり、アイヌの民族音楽のCDも制作されるようになりました。
アメリカでも、エスキモーはイヌイット、インディアンはネイティブ・アメリカンと呼ばれるようになり、「ダンス・ウィズ・ウルブズ(1990)」がアカデミー作品賞を受賞し、ディズニーが「ポカホンタス(1995)」を制作してヒットさせました。ハワイでも、ケアリイ・レイシェルのハワイ語の歌がCD化され、世界的にヒットするようになりました。
多くの教養深い白人たちが、アボリジニーの世界観に興味を惹かれ、ネイティブ・アメリカンの知恵に心の救いを見出すようになりました。ハワイのカフナの秘法や、沖縄の古神道の伝統も、注目を受けるようになってきました。
それでも、今回の旅で、わたしは一つの確信をもつようになりました。おそらく、多くの一般的な〝普通の日本人〟は、アイヌの人たちにまったく興味がないのです。これまでも、そして、これからも。ですから彼らは、アイヌの人々の培ってきた伝統的な価値観の素晴らしさと、その生活のあり方の真の意味での尊さに、永遠に気づくことはないでしょう。
今日の社会では、〝和人〟の心から、信仰心は薄れていく一方です。それは本当に寂しく哀しいことですが、残念ながら、わたしにはどうすることもできません。事態の深刻さは、沖縄とて同じです。生きることも、死ぬことも、どんどん軽くなっていく時代です。
アイヌの人たちと話ができたことで、どんなに心が救われたか、わたしが感じている感謝の気持ちを、どう表現したらいいのかもわかりません。人への敬意も神への敬意も薄いこの時代に、たとえひとときだけでも、アイヌの人々にお会いできたことが、わたしにとっては大きな慰めでした。北海道滞在中の唯一の救いだったと言ってもいいでしょう。
北国の薄黄緑色の樹々は、南国の濃すぎる緑色の植物とは違って、どことなく色気があって、本当に美しいです。けれども、その美しいモスグリーンの風景の中にいて、いつの間にか、わたしはひしひしと〝独り〟を感じていました。家々の庭に咲くチューリップの花を見ても、あまりに人工的で不自然に見えて、何かが違うと感じるのです。
唯一、アイヌの人々の集うポロトコタンのチセの中でだけ、わたしは〝独り〟を思わずにすみました。アイヌの人たちの接し方が、和人のそれとは何かが違っていて、ずっと自然な気がしたのです。和人は冷たいとか、アイヌの人は優しいとか、そういうことでもないのです。何というか、アイヌの人とは、話していて、違和感がなく、しっくりくる感じなのです。チセの中でだけは、身体も心もくつろげる、そんな感じです。
何よりも、アイヌの人からは、他者への不信感や警戒心があまり伝わってきません。そして、人の心を信じることは、神を信じることにつながります。そのことが、あらためて確認できた旅でした。
〝人をも神をも裏切らない人々は信頼できる。なぜなら、彼らは決して差別しないからだ。〟
〈注釈及び解説〉
*北海道に住んでいるアイヌ人総数は、道内総人口500万人の中で、約3~7万人ぐらい、つまり総人口の1%ほどではないかと言われています。そのうち白老町のある胆振地方は、道内の全アイヌ人の約30%(およそ1~2万人か?)が住む地域で、平取町のあるお隣の日高地方(約30%)と並んで、アイヌ人の最も多く住んでいる地域です。また、その他の地域では、阿寒町のある釧路地方(約10%)と札幌市のある石狩地方(約10%)が、胆振・日高に次いでアイヌ人口が多く、この4つの地方だけで道内のアイヌ人総数の約80%を占めます。
残りの10地方では、全部あわせても道内アイヌ人全体の20%にしかなりません。そのうち、旭川市のある上川地方は2%、函館市のある渡島地方は3%、帯広市のある十勝地方は4%、根室地方も4%、網走地方は6%です。北見市のある宗谷地方などは0.5%しかいません。残りの留萌、空知、後志、檜山地方は、アイヌ人はほぼ0です。
ですから、道内のアイヌ人は、白老町(胆振地方)・平取町(日高地方)・阿寒町(釧路地方)といった限られた地域に、それぞれかたまって住んでいるのではないかと思われます。
ちなみに、アイヌの世界人口については、国連が10万人程度と考えているそうです。
**胆振地方(白老町)にある白老ポロトコタン(アイヌ民族博物館/1984年開設)以外の、その他の代表的なコタンや文化施設としては、石狩地方(札幌市南区)のサッポロピリカコタン(札幌市アイヌ文化交流センター/2003年開設)や、日高地方(平取町二風谷)の二風谷アイヌ文化博物館(1992年開設/二風谷遺跡が近い/2010年コタン再現ゾーン開設)、それに『阿寒の母』前田光子さんの好意による土地の無償提供で生まれた、現在日本最大のコタンである釧路地方(釧路市阿寒町)の阿寒湖アイヌコタン(戸数36・住人120名)などがあります。
白老町、平取町、阿寒町など、どの施設も、上記のように、アイヌ人口の比較的多い地域に、つくられています。アイヌのいない土地に、アイヌの施設をつくっても、しかたがないということでしょう。
ただ、近年のアイヌ文化への注目度の上昇に刺激されてか、各地にアイヌ資料館がつくられる傾向があります。例えば、北海道第二の都市である旭川市(上川地方)の旭川市博物館は、2008年に全面的にアイヌ文化の展示中心にリニューアルされました。また、2006年には旭川市博物館分館としてアイヌの聖地であった嵐山にチセ(アイヌ文化の森・伝承のコタン)が復元されています。
また、網走市には、北海道立北方民族博物館(1991年開設)があります。イヌイットからラップ人までの北方民族の展示をしています。アイヌと交流のあったオホーツク文化についての日本唯一の博物館でもあります。
***かつて蝦夷と呼ばれた関東以北の東北・北海道地域と、熊襲・隼人などと呼ばれた南九州から琉球弧にかけての地域は、ともに、弥生時代以降に建設された大和国家の外にある異民族の地であったと言われます。従って、蝦夷と熊襲は、ともに弥生人襲来以前からこの国に住んでいた縄文人の子孫だったのではないか、という推測が成り立ちます。そして、現代において、蝦夷の血統が最も色濃いのがアイヌ人であり、熊襲の血統が最も色濃いのが琉球人であろうということも推測できます。
中でもB型比率が約40%と目立って高く、さらにAB型が約20%もいて、O型が約10%しかいないという、世界的にも珍しい血液型比率のアイヌ人は、おそらく徐々に北方の血が混ざった東日本縄文人の末裔であり、一方、岩手と並んでO型が多い琉球人(O型32%)は、のちに多少は南方の血が混ざったものの、ほぼ西日本縄文人の末裔なのではないかと、わたしは考えています。
そして、アイヌも琉球も、どちらも、A型が多い弥生人が、中国・朝鮮半島から島根・北九州地域(A型41%)を中心に、大挙して渡ってくるより前、紀元前5世紀(2500年前)以前に栄えた縄文人の文化を、色濃く現代に伝える有形無形の遺産を有していると思われます。ですから、これからも、アイヌ人・琉球人のもつ記憶・知識は、日本人のルーツを探る上で、ますます貴重なものになるに違いありません。
ちなみに、アイヌ人と琉球人だけが、縄文人と同じ遺伝子配列を持っていることは、2012年の東大のゲノム解析でも明らかになっています。また、2014年の調査では、沖縄本島と宮古島では遺伝子配列に少し差があり、宮古人の遺伝子がアイヌ人にもっとも近いということもわかっています。石垣は、宮古と本島の中間なのだそうです。
おそらく沖縄本島の方では、弥生系の血が相当混じっているのではないかと思うのです。その一方、元来、山がなく、川もなく、水田が作れない(****)上に、台風がくると隠れる場所もない宮古島の方には、倭人はほとんど移ってこなかったのでしょう。
ですから、アイヌと琉球の中でも特に宮古は、現代日本人の中で、血縁関係が一番近いというだけでなく、ともに原日本人のDNAをもっとも多く持っているという点でも、遺伝子情報が共通していると考えられます。内地はむしろ、遺伝的に縄文系と弥生系の混血であり、特に西日本の日本海側などは、中国・朝鮮由来の弥生系の遺伝子の方が縄文系遺伝子より多いのです。
そう考えると、「アイヌと宮古にこそ、縄文以来の古神道の源流があり、原日本人の文化(*****)が伝承されているに違いない」というわたしの直感も、あながち的外れでもないのではないか、と思えてきます。
実際、伊良部の人の顔の彫りの深さなどは、アイヌの顔立ちに通じる気もします。おそらくは、宮古人=アイヌ人=縄文人ということなのでしょう。つまり、古代には沖縄から北海道まで、アイヌ人が住んでいたということです。このことは、『われわれは何者なのか、そして、われわれは何処からきたのか』を考える上で、極めて重要な情報と言えます。あとは、宮古島だけの血液型調査のデータが、もしあるなら知りたいものです。
ただし、もっとも当てになるのは、やはり、遺伝情報です。特に、Y染色体ハプログループの詳しい正確な解析と比較が待たれます。
****沖縄で、米作りが盛んに行われてきたのは、険しい山と水源となる川が多い起伏に富んだ島だけです。特に代表的な水田地帯を持つ島をいくつか挙げれば、険しい山並みを持つ伊平屋島、石垣島、西表島です。北部に山の多い沖縄本島でも、以前は水田が各地に見られましたが、現代ではほとんど見られなくなりました。
逆に、土地が平坦で、山川がまったくないために、ほとんど水田がつくれず、米が食べられなかった宮古島は、かつては本当に貧しい島だったのです。それで、水が豊富で米が作れる石垣島への移民が盛んに行われました。(石垣島の方は、コメの食べられる豊かな島だからこそ、仕事の暇に遊べる時間があるので、「恋愛の島」「芸能の島」「民謡の島」として知られるようにもなったのです。)
従って、古代においても、米作りにまったく向かない宮古島には、弥生系の人々は住み着かなかったと考えられます。誰も行きたがらないので、琉球王府時代は流刑地とされていたくらいです。それで、縄文系の血筋が、他の血統と混血して薄まらずに、手付かずのまま、ほぼ純血種のかたちで残されたのではないでしょうか。
また、今日、石垣が芸能の島なら、宮古は産業の島です。貧しい環境を生き抜いてきた宮古人には、働き者の血が流れているのです。ちなみに現在の宮古島圏域の人口は、伊良部島・池間島・下地島などの島の人口もあわせて、5万人ほどです。奇しくも、この人口は、現在の北海道のアイヌ人の人口に重なります。南と北の縄文系文化圏が、今後もその粋を保存したまま存続繁栄していくことを願ってやみません。
*****たとえば琉球王府の中心地である沖縄本島では、先祖崇拝の行事として中国由来の清明祭が行われます。本島は、冊封の時代から、中国の影響が非常に強いのです。けれども、宮古島や八重山諸島、さらに久米島や伊江島など、ほとんどの離島では、唐由来の清明祭は行わず、代わりに仏様の正月として一月十六日祭を行う風習が残っています。ぎゃくに、旧暦3月に清明祭(シーミー)のある本島では、一月十六日祭はほとんど祝われません。そこから考えて、おそらく旧暦十六日の先祖崇拝行事は、中国由来ではなく、古来からつづく縄文由来の風習なのではないかとも思われます。特に、古神道の伝承が根強い宮古島の狩俣などでは、一族のみの行事ではなく、地域の行事として祝うところから考えても、もとになる古代の神事があったのではと、実に不思議に思われるのです。
