ベジタリアン(菜食主義者)の中でも、肉類・魚介類の他に、卵・乳製品・蜂蜜も摂らず、動物愛護の観点から、革製品・ウール製品・絹製品・珊瑚・真珠も一切身に付けないという、徹底した菜食・動物愛護主義を実践する人々を、ヴィーガン(ビーガン/完全菜食主義者/Vegan )と言います。単に菜食というだけでなく、無農薬栽培の野菜を、できるだけ多く買い、調理にも工夫を重ねて、なるべく美味しく食べるように、努力されている方も多くいます。
菜食主義の起源は、インドの完全無殺生主義の宗教ジャイナ教や、古代ギリシャのピタゴラスの菜食主義、それにイランのマニ教の菜食主義の教義などに見られます。しかし、ヴィーガン(ビーガン/Vegan)という用語が生まれたのは、19世紀のイギリスやアメリカにおいてでした。そして、その動機は、健康上の理由からというよりも、むしろ「動物を人間に奉仕させるべきではない」という倫理的な理由からでした。
そうしたヴィーガン(ビーガン)の考え方は、「肉には屠殺した動物の魂が宿っており、その肉を食べる人間の身体を通り抜ける」とするピタゴラスや、「植物は〝光〟でできており、動物は〝闇〟でできている。人の肉体は〝闇〟であり、精神はその闇に包まれた〝光〟であるので、精神の光を強めるためには、植物を食さねばならない」とするマニ教の教義よりは、むしろ、「あらゆる生き物を殺すことは罪であり、自らの魂を汚す行為である」というジャイナ教の教えに近いように思います。ですから、ヴィーガン(ビーガン)の人は、「単に自分が健康でありたいとか、長生きしたいとか、そうした利己的な理由以上の、利他的動機から菜食を貫いている」と言うことができるはずです。
例えば、スターリンによって徹底して弾圧されたトルストイ主義運動における、無教会・無政府・平和・菜食主義の人々などがそうです。彼らは理想の共同体を作ることを夢見て、その実現に人生をかけましたが、20世紀前半において国家によって危険思想とされ、虫けらのように駆逐されました。彼らのように、たとえ、次々に銃殺されても、なおも徴兵を拒否するというのは、強い信念と信仰がなければ不可能でしょう。しかし、そのユートピアの実現を目指す情熱は、本当に尊いものです。
けれども、現代のようにニューエイジ的な感覚から、「自分の手を罪で汚すことを嫌う」「罪を犯す行為に加担したくない」という意識だけでは、せっかくの無殺生主義・動物愛護主義も「己の霊体を汚したくない」「霊的に不浄なものに汚されたくない」という、極めて利己的なものになってしまいます。
「〝殺生〟という罪を犯さないように気を付けて、〝菜食〟という功徳を積んでいけば、肉体は清浄に保たれ、魂のグレードは順調に上がり、無事に天国へ行ける」というわけです。「自分は清浄であり、周囲は不浄」と考えるようになると、これはある種の選民思想にも通じます。しかも、こうした意識には、利他の精神や菩薩行の志向が欠如しています。これでは、自らを人より優位において偉そうにしている、身勝手で鼻持ちならないスピリチュアル・スノッブです。
とは言え、ヴィーガン(ビーガン)の追求する菜食の方向性は、実際には、そう間違っていないと思います。かつて農薬が使用されるようになる以前の健康な土壌で栽培されていた野菜は、現在の標準的な野菜の10倍近いビタミンや栄養分が含まれていたと言います。しかし、土壌の汚染が進み、化学肥料の使用が広まるにつれて、野菜からだけでは、健康を維持できるだけの充分な栄養が取れなくなり、化学的に抽出されたビタミン剤などの錠剤やサプリメント(栄養補助食品)に頼らざるを得なくなりました。
さらに時代はバイオ技術の全盛期を迎えようとしており、モンサントをはじめとする超巨大企業による遺伝子組み換え種子の開発は、世界の農業を一変させました。今や、世界で生産される大豆やとうもろこしの90%以上が、遺伝子組み換え種子を使用しています。しかも、アメリカでは、「遺伝子組み換え作物未使用」の表示が法律で禁じられています。いまや、農薬・化学肥料・遺伝子組換え種子企業であるモンサントが、世界の食糧事情を支配しているのです。(*TPPが締結されれば、日本もまたその支配下に入るでしょう。)
そして、そのような不自然な生活に危惧を感じる人々は、無農薬有機栽培で育てられた安全な野菜を探すようになり、さらには無農薬無肥料栽培された自然そのものの健康な野菜(原種)を求めるようになりました。こうした健康志向の菜食主義は、ヴィーガン(ビーガン)の倫理観とは微妙に異なるでしょうが、わたし自身、強い関心があります。思うに、こうした観点からすれば、最終的には、木村式無農薬無肥料農法で育てられた、品種改良が施される前の原種の野菜・穀物などが、理想の食材でしょう。
そうした完全菜食主義の目指す方向性の一部は、確かに素晴らしいものです。しかし、「すべての人をヴィーガン(ビーガン)に」という思想的なものになってくると、話は違ってきます。残念ながら、立派な健康野菜を手にいれるのも、サプリに頼るのも、結局は突き詰めれば「お金の問題」なのです。現実には「ヴィーガン(ビーガン)にしたくても、経済的にとても続けられない」という人たちがたくさんいます。
それに、世界的に広く考えれば、伝統的に動物の生肉からビタミンを摂取してきたイヌイットやラップ人に、「動物愛護の観点からアザラシもクジラも獲るな、トナカイも食べるな」と言えるでしょうか。あるいはモンゴルのステップに生きる遊牧民に、「ヤギの乳でミルクティーを作るな、家畜の肉を食べるな」と言えるでしょうか。ツンドラでもステップでも、野菜はほとんど栽培できません。ヴィーガン(ビーガン)が理想とする地産地消など、とうてい不可能なのです。
さらには酪農家や畜産農家、漁師や養蜂家、革職人や養蚕業の人、真珠養殖業者の人や珊瑚を採る業者の方にも、「みんなヴィーガン(ビーガン)になれ」と言えるでしょうか。彼らにしてみれば、「廃業しろ」と言われているのとかわりなく、文字通りの死活問題です。
そう考えると、「急進的で攻撃的なヴィーガン(ビーガン)の思想も、より穏健で平和的なヴィーガンも、いずれも先進国の富裕層の贅沢な価値観に過ぎないのではないか」という疑念が湧いてきます。ニューヨークでも感じたことですが、ヴィーガン(ビーガン)の素晴らしさの裏に、どうしても格差の問題を感じてしまうのです。
マンハッタンのMOMA(ニューヨーク現代美術館)で、ヴィーガン・メニューを楽しむ一握りの富裕層がいる一方で、世界中から出稼ぎにきて、五番街の屋台で、不健康な食事に甘んじている大多数の人々がいます。彼らには、ヴィーガン(ビーガン)など思いもよりません。
わたしが矛盾を感じるのは、モンサントなどの巨大企業が、世界の農業のかたちを好ましくない方向に変えていくのに加担しているのは、株主となっている世界の富裕層であるという事実です。世界の破滅へ向けての歩みに力を貸しながら、自らは肉体と魂の健康と安全を求めるというのは、あまりに虫がよすぎるのではないでしょうか。
結局は、「ヴィーガン(ビーガン)とは、選り好みできる余裕のある人たちだけに共有される、贅沢な趣味でありファッションでありライフスタイルである」と、わたしには見えるのです。
単に趣味やファッションやライフスタイルであるというなら、多少利己的であっても、ものの見方が狭かろうとも、許されていいと思うのです。ただ、自分を突き動かしている欲求が、少々自己中心的なものであることを、最低限自覚していて欲しいものだとは思いますが。そうすれば、たとえ世間知らずの坊ちゃん、嬢ちゃんであっても、「自分は間違いのない素晴らしいことをしている」という独善に陥るのを、うまく避けることができますから、ね。
わたしは、ヴィーガン(ビーガン)を否定しているのではありません。ヴィーガン(ビーガン)の食事が、身体に負担のない素晴らしいものであることは認めます。ただし、ヴィーガン(ビーガン)に徹している人が、必ずしも人として素晴らしいとは、わたしは思わないのです。むしろ、純粋で生真面目ではあっても、心が頑なで狭量な人が多いように感じるからです。
また、「ヴィーガン(ビーガン)が、唯一絶対的に正しい価値観だ」とも思いません。例えば、沖縄料理には魚や豚肉が絶対に欠かせません。ヴィーガンは、そうした沖縄の食文化を拒絶し、否定するでしょう。わたしにはそれが、ある種の文化優位主義に見えます。
そう言えば、日本のイルカ漁や捕鯨を、最も知的な生物への虐殺行為だとして、しつこく過激に攻撃するシー・シェパードの連中も、ヴィーガン(ビーガン)なんですよね。そう考えると、ヴィーガン(ビーガン)もまた、白人の根深いオリエンタル文化への差別観の産物ではないかと思えて、何だかムカついてきます。
告白しますと、「養蜂のやり方が残酷だ」とか、「生糸を採るのは蚕の虐殺だ」とか言われても、わたしは絹製品や蜂蜜を購入するのを控えようとは考えません。革製のバッグも使い続けるでしょうし、卵も食べるしミルクも飲み続けるでしょう。肉も魚も、(自分の健康のために)なるべく控えめにしようとは思いますが、断とうとは思いません。もちろん、そんな自分のあり方が〝正しい〟なんて、かけらも思ってはいませんが。
それに、我々日本人は、欧米人ほどには、家庭料理の質が劣化していません。家庭で子どもに食べさせるものに気をつけるという点では、日本の親は世界一気を使います。また、繊細な和食の食文化の影響か、外食や加工食品の質も、欧米とは比べものになりません。一般的な食習慣も、肉・魚・野菜のバランスが、欧米よりはるかにとれています。
旨味を味わい分ける舌の繊細さも、日本人は飛び抜けて優れています。一般的なアメリカ人の舌は、甘いか、塩っぱいか、酸っぱいかしか感じません。それらが混ざり合った複雑な味を楽しむことが、ほとんどできないのです。だからアメリカの料理は、砂糖過多でひたすら甘いか、塩分過多でひたすら塩っぱいか、味がないか、だいたいこの三種類のどれかです。
ですから、食の危機に関して、日本は欧米ほど深刻な状況にはないというのも確かなのです。逆に言えば、欧米がひどすぎるということでもありますが。
【閑話休題?】
以前、岡山から沖縄に放射能を避けて移住してきた20代後半の若者と話していて、「福島の放射能を恐れて、岡山県から沖縄に逃げてくる必要があるの?」と尋ねると「わたしは岡山でも安心できないです。放射能は目に見えないし、どこまで広がっているのか、本当に怖いですから」と言うのです。
わたしは驚いて「じゃあ、関東や東北の人は、なおさら大変だね。でも、みんながあなたみたいに西の外れに移住したら、東日本から人がいなくなっちゃうよ」と思わず皮肉を言ってしまいました。すると彼女は、真面目な顔で「そうですよ。実際、東日本は放射能まみれです。政府は真実を隠しているんです。みんな、騙されていて、かわいそうですよ。最低限、中部・関東・東北の東日本の人たちは、本当はみんな西日本に逃げてくるべきだと、わたしは思うんです」と頷くのです。
「はあ、東日本の土地をすべて捨てて、産業が崩壊した状態で、1億2千万人の日本人が、みんな西日本に集住したら、どうやって食べていくの? 放射能がどうのこうのという前に、みんな飢え死にしてしまうよ。」
「大丈夫ですよ。四国とか、過疎化がすすんでいて、家も土地もたくさん余っているんです。みんなで農業やればいいんですよ。」
「はああ、日本人がみんな九州・四国の過疎地帯に移住して、そんなんで、この国の営みが成り立つと、本気で思っているの?」
「大丈夫ですよ。みんなで食糧生産頑張れば。だから、東には住んじゃダメですよ。」
彼女は、本当に真剣に話しているのです。そして、自分の言っていることが〝正しい〟と何の疑念もなく信じ込んでいるのです。それが、わたしには恐ろしかった。そして、わたしには、どれほど言葉を重ねても、彼女に自分の信念に疑念を抱かせることはできませんでした。
「じゃあ、生活のために、その土地に縛られている人たちは、どうするの。移ってくればいいなんて、そんなのは、自由に移住できるお金がある人たちの勝手な言い草だよ。あまりにも自己中心的な考えだね。」
「復興のために、東北に出稼ぎに行っている人たちや、ボランティアで東北で頑張っている人たちは、かわいそうな人たちだと思うの?」
「東北でホテルを経営している人は、観光に来て欲しいし、福島で桃をつくっている農家は、桃を食べて欲しいんだよ。わたしは、福島の農家の桃を買うし、東北にボランティアにも行きたいと思うよ。」
「福島の危険とされている地域で、見捨てられているお年寄りを気にかけて、〝まとも〟な人は誰も近寄らない街を見回りして、お年寄りにお金をあげたりしているのはヤクザなんだって。自分はいつ死んでもいいからって。どう思う?」
どんな言葉も、彼女には通じませんでした。
こんな若者が増えたら、それこそ、この国が滅んでしまいます。
貧乏を知らず、世間も何も怖くない上に、自然に自己中心的に考えるのが身に付いているので、恐ろしいほどに〝自分かわいさ〟だけで、何も考えずに思い切った行動がとれるのです。こういう子どもたちを育ててしまっていることに、真剣に恐怖を感じます。
それにしても、どうしてこんな〝わけのわからん子どもたち〟が、わんさかと育ってきたのでしょう。この国には、しっかりした教育制度があり、図書館もたくさんあるし、大学もいっぱいあります。勉強しようと思ったら、いくらでもできるわけだし、いくらなんでも、もう少し、ものを考える大人に育っていてもいいはずです。ところが、そうはなっていない。これはどうしたわけでしょう。
このような〝考える力の育っていない子〟が増えてきた背景には、この国の子育ての〝変質〟があるように思います。子育てをする親の側の問題が、やはり一番大きいのです。
昨今の日本人にとって、ヴィーガン(ビーガン)がファッションであるように、子どもを持つこと育てることも、親のファッション(アクセサリー)にすぎなくなっています。あるいは、自分の欲望を具現化するための道具とでも言うのでしょうか。自分の叶えられなかった夢を、子どもに託そうとするのです。
ですから逆に、自分のライフスタイルに合わない〝アクセサリー(子ども)〟は要らないのです。これは悪しき欧米化の一つです。欧米では、もっと以前から、その傾向が、はっきりしていましたが、同様の現象が、数十年遅れで、この国にも見られるようになりました。
「立派な親」の〝かたち〟を求める親にとっては、子どもの存在も、自分が求める立派さ(ある意味での権力)を実現する手段に過ぎません。子どもにモノを与えるのも、子どものためにお金を使うのも、さまざまな〝お膳立て(塾通い・送り迎え・進路設定)〟をするのも、親としての義務を果たしているという自負心を感じたいがためであり、自分の喜び(自己満足・自己実現)のためです。そういう親にとっては、子育てさえも、カタチを変えた親の権力の行使となります。
その一方で、役に立たない子どものために、自分のライフスタイルが乱されるのは、彼らには我慢できません。それで、本心を子どもに見透かされて反抗にあうことになります。「本当に僕のことを考えてくれているの?」「わたしが何を感じたり考えているのか、興味ないでしょ?」
そして、ますます子どもが自分の思い通りにならなくなります。夢破れて「立派な親」を演じるのも面倒になった人には、子どもという名の手のかかる装飾品など、まったく無用となります。「もうどうでもいいわ。あなたの好きにしたら。」
現代の子どもたちは、「思うようにならない子どもは要らない(つまり、自分の〝お飾り〟にならない子どもは要らない)(もっと言えば、馬鹿な子どもや反抗的な子どもは要らない)」とか、「言う事をきかないなら、お金はあげない(言い換えれば、お金かけてるんだから、成果を出しなさい!)(本音をいえば、可愛がるって、お金をかけることよね。だから、可愛くない子には、お金は出したくないわ!)」などと、暗に脅されて育っているようなものです。
これが、裕福に育っているはずなのに、妙にケチケチした自己中心的な子どもが増えている背景であり、同時に少子化や晩婚化がすすむ最大の原因でもあります。というのも、そのような親に育てられた若者は、面倒くさい伴侶も子どもも、自分には要らないと感じるからです。
我が子や伴侶すらも要らないのですから、年寄りはなおさら要りません。我が家のアクセサリーとして、年寄りは絶対に存在して欲しくないはずです。これが、広い家に、何不自由なく暮らしている裕福な夫婦が、年寄りをホームに入れる理由です。こうして、悪しき個人主義が、ますます社会に蔓延していきます。
個人的な感想ですが、菜食主義も、原発反対も、子育ても、介護も、「世界は私の生存と快楽に奉仕すべきである」という無意識の衝動・欲求からなされている(あるいは拒絶されている)気がします。自分では気づいていなくとも、実は、どこまでも我欲・妄執の虜なのです。どこか、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の世界を連想させます。
何よりも最悪なのは、こうした自らの心のあり方について、「それが普通でしょ」「人(親)は完璧じゃなきゃいけないんですか」と、決して自らの非を認めようとしないことです。真摯に自分の内面を見つめられる人は、本当に少ないです。そして、常に自らを「正しい位置」に置いているために、罪悪感をまったく感じられないのが、何と言っても一番の問題です。
なぜなら、彼らもまた、一種の文化優位主義者だからです。人より金持ちだから、学歴があるから、留学したから、肌の色が白いから、諸々の理由で、自分の文化(価値観)に優越意識を持っているのです。
それも、太地町に我が物顔で居座り、地元住民を傷つけ続ける「シー・シェパード」レベルの独善的優越感を帯びるとなると、深刻な社会問題となります。それはもはや、ムハンマドが生まれる7世紀より古いアッシリアなどの古代都市遺跡を、邪教の遺跡だと言って徹底的に破壊し続けるイスラム国と五十歩百歩の社会的害悪と言えます。
『罪悪感を持てない人は、いつか必ず大きな失敗をする』
『罪悪感を持たない人々は、いずれ世界を滅ぼすだろう』
菜食主義の起源は、インドの完全無殺生主義の宗教ジャイナ教や、古代ギリシャのピタゴラスの菜食主義、それにイランのマニ教の菜食主義の教義などに見られます。しかし、ヴィーガン(ビーガン/Vegan)という用語が生まれたのは、19世紀のイギリスやアメリカにおいてでした。そして、その動機は、健康上の理由からというよりも、むしろ「動物を人間に奉仕させるべきではない」という倫理的な理由からでした。
そうしたヴィーガン(ビーガン)の考え方は、「肉には屠殺した動物の魂が宿っており、その肉を食べる人間の身体を通り抜ける」とするピタゴラスや、「植物は〝光〟でできており、動物は〝闇〟でできている。人の肉体は〝闇〟であり、精神はその闇に包まれた〝光〟であるので、精神の光を強めるためには、植物を食さねばならない」とするマニ教の教義よりは、むしろ、「あらゆる生き物を殺すことは罪であり、自らの魂を汚す行為である」というジャイナ教の教えに近いように思います。ですから、ヴィーガン(ビーガン)の人は、「単に自分が健康でありたいとか、長生きしたいとか、そうした利己的な理由以上の、利他的動機から菜食を貫いている」と言うことができるはずです。
例えば、スターリンによって徹底して弾圧されたトルストイ主義運動における、無教会・無政府・平和・菜食主義の人々などがそうです。彼らは理想の共同体を作ることを夢見て、その実現に人生をかけましたが、20世紀前半において国家によって危険思想とされ、虫けらのように駆逐されました。彼らのように、たとえ、次々に銃殺されても、なおも徴兵を拒否するというのは、強い信念と信仰がなければ不可能でしょう。しかし、そのユートピアの実現を目指す情熱は、本当に尊いものです。
けれども、現代のようにニューエイジ的な感覚から、「自分の手を罪で汚すことを嫌う」「罪を犯す行為に加担したくない」という意識だけでは、せっかくの無殺生主義・動物愛護主義も「己の霊体を汚したくない」「霊的に不浄なものに汚されたくない」という、極めて利己的なものになってしまいます。
「〝殺生〟という罪を犯さないように気を付けて、〝菜食〟という功徳を積んでいけば、肉体は清浄に保たれ、魂のグレードは順調に上がり、無事に天国へ行ける」というわけです。「自分は清浄であり、周囲は不浄」と考えるようになると、これはある種の選民思想にも通じます。しかも、こうした意識には、利他の精神や菩薩行の志向が欠如しています。これでは、自らを人より優位において偉そうにしている、身勝手で鼻持ちならないスピリチュアル・スノッブです。
とは言え、ヴィーガン(ビーガン)の追求する菜食の方向性は、実際には、そう間違っていないと思います。かつて農薬が使用されるようになる以前の健康な土壌で栽培されていた野菜は、現在の標準的な野菜の10倍近いビタミンや栄養分が含まれていたと言います。しかし、土壌の汚染が進み、化学肥料の使用が広まるにつれて、野菜からだけでは、健康を維持できるだけの充分な栄養が取れなくなり、化学的に抽出されたビタミン剤などの錠剤やサプリメント(栄養補助食品)に頼らざるを得なくなりました。
さらに時代はバイオ技術の全盛期を迎えようとしており、モンサントをはじめとする超巨大企業による遺伝子組み換え種子の開発は、世界の農業を一変させました。今や、世界で生産される大豆やとうもろこしの90%以上が、遺伝子組み換え種子を使用しています。しかも、アメリカでは、「遺伝子組み換え作物未使用」の表示が法律で禁じられています。いまや、農薬・化学肥料・遺伝子組換え種子企業であるモンサントが、世界の食糧事情を支配しているのです。(*TPPが締結されれば、日本もまたその支配下に入るでしょう。)
そして、そのような不自然な生活に危惧を感じる人々は、無農薬有機栽培で育てられた安全な野菜を探すようになり、さらには無農薬無肥料栽培された自然そのものの健康な野菜(原種)を求めるようになりました。こうした健康志向の菜食主義は、ヴィーガン(ビーガン)の倫理観とは微妙に異なるでしょうが、わたし自身、強い関心があります。思うに、こうした観点からすれば、最終的には、木村式無農薬無肥料農法で育てられた、品種改良が施される前の原種の野菜・穀物などが、理想の食材でしょう。
そうした完全菜食主義の目指す方向性の一部は、確かに素晴らしいものです。しかし、「すべての人をヴィーガン(ビーガン)に」という思想的なものになってくると、話は違ってきます。残念ながら、立派な健康野菜を手にいれるのも、サプリに頼るのも、結局は突き詰めれば「お金の問題」なのです。現実には「ヴィーガン(ビーガン)にしたくても、経済的にとても続けられない」という人たちがたくさんいます。
それに、世界的に広く考えれば、伝統的に動物の生肉からビタミンを摂取してきたイヌイットやラップ人に、「動物愛護の観点からアザラシもクジラも獲るな、トナカイも食べるな」と言えるでしょうか。あるいはモンゴルのステップに生きる遊牧民に、「ヤギの乳でミルクティーを作るな、家畜の肉を食べるな」と言えるでしょうか。ツンドラでもステップでも、野菜はほとんど栽培できません。ヴィーガン(ビーガン)が理想とする地産地消など、とうてい不可能なのです。
さらには酪農家や畜産農家、漁師や養蜂家、革職人や養蚕業の人、真珠養殖業者の人や珊瑚を採る業者の方にも、「みんなヴィーガン(ビーガン)になれ」と言えるでしょうか。彼らにしてみれば、「廃業しろ」と言われているのとかわりなく、文字通りの死活問題です。
そう考えると、「急進的で攻撃的なヴィーガン(ビーガン)の思想も、より穏健で平和的なヴィーガンも、いずれも先進国の富裕層の贅沢な価値観に過ぎないのではないか」という疑念が湧いてきます。ニューヨークでも感じたことですが、ヴィーガン(ビーガン)の素晴らしさの裏に、どうしても格差の問題を感じてしまうのです。
マンハッタンのMOMA(ニューヨーク現代美術館)で、ヴィーガン・メニューを楽しむ一握りの富裕層がいる一方で、世界中から出稼ぎにきて、五番街の屋台で、不健康な食事に甘んじている大多数の人々がいます。彼らには、ヴィーガン(ビーガン)など思いもよりません。
わたしが矛盾を感じるのは、モンサントなどの巨大企業が、世界の農業のかたちを好ましくない方向に変えていくのに加担しているのは、株主となっている世界の富裕層であるという事実です。世界の破滅へ向けての歩みに力を貸しながら、自らは肉体と魂の健康と安全を求めるというのは、あまりに虫がよすぎるのではないでしょうか。
結局は、「ヴィーガン(ビーガン)とは、選り好みできる余裕のある人たちだけに共有される、贅沢な趣味でありファッションでありライフスタイルである」と、わたしには見えるのです。
単に趣味やファッションやライフスタイルであるというなら、多少利己的であっても、ものの見方が狭かろうとも、許されていいと思うのです。ただ、自分を突き動かしている欲求が、少々自己中心的なものであることを、最低限自覚していて欲しいものだとは思いますが。そうすれば、たとえ世間知らずの坊ちゃん、嬢ちゃんであっても、「自分は間違いのない素晴らしいことをしている」という独善に陥るのを、うまく避けることができますから、ね。
わたしは、ヴィーガン(ビーガン)を否定しているのではありません。ヴィーガン(ビーガン)の食事が、身体に負担のない素晴らしいものであることは認めます。ただし、ヴィーガン(ビーガン)に徹している人が、必ずしも人として素晴らしいとは、わたしは思わないのです。むしろ、純粋で生真面目ではあっても、心が頑なで狭量な人が多いように感じるからです。
また、「ヴィーガン(ビーガン)が、唯一絶対的に正しい価値観だ」とも思いません。例えば、沖縄料理には魚や豚肉が絶対に欠かせません。ヴィーガンは、そうした沖縄の食文化を拒絶し、否定するでしょう。わたしにはそれが、ある種の文化優位主義に見えます。
そう言えば、日本のイルカ漁や捕鯨を、最も知的な生物への虐殺行為だとして、しつこく過激に攻撃するシー・シェパードの連中も、ヴィーガン(ビーガン)なんですよね。そう考えると、ヴィーガン(ビーガン)もまた、白人の根深いオリエンタル文化への差別観の産物ではないかと思えて、何だかムカついてきます。
告白しますと、「養蜂のやり方が残酷だ」とか、「生糸を採るのは蚕の虐殺だ」とか言われても、わたしは絹製品や蜂蜜を購入するのを控えようとは考えません。革製のバッグも使い続けるでしょうし、卵も食べるしミルクも飲み続けるでしょう。肉も魚も、(自分の健康のために)なるべく控えめにしようとは思いますが、断とうとは思いません。もちろん、そんな自分のあり方が〝正しい〟なんて、かけらも思ってはいませんが。
それに、我々日本人は、欧米人ほどには、家庭料理の質が劣化していません。家庭で子どもに食べさせるものに気をつけるという点では、日本の親は世界一気を使います。また、繊細な和食の食文化の影響か、外食や加工食品の質も、欧米とは比べものになりません。一般的な食習慣も、肉・魚・野菜のバランスが、欧米よりはるかにとれています。
旨味を味わい分ける舌の繊細さも、日本人は飛び抜けて優れています。一般的なアメリカ人の舌は、甘いか、塩っぱいか、酸っぱいかしか感じません。それらが混ざり合った複雑な味を楽しむことが、ほとんどできないのです。だからアメリカの料理は、砂糖過多でひたすら甘いか、塩分過多でひたすら塩っぱいか、味がないか、だいたいこの三種類のどれかです。
ですから、食の危機に関して、日本は欧米ほど深刻な状況にはないというのも確かなのです。逆に言えば、欧米がひどすぎるということでもありますが。
【閑話休題?】
以前、岡山から沖縄に放射能を避けて移住してきた20代後半の若者と話していて、「福島の放射能を恐れて、岡山県から沖縄に逃げてくる必要があるの?」と尋ねると「わたしは岡山でも安心できないです。放射能は目に見えないし、どこまで広がっているのか、本当に怖いですから」と言うのです。
わたしは驚いて「じゃあ、関東や東北の人は、なおさら大変だね。でも、みんながあなたみたいに西の外れに移住したら、東日本から人がいなくなっちゃうよ」と思わず皮肉を言ってしまいました。すると彼女は、真面目な顔で「そうですよ。実際、東日本は放射能まみれです。政府は真実を隠しているんです。みんな、騙されていて、かわいそうですよ。最低限、中部・関東・東北の東日本の人たちは、本当はみんな西日本に逃げてくるべきだと、わたしは思うんです」と頷くのです。
「はあ、東日本の土地をすべて捨てて、産業が崩壊した状態で、1億2千万人の日本人が、みんな西日本に集住したら、どうやって食べていくの? 放射能がどうのこうのという前に、みんな飢え死にしてしまうよ。」
「大丈夫ですよ。四国とか、過疎化がすすんでいて、家も土地もたくさん余っているんです。みんなで農業やればいいんですよ。」
「はああ、日本人がみんな九州・四国の過疎地帯に移住して、そんなんで、この国の営みが成り立つと、本気で思っているの?」
「大丈夫ですよ。みんなで食糧生産頑張れば。だから、東には住んじゃダメですよ。」
彼女は、本当に真剣に話しているのです。そして、自分の言っていることが〝正しい〟と何の疑念もなく信じ込んでいるのです。それが、わたしには恐ろしかった。そして、わたしには、どれほど言葉を重ねても、彼女に自分の信念に疑念を抱かせることはできませんでした。
「じゃあ、生活のために、その土地に縛られている人たちは、どうするの。移ってくればいいなんて、そんなのは、自由に移住できるお金がある人たちの勝手な言い草だよ。あまりにも自己中心的な考えだね。」
「復興のために、東北に出稼ぎに行っている人たちや、ボランティアで東北で頑張っている人たちは、かわいそうな人たちだと思うの?」
「東北でホテルを経営している人は、観光に来て欲しいし、福島で桃をつくっている農家は、桃を食べて欲しいんだよ。わたしは、福島の農家の桃を買うし、東北にボランティアにも行きたいと思うよ。」
「福島の危険とされている地域で、見捨てられているお年寄りを気にかけて、〝まとも〟な人は誰も近寄らない街を見回りして、お年寄りにお金をあげたりしているのはヤクザなんだって。自分はいつ死んでもいいからって。どう思う?」
どんな言葉も、彼女には通じませんでした。
こんな若者が増えたら、それこそ、この国が滅んでしまいます。
貧乏を知らず、世間も何も怖くない上に、自然に自己中心的に考えるのが身に付いているので、恐ろしいほどに〝自分かわいさ〟だけで、何も考えずに思い切った行動がとれるのです。こういう子どもたちを育ててしまっていることに、真剣に恐怖を感じます。
それにしても、どうしてこんな〝わけのわからん子どもたち〟が、わんさかと育ってきたのでしょう。この国には、しっかりした教育制度があり、図書館もたくさんあるし、大学もいっぱいあります。勉強しようと思ったら、いくらでもできるわけだし、いくらなんでも、もう少し、ものを考える大人に育っていてもいいはずです。ところが、そうはなっていない。これはどうしたわけでしょう。
このような〝考える力の育っていない子〟が増えてきた背景には、この国の子育ての〝変質〟があるように思います。子育てをする親の側の問題が、やはり一番大きいのです。
昨今の日本人にとって、ヴィーガン(ビーガン)がファッションであるように、子どもを持つこと育てることも、親のファッション(アクセサリー)にすぎなくなっています。あるいは、自分の欲望を具現化するための道具とでも言うのでしょうか。自分の叶えられなかった夢を、子どもに託そうとするのです。
ですから逆に、自分のライフスタイルに合わない〝アクセサリー(子ども)〟は要らないのです。これは悪しき欧米化の一つです。欧米では、もっと以前から、その傾向が、はっきりしていましたが、同様の現象が、数十年遅れで、この国にも見られるようになりました。
「立派な親」の〝かたち〟を求める親にとっては、子どもの存在も、自分が求める立派さ(ある意味での権力)を実現する手段に過ぎません。子どもにモノを与えるのも、子どものためにお金を使うのも、さまざまな〝お膳立て(塾通い・送り迎え・進路設定)〟をするのも、親としての義務を果たしているという自負心を感じたいがためであり、自分の喜び(自己満足・自己実現)のためです。そういう親にとっては、子育てさえも、カタチを変えた親の権力の行使となります。
その一方で、役に立たない子どものために、自分のライフスタイルが乱されるのは、彼らには我慢できません。それで、本心を子どもに見透かされて反抗にあうことになります。「本当に僕のことを考えてくれているの?」「わたしが何を感じたり考えているのか、興味ないでしょ?」
そして、ますます子どもが自分の思い通りにならなくなります。夢破れて「立派な親」を演じるのも面倒になった人には、子どもという名の手のかかる装飾品など、まったく無用となります。「もうどうでもいいわ。あなたの好きにしたら。」
現代の子どもたちは、「思うようにならない子どもは要らない(つまり、自分の〝お飾り〟にならない子どもは要らない)(もっと言えば、馬鹿な子どもや反抗的な子どもは要らない)」とか、「言う事をきかないなら、お金はあげない(言い換えれば、お金かけてるんだから、成果を出しなさい!)(本音をいえば、可愛がるって、お金をかけることよね。だから、可愛くない子には、お金は出したくないわ!)」などと、暗に脅されて育っているようなものです。
これが、裕福に育っているはずなのに、妙にケチケチした自己中心的な子どもが増えている背景であり、同時に少子化や晩婚化がすすむ最大の原因でもあります。というのも、そのような親に育てられた若者は、面倒くさい伴侶も子どもも、自分には要らないと感じるからです。
我が子や伴侶すらも要らないのですから、年寄りはなおさら要りません。我が家のアクセサリーとして、年寄りは絶対に存在して欲しくないはずです。これが、広い家に、何不自由なく暮らしている裕福な夫婦が、年寄りをホームに入れる理由です。こうして、悪しき個人主義が、ますます社会に蔓延していきます。
個人的な感想ですが、菜食主義も、原発反対も、子育ても、介護も、「世界は私の生存と快楽に奉仕すべきである」という無意識の衝動・欲求からなされている(あるいは拒絶されている)気がします。自分では気づいていなくとも、実は、どこまでも我欲・妄執の虜なのです。どこか、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の世界を連想させます。
何よりも最悪なのは、こうした自らの心のあり方について、「それが普通でしょ」「人(親)は完璧じゃなきゃいけないんですか」と、決して自らの非を認めようとしないことです。真摯に自分の内面を見つめられる人は、本当に少ないです。そして、常に自らを「正しい位置」に置いているために、罪悪感をまったく感じられないのが、何と言っても一番の問題です。
なぜなら、彼らもまた、一種の文化優位主義者だからです。人より金持ちだから、学歴があるから、留学したから、肌の色が白いから、諸々の理由で、自分の文化(価値観)に優越意識を持っているのです。
それも、太地町に我が物顔で居座り、地元住民を傷つけ続ける「シー・シェパード」レベルの独善的優越感を帯びるとなると、深刻な社会問題となります。それはもはや、ムハンマドが生まれる7世紀より古いアッシリアなどの古代都市遺跡を、邪教の遺跡だと言って徹底的に破壊し続けるイスラム国と五十歩百歩の社会的害悪と言えます。
『罪悪感を持てない人は、いつか必ず大きな失敗をする』
『罪悪感を持たない人々は、いずれ世界を滅ぼすだろう』