闘士(1930)フイリップ・ワイリー著
父親の科学実験によって超人的な筋力をもって生まれてきた主人公が、その比類のない力を持て余し、フットボール場でも戦場でも、自分の生きる場を見出すことができず、どこまでも孤独に苦悩し続けるという救いのない物語です。スーパーマンの原型ストーリーとも言われています。持って生まれた素晴らしい力を、自分のためにも人のためにも何ら生かせないまま、焦燥感をつのらせていき、苦い経験を重ねるうちに、次第に内なる虚無感が深まっていきます。幼い頃からの父親の圧倒的な期待が、生真面目な主人公を逆に追い詰めるのです。「お前が世界を救うのだ」と言われても、どうしたら良いのか、全くわからないからです。戦場で、銃弾の的となっても、爆弾の炸裂を受けても、生き延びることのできる、人を超越した能力を持ちながら、彼には活躍の場がありません。その力をあからさまに発揮すれば、化け物と見られるだけだからです。この「闘士」は、不死身のスーパーマンの悲劇の人生を、丹念に地味に描いた、超人モノの最初のSF作品です。この作品におけるスーパーヒーローの苦悩は、後に石ノ森章太郎が創造した、仮面ライダーや人造人間キカイダーなどのヒーロー物における主人公の苦悩に、重なるところがあります。
出版状況➡読み応えのある古典的名作ですが、現在絶版状態で、古書でしか手に入りません。
オッド・ジョン(1935)オラフ・ステープルトン著
生まれながらに超人的な知能を持ち、テレパシーなどの超常能力を持つ子どもジョンが、低脳な人類社会に見切りをつけ、10名足らずの同じ力を持つ仲間たちとともに無人島で生活を始めますが、そのあまりに奇妙で人間離れしたコミューンに恐怖を抱いた人間側によって追い詰められ、集団自殺して果てるという物語です。まだ産声をあげたばかりの幼い新人類が、彼らを恐れる旧人類によって駆逐されるという悲劇を描いています。著者は、人類側にも新人類側にも偏ることなく、むしろ突き放した視点から、淡々と客観的な描写に専念しています。一方で、著者の描くジョンたち新人類の旧人類に対する上から目線は、後にアメリカで個人主義哲学者のアイン・ラントが著した小説「肩を竦めるアトラス(1957)」のイメージを彷彿とさせるものがあります。「もうこれ以上、世間には付き合いきれない」と感じる〝優秀な人々〟が一般社会から身を引いて引きこもるというテーマは、エピクロスや陶淵明の時代から、人類の普遍的な哲学テーマの一つのようです。ラントの作品とは違って、このステープルトンの小説では、引きこもった優秀な側が、自滅的に滅びるわけです。現代のラント支持層であるリバタリアンたちは、この結末をどう読むでしょうか。
出版状況➡有名な古典的文学作品でありながら、現在絶版状態で、古書でしか手に入りません。
スラン(1946)A・E・ヴァン・ヴォークト著
オッド・ジョン同様に、テレパシーなどの超常能力を持ち、超知能を持つ新人類スランが、人類社会の恐怖の対象として、迫害され駆逐される未来社会を描いた物語です。家族で身を隠していた中、父と母を街中で狩りたてられ、虐殺された幼い主人公ジョミー・クロスが、その常人離れした能力で、生き延びていきます。たった1人の仲間のスランもいない孤立状態で、スラムに身を隠して、生きる術を学習していくのです。そして、やがて大人に成長したジョミーは、その天才的能力を駆使して、仲間のスランを探し始めます。著者は「シートン動物記」の「灰色熊の一生」に影響を受けて、この作品を書いたのだそうです。読んでいて夢の中を泳いでいるような気分になる、奇妙な現実感と幻視感のあるストーリーです。ヴォークトの作品は、全般的にそのような夢遊的なイメージが強く、物語の筋だては常にどこかで破綻しており、登場人物の人物造形もどこかリアリティーに欠けます。しかし、それでありながら、読んでいて、奥行きのある夢幻世界の中にいるような不思議な気分になってきます。物語世界全体が、表面的には破綻しているようでいて、実は無意識レベルの不思議な整合性を有しているように感じられ、それがヴォークト作品の魅力の一つになっています。実際、ヴォークトは、「90分毎に目覚ましをセットして、目覚めるとすぐに、今みていた夢の内容を書き留める」という一風変わった創作法をとっていたそうです。
出版状況➡SF界ではかなりメジャーなヴォークトの人気作品ですが、現在絶版状態で、古書でしか手に入りません。
アトムの子ら(1953)ウィルマー・H・シラス著
原子力発電所の爆発事故の影響から、超知能を授かって生まれた子どもたちが、それぞれに家族に大切にされながらも、人並外れた能力を周囲にばれないよう、用心深く生きています。それでも、彼らは小学生にして既に、その多彩な能力の一部を密かに発揮しているのです。例えば彼らは、世間に名の知れている作家だったり、学者だったり、芸術家や漫画家だったりします。彼らの作品とペンネームは世間によく知られていますが、その正体を知っている者は誰もいません。彼らは互いの存在すら知りません。そして、ちょうど盲人の世界でただ一人の健常者が、みんなと同じでないことがばれないように、盲人のふりをして生きざるをえないように、超天才であることがばれないように生きています。この天才少年のひとりティムが、若き精神科医と出会い、次第に心を開いていくところから物語は始まります。やがて二人は、同じような境遇にいるはずの仲間を捜し、仲間がより良く生きられるような学校を作ることを計画します。オッド・ジョンとは違い、少年少女の個性は生き生きと描かれ、彼らを取り巻く大人たちも魅力的に描かれています。物語のテーマは、「引きこもりから抜け出すこと」です。
出版状況➡著者の唯一世間に知られている小説です。良作であり、隠れたファンも多いと思うのですが、残念ながら絶版状態で、古書でしか手に入りません。
人間以上(1953)シオドア・スタージョン著
言葉も話せない、身体もほとんど動かせない重度の障害児の赤子は、実は超天才なのです。知恵遅れの黒人の双子の女の子たちは瞬間移動(テレポート)ができます。そして、うすのろの白痴の男ローンはテレパシーの能力を持っています。そして、情緒不安を抱えた孤独な少女は、テレパシーと物体移動(テレキネシス)の能力の持ち主です。彼らは独りで孤立している時は、それぞれがみんな半人前以下で、満足に生き延びることさえままなりません。ある意味、一人一人は廃人も同然です。けれども、互いに力を合わせると、超人的な行為が可能になります。絶対に捕まらない銀行強盗にもなれるし、反重力発生装置を創り出す科学技術者にもなれます。ただ、彼らはまだ何の意志も持ち合わせてはいません。そして、何の目的も意欲もなく、田舎道の脇に捨てられている壊れたバスの中で、ただ惰性で暮らしています。しかし、そこに他者の精神を操ることのできる1人の男の子が加わることで、この共同体は無敵になり、新たに強靭な〝意志〟が芽生えます。しかし、その意志は、ひどく冷酷で、極端に自己中心的なものでした。彼らには、まだ何かが欠けていたのです。そして、その欠けている何かを求めて、彼らはさまよい続けるのです。この物語の登場人物たちは、皆、究極の孤独の中を生きています。あまりにさみしいので、人は夢みるのでしょう。〝愛と孤独の作家〟スタージョンの代表作です。
出版状況➡SFにおける古典中の古典であり、スタージョンの代表作なのですが、驚くべきことに現在絶版状態で、古書でしか手に入りません。
さなぎ(1955)ジョン・ウインダム著
核技術の乱用による放射能汚染によって、近代科学文明が崩壊してから、おそらくは千年ほどが経過し、中世のような社会に逆戻りした世界を描いています。その世界では、突然変異によるミュータントがもっとも恐れられ、速やかな処分や排除の対象となります。主人公デヴィッドは、その世界に生まれた少年で、テレパシーという特殊能力を持っています。その能力を持った少数の少年少女たちは、互いにテレパシーで連絡を取り合いながらも、事の発覚を恐れて互いに直接会ったこともなく、顔も名前も知らないのです。そんな中、自分よりも強いテレパシーを持つ妹の能力が発覚し、危険を察知したデヴィッドは、妹ペトラを連れて仲間たちと村から脱出します。ペトラの強い能力が察知した、テレパシー能力を持った人々の住む世界を探し求めて。そこは、彼らを丸ごとの彼ら自身の存在のまま、無条件で受け入れてもらえる夢の世界です。スタージョンの「人間以上」とテーマは重なりますが、ここで紹介した他の作品の多くと違って、特に悩まずに読める内容であり、「アトムの子ら」と同様に、ジュヴナイル的な瑞々しさを感じさせる作品です。
出版状況➡イギリスの重鎮であったジョン・ウインダムの代表作の一つですが、長く絶版状態で、古書でしか手に入りません。
アルジャーノンに花束を(1959・1966)ダニエル・キイス著
「頭が良くなりたい」と願っている知能指数70の障害者が、外科手術によって、知能指数300をこえる超天才になる物語です。その過程の様子が、主人公チャーリーの日記(経過報告)というかたちで、非常にリアルに語られます。やがて、知能が高くなったチャーリーは、自意識の目覚めに比例して、それまで持っていた他者への信頼と満ち足りた幸福感を失っていき、深い孤独に苛まれるようなります。同時に「自分がなぜそれほどまでに頭が良くなりたかったのか?」に気づくようになります。チャーリーは、自分を施設に置き去りにした両親に、迎えに来てもらいたかったのです。そして、「よくやったぞ、チャーリー」と褒めてもらいたかったのです。しかし、再会した母親は話もできないほど惚けており、父親は見違えたチャーリーのことがわからず、目の前に立って話していても全く気づきません。超天才となったチャーリーは、生きる目的を喪失してしまいます。この物語は、幼い頃から教育熱心な親たちへの痛烈な警告の書であり、同時に受験世代の人々に、凝り固まった価値観からの脱却を促すものです。「貴方は何のために頭が良くなりたいのですか?」「幸せな障害児と不幸な天才、貴方はどちらを選びますか?」と。
出版状況➡1959年度ヒューゴー賞中編賞を受賞した同名の中編を、そのまま長編化し、1967年度ネヴュラ賞長編賞を受賞しました。長編版の方は、出版界でも珍しいロングセラーを続けている小説で、いつでも新書が入手可能な状態です。中編版は、世界SF大賞傑作選2(講談社文庫)に収められていますが、現在絶版で古書でしか手に入りません。
ライアへの讃歌(1974)ジョージ・R・R・マーティン著
星間調査を担当している調査官が、テレパシーで意識を共有する集合生命体に取り込まれるお話です。ジョン・レノンの「イマジン」の歌詞に代表されるような、1960~70年代前半のカウンターカルチャーの思想の中心である「世界の人々が一つになる」という〝理想〟は、70年代後半から80年代にかけてのニューエイジ運動に引き継がれ、90年代以降のスピリチュアル・ムーブメントをもたらします。その新プラトン主義などを源流とする興味深い〝思想〟が、カルト的な〝信仰〟となってしまう現状への警鐘として、この小説はあります。主人公は、恋人でもある同僚の調査官を、集合生命体から引き離そうと努力します。しかし、彼女は「私は今まで経験したことのないほどの、平和な安心感と喜びの中にいるのよ」と、ほとんど恍惚状態です。そして、例えようのない幸福感に包まれて「さあ貴方も私たちと一つになりましょう」と逆に熱心に彼を誘うのです。集合生命体にすっかり取り込まれてしまった恋人ライアと決別し、主人公はたった独りで星の海へと旅立っていきます。この作品のテーマは、「共感と安心感に満ちた理想的な集団引きこもりカルトの誘惑に克つ」です。
出版状況➡世界SF大賞傑作選8(講談社文庫)に収められています。1975年度ヒューゴー賞を受賞した中編小説ですが、長く絶版状態で、古書でしか手に入りません。
鳥の歌いまは絶え(1976)ケイト・ウィルヘルム著
環境破壊によって地球上の生命が死に絶えつつある近未来、人類もまた生殖能力を失い、滅亡の危機に立ちます。科学技術者たちは、人類存続の最終手段として、クリーン技術によって、赤子を誕生させます。人口が維持できなくなって文明は崩壊し、 他の多くの生物も死滅しつつある、滅びゆく世界の一角、外界から隔絶した谷間の研究所で、子どもたちは大きくなります。そして、人口を増やすべくクローンの出産を重ねるうちに、同じ遺伝子を持つ少年少女たちは、まったく自意識を持たず、代わりにテレパシーと言ってもよい共時性共感能力を持ち、たとえ離れていても完全に繋がっている感覚を維持するようになります。まさに「心が一つになった」ニュータイプの新人類の誕生です。しかし、そのクローン共同体では、突然変異で生まれたが故に、互いの共通感覚を維持できない「個性」を持ってしまった者は、異常者として排除されます。例えば、クローン技術を介さずに子どもをもうけ、かけがえのない我が子として育てようとする女性などは。こうして、この無機質な集団主義に混ざれない先祖返りした者は、研究所のある谷を離れて、新天地を目指して旅立つしかないのです。ところが、死に絶えていると思われていた外の世界の生き物は、人間を除いて生き残り、豊かに蘇っていました。そこで、この母子は、歪んだエデンの園である谷から、奴隷的使役をされていた代理母女性たちを解放し、人類を再生させるのです。著者は一貫して、対象にのめり込まず、一歩離れた視点から、非常に客観的に物語っています。その乾いた冷徹な描写は、ある意味、非常に個性的です。
出版状況➡1977年度ヒューゴー賞・ローカス賞を受賞した長編小説です。サンリオSF文庫から出版されていましたが、現在は古書でしか手に入りません。版元のサンリオが、今は存在しないので、古書でも多少高価です。
残像(1978) ジョン・ヴァーリィ著
1990年代のヒッピーの男(47歳)が、シカゴからカリフォルニアへ、さらには日本を目指して、ヒッチハイクの旅をする近未来の話です。男は、その旅の途中で、全盲全聾の人々が暮らすコミューンに出くわします。そして、そこで、目も視えず、耳も聴こえない人たちの間で、5ヶ月を過ごすのです。
男は、最初、そこに住む人々は、致命的なハンディキャップを抱えて、ずいぶん不自由な人生を生きていると感じていましたが、いつしか、その感覚が逆転しはじめます。 もしかしたら、彼ら視聴覚障害者たちの方が、我々視え聴こえる健常者よりも、はるかに豊かな人生を送っているのではないか、と。なぜなら、目も視えず耳も聴こえない彼らの触覚によるコミュニケーションは、声や文字によるコミュニケーションよりも、はるかに表情豊かで、素早く、正確で、内容が深く、親密で、濃密なものだったからです。男は、そこに暮らしているうちに、彼らとの共感に満ちた交わりの中に、徐々に溶け込んでいきました。
この辺りの展開は、「ライアへの賛歌」「鳥の歌いまは絶え」の状況を、より肯定的に描いたもの、と言えるでしょう。どうも、この時期、1970年代のアメリカでの文学的テーマとして、この〝共感〟の問題をどう取り扱うか、というのが、とても重大で避けて通れないものになっていたのかもしれません。
この作品では、テレパシーの能力は、公然と確定的には出てきません。しかし、密やかに、暗に示されている彼らの能力は、単なるテレパシーなどはるかに凌駕するであろう、別次元の能力です。
出版状況➡️1978年度ネビュラ賞、1979年度ヒューゴー賞・ローカル賞を受賞したヴァーリィの出世作。同名の短編集は絶版となっていますが、現在、著者の代表作を集めた中短編集「逆行の夏」が刊行されており、その中に収録されていますので、入手可能です。
それにしても、今回紹介した作品について、10作品中8作品が絶版状態というのは、実に嘆かわしい事態です。現代人が、いかに本を読まないか、読書離れの甚だしさを物語っています。同時に、「超人テーマ」というジャンルそのものが、70年代に終焉を迎えたということを意味しているのかもしれません。
実際、80年代には、このテーマを主題とした見るべき作品は、私の知る限りでは皆無です。それから90年代になると、まったく異なる種類の超人たちが、創作されるようになります。その代表が、スティーブン・グールドの「ジャンパー(1992)」です。この作品では、主人公は自らのテレポート能力を、何の逡巡もなく存分に楽しみます。彼の心には、いかなる哲学的な葛藤も苦悩も、一切存在しません。彼にとっては、人智を超えた超能力も、単純に、たまたま与えられた〝gift〟にすぎないのです。
70年代までの価値観では、「何かを手に入れることは、何かを失うことだ」という諦念、あるいは「何かを手に入れるためには、何かを犠牲にしなければならない」という覚悟が、大なり小なり存在したのですが、そうした意識はすっかり影をひそめてしまいました。
90年代以降の価値観では、〝gift(才能・能力)〟というものは、何の代償もなく、すでにそこに用意されているものであり、それを与えられた人は、ためらうことなく喜んで受け取り、その力を思う存分振るえば良いということらしいです。この場合の〝gift(天の贈り物)〟には、生まれ落ちた環境・お金・地位・人脈・運といったものも含まれます。生まれながらに天によって用意されたものに、人はさして有り難みなど感じないものです。
こういう〝あっけらかん〟とした、天真爛漫な意識で生きている人にとっては、上記の物語群のような、人並外れた〝gift〟を与えられた超人の苦悩や葛藤など、まったく共感できない別世界の話としか感じられないでしょう。
また、70年代までのこのジャンルの作品に非常に目立つテーマの一つである、個としての自立と集団への依存の問題、あるいは異質な個性を持つがゆえの孤立と〝居場所〟を求めての彷徨という主題は、80年代以降流行らなくなり、90年代にはまったく見当たらなくなります。その代わりに、対象に深く共感することを求めないライトノベルが読書の主流となります。
「お膳立てされ、与えられるのを待つこと」に慣れた、90年代以降の子どもたちには、周囲に依存せずに自立しようともがく主人公や、自らの居場所を求めて独り彷徨う主人公に、深く共感することなどまずできません。自立や彷徨なんて、そんな〝おそろしい〟ことに挑む気は、さらさらないからです。
闘士 (ハヤカワ文庫SF)/早川書房

¥432
Amazon.co.jp
アトムの子ら (ハヤカワ文庫 SF 447)/早川書房

¥441
Amazon.co.jp
アルジャーノンに花束を/早川書房

¥1,620
Amazon.co.jp
世界SF大賞傑作選(ヒューゴー・ウィナーズ) 8 (講談社文庫)/講談社

¥367
Amazon.co.jp
人間以上 (ハヤカワ文庫 SF 317)/早川書房

¥842
Amazon.co.jp
鳥の歌いまは絶え (1982年) (サンリオSF文庫)/サンリオ

¥626
Amazon.co.jp
スラン (ハヤカワ文庫 SF 234)/A.E.ヴァン・ヴォクト

¥503
Amazon.co.jp
さなぎ (ハヤカワ文庫 SF 325)/ジョン・ウィンダム

¥475
Amazon.co.jp
逆行の夏 ジョン・ヴァーリイ傑作集 (ハヤカワ文庫SF)/ジョン・ヴァーリイ

¥価格不明
Amazon.co.jp
父親の科学実験によって超人的な筋力をもって生まれてきた主人公が、その比類のない力を持て余し、フットボール場でも戦場でも、自分の生きる場を見出すことができず、どこまでも孤独に苦悩し続けるという救いのない物語です。スーパーマンの原型ストーリーとも言われています。持って生まれた素晴らしい力を、自分のためにも人のためにも何ら生かせないまま、焦燥感をつのらせていき、苦い経験を重ねるうちに、次第に内なる虚無感が深まっていきます。幼い頃からの父親の圧倒的な期待が、生真面目な主人公を逆に追い詰めるのです。「お前が世界を救うのだ」と言われても、どうしたら良いのか、全くわからないからです。戦場で、銃弾の的となっても、爆弾の炸裂を受けても、生き延びることのできる、人を超越した能力を持ちながら、彼には活躍の場がありません。その力をあからさまに発揮すれば、化け物と見られるだけだからです。この「闘士」は、不死身のスーパーマンの悲劇の人生を、丹念に地味に描いた、超人モノの最初のSF作品です。この作品におけるスーパーヒーローの苦悩は、後に石ノ森章太郎が創造した、仮面ライダーや人造人間キカイダーなどのヒーロー物における主人公の苦悩に、重なるところがあります。
出版状況➡読み応えのある古典的名作ですが、現在絶版状態で、古書でしか手に入りません。
オッド・ジョン(1935)オラフ・ステープルトン著
生まれながらに超人的な知能を持ち、テレパシーなどの超常能力を持つ子どもジョンが、低脳な人類社会に見切りをつけ、10名足らずの同じ力を持つ仲間たちとともに無人島で生活を始めますが、そのあまりに奇妙で人間離れしたコミューンに恐怖を抱いた人間側によって追い詰められ、集団自殺して果てるという物語です。まだ産声をあげたばかりの幼い新人類が、彼らを恐れる旧人類によって駆逐されるという悲劇を描いています。著者は、人類側にも新人類側にも偏ることなく、むしろ突き放した視点から、淡々と客観的な描写に専念しています。一方で、著者の描くジョンたち新人類の旧人類に対する上から目線は、後にアメリカで個人主義哲学者のアイン・ラントが著した小説「肩を竦めるアトラス(1957)」のイメージを彷彿とさせるものがあります。「もうこれ以上、世間には付き合いきれない」と感じる〝優秀な人々〟が一般社会から身を引いて引きこもるというテーマは、エピクロスや陶淵明の時代から、人類の普遍的な哲学テーマの一つのようです。ラントの作品とは違って、このステープルトンの小説では、引きこもった優秀な側が、自滅的に滅びるわけです。現代のラント支持層であるリバタリアンたちは、この結末をどう読むでしょうか。
出版状況➡有名な古典的文学作品でありながら、現在絶版状態で、古書でしか手に入りません。
スラン(1946)A・E・ヴァン・ヴォークト著
オッド・ジョン同様に、テレパシーなどの超常能力を持ち、超知能を持つ新人類スランが、人類社会の恐怖の対象として、迫害され駆逐される未来社会を描いた物語です。家族で身を隠していた中、父と母を街中で狩りたてられ、虐殺された幼い主人公ジョミー・クロスが、その常人離れした能力で、生き延びていきます。たった1人の仲間のスランもいない孤立状態で、スラムに身を隠して、生きる術を学習していくのです。そして、やがて大人に成長したジョミーは、その天才的能力を駆使して、仲間のスランを探し始めます。著者は「シートン動物記」の「灰色熊の一生」に影響を受けて、この作品を書いたのだそうです。読んでいて夢の中を泳いでいるような気分になる、奇妙な現実感と幻視感のあるストーリーです。ヴォークトの作品は、全般的にそのような夢遊的なイメージが強く、物語の筋だては常にどこかで破綻しており、登場人物の人物造形もどこかリアリティーに欠けます。しかし、それでありながら、読んでいて、奥行きのある夢幻世界の中にいるような不思議な気分になってきます。物語世界全体が、表面的には破綻しているようでいて、実は無意識レベルの不思議な整合性を有しているように感じられ、それがヴォークト作品の魅力の一つになっています。実際、ヴォークトは、「90分毎に目覚ましをセットして、目覚めるとすぐに、今みていた夢の内容を書き留める」という一風変わった創作法をとっていたそうです。
出版状況➡SF界ではかなりメジャーなヴォークトの人気作品ですが、現在絶版状態で、古書でしか手に入りません。
アトムの子ら(1953)ウィルマー・H・シラス著
原子力発電所の爆発事故の影響から、超知能を授かって生まれた子どもたちが、それぞれに家族に大切にされながらも、人並外れた能力を周囲にばれないよう、用心深く生きています。それでも、彼らは小学生にして既に、その多彩な能力の一部を密かに発揮しているのです。例えば彼らは、世間に名の知れている作家だったり、学者だったり、芸術家や漫画家だったりします。彼らの作品とペンネームは世間によく知られていますが、その正体を知っている者は誰もいません。彼らは互いの存在すら知りません。そして、ちょうど盲人の世界でただ一人の健常者が、みんなと同じでないことがばれないように、盲人のふりをして生きざるをえないように、超天才であることがばれないように生きています。この天才少年のひとりティムが、若き精神科医と出会い、次第に心を開いていくところから物語は始まります。やがて二人は、同じような境遇にいるはずの仲間を捜し、仲間がより良く生きられるような学校を作ることを計画します。オッド・ジョンとは違い、少年少女の個性は生き生きと描かれ、彼らを取り巻く大人たちも魅力的に描かれています。物語のテーマは、「引きこもりから抜け出すこと」です。
出版状況➡著者の唯一世間に知られている小説です。良作であり、隠れたファンも多いと思うのですが、残念ながら絶版状態で、古書でしか手に入りません。
人間以上(1953)シオドア・スタージョン著
言葉も話せない、身体もほとんど動かせない重度の障害児の赤子は、実は超天才なのです。知恵遅れの黒人の双子の女の子たちは瞬間移動(テレポート)ができます。そして、うすのろの白痴の男ローンはテレパシーの能力を持っています。そして、情緒不安を抱えた孤独な少女は、テレパシーと物体移動(テレキネシス)の能力の持ち主です。彼らは独りで孤立している時は、それぞれがみんな半人前以下で、満足に生き延びることさえままなりません。ある意味、一人一人は廃人も同然です。けれども、互いに力を合わせると、超人的な行為が可能になります。絶対に捕まらない銀行強盗にもなれるし、反重力発生装置を創り出す科学技術者にもなれます。ただ、彼らはまだ何の意志も持ち合わせてはいません。そして、何の目的も意欲もなく、田舎道の脇に捨てられている壊れたバスの中で、ただ惰性で暮らしています。しかし、そこに他者の精神を操ることのできる1人の男の子が加わることで、この共同体は無敵になり、新たに強靭な〝意志〟が芽生えます。しかし、その意志は、ひどく冷酷で、極端に自己中心的なものでした。彼らには、まだ何かが欠けていたのです。そして、その欠けている何かを求めて、彼らはさまよい続けるのです。この物語の登場人物たちは、皆、究極の孤独の中を生きています。あまりにさみしいので、人は夢みるのでしょう。〝愛と孤独の作家〟スタージョンの代表作です。
出版状況➡SFにおける古典中の古典であり、スタージョンの代表作なのですが、驚くべきことに現在絶版状態で、古書でしか手に入りません。
さなぎ(1955)ジョン・ウインダム著
核技術の乱用による放射能汚染によって、近代科学文明が崩壊してから、おそらくは千年ほどが経過し、中世のような社会に逆戻りした世界を描いています。その世界では、突然変異によるミュータントがもっとも恐れられ、速やかな処分や排除の対象となります。主人公デヴィッドは、その世界に生まれた少年で、テレパシーという特殊能力を持っています。その能力を持った少数の少年少女たちは、互いにテレパシーで連絡を取り合いながらも、事の発覚を恐れて互いに直接会ったこともなく、顔も名前も知らないのです。そんな中、自分よりも強いテレパシーを持つ妹の能力が発覚し、危険を察知したデヴィッドは、妹ペトラを連れて仲間たちと村から脱出します。ペトラの強い能力が察知した、テレパシー能力を持った人々の住む世界を探し求めて。そこは、彼らを丸ごとの彼ら自身の存在のまま、無条件で受け入れてもらえる夢の世界です。スタージョンの「人間以上」とテーマは重なりますが、ここで紹介した他の作品の多くと違って、特に悩まずに読める内容であり、「アトムの子ら」と同様に、ジュヴナイル的な瑞々しさを感じさせる作品です。
出版状況➡イギリスの重鎮であったジョン・ウインダムの代表作の一つですが、長く絶版状態で、古書でしか手に入りません。
アルジャーノンに花束を(1959・1966)ダニエル・キイス著
「頭が良くなりたい」と願っている知能指数70の障害者が、外科手術によって、知能指数300をこえる超天才になる物語です。その過程の様子が、主人公チャーリーの日記(経過報告)というかたちで、非常にリアルに語られます。やがて、知能が高くなったチャーリーは、自意識の目覚めに比例して、それまで持っていた他者への信頼と満ち足りた幸福感を失っていき、深い孤独に苛まれるようなります。同時に「自分がなぜそれほどまでに頭が良くなりたかったのか?」に気づくようになります。チャーリーは、自分を施設に置き去りにした両親に、迎えに来てもらいたかったのです。そして、「よくやったぞ、チャーリー」と褒めてもらいたかったのです。しかし、再会した母親は話もできないほど惚けており、父親は見違えたチャーリーのことがわからず、目の前に立って話していても全く気づきません。超天才となったチャーリーは、生きる目的を喪失してしまいます。この物語は、幼い頃から教育熱心な親たちへの痛烈な警告の書であり、同時に受験世代の人々に、凝り固まった価値観からの脱却を促すものです。「貴方は何のために頭が良くなりたいのですか?」「幸せな障害児と不幸な天才、貴方はどちらを選びますか?」と。
出版状況➡1959年度ヒューゴー賞中編賞を受賞した同名の中編を、そのまま長編化し、1967年度ネヴュラ賞長編賞を受賞しました。長編版の方は、出版界でも珍しいロングセラーを続けている小説で、いつでも新書が入手可能な状態です。中編版は、世界SF大賞傑作選2(講談社文庫)に収められていますが、現在絶版で古書でしか手に入りません。
ライアへの讃歌(1974)ジョージ・R・R・マーティン著
星間調査を担当している調査官が、テレパシーで意識を共有する集合生命体に取り込まれるお話です。ジョン・レノンの「イマジン」の歌詞に代表されるような、1960~70年代前半のカウンターカルチャーの思想の中心である「世界の人々が一つになる」という〝理想〟は、70年代後半から80年代にかけてのニューエイジ運動に引き継がれ、90年代以降のスピリチュアル・ムーブメントをもたらします。その新プラトン主義などを源流とする興味深い〝思想〟が、カルト的な〝信仰〟となってしまう現状への警鐘として、この小説はあります。主人公は、恋人でもある同僚の調査官を、集合生命体から引き離そうと努力します。しかし、彼女は「私は今まで経験したことのないほどの、平和な安心感と喜びの中にいるのよ」と、ほとんど恍惚状態です。そして、例えようのない幸福感に包まれて「さあ貴方も私たちと一つになりましょう」と逆に熱心に彼を誘うのです。集合生命体にすっかり取り込まれてしまった恋人ライアと決別し、主人公はたった独りで星の海へと旅立っていきます。この作品のテーマは、「共感と安心感に満ちた理想的な集団引きこもりカルトの誘惑に克つ」です。
出版状況➡世界SF大賞傑作選8(講談社文庫)に収められています。1975年度ヒューゴー賞を受賞した中編小説ですが、長く絶版状態で、古書でしか手に入りません。
鳥の歌いまは絶え(1976)ケイト・ウィルヘルム著
環境破壊によって地球上の生命が死に絶えつつある近未来、人類もまた生殖能力を失い、滅亡の危機に立ちます。科学技術者たちは、人類存続の最終手段として、クリーン技術によって、赤子を誕生させます。人口が維持できなくなって文明は崩壊し、 他の多くの生物も死滅しつつある、滅びゆく世界の一角、外界から隔絶した谷間の研究所で、子どもたちは大きくなります。そして、人口を増やすべくクローンの出産を重ねるうちに、同じ遺伝子を持つ少年少女たちは、まったく自意識を持たず、代わりにテレパシーと言ってもよい共時性共感能力を持ち、たとえ離れていても完全に繋がっている感覚を維持するようになります。まさに「心が一つになった」ニュータイプの新人類の誕生です。しかし、そのクローン共同体では、突然変異で生まれたが故に、互いの共通感覚を維持できない「個性」を持ってしまった者は、異常者として排除されます。例えば、クローン技術を介さずに子どもをもうけ、かけがえのない我が子として育てようとする女性などは。こうして、この無機質な集団主義に混ざれない先祖返りした者は、研究所のある谷を離れて、新天地を目指して旅立つしかないのです。ところが、死に絶えていると思われていた外の世界の生き物は、人間を除いて生き残り、豊かに蘇っていました。そこで、この母子は、歪んだエデンの園である谷から、奴隷的使役をされていた代理母女性たちを解放し、人類を再生させるのです。著者は一貫して、対象にのめり込まず、一歩離れた視点から、非常に客観的に物語っています。その乾いた冷徹な描写は、ある意味、非常に個性的です。
出版状況➡1977年度ヒューゴー賞・ローカス賞を受賞した長編小説です。サンリオSF文庫から出版されていましたが、現在は古書でしか手に入りません。版元のサンリオが、今は存在しないので、古書でも多少高価です。
残像(1978) ジョン・ヴァーリィ著
1990年代のヒッピーの男(47歳)が、シカゴからカリフォルニアへ、さらには日本を目指して、ヒッチハイクの旅をする近未来の話です。男は、その旅の途中で、全盲全聾の人々が暮らすコミューンに出くわします。そして、そこで、目も視えず、耳も聴こえない人たちの間で、5ヶ月を過ごすのです。
男は、最初、そこに住む人々は、致命的なハンディキャップを抱えて、ずいぶん不自由な人生を生きていると感じていましたが、いつしか、その感覚が逆転しはじめます。 もしかしたら、彼ら視聴覚障害者たちの方が、我々視え聴こえる健常者よりも、はるかに豊かな人生を送っているのではないか、と。なぜなら、目も視えず耳も聴こえない彼らの触覚によるコミュニケーションは、声や文字によるコミュニケーションよりも、はるかに表情豊かで、素早く、正確で、内容が深く、親密で、濃密なものだったからです。男は、そこに暮らしているうちに、彼らとの共感に満ちた交わりの中に、徐々に溶け込んでいきました。
この辺りの展開は、「ライアへの賛歌」「鳥の歌いまは絶え」の状況を、より肯定的に描いたもの、と言えるでしょう。どうも、この時期、1970年代のアメリカでの文学的テーマとして、この〝共感〟の問題をどう取り扱うか、というのが、とても重大で避けて通れないものになっていたのかもしれません。
この作品では、テレパシーの能力は、公然と確定的には出てきません。しかし、密やかに、暗に示されている彼らの能力は、単なるテレパシーなどはるかに凌駕するであろう、別次元の能力です。
出版状況➡️1978年度ネビュラ賞、1979年度ヒューゴー賞・ローカル賞を受賞したヴァーリィの出世作。同名の短編集は絶版となっていますが、現在、著者の代表作を集めた中短編集「逆行の夏」が刊行されており、その中に収録されていますので、入手可能です。
それにしても、今回紹介した作品について、10作品中8作品が絶版状態というのは、実に嘆かわしい事態です。現代人が、いかに本を読まないか、読書離れの甚だしさを物語っています。同時に、「超人テーマ」というジャンルそのものが、70年代に終焉を迎えたということを意味しているのかもしれません。
実際、80年代には、このテーマを主題とした見るべき作品は、私の知る限りでは皆無です。それから90年代になると、まったく異なる種類の超人たちが、創作されるようになります。その代表が、スティーブン・グールドの「ジャンパー(1992)」です。この作品では、主人公は自らのテレポート能力を、何の逡巡もなく存分に楽しみます。彼の心には、いかなる哲学的な葛藤も苦悩も、一切存在しません。彼にとっては、人智を超えた超能力も、単純に、たまたま与えられた〝gift〟にすぎないのです。
70年代までの価値観では、「何かを手に入れることは、何かを失うことだ」という諦念、あるいは「何かを手に入れるためには、何かを犠牲にしなければならない」という覚悟が、大なり小なり存在したのですが、そうした意識はすっかり影をひそめてしまいました。
90年代以降の価値観では、〝gift(才能・能力)〟というものは、何の代償もなく、すでにそこに用意されているものであり、それを与えられた人は、ためらうことなく喜んで受け取り、その力を思う存分振るえば良いということらしいです。この場合の〝gift(天の贈り物)〟には、生まれ落ちた環境・お金・地位・人脈・運といったものも含まれます。生まれながらに天によって用意されたものに、人はさして有り難みなど感じないものです。
こういう〝あっけらかん〟とした、天真爛漫な意識で生きている人にとっては、上記の物語群のような、人並外れた〝gift〟を与えられた超人の苦悩や葛藤など、まったく共感できない別世界の話としか感じられないでしょう。
また、70年代までのこのジャンルの作品に非常に目立つテーマの一つである、個としての自立と集団への依存の問題、あるいは異質な個性を持つがゆえの孤立と〝居場所〟を求めての彷徨という主題は、80年代以降流行らなくなり、90年代にはまったく見当たらなくなります。その代わりに、対象に深く共感することを求めないライトノベルが読書の主流となります。
「お膳立てされ、与えられるのを待つこと」に慣れた、90年代以降の子どもたちには、周囲に依存せずに自立しようともがく主人公や、自らの居場所を求めて独り彷徨う主人公に、深く共感することなどまずできません。自立や彷徨なんて、そんな〝おそろしい〟ことに挑む気は、さらさらないからです。
闘士 (ハヤカワ文庫SF)/早川書房

¥432
Amazon.co.jp
アトムの子ら (ハヤカワ文庫 SF 447)/早川書房

¥441
Amazon.co.jp
アルジャーノンに花束を/早川書房

¥1,620
Amazon.co.jp
世界SF大賞傑作選(ヒューゴー・ウィナーズ) 8 (講談社文庫)/講談社

¥367
Amazon.co.jp
人間以上 (ハヤカワ文庫 SF 317)/早川書房

¥842
Amazon.co.jp
鳥の歌いまは絶え (1982年) (サンリオSF文庫)/サンリオ

¥626
Amazon.co.jp
スラン (ハヤカワ文庫 SF 234)/A.E.ヴァン・ヴォクト

¥503
Amazon.co.jp
さなぎ (ハヤカワ文庫 SF 325)/ジョン・ウィンダム

¥475
Amazon.co.jp
逆行の夏 ジョン・ヴァーリイ傑作集 (ハヤカワ文庫SF)/ジョン・ヴァーリイ

¥価格不明
Amazon.co.jp