昔、「妖怪人間ベム」というアニメが、テレビで放送されていました。毎回、冒頭で主題歌が流れるのですが、「闇に隠れて生きる。俺たちゃ妖怪人間なのさ。人に姿を見せられぬ。獣のようなこの姿。早く人間になりたい」という歌詞が、本当に印象的でした。「必死に努力しないと人間に成れない」という主人公たちの状況が、奇妙にも思え、胸が痛くもさせられました。
また、「ピノキオ」という児童文学の名作があります。この作品の中では、やはり木製人形のピノキオが、人間になるために命懸けの旅を続けます。その旅の中で、悪戦苦闘を繰り返しながら、経ていく体験の数々が、ピノキオの魂を磨いて人間に近づけていくのです。「人間になるって、外見だけの問題じゃないのか」と、子どもながらも、いろいろ深い物思いを促してくれる本でした。
さらに、また、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」というSF作品があります。この小説の中では、人間とアンドロイドは外見ではまったく見分けがつきません。能力ではむしろアンドロイドの方が優秀なくらいです。なので、自分を人間と思い込んでいるアンドロイドも出てきますし、逆に「自分はアンドロイドではないだろうか」と疑う人間も出てきます。そして、解剖する以外に人間とアンドロイドを見分ける唯一の方法は、感情移入能力の有無を尋問中の瞳孔の観察によって判別するテストだけです。
「はたして自分は人間なのだろうか?」という疑問を抱くという感覚は、当時のわたしにとって非常に新鮮なものでした。同時に、自分のアイデンティティーの根底を揺すぶられるような危うさも感じさせられました。それに、自分の内側に、確かに同じ疑問があることを、はっきり確認させられたことも事実です。わたしは当時、自分の共感能力や感情移入能力に、あまり自信がなかったのです。
「今は〝人間〟とは言えなくても、いつかは胸を張って、自分は人間だと言いたい」その時、わたしは、ピノキオやベムたちが、あれほどまでに切実に人間になりたがっていたその気持ちを、身を持って味わうことになったのです。わたしにとってこの願望は、それまで抱いたことのあるどんな欲望よりも強い切なる願いとなり、その後の私の人生を方向付けました。
ユーゴーの名作「レ・ミゼラブル」の第一章で、主人公ジャンバルジャンが、司教閣下の家に泊めていただいたのに、銀の燭台と食器を盗んで夜中に忍び出す場面があります。警察に捕まって司教の前に引き出された時、司教は警察官に「この食器と燭台は、わたしがこの人に差し上げたのです」と言います。それからジャンバルジャンの耳元に口を寄せて「これであなたは生まれ変わるのです」と囁きます。そして、そこからジャンバルジャンの長い旅路が始まります。
この本を読んだ時、私の中で何かが震えるような気がしました。同じように「星の王子様」も、「ナルニア国物語」も、「ゲド戦記」も、わたしにとっては、〝生まれ変わる〟人の物語と感じられました。
こうして「自分は生まれ変わることができるだろうか?」という疑問と憧憬は、思春期の中心課題となって、当時のわたしの心の大きな部分を占め続けました。その頃、わたしの中では、これからの人生をかけて、〝人間への遠い道のり〟を歩もうと、そんな思いが、おぼろげながらも形をとりつつあったのです。
ル・グィンの短編小説に「オメラスから歩み去る人々」という作品があります。オメラスという幸福な人々の住む素晴らしい都市の話です。その都市の人々は、たった一人の子どもを獄に繋ぎ、糞尿まみれの中に放置することを条件に、永遠の幸福を約束されています。多くの若者は、思春期にはそのことで思い悩みますが、やがて、その子どもの存在を忘れ、幸せを享受するようになります。
けれども、時にはそのオメラスから立ち去っていく人もいるのです。見果てぬ荒野へと、大抵は一人きりで、ひっそりと旅立って行きます。不思議なことに、皆、ためらうことなく方角を定めて歩いていくのです。まるで、自分の向かうべきところを知っているかのように。
当時わたしも、徐々にではありますが、「オメラスから歩み去る人々」のように、たった一人きりでも怯まずに、遠い星を見つめて歩きたいと、心の中でそんな気持ちが育ちつつありました。それがおそらく、わたしの人間としての成長の出発点だったのでしょう。孔子の「15歳にして学を志す」という言葉にも、あの頃、何かを感じていた気がします。
「人間になる」「人間として在る」ということは、考えようによっては、とても一筋縄ではいかない難しいことです。昔から「歳を経れば、自然と人間として成長していく」とも言いますが、現代社会では、なかなかそううまくはいきません。それだからこそ、子育てもまた、今はとても難しいことになっているのです。
「子どもは自然と勝手に成長して大人になっていくもの」と考えていらっしゃる大人は、現代もおそらく多いのではないかと思います。確かに、今でも、ある面ではそうかもしれません。けれども、なかなかそうはならない現代特有の要因がいくつかあるのです。
その一つとして、「子どもの内面世界に、成長のイメージが豊かに育まれにくい」ということがあります。というのも、子育て中の親の世代自体が、そうした内的成長のイメージを、あまり持っていないからです。偏差値がいくつで、どこの大学にいけるとか、内申がいくつで、模試の判定がAだとかBだとか、実際には、多くの親が、数値化された〝客観的〟評価にしか興味がないのです。しかし、そのような親の態度は、子ども自身の自己肯定感を著しく弱めます。「数字で証明されない自分の内面など、何の価値もないんだ」と、子どもに思わせてしまうのです。そこから極端な優越感と劣等感がともに生じてきます。人を見下し、見下される世界に生きることになります。
そして、「何もかもお膳立てしてあげるのが親の義務である」と勘違いしている親がいます。子どものつまずきそうな小石は先回りして拾ってあげ、登るのが辛そうな壁が見えたら梯子を掛けてあげる。そうして、自分を誇らしく思い、親の義務はすべて果たしている気になっているのです。しかしそれは、子育てに伴うのっぴきならない問題を、自分で引き受けて悩み抜く代わりに、「可能ならすべてお金で解決してしまおう」という、実に怠惰で安易な態度の現れにすぎません。
そのような「世間並みに熱心な」親の用意した、一見至れり尽くせりの環境で、妙に怖いもの知らずに育った子どもは、ひどく自己中心的になります。加えて、お膳立てされるのに慣れ過ぎて、生きていく上での実際的な知恵が少しも身につきません。さらには「自分が周囲から何でもお膳立てしてもらって当たり前」という、限りなくわがままな感覚が、骨まで染み付いてしまい、自尊心ばかりが強い依存型の性格を育ててしまいます。
こんな子どもは、一生、殿様・お嬢様です。普段は他人の心には一切興味がなく、自分が被害を受けた時だけ、いたく不興を示します。そして、他人のアラばかり見るようになります。
その一方で、子どもを監視せずにはいられない親もいます。子どもが中学生になっても高校生になっても、鍵のかかる部屋は与えません。それどころか、親がいつでもすぐ入ってこれる上に、何をしていても筒抜けの部屋を与えられる子どももいます。
このように、まったくプライバシーのない気の休まらない部屋で、生活させられている子は、ひどく神経質でイライラしやすい性格になります。また、そのような環境で育った人は、成人を過ぎても、性格がひどく子供っぽく、態度もまったく落ち着きません。何でもないことでも、感情の起伏が激しくなり、ふとした拍子に激情を爆発させます。そして、いくつになっても、なかなか親離れしません。
このように、子ども自身の〝成長〟へ向けての内的イメージの貧困・喪失は、むしろ経済的に余裕があって、子育て・教育に野心的な親が、自由に子どもをいじり回せる環境で生じます。親にとって都合のいい環境は、子どもの成長にとっては最悪の環境なのです。そうした〝恵まれた〟環境にいる子どもは、「人間に成る」ための大切な期間・空間を、親に邪魔され奪われているようなものです。
子育てという以前に、自らの内面の成長にすら関心のない親は、子どもの成長の阻害要因にしかなっていない場合も多いのではないでしょうか。「自分の魂に気を遣わない人は必ず不幸になる」という格言は、ここでも当てはまります。ただし、この格言は、「他人の魂に配慮することはない」という意味ではありません。正確にいうと「自分の内面に興味のない人が、他人に興味を持つと、ろくなことにならない」ということです。
そもそも、自分の内面の感覚を研ぎ澄ませていなければ、他人の魂に配慮することなど到底不可能です。そして、幼少時から周囲に配慮されなかった魂は、多くの場合、内面感覚を十分に発達させることができないのです。これが負の連鎖を生みます。
わたしたちは、〝学ぶ〟ということの意味を、根本的に問い直さなければなりません。知識を獲得し、自由にそれを利用する。それだけでは、ただのNews Catcherです。内なる〝気づき〟がなければ、人は何ひとつ学ぶことはできないのです。
風の十二方位 (ハヤカワ文庫 SF ル 1-2) (ハヤカワ文庫 SF 399)/アーシュラ・K・ル・グィン

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さらに、また、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」というSF作品があります。この小説の中では、人間とアンドロイドは外見ではまったく見分けがつきません。能力ではむしろアンドロイドの方が優秀なくらいです。なので、自分を人間と思い込んでいるアンドロイドも出てきますし、逆に「自分はアンドロイドではないだろうか」と疑う人間も出てきます。そして、解剖する以外に人間とアンドロイドを見分ける唯一の方法は、感情移入能力の有無を尋問中の瞳孔の観察によって判別するテストだけです。
「はたして自分は人間なのだろうか?」という疑問を抱くという感覚は、当時のわたしにとって非常に新鮮なものでした。同時に、自分のアイデンティティーの根底を揺すぶられるような危うさも感じさせられました。それに、自分の内側に、確かに同じ疑問があることを、はっきり確認させられたことも事実です。わたしは当時、自分の共感能力や感情移入能力に、あまり自信がなかったのです。
「今は〝人間〟とは言えなくても、いつかは胸を張って、自分は人間だと言いたい」その時、わたしは、ピノキオやベムたちが、あれほどまでに切実に人間になりたがっていたその気持ちを、身を持って味わうことになったのです。わたしにとってこの願望は、それまで抱いたことのあるどんな欲望よりも強い切なる願いとなり、その後の私の人生を方向付けました。
ユーゴーの名作「レ・ミゼラブル」の第一章で、主人公ジャンバルジャンが、司教閣下の家に泊めていただいたのに、銀の燭台と食器を盗んで夜中に忍び出す場面があります。警察に捕まって司教の前に引き出された時、司教は警察官に「この食器と燭台は、わたしがこの人に差し上げたのです」と言います。それからジャンバルジャンの耳元に口を寄せて「これであなたは生まれ変わるのです」と囁きます。そして、そこからジャンバルジャンの長い旅路が始まります。
この本を読んだ時、私の中で何かが震えるような気がしました。同じように「星の王子様」も、「ナルニア国物語」も、「ゲド戦記」も、わたしにとっては、〝生まれ変わる〟人の物語と感じられました。
こうして「自分は生まれ変わることができるだろうか?」という疑問と憧憬は、思春期の中心課題となって、当時のわたしの心の大きな部分を占め続けました。その頃、わたしの中では、これからの人生をかけて、〝人間への遠い道のり〟を歩もうと、そんな思いが、おぼろげながらも形をとりつつあったのです。
ル・グィンの短編小説に「オメラスから歩み去る人々」という作品があります。オメラスという幸福な人々の住む素晴らしい都市の話です。その都市の人々は、たった一人の子どもを獄に繋ぎ、糞尿まみれの中に放置することを条件に、永遠の幸福を約束されています。多くの若者は、思春期にはそのことで思い悩みますが、やがて、その子どもの存在を忘れ、幸せを享受するようになります。
けれども、時にはそのオメラスから立ち去っていく人もいるのです。見果てぬ荒野へと、大抵は一人きりで、ひっそりと旅立って行きます。不思議なことに、皆、ためらうことなく方角を定めて歩いていくのです。まるで、自分の向かうべきところを知っているかのように。
当時わたしも、徐々にではありますが、「オメラスから歩み去る人々」のように、たった一人きりでも怯まずに、遠い星を見つめて歩きたいと、心の中でそんな気持ちが育ちつつありました。それがおそらく、わたしの人間としての成長の出発点だったのでしょう。孔子の「15歳にして学を志す」という言葉にも、あの頃、何かを感じていた気がします。
「人間になる」「人間として在る」ということは、考えようによっては、とても一筋縄ではいかない難しいことです。昔から「歳を経れば、自然と人間として成長していく」とも言いますが、現代社会では、なかなかそううまくはいきません。それだからこそ、子育てもまた、今はとても難しいことになっているのです。
「子どもは自然と勝手に成長して大人になっていくもの」と考えていらっしゃる大人は、現代もおそらく多いのではないかと思います。確かに、今でも、ある面ではそうかもしれません。けれども、なかなかそうはならない現代特有の要因がいくつかあるのです。
その一つとして、「子どもの内面世界に、成長のイメージが豊かに育まれにくい」ということがあります。というのも、子育て中の親の世代自体が、そうした内的成長のイメージを、あまり持っていないからです。偏差値がいくつで、どこの大学にいけるとか、内申がいくつで、模試の判定がAだとかBだとか、実際には、多くの親が、数値化された〝客観的〟評価にしか興味がないのです。しかし、そのような親の態度は、子ども自身の自己肯定感を著しく弱めます。「数字で証明されない自分の内面など、何の価値もないんだ」と、子どもに思わせてしまうのです。そこから極端な優越感と劣等感がともに生じてきます。人を見下し、見下される世界に生きることになります。
そして、「何もかもお膳立てしてあげるのが親の義務である」と勘違いしている親がいます。子どものつまずきそうな小石は先回りして拾ってあげ、登るのが辛そうな壁が見えたら梯子を掛けてあげる。そうして、自分を誇らしく思い、親の義務はすべて果たしている気になっているのです。しかしそれは、子育てに伴うのっぴきならない問題を、自分で引き受けて悩み抜く代わりに、「可能ならすべてお金で解決してしまおう」という、実に怠惰で安易な態度の現れにすぎません。
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こんな子どもは、一生、殿様・お嬢様です。普段は他人の心には一切興味がなく、自分が被害を受けた時だけ、いたく不興を示します。そして、他人のアラばかり見るようになります。
その一方で、子どもを監視せずにはいられない親もいます。子どもが中学生になっても高校生になっても、鍵のかかる部屋は与えません。それどころか、親がいつでもすぐ入ってこれる上に、何をしていても筒抜けの部屋を与えられる子どももいます。
このように、まったくプライバシーのない気の休まらない部屋で、生活させられている子は、ひどく神経質でイライラしやすい性格になります。また、そのような環境で育った人は、成人を過ぎても、性格がひどく子供っぽく、態度もまったく落ち着きません。何でもないことでも、感情の起伏が激しくなり、ふとした拍子に激情を爆発させます。そして、いくつになっても、なかなか親離れしません。
このように、子ども自身の〝成長〟へ向けての内的イメージの貧困・喪失は、むしろ経済的に余裕があって、子育て・教育に野心的な親が、自由に子どもをいじり回せる環境で生じます。親にとって都合のいい環境は、子どもの成長にとっては最悪の環境なのです。そうした〝恵まれた〟環境にいる子どもは、「人間に成る」ための大切な期間・空間を、親に邪魔され奪われているようなものです。
子育てという以前に、自らの内面の成長にすら関心のない親は、子どもの成長の阻害要因にしかなっていない場合も多いのではないでしょうか。「自分の魂に気を遣わない人は必ず不幸になる」という格言は、ここでも当てはまります。ただし、この格言は、「他人の魂に配慮することはない」という意味ではありません。正確にいうと「自分の内面に興味のない人が、他人に興味を持つと、ろくなことにならない」ということです。
そもそも、自分の内面の感覚を研ぎ澄ませていなければ、他人の魂に配慮することなど到底不可能です。そして、幼少時から周囲に配慮されなかった魂は、多くの場合、内面感覚を十分に発達させることができないのです。これが負の連鎖を生みます。
わたしたちは、〝学ぶ〟ということの意味を、根本的に問い直さなければなりません。知識を獲得し、自由にそれを利用する。それだけでは、ただのNews Catcherです。内なる〝気づき〟がなければ、人は何ひとつ学ぶことはできないのです。
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