ゴフスタインはアメリカの絵本作家で、とても個性的で味わい深い絵本を作る人です。彼女の諸作品は、今も日本国内でいくつか読むことができます。
しかし、この「私のノアの箱舟(1980 落合恵子訳/アテネ書房)」(原題「My Noah's Ark 」)は、ゴフスタインの代表作でありながら、今ではamazonなどで古書を探しても、まったく取り扱われていません。現在、ほぼ入手不可能の状態です。
かわりに、すえもりブックスという出版社から、谷川俊太郎さんの訳で、同じ本が出版されています。それが「おばあちゃんのはこぶね(1996)」という絵本です。タイトルは異なりますが、原作は同じで、本の装丁もまったく一緒です。ただ出版社と訳者が違うだけです。そして、この本ならば、同じく絶版ではありますが、古書でならかなりいい状態の本が手に入ります。ところが、見かけは一緒でも、訳文がまったく別物です。
例えば、絵本の一番最後の部分ですが、『過ぎた日の喜びや悲しみは、七色の虹となって、やわらかな陽の光のように、私の心を暖めてくれるのです(落合訳)』という一文が、『よろこびとかなしみは にじのよう、それがわたしをあたためてくれる おひさまのように(谷川訳)』となっています。
落合さんの文章が、長い年月を生きてきた90歳のおばあちゃんの年輪のような存在感を思わせる気品のある語り口になっているのに対して、谷川さんの文章は、詩人谷川俊太郎のカラーを、ほぼ全面に打ち出しています。
けれども、そのせいで、絵本の語り手が、おばあちゃんの言葉ではなくて、谷川さん本人の語り口で話しているような、強い違和感を与えるものになってしまっています。訳者である谷川俊太郎さんの存在感が強すぎて、何より肝心の、絵本の中のおばあちゃんの存在感が、かき消えてしまっているのです。訳者が作品を殺してしまう、そうした悪い例になってしまっています。
わたしは落合恵子さんの翻訳が、谷川俊太郎さんの翻訳よりも、常に優れているなどと、偉そうに断定するつもりは毛頭ありません。しかし、この作品「My Noah's Ark」だけに関して言えば、二つの訳文の差は圧倒的です。
旧版の「私のノアの箱舟」を読んで、落合さんのしっとりとした名訳の言葉が、深く胸に刻まれた後で、谷川さん訳の新版「おばあちゃんのはこぶね」を開くと、読感のあまりの落差に愕然としてしまいます。

実は、わたしは最近、友人に読ませたいと思って、贈るために、この昔から大好きな本を、もう一冊買おうとしたのです。けれども、ネットで旧版の本を探しても見つからず、やむを得ずこの新版を購入しました。そして、期待と不安の中で、初めて谷川さんの訳本を読んだのです。
訳者も違えば、タイトルも違うということで、大丈夫かなあ、と、多少心配ではあったのですが、旧訳の方はまったく手に入らないという状況では致し方ありません。それなりに良い翻訳であることを願いつつ、恐る恐るページをめくり、ちらっと中を見るとすぐに、あっと驚かされました。
新版『九十ねんまえ、わたしがこどもだったとき、ちちがはこぶねをつくってくれた(谷川俊太郎訳)』
旧版『もう90年もむかし、私が、小さな女の子だったころ、父さんが、私に箱舟を作ってくれました(落合恵子訳)』
「言葉が、まるで違う!」わたしは思わず頭を抱えて呻きました。新しく購入した新版では、旧版にある名作の香りが消え失せていたのです。長い間、大切に思ってきた作品世界を、めちゃめちゃにされたような気がして、悲しくなりました。この訳では、とても大切な友人に贈る気にはなれません。
訳者の思い入れが伝わってくるような、落合さんの丁寧な文章に比べて、谷川さんの訳文は、あまりにチグハグで素っ気なく、作品世界にまったくそぐわない、無味乾燥で味気ない文章に感じます。わたしは谷川さんの詩人としての才能にケチをつける気はありませんが、この訳文に関してだけは、その感性に疑問を持たずにはいられません。谷川さんは、いったいどのように、この本(原書あるいは落合訳)を読んだのでしょうか。
谷川さんは、もともと詩人であり創作者です。同じように言葉を紡ぎ出すという点で、創作者も翻訳者も似たようなものだと、一般的に思われているかもしれません。けれども創作者と翻訳者は、決定的に違う点が一つあります。それは「翻訳者は他人の作品を自分の色で染め上げてはいけない」ということです。
翻訳家は、自分の〝我〟や〝色〟を出そうとはせずに、原書の本質(魂)だけを掬いあげようと、一筋にストイックに努力するべきです。谷川さんの訳は、絵本を自分の色に染め上げてしまい、結果として、作者と作品世界を、ないがしろにしてしまっている気がします。
残念なことに、今、ゴフスタインの作品で、日本で読める作品は、ほとんどすべて、すえもりブックスの出版で、谷川さんの翻訳です。すえもりブックスさんも、なぜ、落合さんの訳文のままでなく、新たに全面的に翻訳をやり直して出版したのでしょう。谷川俊太郎さんのネームバリューで売ろうとしたのでしょうか。

谷川俊太郎さんの訳だからとか、村上春樹さんの訳だからとか、大切なのは〝名前〟だけなのでしょうか。それとも、谷川さんなら、あるいは村上さんなら、盲目的にすべて良いと思ってしまうのでしょうか。それでは一種のミニ宗教、谷川教・村上教になってしまいます。
しかし、誰でも向き不向きというものがあると思うのです。少なくともわたしは、村上春樹訳のチャンドラーを読みたいとは思いません。両者の魂の質が違いすぎるからです。別にチャンドラーが上と言っているのではありません。ただ、ミスマッチなのです。
とはいえ、もっと率直に言えば、村上龍さんや村上春樹さんの小説を何冊読んだところで、心の中の〝言の葉〟は、少しも養われはしないとわたしは感じます。彼らの文章は、どこか日本語として言葉がしっくりこないというか、不自然に感じるのです。相性が合わないのかもしれません。そして、同じように、この谷川さんの訳の文章も、結果として、安直で不自然な言葉の羅列になってしまっていると思うのです。
新版『つくるのがたのしそうだった、どうしてかというと、とびらのむこうから、きこえたことがあったから、かみさまみたいなげんきなこえが。「ながさは三百キュービット」(谷川訳)』
旧版『父さんが、その箱舟をとても楽しそうに作っていたことを、いまでも、よく覚えています。ドアのむこうがわ、父さんの声が、まるで神様のように、ひびきわたりました。「舟の長さは300キュービットにするのだ」(落合訳)』
二つの訳を比べると、まったく別のお話のようです。
しかし、わたしは、そもそものところは、日本の小説家や詩人にケチをつけたくて、こんなことを書いているのではありません。そして、他人の好みに難癖をつけたいわけでもありません。人が誰の作品を好きになろうと、それはもちろん自由なのです。
「コインロッカー・ベイビーズ」「愛と幻想のファシズム」「希望の国のエクソダズ」など、パルプマガジン風の村上龍の作風が好きな人もいるでしょうし、「風の歌を聴け」「羊をめぐる冒険」「ノルウェーの森」など、村上春樹の引きこもり文学が好きな人もいるでしょう。わたしもそれらの作品を楽しんだ時期もありました。それはそれで構わないのです。何れにせよ、それらの作品は本人の書いた作品ですから。もちろん、谷川さんの詩集が好きだって、一向に構わないのです。
しかし、他人の作品の翻訳をするとなると、これは話が別です。他人の作品を、自分の独りよがりな感覚で解釈するのは、他人の魂に無造作に触れることのように、わたしは感じます。見方によっては、原作者に対して、とても失礼な行為になることもあるのではないでしょうか。その意味で、ゴフスタインの翻訳として、谷川さんの訳は、かなり問題があるのではないかと思うのです。
まずタイトルからして、主人公の独白(語り)という絵本の内容に則した旧版の『私のノアの箱舟』が、どうして三人称の『おばあちゃんのはこぶね』になってしまったのでしょうか。この絵本は、もともと子供向けの絵本ではありません。大人がじっくり味わう作品です。本好きにとっては、一生ものの作品なのに、こんなしっくりこないタイトルや訳文では残念です。

作品そのものの魅力が伝わりにくい翻訳でしか、この名作が手に入らないという現状は、作者ゴフスタインにとっても、日本の読者にとっても、とても不幸な状況です。一方で、良い絵本が、こんな風に直ぐに絶版になるのは、日本人の精神の〝質〟の低下を象徴しているようで、悲しくなります。もっとも、これは絵本に限ったことではありませんが。
平成になって以降、書物の質と品性は、下る一方という気がします。ライトノベルや携帯小説などの、どこまでも〝軽い〟言葉が氾濫する中で、本当に質の高い絵本や児童文学などは、片隅に追いやられています。それに、絶版が多くて、本によっては、古本ですら、なかなか手に入らないものもあります。
加えて思うのは、この二種類の翻訳の文章の差が、そのまま昭和(1980)と平成(1996)の言葉の差を象徴しているのではないかということです。昭和から平成になって、話し言葉も書き言葉も活字も、すべての言葉が本当に軽く素っ気なくなりました。
ところが、この言葉の質の落差に、多くの人が気づきすらしないのです。それこそが、現代人の心の〝闇〟なのかもしれません。かなり大勢の人が、言葉というものを、知識やデータや考えや意志を伝える道具としか思っていないので、聞いて頭で理解できればいいと思っているのです。彼らの心に巣食っている虚無感の正体は、味も素っ気もない空虚な言葉、つまり、固有の経験に基づかない漂白された軽い言葉しか吸収してこなかった内面の貧困にあるのではないでしょうか。
平成の若者たちと関わっていると、「わからない」「感じない」「ピンとこない」「まともな言葉にならない」「人のことなどどうでもいい」という反応が返ってくることが、しばしばあります。そして、そうした〝ぼんやりとした鈍い身勝手さ〟は、彼らの心の中の固有の経験に基づかない〝白い闇〟から生じているのではないかと思うのです。
ここでわたしが言っている〝白い闇〟というのは、固有の重い経験によって生じた心の〝黒い闇〟とは対照的に、固有の濃密な経験を持たないがゆえに生じた心の闇のことです。1970年代を境に、日本の子どもたちの心の世界では、黒い闇が急速に消えていき、白い闇が取って代わるようになりました。
70年代以降、日本の子どもたちは「勉強さえしていればいい」「自分のことだけ考えなさい」と親に言い続けられて育つようになりました。そのために、程度の差はあっても、〝絶え間ない管理〟と〝実経験の欠如〟がもたらした、潤いと余裕のない内面を抱えているのです。これは特に成績の優秀な〝良い子〟に顕著です。常に何らかの〝評価〟の前にさらされ続けたために、子どもたちの心の内に生じた虚無と、内的成長を阻害されたことによる根深い幼児性、これが〝白い闇〟の正体です。
平成になると、親から子へと濃縮された白い闇は、心の中でますます支配的な力を振るうようになっています。周囲のより高い評価を得るために、彼らが続けている努力の邪魔になる、あらゆる無駄な経験を寄せ付けず、彼らの精神は、若くして未経験なまま、頑固に凝り固まって老化していくようです。そして、本人にはまったく無自覚な〝想像力の枯渇〟と根深い〝自己中心性〟が、表面的な過敏性と奥底の鈍感さの裏側に隠れて、際限なく補強されているのです。
その意味では、世代的には谷川さんの方が15歳も上ですが、むしろ、落合さんの文章が、黒い闇との格闘の痕を感じさせるものがあり、谷川さんの文章は逆に白い闇との内なる対峙を感じさせます。谷川さんの方が「今日的」なのです。けれどもわたしは、固有の濃密な経験に裏付けられた黒い闇からでなければ、〝言葉〟が真の力を得ることはできないと思うのです。
さて、ここまで特に、平成生まれの子どもたちの批判をしてきました。とは言え、子どもの精神が貧弱になるのも、実は親の世代の大人たちの貧弱さのせいであることは確かです。子どもは大人の鏡ですから。それに、頑迷で成長の止まった大人たちよりも、まだ心も身体も柔らかい子どもたちの方にこそ、本当はまだまだ希望があるのです。子どもは、ほんの小さなきっかけでも、どんどん変わっていきます。
そのためにも、質の良い文学作品に、子どもたちが触れる機会を、少しでも多く作っていけたらと思うのです。さもなければ、この国での言葉の力の復権は到底あり得ません。そして、言葉の復権がなければ、心の復権も叶いません。
一冊の本が、一生の自分の宝になることだってあるはずです。ぜひとも、落合恵子訳「私のノアの箱舟」の復刊を願う次第です。

私のノアの箱舟 (1980年)/著者不明

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