最近、「怖い」という感覚のない人が増えている気がします。
「怖い」といっても、オバケが怖いとか、ジェットコースターが怖いとか、海で泳ぐのが怖いとか、入試が怖いとか、上司が怖いとか、そういうことではありません。また、テクノフォビア(ハイテク恐怖症)とか、アクアフォビア(水恐怖症)とか、先端恐怖症とか、閉所恐怖症とか、そういう類のことでもありません。
では、どういう「怖さ」について、最近の人は感じていないと、わたしが言いたいのかというと、「世間の人に対する畏れ(敬意)」とか、「神仏に不敬不遜を及ぼすことへの畏れ」とか、「親の教えに心の中で逆らうことへの畏れ」とか、そういう類の〝怖さ(畏れ)〟について、わたしは言いたいのです。あるいは、この感覚を〝畏れ多いという気持ち〟と言ってもいいと思います。
例えば、刺青をファッション感覚で、肌の露出している所に、ためらいなく入れられる地元の若者たち。沖縄に来て、チヤホヤされて、「自由でいいんだ」「好きなことをすればいいんだ」と、我が物顔で怖いもの知らずの活躍をする内地の若者たち。南部のシェーファー御嶽や久高島のフボー御嶽や大神島など、立ち入り禁止の聖地に、何の恐れもなく、いとも簡単に土足で踏み込める人たちがいます。
彼らが「畏れをまったく感じない」のは、畏れるべき対象を「あまりに軽く見ている」「侮っている」「バカにしている」ということです。しかし、沖縄では「あなたは世間を馬鹿にしている」という言い方をよくしますが、それだけ、伝統として「人(他人・親の教え・神仏)を軽んじてはいけない」という教えが、人間精神の土台である信仰心の根本として重要視されてきたのです。
また、昔から沖縄では、お盆の行事が非常に盛んですが、これもまた先祖に対する畏れの表現の現れと言えるかもしれません。旧盆の初日に死者の魂を自宅にお迎えし、それから三日間を一緒に過ごし、最終日に送り出すという風習は、多くの県民にとって馴染みの深いものです。けれども、そうした風習も、畏れの感覚が薄れていくにつれて、形骸化して消滅してしまうかもしれません。
そもそも、霊をお迎えして〝もてなす〟ということに何の実感も感じられなくなってしまったら、お盆という行事そのものに意味がなくなってしまいます。形式だけ線香をあげたって無意味です。最近は、その格好すらつけることをしない、線香をあげにすらいかない人たちが増えているようですが。
「まともな教育のある人たちは、霊など信じないし因習など重んじない」というのなら、結局は〝教育が文化を殺す〟ということになってしまいます。実際、日本では、そういう面もあるように思います。しかし、「教育が畏れを感じない子供たちをつくる」のだとしたら、その教育は明らかに間違った教育です。
怖さを知らないということは、良心が痛まないということです。例えば、沖縄には多くの基地地主の人たちがいて、毎年、国から借地料として何百万円、何千万円というお金を受け取っている人たちも、たくさんいます。
お金を受け取ること自体は、道義的にも法的にも何ら問題はありません。けれども「なぜ自分がこれほどの莫大なお金を受け取ることができるのだろう?」と真摯に自問した時、誠実な人であれば誰もが、ある種の「申し訳のなさ」「恐ろしさ」を感じることでしょう。「一体自分が何をしたから、これだけのお金(報酬?恵み?)を受け取る権利があると胸を張って言えるだろうか」と、空恐ろしい感覚に囚われることもあるはずです。そうした〝ある種の罪の意識〟の疼きこそが、ヴォネガットの小説の主人公ローズウォーターさん(*)も聴いたであろう〝良心の声〟です。
人には自由意志がありますから、一時はその良心の声に耳を塞ぐこともできるでしょう。「そんなことは気にする必要はない」「このお金は、法的にも道義的にも、まったく問題のない自分のお金なのだ」と、自分に言い聞かせることもできるでしょう。
けれども、よくしたもので、自分の良心の声に逆らい続けることは、本当に困難なことです。耳を塞ぎ、意識から追い払っても、自分の内部で響き続ける良心の声から逃れることは、到底できるものではないのです。
これは、基地地主だけに限った話ではありません。宝クジを当てた人も、株や財テクで儲けている人も、利ザヤやマージンで儲けている人も、親の遺産で食べている人も、実は皆同じなのです。彼らは遠からず、自らの良心の声に応えるか、それとも無視し続けるかを迫られるようになります。そして、その良心の声に応えなかった人は、遅かれ早かれ、その代償を払わされることになります。
ある人は、自分自身が健康を害したり精神を病むことになるでしょう。また、ある人は、最愛の者が健康を害したり、命を取られたりすることもあるでしょう。あるいは、繰り返し立て続けに突発的な災難に見舞われたり、表面的には平穏無事でも、なぜかまったく幸せを感じられなくなったりします。
こうして人は皆、誰もが自分の良心の声を無視した報いを受けることになるのですが、この不思議な現象は、自らの魂からのラスト・メッセージでもあります。そして、この警告(魂からの最後通牒)すら無視し、その明白なメッセージを頑なに拒み続けていると、いずれ強力無比な良心の報復・復讐作用によって、ついには完全に打ち倒されることになるのです。
どこまでも頑迷に、良心に逆らい続けたあげく、不治の病を発症して、あっけなく亡くなったり、降って湧いたような災難で、全財産を失って家庭が崩壊したりする人は後を立ちません。
*ひょんなことから億万長者になったものの、世界中の貧しい人たちに資産を分け与えようとする青年。カート・ヴォネガットの1965年の作品「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」の主人公。
長い目で見ると、この一連の現象は、人の魂の進化の段階の一部と言えます。短期的には精神の成長のステップの一つと言ってもいいでしょう。回復可能な余地を残している段階で、痛い目を見た分だけ何かを学ぶことができれば、それでよいのです。
けれども、ある種の〝選民意識〟というか、「自分は特別な存在なのだ」という誤った意識を持ち続けている間は、人はなかなか失敗の経験から学ぶことができません。その上、世の中で自分が一番偉い存在だと思っているうちは、他人の言葉によって諭されることもありません。
人の話も聴かず、失敗からも学ばないというのでは、救いようがありません。「馬鹿につける薬はない」「馬鹿は死ななきゃ治らない」というのは、まさしくこのことです。
これを基地地主に例えるなら、次のような状態と考えられます。まず、「自分は特別な才能・能力・恩恵を授かって生を受けた稀少な存在だ」と信じていて、そのために「自分にこれほどのお金が降ってきたのは、自分という人間が、かけがえのない稀な存在である揺るぎない証だ」と考えるようになり、ついには「そんな特別な自分には、やはり格別の地位や名誉が似つかわしい」と思い込むに至るのです。こうして、まず富を手にした基地地主たちは、今度は名誉ある地位を求めて、民生委員になったり、PTA会長になったり、議員になったりするわけです。
魂のステップアップではなく、社会的地位のステップアップを目指すのですね。それによって、魂はステップバックしていき、長い目で見ると、自分も周囲も不幸にしていくことになるのですが。昔から言われているように、己を利することばかり考えている人は、知らず知らず天の守りが薄くなるようです。
この利己主義は、家族しか信じないし大切にしないとか、地域的に連帯意識が強すぎて他所者は排斥するとか、自国人しか受け入れないという偏狭さにも通じます。そういう心の狭さも、天の守りを失う元凶となりえます。
繰り返しますが、「怖さを知らない」ということは、「自分の良心の声が聴こえない」ということです。そういう人は、そのことによって、いずれは自分自身か、そうでなければ周囲の大切な人を不幸にしてしまうのです。自分は大丈夫でも、家族に自殺者が出たり、精神を病む人が多かったり、癌を発病したりすることがよくあります。わたしは、これまで、そのように大きな代償を支払うことになった人たちを数多く見てきました。
けれども、怖いもの知らずの人々の中には「良心を持たない人」もいます。これは比喩的な表現ではなく、「精神の内に良心という機能がない(!)」という文字通りの意味です。人を傷つけ、弱らせること、苦しめることに快感だけを感じる人々です。アメリカには、そういう危険なサイコな人たちが、25人に1人いると言われます。日本でも増えているのではないでしょうか。例えば、小保方さんバッシングに執着するネット上の発信者たち(自称科学者の女性たち含む)にも、その傾向を強く感じます。そして、そういう人たちは、確実に周囲に災厄をもたらすのです。
彼らの中には、外的な規制やルール遵守に恐ろしくこだわる人たちが多いのですが、そもそも内的規制力(良心)の存在を信じていないので、社会道徳の維持のためには、徹底して外的ルールを強制するしかないと考えるためです。その一方で、いざ自分が窮地に陥りそうになると、保身のためならどんな手段を使ってもよいと考え、なりふり構わぬ浅ましい態度を露呈する傾向があります。その彼らを責め苛む〝心細さ〟〝不安〟こそが、良心の声に耳を閉ざした代償なのです。
「怖い」といっても、オバケが怖いとか、ジェットコースターが怖いとか、海で泳ぐのが怖いとか、入試が怖いとか、上司が怖いとか、そういうことではありません。また、テクノフォビア(ハイテク恐怖症)とか、アクアフォビア(水恐怖症)とか、先端恐怖症とか、閉所恐怖症とか、そういう類のことでもありません。
では、どういう「怖さ」について、最近の人は感じていないと、わたしが言いたいのかというと、「世間の人に対する畏れ(敬意)」とか、「神仏に不敬不遜を及ぼすことへの畏れ」とか、「親の教えに心の中で逆らうことへの畏れ」とか、そういう類の〝怖さ(畏れ)〟について、わたしは言いたいのです。あるいは、この感覚を〝畏れ多いという気持ち〟と言ってもいいと思います。
例えば、刺青をファッション感覚で、肌の露出している所に、ためらいなく入れられる地元の若者たち。沖縄に来て、チヤホヤされて、「自由でいいんだ」「好きなことをすればいいんだ」と、我が物顔で怖いもの知らずの活躍をする内地の若者たち。南部のシェーファー御嶽や久高島のフボー御嶽や大神島など、立ち入り禁止の聖地に、何の恐れもなく、いとも簡単に土足で踏み込める人たちがいます。
彼らが「畏れをまったく感じない」のは、畏れるべき対象を「あまりに軽く見ている」「侮っている」「バカにしている」ということです。しかし、沖縄では「あなたは世間を馬鹿にしている」という言い方をよくしますが、それだけ、伝統として「人(他人・親の教え・神仏)を軽んじてはいけない」という教えが、人間精神の土台である信仰心の根本として重要視されてきたのです。
また、昔から沖縄では、お盆の行事が非常に盛んですが、これもまた先祖に対する畏れの表現の現れと言えるかもしれません。旧盆の初日に死者の魂を自宅にお迎えし、それから三日間を一緒に過ごし、最終日に送り出すという風習は、多くの県民にとって馴染みの深いものです。けれども、そうした風習も、畏れの感覚が薄れていくにつれて、形骸化して消滅してしまうかもしれません。
そもそも、霊をお迎えして〝もてなす〟ということに何の実感も感じられなくなってしまったら、お盆という行事そのものに意味がなくなってしまいます。形式だけ線香をあげたって無意味です。最近は、その格好すらつけることをしない、線香をあげにすらいかない人たちが増えているようですが。
「まともな教育のある人たちは、霊など信じないし因習など重んじない」というのなら、結局は〝教育が文化を殺す〟ということになってしまいます。実際、日本では、そういう面もあるように思います。しかし、「教育が畏れを感じない子供たちをつくる」のだとしたら、その教育は明らかに間違った教育です。
怖さを知らないということは、良心が痛まないということです。例えば、沖縄には多くの基地地主の人たちがいて、毎年、国から借地料として何百万円、何千万円というお金を受け取っている人たちも、たくさんいます。
お金を受け取ること自体は、道義的にも法的にも何ら問題はありません。けれども「なぜ自分がこれほどの莫大なお金を受け取ることができるのだろう?」と真摯に自問した時、誠実な人であれば誰もが、ある種の「申し訳のなさ」「恐ろしさ」を感じることでしょう。「一体自分が何をしたから、これだけのお金(報酬?恵み?)を受け取る権利があると胸を張って言えるだろうか」と、空恐ろしい感覚に囚われることもあるはずです。そうした〝ある種の罪の意識〟の疼きこそが、ヴォネガットの小説の主人公ローズウォーターさん(*)も聴いたであろう〝良心の声〟です。
人には自由意志がありますから、一時はその良心の声に耳を塞ぐこともできるでしょう。「そんなことは気にする必要はない」「このお金は、法的にも道義的にも、まったく問題のない自分のお金なのだ」と、自分に言い聞かせることもできるでしょう。
けれども、よくしたもので、自分の良心の声に逆らい続けることは、本当に困難なことです。耳を塞ぎ、意識から追い払っても、自分の内部で響き続ける良心の声から逃れることは、到底できるものではないのです。
これは、基地地主だけに限った話ではありません。宝クジを当てた人も、株や財テクで儲けている人も、利ザヤやマージンで儲けている人も、親の遺産で食べている人も、実は皆同じなのです。彼らは遠からず、自らの良心の声に応えるか、それとも無視し続けるかを迫られるようになります。そして、その良心の声に応えなかった人は、遅かれ早かれ、その代償を払わされることになります。
ある人は、自分自身が健康を害したり精神を病むことになるでしょう。また、ある人は、最愛の者が健康を害したり、命を取られたりすることもあるでしょう。あるいは、繰り返し立て続けに突発的な災難に見舞われたり、表面的には平穏無事でも、なぜかまったく幸せを感じられなくなったりします。
こうして人は皆、誰もが自分の良心の声を無視した報いを受けることになるのですが、この不思議な現象は、自らの魂からのラスト・メッセージでもあります。そして、この警告(魂からの最後通牒)すら無視し、その明白なメッセージを頑なに拒み続けていると、いずれ強力無比な良心の報復・復讐作用によって、ついには完全に打ち倒されることになるのです。
どこまでも頑迷に、良心に逆らい続けたあげく、不治の病を発症して、あっけなく亡くなったり、降って湧いたような災難で、全財産を失って家庭が崩壊したりする人は後を立ちません。
*ひょんなことから億万長者になったものの、世界中の貧しい人たちに資産を分け与えようとする青年。カート・ヴォネガットの1965年の作品「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」の主人公。
長い目で見ると、この一連の現象は、人の魂の進化の段階の一部と言えます。短期的には精神の成長のステップの一つと言ってもいいでしょう。回復可能な余地を残している段階で、痛い目を見た分だけ何かを学ぶことができれば、それでよいのです。
けれども、ある種の〝選民意識〟というか、「自分は特別な存在なのだ」という誤った意識を持ち続けている間は、人はなかなか失敗の経験から学ぶことができません。その上、世の中で自分が一番偉い存在だと思っているうちは、他人の言葉によって諭されることもありません。
人の話も聴かず、失敗からも学ばないというのでは、救いようがありません。「馬鹿につける薬はない」「馬鹿は死ななきゃ治らない」というのは、まさしくこのことです。
これを基地地主に例えるなら、次のような状態と考えられます。まず、「自分は特別な才能・能力・恩恵を授かって生を受けた稀少な存在だ」と信じていて、そのために「自分にこれほどのお金が降ってきたのは、自分という人間が、かけがえのない稀な存在である揺るぎない証だ」と考えるようになり、ついには「そんな特別な自分には、やはり格別の地位や名誉が似つかわしい」と思い込むに至るのです。こうして、まず富を手にした基地地主たちは、今度は名誉ある地位を求めて、民生委員になったり、PTA会長になったり、議員になったりするわけです。
魂のステップアップではなく、社会的地位のステップアップを目指すのですね。それによって、魂はステップバックしていき、長い目で見ると、自分も周囲も不幸にしていくことになるのですが。昔から言われているように、己を利することばかり考えている人は、知らず知らず天の守りが薄くなるようです。
この利己主義は、家族しか信じないし大切にしないとか、地域的に連帯意識が強すぎて他所者は排斥するとか、自国人しか受け入れないという偏狭さにも通じます。そういう心の狭さも、天の守りを失う元凶となりえます。
繰り返しますが、「怖さを知らない」ということは、「自分の良心の声が聴こえない」ということです。そういう人は、そのことによって、いずれは自分自身か、そうでなければ周囲の大切な人を不幸にしてしまうのです。自分は大丈夫でも、家族に自殺者が出たり、精神を病む人が多かったり、癌を発病したりすることがよくあります。わたしは、これまで、そのように大きな代償を支払うことになった人たちを数多く見てきました。
けれども、怖いもの知らずの人々の中には「良心を持たない人」もいます。これは比喩的な表現ではなく、「精神の内に良心という機能がない(!)」という文字通りの意味です。人を傷つけ、弱らせること、苦しめることに快感だけを感じる人々です。アメリカには、そういう危険なサイコな人たちが、25人に1人いると言われます。日本でも増えているのではないでしょうか。例えば、小保方さんバッシングに執着するネット上の発信者たち(自称科学者の女性たち含む)にも、その傾向を強く感じます。そして、そういう人たちは、確実に周囲に災厄をもたらすのです。
彼らの中には、外的な規制やルール遵守に恐ろしくこだわる人たちが多いのですが、そもそも内的規制力(良心)の存在を信じていないので、社会道徳の維持のためには、徹底して外的ルールを強制するしかないと考えるためです。その一方で、いざ自分が窮地に陥りそうになると、保身のためならどんな手段を使ってもよいと考え、なりふり構わぬ浅ましい態度を露呈する傾向があります。その彼らを責め苛む〝心細さ〟〝不安〟こそが、良心の声に耳を閉ざした代償なのです。