ハードボイルドの古典作家といえば、ダシール・ハメット(1894-1961)とレイモンド・チャンドラー(1888-1959)の大御所二人がいます。この二人の作品では、ハメットならコンチネンタル・オブが活躍する「血の収穫(1929)」や、サム・スペイドの「マルタの鷹(1930)」などがあります。一方、ハメットの影響で、少し遅れて著されたチャンドラー作品では、フィリップ・マーロウの活躍する「さらば愛しき女よ(1940)」や「長いお別れ(1953)」などが有名です。
その他、全盛期のハードボイルド作家では、文学的で重苦しい作風のロス・マクドナルド(1915-1983)やら、パルプ雑誌のヒーローだったミッキー・スピレイン(1918-2006)などがいます。彼ら黄金期の作家については、最近はチャンドラーに関して特にそうですが、村上春樹の翻訳版の影響もあり、作品の魅力が再評価されているようです。けれども、ジャンル全体としては、最近はほとんど新作が発表されせんし、もはや消え去っていくしかないジャンルなのかもしれません。
そこで、この記事では、よく知られている初期や黄金期の作品ではなく、もっと後期の作品に焦点を当てて、オススメのハードボイルド小説を、いくつか紹介したいと思います。人によっては「この作品はハードボイルドじゃない」と思うかもしれません。けれども「『男(女)は、強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない。』というフィリップ・マーロウの精神を受け継ぐ作品はすべてハードボイルドだ!」という独断と偏見に従って、最良の(?)ハードボイルド作品を紹介したいと思います。



興奮(1965) ディック・フランシス(1920-2010)著
ディック・フランシスは、元障害競馬の名騎手の経歴を持つイギリスの本格ミステリー作家です。37歳まで騎手として活躍していたこともあって、作家に転身してからは、基本的に競馬界を舞台として、馬を愛する不屈の男が活躍する〝競馬ミステリー〟を生涯書き続けました。
イギリス人の馬好きは、日本人には想像できないほどです。競馬界だけを舞台に小説を書き続けて、作家としての地位を確立できるというのが、そもそもすごいことです。日本との文化の違いを強く感じます。
彼は、生涯に44冊の競馬ミステリーを書きましたが、中でも、長編第三作として書かれた、この「興奮」は、彼の数ある作品中屈指の名作と評判の高い作品です。彼のファンの間でも、この作品をNo.1に挙げる人は少なくないようです。
わたしは、そんなにたくさん彼の本を読んだわけではありませんが、それでも自分の読んだ中では、間違いなく傑出していると感じた作品です。
馬に興奮剤を与えるという競馬界の八百長の真相を探るために、潜入操作をすることになった主人公が、不当な濡れ衣にも言い訳せずに、汚名を着せられながらも、じっと黙って任務を遂行していく姿に、男の渋さとかっこよさを感じました。読み終わった後に、主人公ダニエル・ロークのその後を知りたくて、「どうして続編が出ないんだ!」と、とても残念に思った記憶があります。
ディック・フランシスの小説は、馬の匂いと男の匂いに満ちています。そして、彼の小説の中では、この両者は驚くほどイメージが重なります。どちらも寡黙で、苦難にじっと耐える忍耐力と、地道な努力を続ける生真面目さを併せ持っています。どちらも実直で穏やかで、静かな自信に満ちています。
けれども、彼の小説の中の主人公は、タフだとは言っても、何ものにも傷つかないほど強靭な精神の持ち主というわけではありません。堂々とした風采の後ろには、むしろ繊細で傷つきやすい精神、柔らかいシャイな心を隠し持っているのです。そのあたりの、弱さを抱えて苦しみ悩みながらも、痛みに耐えて強く生きようと頑張る姿が、読む者の心を打つのだと思うのです。
たとえば、この作品中では、依頼人のオクトーバー卿の娘の誘惑を拒絶した時、腹いせに強姦犯の濡れ衣を着せられながらも、理不尽な仕打ちといわれのない汚名にじっと耐えて、任務遂行に努めるダニエルの姿に、男の悲哀と健気さを感じます。
そう言えば、漫画家の三原順さんが、「はみだしっ子」の中で、サーニンがエルバージュという競走馬の馬主になり、興奮剤にまつわる八百長事件に巻き込まれる話(「裏切者」)を書いているのですが、この作品の影響を受けたのかなあ、と思ったことがあります。



初秋(1980) ロバート・B・パーカー(1932-2010)著
ロバート・B・パーカーは、ハメット、チャンドラーの系譜を受け継ぐ正統派のハードボイルド作家です。彼の作品のほとんどは、ボストンの私立探偵スペンサーを主人公とする連作で「スペンサー・シリーズ」と呼ばれています。
スペンサーは、料理が趣味で、野球観戦が好きで、ボクシングジムで汗を流すのが好きな、マッチョでありながら、ボストンという土地柄もあるのか、妙に哲学的で理屈っぽい白人タフガイです。相棒のホークは、鍛え抜かれたしなやかな身体に、クールでスマートな頭脳を持った、恐れを知らない強面の黒人です。スペンサーが哲学的タフガイなら、ホークは哲学的な野獣です。この白人スペンサーと黒人ホークのコンビの会話の絶妙の掛け合いが、このシリーズの最大の魅力の一つです。
シリーズは、全部で40冊ありますが、中でも代表作として、理知的な恋人スーザン、相棒ホークが初めてまみえる四作目の「約束の地(1976)」、女性解放運動の指導者レイチェルのボディガードをすることになる六冊目の「レイチェル・ウォレスを探せ(1980)」などがあります。そして、シリーズ最高の作品として名高いのが、この七作目の「初秋」です。
「初秋」は、スペンサーが、親代わりとなって、一人の少年を育て上げる物語です。スペンサーは、母親の依頼で、元夫が連れ去った15歳の息子ポールを捜し出すのですが、ポールは両親に精神的に放置されていたせいで、あまりに無気力でひ弱な少年でした。実際には息子にまったく関心のない両親と、その間で駆け引きの材料に使われている、惨めで無力な少年の様子を見てとったスペンサーは、依頼人の母親に少年の身柄を渡さず、自ら少年を引き受け、自分にできる方法で、少年を鍛え上げることにしたのです。
スペンサーはポールに、ジョギング、ウエイト・リフティング、ボクシングを教え、二人で一緒に基礎から家を作ります。そして、その間に、さまざまな会話を交わし、ホークやスーザンにも引き合わせます。もちろん、得意の料理も教えながら、二人は共同生活を続けます。
この小説に描かれているようなドラマは、アメリカではよく聞かれる話です。わたしの友人にも、実の親の虐待を逃れて、学校の友人の両親に育てられたというアメリカ人青年がいます。この作品でのスペンサーの行為は、ある意味、現実のアメリカ社会の最良の部分と言えるかもしれません。
それから、次に述べるクィネルが、クリーシィ・シリーズの第二巻「パーフェクト・キル(1992)」で、主人公のクリーシィが、母親を殺された男の子を養子にして鍛え、暗殺術を仕込む話を書いています。クィネルの実際はどうか知りませんが、わたしとしては「初秋」の影響を強く感じました。
最後に、スペンサー・シリーズは、良きにつけ悪しきにつけ、アメリカ文化を体現しています。スペンサーの理屈っぽさも、父性偏重の意識も、徹底した自己責任のあり方も、自立心を尊ぶ考え方も、すべてが古き良きアメリカ人の理想とするものです。日本人には馴染みにくい感覚でもありますが、妙な皮肉っぽさを除けば、アメリカナイズされている昨今の感覚では、概ね受け入れられる感覚ではないだろうか、とも思います。



燃える男(1980) A・J・クィネル(1940-2005)著
A・J・クィネルは、フォーサイス的な軍事関係の知識に裏打ちされた、強烈なバイオレンス小説を書いたイギリスの作家です。この「燃える男」は、彼の処女作であり、同時に伝説的傭兵クリーシィを主人公とする連作「クリーシィ・シリーズ」全五作の中の第一作でもあります。
クリーシィは、冷戦期において西側諸国で五本の指に入る最強の傭兵だった男で、いわば〝最終兵器〟と形容できるような超人的な存在です。そういう歴戦の殺人機械である伝説の男が、殺伐とした人生の果てに、すべての意欲を失い、死にかけた心を抱えて、退屈しのぎとリハビリを兼ねて、金持ちの子女のボディガードに雇われるのです。物語の前半、アルコール依存症に陥っているクリーシィが、鋭敏で利発な少女ビンタとの交流を通して、次第に息を吹き返していくくだりの描写が瑞々しく、忘れ難い印象を残します。
この作品は、デイゼル・ワシントン主演の映画「マイ ボディガード(2004)」の原作なのですが、わたしは映画の方は見ていませんが、ストーリーは大幅に改変されているようです。まず、映画の方はメキシコが舞台のようですが、小説の舞台はイタリアです。
クリーシィとイタリアン・マフィアとの抗争の様子は実にリアルで、警察機構のカリスマとしてのサッタ大佐の人物造形も見事です。イタリアでは、マフィアを叩こうとした検察官、裁判官、警部が自家用車に仕掛けられた爆弾で、次々に爆死するということが実際にありましたし、このくらいエキセントリックな人物でなければ、マフィアとは渡り合えないでしょう。
また、小説の方では、マルタ共和国ゴッゾ島での島民社会の生き生きとした描写が、殺伐としがちな作品全体に奥行きと救いをもたらしています。その部分が、映画では完全に欠落しているわけですから、これはもうまったく別の作品と言っていいと思います。わたしを含めてですが、この本を読んで、実際にマルタに行ってみたいと思った読者は、意外と多いのではないかと思います。
このシリーズは、二巻以降もそれなりに面白いのですが、やはりこの第一作が、最も強いインパクトがあるように思います。思うに、クィネルはもともとこの作品をシリーズ化するつもりはなかったのではないでしょうか。この作品は、これだけで完結していると感じることがあります。その後のシリーズ作品は、どこか、この衝撃的な一作目の焼き直しのような感があるのです。
残念ながら、クィネルの作品は現在全作品絶版状態で、新刊で手に入れることはできません。ディック・フランシスやロバート・B・パーカーといった超大物と比べると、マイナーな作家ということなのかもしれません。それから、クィネル作品は、一部、描写がかなりどぎついところがあって、それが読者に避けられる原因となっているのではないかと思います。
それでも、この作品に関しては、ビンタの死によって〝後ろめたさ〟と〝恥辱〟と〝怒り〟と〝悲しみ〟に心を支配されるようになるクリーシィの姿に、人間の復活を託した作者の思いは伝わってきます。



俺はレッド・ダイアモンド (1983) マーク・ショア著
マーク・ショアは、上にあげた三人の作家たちに比べると、ほとんど無名の作家です。和訳されている作品も、このレッド・ダイアモンド・シリーズの三作品だけです。しかも、クィネルと同様に、全作品絶版状態で、新刊では手に入りません。このように知名度は低いのですが、このシリーズは、全作ハズレがありません。中でもこの第一作は出色の出来です。
主人公は中年のさえないタクシー運転手です。郊外に自宅があり、長男は生真面目な大学生、長女は遊びざかりの高校生ですが、家族との関係は希薄で味気ないものです。無味乾燥な日常に耐える主人公サイモンの心の支えは、大好きなハードボイルド小説の世界に浸ることです。彼は往年のパルプ雑誌に連載されていた全盛期の探偵小説のマニアで、暇があれば書庫にこもってペイパーバック小説の古本を読みふけっています。
けれども、ある日、サイモンの奥さんは、支払いの足しにしようと、彼のコレクションの一切合財を売り払ってしまうのです。空っぽの部屋の隅に、私立探偵レッド・ダイアモンドの登場する「荒削りのダイアモンド」が、ただ一冊だけ落ちていたのを拾い上げ、その本を抱きしめて街に彷徨いでます。そして、サイモンの精神は、夢うつつの中で、パルプ雑誌の世界に生きるレッド・ダイアモンドに成り代わるのです。
最初のうちは、サイモンの貧弱で鈍った肉体のせいで、なかなか本来の(?)調子が出ないレッドですが、本職(?)の探偵稼業に戻って、ニューヨークの街に潜む闇との遭遇を繰り返すうちに、次第にパルプマガジンヒーローの本領を発揮し始めます。暗黒街の顔役である仇敵ロッコ・リロの気配を感じながら、愛する美女フィフィの行方を探すのです。
この本は、ハードボイルド仕様の現代版「ドン・キホーテ」です。ケサーダが、騎士道物語の世界にのめり込んだように、サイモンは、タフガイ探偵の世界に没入します。現実生活の味気なさから逃れるために、本の世界に没頭する気持ちは、本好きなら誰でも身に沁みるはずです。そして、現実を超えたロマンの世界に生きる主人公の生き様に、誰もが魅せられずにはいられないでしょう。
レッド(サイモン)は、スペンサーもマーロウも含めて、多くのハードボイルド・ヒーローを、〝実際に(?)〟親しい友人として、よく知っているのです。ハードボイルド小説のファンなら、誰もが羨む夢の中のシチュエーションです。こういう設定の作品を書いたマーク・ショア自身、おそらく熱烈なハードボイルド・ファンなのではないでしょうか。だからこそ、レッド・ダイアモンドは、これほどまでに生き生きしているのでしょう。
このシリーズは、続編の「A(エース)のダイアモンド(1984」「ダイアモンド・ロック(1985)」でも、まったく失速しません。男のロマンというよりは、マニアック極まる読書狂のロマンが、全巻で炸裂しています。



氷の天使(1994) キャロル・オコンネル(1947-)著
キャロル・オコンネルは、現在も活躍中のアメリカのミステリー作家です。彼女の作品では、「クリスマスに少女は還る(1998)」が有名ですが、わたしとしては、作者のライフワークとも言える、ニューヨーク市警の殺人課の巡査部長キャシー・マロリーが活躍するマロリー・シリーズの方をお薦めします。
シリーズ全体で、現在11冊刊行され、そのうち7冊が和訳されています。そして、その記念すべき第一作が、オコンネルの処女作でもある、この「氷の天使」です。この作品が、彼女の作品中で、特に抜きん出て素晴らしいというわけではありません。けれども、「このシリーズに関しては、必ず第一作から順番に読むべきだ」と思い、今回の推薦書に選びました。
もともと、このシリーズは、最初から「アマンダの影(1996)」「死のオブジェ(1997)」「天使の帰郷(1998)」と続く4連作として構想され、周到に考え抜いて書かれたものなのです。しかも、一作一作でメインの殺人事件は解決されつつも、4作目「天使の帰郷」に向けて、〝キャシーの復讐〟という大きな物語の流れが進んでいくのです。
それにしても、オコンネルの造形したキャシー・マロリーという主人公は、一筋縄ではいかない複雑で魅力的な人物です。癒し得ない傷を抱えた元ストリートチルドレンでありながら、頭脳明晰なコンピューターの天才であり、クールで冷酷な社会病質者でありながら、殺人課の警部である養父の後を継いだ傑出した警察官でもあります。あらゆる面で極端な存在で、普通な面はどこにもありません。外見は天使のように愛らしく美しいけれど、情け容赦のない肉食獣の牙と爪を隠し持っています。また逆に、表面は氷のように冷たい感情のない機械のようでいて、その存在の奥底には本人もまったく自覚がないままに天使の魂を秘めているのです。
オコンネル作品の謳い文句として「クイーンの遺訓に、スタージョンの魂」というものがあります。「エラリー・クイーン並に骨格のしっかりした重厚な本格推理小説でありながら、〝愛と退廃の作家〟〝愛と孤独の作家〟と言われたシオドア・スタージョン作品の本質を受け継いでいる」という意味でしょうか。マロリー・シリーズの特徴をうまく表現していると思います。
「人は愛する人のために、どれほどのことができるのか?」という問いが、マロリー・シリーズだけでなく、すべてのオコンネル作品の底流に流れるテーマです。彼女の書いた「決して癒すことのできない傷を抱えた人々が紡ぐ残酷な愛の物語」を読んでいると、自分の奥底で何か大切な部分がひどく揺すぶられるのを感じます。
そうした魂の揺さぶりは、生身の人間には、時としてひどくこたえるものです。だからこそ、わたしたちオコンネル作品の読者は、マロリーという〝氷の天使〟の媒介と道案内を必要とするのではないでしょうか。
そして最後に、このシリーズの影の主役たちを挙げておきます。それは、機械人間マロリーを心から愛し、支え続ける三人の男たちです。一人は、ストリート・チルドレンの泥棒だったキャシーを捕まえて家へ連れて帰った養父のルイ・マーコヴィッツです。彼の愛と知恵は、死して後も愛娘を守り続けるのです。それから、ルイの親友で、マロリーの唯一の友である、心優しい孤独な天才チャーリーがいます。この大男の紳士は、マロリーに報われない(?)恋をしていて、どこまでもマロリーに忠実です。そして、ルイ亡き後、マロリーのお目付役兼相棒として、陰に日向に見守り続けるライカー刑事がいます。チャーリーとライカーの二人は、マロリーのために、いつでもすべてを投げ打つ覚悟ができています。その他にも、多くの魅力的な登場人物が登場し、このシリーズに奥行きと深みをもたらしているのです。



さて、1970年代までは「孤独な男の物語」というイメージ(「興奮」)が強かったハードボイルドが、80年代には子育てにいそしんだり(「初秋」)、少女に慰められる飲んだくれの物語(「燃える男」)になり下がった(?)あげく、ついには「ハードボイルド小説のヒーローなど、もはや時代遅れの肥大妄想に病むドン・キホーテ(レッド・ダイアモンド)でしかあり得ない」という状況にまで追い込まれ、天然記念物というか絶滅危惧種となります。
そして1990年代に入ると、状況はますます悪化し、新しいハードボイルド・ヒーローは、まったく生まれなくなり、かわりに強烈無比なヒロイン(マロリーたち)に、ハードボイルド小説の主人公の座を明け渡すことになりました。過渡期的な作品としては、ディック・ロクティの「眠れる犬」シリーズなどがあります。
さらに2000年代に入ると、状況はもはや絶望的になり、ハードボイルド・ヒーローが完全に地上から姿を消してしまっただけでなく、孤独で強烈で優しいハードボイルド・ヒロインさえも、新たには生まれなくなってしまいました。ハードボイルドの時代は、ついに幕を閉じようとしているようです。
それにしても、男権と女権の逆転は世界的な傾向ではありますが、日本では特に顕著に、その特徴が現れているようです。巨視的に考えれば、卑弥呼や孝謙天皇以降、千年以上続いてきた男権の時代が終わりを告げ、女性の復権が始まっただけということかもしれません。ただし、幸福度調査で、日本は特に男性の幸福度が低いという結果が出ているように、女性が生き生きする反面、男性が没落するというのでは困ります。長い目でみれば、女性にとっても、決していいことではありません。それはちょうど、チャーリーやライカーが元気でなければ、マロリーも正気ではいられないというのと同じことです。
考えてみると、近代の波の中で、引き裂かれ、埋没し消失した母性の残滓を弔う最後の騎士として現れたのが、母性を内に秘めた父性の体現者であるハードボイルド・ヒーローたちでした。彼らはある意味、両性具有なのです。そして、その最終形がハードボイルド・ヒロインのマロリー、両性具有の天使ですね。
結局、男性原理と女性原理は、表裏一体のものであり、どちらかが滅びる時、ともに倒れるより他ないのです。父権の崩壊と母性の終焉は、「ハードボイルドの幕引き」という同じコインの裏と表なのだと考えられます。
最近の佐世保市の女子高生殺害事件の犯人と父親の関係を見ても、この父権の崩壊と母性の終焉という救いのない時代性を強く感じずにはいられません。






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