今日、浦添本願寺に行ってきました。
納骨堂に納められている知り合いに別れを告げるためです。
昔、旧盆の中日に、仏壇の前で突然死した人です。まだ30歳でした。中学の時に、家族がバラバラになり、施設で育った若者でした。10数年ぶりに、父親と一緒にお盆を迎えた日のことでした。仏壇の前で眠ったと思ったら、次の朝には冷たくなっていたのです。長い間、精神を病んではいましたが、まだ若い上に身体はいたって健康だったのですが。
以来、父親も関節の病気が悪化して仕事ができず、生活保護で暮らしていました。けれども、保護費の内訳には、納骨料は含まれておらず、そのためもあって、納骨料をまったく納めることができずに、20年が過ぎました。
このほど、何かの虫の知らせでしょうか、彼の夢をみたので、本願寺に電話してみると、本堂と納骨堂の建て替えに伴って、これからお骨を処分する予定だったということでした。それで、生前の知り合いとして、せめて最期に、お経をあげてもらおうと、一年分の納骨料を納めて、お祈りをしてもらってきたのです。
処分される前にと思って、慌てて来たわたしに、本願寺のお坊さんがおっしゃるには、今度の建て替えに伴って、まったく遺族に連絡がつかない無縁仏をすべて、親鸞上人のお墓のある京都西本願寺の大谷霊廟に移送して、まとめて合葬することになったのだそうです。「処分」と聞いていたのが、ただ捨ててしまうわけではないと知って、わたしはひとまず胸をなでおろしました。
お骨を引き取って、父親に渡したいとは思っても、納める墓もありませんし、20年分の納骨料40万円を、負担するのもさすがにためらわれたので、どうしたものかと案じていたところ、少しホッとしました。
この沖縄の浦添本願寺では、500体の遺骨を預かっているうち、納骨料が納められておらず、遺族に連絡もつかない無縁仏が、200体あるのだそうです。200体もの遺骨を、無償で京都まで大事に運んでくださるというのですから、本願寺のお坊さんたちには本当に頭が下がります。
「大谷霊廟は、多くの信者の方が、遺言で親鸞上人の下での合葬を望むので、たいへん立派なところです。毎年、一万体以上合葬される場所ですから、淋しくないと思いますよ。清水寺のそばですから、京都にいらした時には、観光がてらにお参りにいらしたらいいですよ」とお坊さんはおっしゃっていました。
本願寺を総本山とする浄土真宗の開祖親鸞上人は、「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや(善人でさえ極楽往生できるのですから、まして悪人であれば、なおさら間違いなく極楽浄土へいけるでしょう)」という悪人正機説で有名な方です。「悪人を決して切り捨てることがなかった」という点で、日蓮上人とは対照的な方です。
貧乏は悪を生みます。そして、その悪を世間は断罪します。けれども、浄土真宗の教えは、その悪人(=貧乏人)を見捨てることを良しとしないのです。
けれども、本願寺とは異なり、お骨を焼き直してまとめて壺に詰めて、ただ土に埋めるだけという寺も多いようです。沖縄全体で納骨堂がどのくらいあるかは知りませんが、おそらく、何万体というお骨が、お寺に置き去りにされたまま、打ち捨てられているのではないかと思います。なんとも無残な話です。
お盆が近づくにつれて、行き場を見失ったそうした無数の霊たちが、誰かの助けを求めて騒ぎ出すのかもしれません。今回、わたしが夢にみたのも、そういう霊からのSOSだったのでしょうか。
お金持ちのお骨は立派な墓に入ることができます。貧しい人のお骨は、こうして無縁仏となることも多いようです。沖縄は先祖供養が盛んだといいますが、死んだあとでもこんな酷い格差があるのです。「癒しの島」なんて、どこの島の話なんでしょうか。
その昔、孔子の教えを批判した墨子の視点に頷けるものがある気がします。「先祖崇拝は、お金持ちのためだけにあるものなのか?」「先祖供養をしっかりしている家は繁栄するというのなら、お金持ちの家はますます繁栄して、貧しい人の家はますます傾いていくだけではないか!」