今日は「孤独」について話したいと思います。
わたしたちは歳を重ねる中で、誰もがさまざまな経験をくぐり抜けます。あわや間一髪ということもあるでしょうし、人には言えない恥ずかしい思いをすることもあるでしょう。誰にもわかってもらえなそうな苦しい辛い体験もするでしょうし、耐えられない哀しみに打ち沈むこともあるはずです。忘れてしまいたい屈辱や悔しさに打ち震えることもあるでしょうし、ひとりぼっちの切なさに涙をこぼすこともあるでしょう。
そういう経験をいくつも経ていくうちに、いつしか心の中に雪のように降り積もり、澱のように溜まっていくものがあります。その澱は、時を経るに連れて心の深い部分を侵蝕していき、ふとした拍子に芽を出す不安や悲観の温床となります。時折襲ってくる、わけのわからない陰鬱な気分の底の底には、この記憶の淀みが横たわっているのです。
この心に巣食う不安の根源について、一体誰に話せるというのでしょう。この憂鬱を分かち合うことのできる相手など何処にもいる訳もありません。そうして人は、否応もなく、皆「本当の孤独」というものを知るようになります。
東日本大震災のような巨大な災害を体験したというのなら、まだしも人に苦しさをわかってもらえそうな気もします。誰か同じ気持ちを抱えている人が側にいることを信じられるし、体験を共有できない人にも、想像力を働かせるよう訴えることもできるでしょう。
でも、ちっぽけな自分の人生の中で、自分だけが経験した小さな痛みの数々を、どうやって人に伝えられるというのでしょう。そして、その経験の積み重ねの結果として、今、自分の心に巣食うようになった病の苦しみを、どうしたら理解してもらえるでしょうか。この〝忙しい〟世の中で、こんな〝痛み〟を共有したいと思う人が、一体何処にいるというのでしょう。
そんな風に感じて、人は一層強く孤独を感じるようになるのです。歳をとるということは、この孤独にますます心が捕らえられ、自分がどうしようもなく「独り」であることを、実感するようになる過程かもしれません。最近は、特にそう思うのです。
わたしたちは孤独です。人は皆、どうしようもなく孤独な存在であり、互いの共感は極めて限定的なものに過ぎません。わたしたちはどこまでいっても、互いに分かり合えないのです。誰もが皆、そんな風に感じているのではないでしょうか。

でも本当は、日常的なささいな痛みや哀しみに、深い共感ができるということが、古来、日本人の求める一番大切な能力だったのです。この「他者の哀しみに触れて、自然に素直に共鳴できる心」を、本居宣長は「もののあわれを知る心」と言いました。ここで言う「もののあわれ」というのは、上で述べた「澱のようなもの」のことです。
逆に、もののあわれを解せず、理屈っぽい表面的な思考や知識ばかりを振りかざす、利己的な心のあり方を、本居は「漢心(からごころ)」として斥けたのです。ところが現代人の心は、この漢心にすっかり毒されてしまっているように思います。わたしたちは、今こそ、本居の知恵を必要としているのではないでしょうか。
オーラソーマでは、こうした時代の趨勢を、「イエロー(個人の時代)からオリーブグリーン(共感の時代)ヘ」と言い表しています。より多くの哀しみを背負っている人ほど、人に尽くすものです。それが、オリーブグリーンに象徴されるフェミニンリーダーシップの意味なのです。オリーブは、どんな過酷な環境でも成長を続ける植物です。
そして、オリーブにはさらにもう一つ、象徴的な意味があります。それは「神との和解」というものです。その昔、神が途方もない洪水を起こし、すべての生き物のつがいを乗せたノアの方舟がただ一艘だけ、見渡す限りの水の上に生き残った後で、陸地が姿を現したかどうか外の様子を偵察に行った鳩が、口に咥えて戻って来たのがオリーブの枝でした。
人の心の内なる平和は、神との和解の後におとずれる至福の時間なのです。恨みと憎しみと痛みの記憶を手放し、心が自由に羽ばたくことができたなら、人は至福を手にいれることができるのでしょう。
もしも、あなたの身近に、より多くの悲しみを抱えて孤独でいる人がいるなら、どうかその人を暖めてあげてください。弱みにつけ込んでものを売るためでなく、自分の信仰団体に引き込むためでもなく、です。
そうすれば、その人の至福の時を共にする栄誉が、あなたに与えられるでしょう。その至福の光は、あなたの心にも差し込み、あなたの精神をも明るくするでしょう。哀しみを分かち合うことで、喜びも分かち合うことができるのです。
そのような心の働きを信じること、そして、人はその魂において互いに触れ合えるのだと信じることを、いにしえより人は信仰と呼んできました。どうか、あなたの信仰を眠らせないでください。この多難の時代に、未来への希望を閉ざさないために。

ただわたしは、すべての人に、このような善意の態度が通用するとは思いません。こちらの善意が通じるか、通じないかは、相手方の教養の深さにもよるのです。「相手が良くしてくれるのは、自分にそれだけの価値があるからだ」と考える人たちに対しては、どんな善意も残念ながらまず通じないでしょう。最初から決めつけるのはよくありませんが、付き合いを通してよくよく知っていく中で、相手の内実を判断することも大切です。
人は、とことん苦しんで痛みや哀しみを知り尽くした時、初めて人のありがたみも身に染みてわかるものです。「すべてに時あり」と、言いますが、本当にそういうものなのだと思います。だから、人は時には、孤独に苦しみ抜くことも必要なのでしょう。その苦しみを見守ることも、周囲の大切な役目です。
一番大切なことは、相手があなたを本当に必要としているかどうかです。それを見定めるには、やはり、相手の心に踏み込まなければなりません。そして、もしも「この人には、今は自分が必要ではないのだ」とわかれば、黙って身を退けば良いのです。
ただ「今この人を見捨てるわけにはいかない」ということがはっきりしたなら、どんなことがあっても、その人に寄り添わねばなりません。誰にも支えられず生きていける人は、この世にいないのですから。あなたもまた、誰かに支えられて生きているはずです。それを思えば、人を見捨てることはできないはずです。