この間、NHKスペシャルで非常に興味深い特集を拝見しました。それは「病の起源」というシリーズの第3集にあたる作品で、「鬱(うつ)とは何なのか?」という問題を探っていく「鬱(うつ)の起源」という番組でした。
番組によると、鬱(うつ)の原因は、直接的には、脳の中の扁桃体と呼ばれる部分が分泌するストレスホルモンにあるのだそうです。扁桃体からこのホルモンが分泌すると、不安や緊張、哀しみや憂鬱といった感情を引き起こすのです。そして、鬱(うつ)を発症している人は、正常な数値の二倍近いストレスホルモンが常時分泌し続けています。さらに、このホルモンが過剰に分泌し続けると、脳の神経細胞を萎縮させ、シナプスの樹状突起が縮んで、脳内に神経配線が切れている空洞を生じさせるのです。そのため、鬱(うつ)病の人は、いつも気分がどんよりと陰鬱に澱んでいるように見えます。
ところで、この扁桃体を持った最初の生命は魚類だそうです。生命の進化の歴史の中で、最初の脊椎動物が魚類です。それ以前の甲殻類や軟体動物が、神経回路しか持たなかったのに対して、脊椎動物は神経の中枢として〝脳〟を持つようになりました。そして、この原初の脳には扁桃体があり、神経が「天敵」を察知すると、そこからストレスホルモンが分泌されます。このホルモンの作用によって、運動神経は過敏になり、筋肉が活性化され、天敵から素早く機敏に逃げられるようになるのです。
ところが、小魚を天敵と同じ水槽にいれて数日放置すると、最初のうちは逃げ回っていた小魚が、そのうち水槽の底でじっと動かなくなってしまいます。そして、天敵の魚とは引き離して別の水槽に移しても、そのままほとんど反応を示さなくなるのです。この時、小魚の脳の扁桃体は、ストレスホルモンを多量に分泌し続けています。もはや、分泌を制御できなくなっているのです。これが、逃げられない狭い空間に〝天敵〟と一緒に閉じ込められることによって生じる〝脊椎動物の鬱(うつ)〟です。命に関わるストレスに一定期間持続して晒された結果生じる一種の〝麻痺状態〟が、鬱の最も基本的な要因であるということです。
また、より進化した動物であるチンパンジーも、鬱(うつ)になることが知られています。番組では、一人の雌のチンパンジーが、仲間のチンパンジーとのふれあいに一切背を向けて、毛布を頭から被って檻の中でうずくまっている様子が映し出されていました。この雌は、感染症の疑いから、一年以上もの間、仲間のチンパンジーから隔離されていたのだそうです。
このように、長期間群れと離れてひとりぼっちにされた時にも、チンパンジーは鬱(うつ)を発症します。つまり、チンパンジーなどが罹る〝類人猿の鬱(うつ)〟に関しては、持続性ストレスとは異なるもう一つの要因があるのです。それが〝孤独〟です。
そして、さらに進化した人類の祖先である猿人(アウストラロピテクス)の段階では、もう一つの鬱(うつ)の要因が生じることになりました。この〝猿人の鬱(うつ)〟に関する第三の要因、それは〝記憶〟です。
類人猿よりも大きな脳を持つ猿人は、記憶を司る海馬が非常に発達しましたが、この海馬は扁桃体に隣接しています。そして、激しい恐怖や精神の動揺を伴う経験をした時には、扁桃体から多量に分泌するストレスホルモンが、海馬を活性化させます。そして、活性化した海馬は、その恐怖・動揺を伴う記憶を、より強固に保存します。こうして、その嫌な記憶は脳裏に刻み込まれ、思い出すたびに、今度は扁桃体の反応を促して、ストレスホルモンをさらに多量に分泌するという悪循環に陥ります。これがトラウマです。こうして記憶のトラウマが、鬱(うつ)を引き起こすようになったのです。
その後、人類がさらなる進化の階段を登って、次の原人の段階に移った時、鬱(うつ)の四つ目の要因が生まれました。それは〝言葉〟です。人間の前頭葉には他の種族にはない優れた〝想像力〟の機能があります。その鮮明な想像力によって、たとえ自分が直接体験していなくても、他人の言葉の語りから、自分の知らない出来事を追体験することができます。これは、ある面では素晴らしい能力ですが、同時に、他人の言葉によって、余計なトラウマを抱えてしまうリスクも大きくなってしまったのです。
このように進化の過程で、〝天敵〟〝孤独〟〝記憶〟〝言葉〟という四つの鬱(うつ)の要因を抱え込んでしまった人類ですが、通常はこの四つの要因を、すべて見事に封じ込めています。しかし、高度に発達した人間の脳が、このストレスホルモンの分泌を制御できなくなる五つ目の要因があるのです。それは、集団・共同体内における〝格差・不平等〟です。
番組では、A:相手より少なくお金を分けられた時、B:相手より多くのお金を分けられた時、C:相手と同じ額のお金を分けられた時の、扁桃体のストレスホルモンの分泌量をスキャンする実験を行っていました。
その結果、それぞれの場合のストレスホルモンの分泌量は、A:通常の1.7倍、B:通常の2.1倍、C:通常通りという結果でした。相手より少なくもらった時だけでなく、相手より多くもらった時も、ストレスホルモンはさらに激しく分泌されたのです。こうした実験からも〝格差・不平等〟が、〝人間の鬱(うつ)〟の五つ目の要因であることは明らかです。そして、激しい格差は、貧しい者だけでなく、富裕な者の脳も蝕むのです。
ですから、貧しくとも完全に平等な社会だった縄文時代(新石器時代)までは、よほど特殊な環境に置かれた場合を除いて、人類はほとんど鬱(うつ)を発症することはありませんでした。しかし、農耕が始まり、共同体内に貧富の格差が生じるようになると、鬱(うつ)を発症する確率は飛躍的に高まりました。つまり、人類が本格的に鬱(うつ)に悩まされるようになったのは、文明の発祥以降のことなのです。
有史以来、人類の社会は、文明の発達に伴い、複雑に入り組み、微妙なバランスの上で、階層化し続けてきました。そして今、現代人は、さまざまな格差・不平等の中で生活しています。共同体内のすべての老若男女が完全に平等な扱いを受け、互いに分け隔てなく共感しあえる社会など、望むべくもありません。
この不平等な世の中で、わたしたちは、時に経済的に脅かされ(天敵)、時に疎外されて孤独になり、時に記憶のトラウマを抱え、時に言葉の暴力に晒されます。これらすべてが、人を鬱(うつ)に追い込んでいくのです。
このNHKの番組は、いろいろな意味で、示唆に富んだ内容を含んでおり、大いに刺激を受けました。そこから、さらに考えてみると、現代社会のあらゆる問題の根源には、この〝格差意識〟の問題があることに気づかされます。
まず、鬱(うつ)をもたらす現代社会の最大の特徴は、目先の数値や具体的な目に見える結果を追い求める極端な成果主義にあります。成果が数値化されることによって、あらゆる成果が序列化されます。その結果、どんなささいな事柄においても、必然的に格差が意識されるようになるのです。そして、社会に蔓延する、この徹底して物質主義的な成果主義が、現代人の格差意識を圧倒的に助長しているのです。
その行く末がもたらす深刻な事態は、日本よりもはるかに成果主義がはびこる韓国社会の現状を見れば一目瞭然です。精神の荒廃と自殺率の上昇、相互信頼の喪失と鬱(うつ)の蔓延、倫理観の崩壊と突発性犯罪の増加、老人の孤立と家庭の崩壊、そして幸福感・充足感の喪失と本来の能力の阻害によって、韓国社会における格差の拡大と精神の荒廃は、ここ数年でますます深刻なものになっています。言わば、悪循環のスパイラルに陥っているのです。
また、中国では、地方政府が企業から土地の使用料を得るために、庶民の住んでいる土地を無理やり収用し、各地で怨嗟の抗議デモを招いています。これも地方の役人たちが、手っ取り早く収益をあげて、中央政府に〝目に見える成果〟をアピールしたいがための仕業です。彼らは抵抗する人々を容赦なく踏み潰します。
さらに、中央の役人もまた、土地問題で北京に来た人々の陳情を、地方政府から一人につきいくらのお金を受け取って平然と握りつぶします。彼らもまた、お金のために他者の心の叫びを無視できる、利己的唯物主義の権化です。
このように、中国社会の精神の荒廃は、目を覆うばかりに酷いものです。権力を持つ者が、己の利益を貪るのに、なりふり構わないのですから、格差はどこまでも広がるばかりです。抗議の焼身自殺や自爆アピールが各地で頻発するのも無理はありません。
さらに、卑近なところでは、沖縄県の学力問題にも、この皮相な成果主義のもたらす悪循環が現れています。親も教師も、非常に近視眼的で利己的な観点から、目先の点数ばかりにこだわり、目に見える結果・成績だけを求めることで、かえって社会の中の格差意識を助長し、子どもの健全な成長を阻害しているのです。
ある母親は「成績の良い子には普通に話せるけど、成績の悪い子にはつい小言ばかりになってしまい、普通に話せないので、関わるのを避けてしまう」と言っていました。この母親の持つ〝格差意識〟が、兄弟姉妹に与える影響は深刻です。子どもたちは、二人ともに能力発達を著しく阻害されるでしょう。つまりは、子どもに目に見える成果を求める強欲で利己的な母親の意識が、学力低下の元凶なのです。
このように、社会のさまざまな問題において、諸悪の根源とも言える〝形あるものだけを求める目先の成果主義〟は、皮肉なことに、本来平等を求めたはずの〝リベラル・左翼思想〟によって、人々の心に深く浸透してきました。その元凶は、左翼思想に含まれる、目に見えないものを信じることを拒絶する唯物主義と、伝統的共同体の価値観を拒絶する個人主義です。
この唯物主義と個人主義が、自我の肥大した利己的・短絡的な精神を育む土台となり、子どもたちのコミュニケーション能力と共感能力を阻害し、無私の行為や慈悲心を抹殺し、日本社会に大きな弊害をもたらしてきました。左翼思想に伴う、この物質主義・利己的個人主義の傾向が、マスコミ、教育界など、青少年に大きな影響を与え、世に流通する情報の質を左右する分野において、戦後、長い間猛威をふるってきたのです。
また、この傾向は、団塊の世代を中心に、現在それぞれの組織のトップに就いている、70代~50代の学識者に特徴的です。さらに、この世代の人々によって育てられた次の世代にも、この悪しき傾向は発展的に受け継がれています。その特徴は、たとえ我が子であっても、相手の心の内には興味を持たない、極めて身勝手で自己本位な思考行動プロセスにあります。この他人のことを構わない風潮が、鬱(うつ)を含めて、さまざまな精神疾患の要因となっているのです。
鬱(うつ)に関して実際の数字で見ていくと、1990年代にはほぼ横ばいだった鬱(うつ)の発症数は、2000年代に入って急カーブで上昇を始めまています。具体的には、日本の鬱(うつ)病患者数は、1999年(44万人)~2008年(104万人)まで、およそ2.4倍に急増しているのです。この3年おきに集計されている統計は、2011.10に集計された数値(95万人)が、2000年代に入って初めて前回を下回ったことから、日本の鬱(うつ)の上昇は落ち着いたと考える向きもあります。
しかし、わたしはその考えは早計だと思います。3.11後、半年経過した時期の日本社会は、国家的危機の真っ只中でした。そういう時期の社会では、「苦しいのは自分だけではない」という意識から孤独感が和らぎ、鬱(うつ)の発症は抑えられるからです。来年の統計発表が待たれるところですが、いずれにしても2000年代に入って、日本社会がそれまでとは別次元の「鬱(うつ)社会」となっているのは間違いのないところです。
ちなみに鬱(うつ)の発症率は、1990年代までの日本は、世界で最も発症率の低い国の一つでした。2008年の数値でも、まだ世界平均よりはかなり低く、アメリカなどは日本の2倍近い発症率です。全世界の推定では20人に一人が、鬱(うつ)に病んでいるとされています。世界は鬱(うつ)に病んでいるのです。
わたしたちは、まずは、この現状を曇りのない目で真っ直ぐに見つめることから始めなければなりません。同時に、物事の根幹を歪みなく理解するための、深い人間的な教養を身に付けなければなりません。その上で、初めて、他者と対等に交わり、互いに共感しあえる社会の構築が可能になるのだと思います。
番組によると、鬱(うつ)の原因は、直接的には、脳の中の扁桃体と呼ばれる部分が分泌するストレスホルモンにあるのだそうです。扁桃体からこのホルモンが分泌すると、不安や緊張、哀しみや憂鬱といった感情を引き起こすのです。そして、鬱(うつ)を発症している人は、正常な数値の二倍近いストレスホルモンが常時分泌し続けています。さらに、このホルモンが過剰に分泌し続けると、脳の神経細胞を萎縮させ、シナプスの樹状突起が縮んで、脳内に神経配線が切れている空洞を生じさせるのです。そのため、鬱(うつ)病の人は、いつも気分がどんよりと陰鬱に澱んでいるように見えます。
ところで、この扁桃体を持った最初の生命は魚類だそうです。生命の進化の歴史の中で、最初の脊椎動物が魚類です。それ以前の甲殻類や軟体動物が、神経回路しか持たなかったのに対して、脊椎動物は神経の中枢として〝脳〟を持つようになりました。そして、この原初の脳には扁桃体があり、神経が「天敵」を察知すると、そこからストレスホルモンが分泌されます。このホルモンの作用によって、運動神経は過敏になり、筋肉が活性化され、天敵から素早く機敏に逃げられるようになるのです。
ところが、小魚を天敵と同じ水槽にいれて数日放置すると、最初のうちは逃げ回っていた小魚が、そのうち水槽の底でじっと動かなくなってしまいます。そして、天敵の魚とは引き離して別の水槽に移しても、そのままほとんど反応を示さなくなるのです。この時、小魚の脳の扁桃体は、ストレスホルモンを多量に分泌し続けています。もはや、分泌を制御できなくなっているのです。これが、逃げられない狭い空間に〝天敵〟と一緒に閉じ込められることによって生じる〝脊椎動物の鬱(うつ)〟です。命に関わるストレスに一定期間持続して晒された結果生じる一種の〝麻痺状態〟が、鬱の最も基本的な要因であるということです。
また、より進化した動物であるチンパンジーも、鬱(うつ)になることが知られています。番組では、一人の雌のチンパンジーが、仲間のチンパンジーとのふれあいに一切背を向けて、毛布を頭から被って檻の中でうずくまっている様子が映し出されていました。この雌は、感染症の疑いから、一年以上もの間、仲間のチンパンジーから隔離されていたのだそうです。
このように、長期間群れと離れてひとりぼっちにされた時にも、チンパンジーは鬱(うつ)を発症します。つまり、チンパンジーなどが罹る〝類人猿の鬱(うつ)〟に関しては、持続性ストレスとは異なるもう一つの要因があるのです。それが〝孤独〟です。
そして、さらに進化した人類の祖先である猿人(アウストラロピテクス)の段階では、もう一つの鬱(うつ)の要因が生じることになりました。この〝猿人の鬱(うつ)〟に関する第三の要因、それは〝記憶〟です。
類人猿よりも大きな脳を持つ猿人は、記憶を司る海馬が非常に発達しましたが、この海馬は扁桃体に隣接しています。そして、激しい恐怖や精神の動揺を伴う経験をした時には、扁桃体から多量に分泌するストレスホルモンが、海馬を活性化させます。そして、活性化した海馬は、その恐怖・動揺を伴う記憶を、より強固に保存します。こうして、その嫌な記憶は脳裏に刻み込まれ、思い出すたびに、今度は扁桃体の反応を促して、ストレスホルモンをさらに多量に分泌するという悪循環に陥ります。これがトラウマです。こうして記憶のトラウマが、鬱(うつ)を引き起こすようになったのです。
その後、人類がさらなる進化の階段を登って、次の原人の段階に移った時、鬱(うつ)の四つ目の要因が生まれました。それは〝言葉〟です。人間の前頭葉には他の種族にはない優れた〝想像力〟の機能があります。その鮮明な想像力によって、たとえ自分が直接体験していなくても、他人の言葉の語りから、自分の知らない出来事を追体験することができます。これは、ある面では素晴らしい能力ですが、同時に、他人の言葉によって、余計なトラウマを抱えてしまうリスクも大きくなってしまったのです。
このように進化の過程で、〝天敵〟〝孤独〟〝記憶〟〝言葉〟という四つの鬱(うつ)の要因を抱え込んでしまった人類ですが、通常はこの四つの要因を、すべて見事に封じ込めています。しかし、高度に発達した人間の脳が、このストレスホルモンの分泌を制御できなくなる五つ目の要因があるのです。それは、集団・共同体内における〝格差・不平等〟です。
番組では、A:相手より少なくお金を分けられた時、B:相手より多くのお金を分けられた時、C:相手と同じ額のお金を分けられた時の、扁桃体のストレスホルモンの分泌量をスキャンする実験を行っていました。
その結果、それぞれの場合のストレスホルモンの分泌量は、A:通常の1.7倍、B:通常の2.1倍、C:通常通りという結果でした。相手より少なくもらった時だけでなく、相手より多くもらった時も、ストレスホルモンはさらに激しく分泌されたのです。こうした実験からも〝格差・不平等〟が、〝人間の鬱(うつ)〟の五つ目の要因であることは明らかです。そして、激しい格差は、貧しい者だけでなく、富裕な者の脳も蝕むのです。
ですから、貧しくとも完全に平等な社会だった縄文時代(新石器時代)までは、よほど特殊な環境に置かれた場合を除いて、人類はほとんど鬱(うつ)を発症することはありませんでした。しかし、農耕が始まり、共同体内に貧富の格差が生じるようになると、鬱(うつ)を発症する確率は飛躍的に高まりました。つまり、人類が本格的に鬱(うつ)に悩まされるようになったのは、文明の発祥以降のことなのです。
有史以来、人類の社会は、文明の発達に伴い、複雑に入り組み、微妙なバランスの上で、階層化し続けてきました。そして今、現代人は、さまざまな格差・不平等の中で生活しています。共同体内のすべての老若男女が完全に平等な扱いを受け、互いに分け隔てなく共感しあえる社会など、望むべくもありません。
この不平等な世の中で、わたしたちは、時に経済的に脅かされ(天敵)、時に疎外されて孤独になり、時に記憶のトラウマを抱え、時に言葉の暴力に晒されます。これらすべてが、人を鬱(うつ)に追い込んでいくのです。
このNHKの番組は、いろいろな意味で、示唆に富んだ内容を含んでおり、大いに刺激を受けました。そこから、さらに考えてみると、現代社会のあらゆる問題の根源には、この〝格差意識〟の問題があることに気づかされます。
まず、鬱(うつ)をもたらす現代社会の最大の特徴は、目先の数値や具体的な目に見える結果を追い求める極端な成果主義にあります。成果が数値化されることによって、あらゆる成果が序列化されます。その結果、どんなささいな事柄においても、必然的に格差が意識されるようになるのです。そして、社会に蔓延する、この徹底して物質主義的な成果主義が、現代人の格差意識を圧倒的に助長しているのです。
その行く末がもたらす深刻な事態は、日本よりもはるかに成果主義がはびこる韓国社会の現状を見れば一目瞭然です。精神の荒廃と自殺率の上昇、相互信頼の喪失と鬱(うつ)の蔓延、倫理観の崩壊と突発性犯罪の増加、老人の孤立と家庭の崩壊、そして幸福感・充足感の喪失と本来の能力の阻害によって、韓国社会における格差の拡大と精神の荒廃は、ここ数年でますます深刻なものになっています。言わば、悪循環のスパイラルに陥っているのです。
また、中国では、地方政府が企業から土地の使用料を得るために、庶民の住んでいる土地を無理やり収用し、各地で怨嗟の抗議デモを招いています。これも地方の役人たちが、手っ取り早く収益をあげて、中央政府に〝目に見える成果〟をアピールしたいがための仕業です。彼らは抵抗する人々を容赦なく踏み潰します。
さらに、中央の役人もまた、土地問題で北京に来た人々の陳情を、地方政府から一人につきいくらのお金を受け取って平然と握りつぶします。彼らもまた、お金のために他者の心の叫びを無視できる、利己的唯物主義の権化です。
このように、中国社会の精神の荒廃は、目を覆うばかりに酷いものです。権力を持つ者が、己の利益を貪るのに、なりふり構わないのですから、格差はどこまでも広がるばかりです。抗議の焼身自殺や自爆アピールが各地で頻発するのも無理はありません。
さらに、卑近なところでは、沖縄県の学力問題にも、この皮相な成果主義のもたらす悪循環が現れています。親も教師も、非常に近視眼的で利己的な観点から、目先の点数ばかりにこだわり、目に見える結果・成績だけを求めることで、かえって社会の中の格差意識を助長し、子どもの健全な成長を阻害しているのです。
ある母親は「成績の良い子には普通に話せるけど、成績の悪い子にはつい小言ばかりになってしまい、普通に話せないので、関わるのを避けてしまう」と言っていました。この母親の持つ〝格差意識〟が、兄弟姉妹に与える影響は深刻です。子どもたちは、二人ともに能力発達を著しく阻害されるでしょう。つまりは、子どもに目に見える成果を求める強欲で利己的な母親の意識が、学力低下の元凶なのです。
このように、社会のさまざまな問題において、諸悪の根源とも言える〝形あるものだけを求める目先の成果主義〟は、皮肉なことに、本来平等を求めたはずの〝リベラル・左翼思想〟によって、人々の心に深く浸透してきました。その元凶は、左翼思想に含まれる、目に見えないものを信じることを拒絶する唯物主義と、伝統的共同体の価値観を拒絶する個人主義です。
この唯物主義と個人主義が、自我の肥大した利己的・短絡的な精神を育む土台となり、子どもたちのコミュニケーション能力と共感能力を阻害し、無私の行為や慈悲心を抹殺し、日本社会に大きな弊害をもたらしてきました。左翼思想に伴う、この物質主義・利己的個人主義の傾向が、マスコミ、教育界など、青少年に大きな影響を与え、世に流通する情報の質を左右する分野において、戦後、長い間猛威をふるってきたのです。
また、この傾向は、団塊の世代を中心に、現在それぞれの組織のトップに就いている、70代~50代の学識者に特徴的です。さらに、この世代の人々によって育てられた次の世代にも、この悪しき傾向は発展的に受け継がれています。その特徴は、たとえ我が子であっても、相手の心の内には興味を持たない、極めて身勝手で自己本位な思考行動プロセスにあります。この他人のことを構わない風潮が、鬱(うつ)を含めて、さまざまな精神疾患の要因となっているのです。
鬱(うつ)に関して実際の数字で見ていくと、1990年代にはほぼ横ばいだった鬱(うつ)の発症数は、2000年代に入って急カーブで上昇を始めまています。具体的には、日本の鬱(うつ)病患者数は、1999年(44万人)~2008年(104万人)まで、およそ2.4倍に急増しているのです。この3年おきに集計されている統計は、2011.10に集計された数値(95万人)が、2000年代に入って初めて前回を下回ったことから、日本の鬱(うつ)の上昇は落ち着いたと考える向きもあります。
しかし、わたしはその考えは早計だと思います。3.11後、半年経過した時期の日本社会は、国家的危機の真っ只中でした。そういう時期の社会では、「苦しいのは自分だけではない」という意識から孤独感が和らぎ、鬱(うつ)の発症は抑えられるからです。来年の統計発表が待たれるところですが、いずれにしても2000年代に入って、日本社会がそれまでとは別次元の「鬱(うつ)社会」となっているのは間違いのないところです。
ちなみに鬱(うつ)の発症率は、1990年代までの日本は、世界で最も発症率の低い国の一つでした。2008年の数値でも、まだ世界平均よりはかなり低く、アメリカなどは日本の2倍近い発症率です。全世界の推定では20人に一人が、鬱(うつ)に病んでいるとされています。世界は鬱(うつ)に病んでいるのです。
わたしたちは、まずは、この現状を曇りのない目で真っ直ぐに見つめることから始めなければなりません。同時に、物事の根幹を歪みなく理解するための、深い人間的な教養を身に付けなければなりません。その上で、初めて、他者と対等に交わり、互いに共感しあえる社会の構築が可能になるのだと思います。