奈良県橿原(かしはら)市の市立畝傍(うねび)中学校で、今年2013年3月に、中1女子生徒が、激しい虐めによって自殺に追い込まれた事件がありました。当初、学校側は虐めがあったことを否定していましたが、遺族の再三の要求に応じて、約2ヶ月後にようやく学校側がいやいや行った全校生徒へのアンケートでは、40件以上の「腹を蹴る」などの明白な虐待・暴行・虐めの目撃証言が集まり、「虐めはなかった」という学校側の報告は、まったくの虚偽であったことが明らかとなりました。
しかし、それ以降も、橿原市教育委員会は「虐めと自殺の因果関係は極めて低い」と根拠のない主張をし続け、遺族の再三の要求にもかかわらず、アンケートの公表を拒み続けてきました。さらに2ヶ月経った7月になって、やっと遺族に開示したものの、その際に「アンケート内容の公への情報公開を禁じ、口止めを強要し、独自調査も禁じる」旨に了承するように誓約書にサインさせました。一方で、被害者の求める中立的で公正な第三者機関による調査の再三の要求は、現時点でもなお拒み続けているのです。これは、真相を究明したい遺族にとっては、まったく納得のいかないものです。
こうした橿原市の遺族に対する態度は本当に酷いものです。しかし、残念ながら、現在のところ、自治体に対して、徹底した情報公開と、公正かつ厳正な第三者調査機関の設置を強制できる法律は存在しません。それどころか、学校側による露骨な情報隠蔽を罰する法律すらないのです。これは明らかに法律の不備です。その法の不備の上に胡座をかいて、橿原市は「どうせ情報公開は拒めるし、第三者委員会もうやむやにできる」とたかを括ってきたのです。
いじめ自殺問題での遺族に対する自治体の態度の酷さは、橿原市に限ったことではありません。現に、鹿児島県出水(いずみ)市の米ノ津(こめのつ)中学校2年女子生徒の虐め自殺事件(2011.9)の場合には、十数名の生徒から虐めの目撃証言があったにもかかわらず、市教委が一切の全校生徒アンケートの開示を、断固として拒絶しました。独自の調査から、生徒たちのいじめ目撃証言をすでに多数得ている遺族に対してすら、アンケートを見せることを拒んでいるのですから、どうも加害者側に、よほどの社会的実力者がいるのではないかと思われます。この出水市では、むしろ、地域ぐるみでアンケート開示反対運動があるとも言われています。
そして何もかもがうやむやのうちに、出水市教委の溝口省三教育長は、ついに2011年の11月に、「虐めの事実はなかった」と虚偽の報告をして、たった3ヶ月で杜撰に調査を打ち切っています。にも関わらず、地元の新聞すらも、市と結託して(?)一切の報道を控え、結果として事件の隠蔽に力を貸す始末です。鹿児島県出水は本当にすごい地域です。
現在も、遺族はアンケートの開示を求めていますが、出水市教委は徹底無視の構えです。大津市や橿原市並の遺族のみへのアンケート開示さえ拒絶する出水市の病理は根が深いです。このように市教委が、遺族に対して、そうした徹底した無視を続けられる背景には、大多数の市民の後押し(見て見ぬ振り)があるはずです。つまり、少なくとも過半数の出水市民は、残念ながら〝クソ〟だということです。
橿原市の場合も、市及び市教育委員会は、遺族に対してあくまで強気の態度を崩さず、「あなたたちが、もう死んでしまった一生徒のことで思慮なく騒ぐことで、生きている周囲の生徒たちが傷つくのです」という内容の文書を遺族に送っています。また、市教育長吉本重男氏は「これ以上騒ぐというなら、受けて立ちますよ。望むところです」と、強気の姿勢を崩さず、第三者委員会のトップには(訴訟対策として)橿原市の顧問弁護士を就任させるなど、今に至るまで、徹底して遺族への対抗姿勢を保持しています。
そして現在、この8月の時点においても、まだ、橿原市教委は、あくまでも「学校での虐めは自殺に関係なく、むしろ直接の自殺の原因は家庭にあったと考える」と主張し続けています。「臭いものに蓋(こっそり隠蔽)」どころか、「すべての責任は遺族にある!(完全な開き直り)」と、平気な顔で堂々と責任転嫁しているのです。誠意のかけらもない市教委の、傲慢極まる隠蔽体質が、大津市、出水市に続いて、ここでも鮮やかに顕在化しています。

こうしたあまりに威丈高で傲慢極まる市教委の対決的態度にたまりかねて、遺族側は、この8月16日、マスコミへのアンケート内容の公開に踏み切りました。世論を喚起して社会的な圧力を加える以外に、市教委を動かすすべはないと判断したのでしょう。
教育長の対応は、社会人として考えられないような、実に理不尽な態度です。学校、市教委の露骨な無視についても、遺族の憤懣やる方ない心情は推測するにあまりあります。
何を言っても、暖簾に腕押し、糠に釘。一般の社会に向けて晒すことでしか、市長、市教委、学校の遺族への対応を改善させることができないという、大津の事件と全く同じ構造が、ここにも存在しています。
彼らの背後には、不特定多数の虐めていた側の親たちがいるはずです。そして、その中には、己の地位権力を総動員して、なんとしても我が子を守ろうとしている連中が必ずいるものです。彼らは学校側や市教委と結託し、犠牲者とその遺族に関する誹謗中傷によって遺族側に不利な噂を広めることを含めて、ありとあらゆる手段を使って、なりふり構わず自殺した生徒とその家族を貶めようとするのです。
また、気になるのは、こうした学校や市教委の問題を追求することに関して、マスコミの動きが常に鈍いことです。それは、左派の教育関係者と左派マスコミ関係者の仲間意識に関係があると思えてなりません。特に出水市の場合に、その強い傾向を感じます。
担任の教師が生徒から聞き取り調査を行い、その報告を市教委の依頼した匿名の委員が、わずか三回の会合で「虐めはなかった」と結論して報告を終わるという、これはもう最低の自称〝第三者委員会〟です。こんな詐欺が許されるなら、すべては市教委の思いのままです。そして、この事態に騒がない地元鹿児島県のマスコミ(「南日本新聞」「西日本新聞」など)は、ちょっと異常としか思えません。
また、出水市の場合は、実は市教委だけでなく県教委の対応にも大いに問題があります。奈良県教委が、橿原市教委のアンケート非公開の対応に批判的だったのに対して、鹿児島県教委は、アンケート公開断固拒否を貫く出水市教委を、全面的にバックアップしています。従って、出水市の問題は、実は鹿児島県全体の抱える問題なのだと言えます。彼ら鹿児島県の教育者たちの合言葉は「臭いものには、徹底して蓋をしろ!決して明るみに出すな!それが一番だ!」というものです。
そして、もしも、死者の心を踏みにじる彼ら(加害者の家族、学校、市教委、県教委、マスコミら)の利己的な目論見が、社会的に黙認され、結果的に成功するのであれば、それは「大多数の市民が、命と向き合うことに、実はまったく興味がない」という社会で、今わたしたちは生きているのだということを意味します。つまり、そこに現れている現象は、この国が倫理崩壊と滅びに向かっている確かな証拠と言えるでしょう。
〝死〟を軽々しく扱う人々は、〝生〟もまた軽々しく扱うものです。そんな「〝死者〟を侮蔑し、〝生者〟を鼻であしらう者たち」を、心ある市民たるもの断じて許してはなりません。わたしたちが生きていける世界を守るために、たとえ酷いダメージを与えられたとしても、彼らの横暴に決して泣き寝入りしてはならないのです。死者の尊厳を守ることは、実は生者を守り育むこととひとつだからです。
遺族の方たちに、申し上げたいと思います。「この無念晴らさでおくべきか!」これは、道半ばにして亡くなった女の子の弔い合戦です。決して挫けず諦めず、戦い抜いてください。影ながら、お祈り申し上げます。あなたたちの戦いは、この国を救おうと奮闘する人々みんなの大きな戦いの一部なのです。

昔、お釈迦様が、一番弟子のアーナンダに、裕福な家ではなく、村で一番貧しい人たちの家をまわって托鉢してきなさいと命じました。それでアーナンダは、余剰な物など何もなさそうなあばら家ばかりをまわったのです。すると貧しい人々は、お釈迦様の一番弟子に、なけなしの品をどこからか引っ張り出してきて渡しました。ある者は、わずかな籾を申し訳なさそうに差し出しました。またある者は、これしかないからと、泥だんごを差し出すのです。ナーランダは、貧しい人たちの真心に触れて深く心を動かされました。
もし、金持ちのところをまわっていたら、所詮は乞食・物乞いと蔑まれるだけで、ひどい屈辱感だけが残ったでしょう。けれども虐げられた貧しい者たちのところをまわったことで、社会的に弱い立場の人々の健気な想いに触れて、自然と湧き上がる感謝の気持ちを感じることができたのです。お釈迦様は、そうなることをよくご存知だったのです。
今の世の中もまた、お釈迦様が生きていらした紀元前5世紀と、本質的には何の違いもありません。地位も権力もある裕福な人々は、いつの時代も貧しい者や弱い者を虫けらのように扱うものです。自らの名誉や財を誇り、持たざる者を馬鹿にするのです。橿原市教委の吉本重男教育長や出水市教委の溝口省三教育長の態度こそが、その典型でしょう。
しかし、一方でわたしは、「今の子どもたちは、飽食の中で贅沢しているから、苦労知らずで〝ヤワ〟で自己中心的なのだ」「与えすぎたからだ」という意見が、正しいとは思いません。裕福に育ったから、人格的に未成熟なのだと言うのなら、美智子皇后陛下だって、緒方貞子さんだって、そうだということになります。ナイチンゲールだって、マザーテレサだってそうではありませんか。
人はみな、「自分が一番良くわかっている」と考えます。そして、「なぜなら、自分が一番苦労しているから」「あなたの痛みなど、わたしの苦しみとは比べ物にならない」と思いたがるものです。けれども、その判断は思い込みにすぎず、たいていは間違っているのです。
「自分はあの人と違って愛されてきた」とか「自分は人より努力してきた」というのもそうですが、必ず相手より比較優位に立たないと気が済まない人がいます。それによって傲慢でいることが許されると感じていられるからです。
そして、自分の狭い了見ですべてを判断し、たとえその不見識を指摘されても、自分の考え方の根源にある歪みや誤りに気づかないふりができるのです。「たかが、あなたごときには言われたくない」と思うのです。自分が優越していると思えるのは、育ちの裕福さのせいではありません。それはむしろ、当人の品性の下劣さと教養の欠如の現れです。
何不自由なく裕福に、そして、欠けることなく幸福に、愛情に満ちた家庭で育った、素晴らしい方たちは、歴史上たくさんいらっしゃいます。お釈迦様も、マルクス・アウレリウス・アントニヌスも、ガンジーも、シモーヌ・ヴェーユも、イマキュレー・イリバギザも、そうです。彼らの精神は、深い気遣いのある裕福な家庭の中で育まれ、人類史上稀に見るほどの高みへと成長したのです。
もちろん、そうした〝豊かさ〟という環境条件の〝欠如〟を糧として、その克服の過程を通して成長した偉人も多くいます。例えばポール・トゥルニエは、その著書『苦悩』の中で、「孤児たちが歴史をつくった」と述べています。
ですから、現代の子どもたちの抱える心の問題の根本にあるのは、飽食でもなければ、豊かさの欠如でもないと思うのです。もっとも重大な問題は、〝人間〟そのものへの関心の薄さなのではないでしょうか。もちろん、相手をコントロールする手段を得るために、相手への関心を抱く場合を除いてです。
そして、そうした子どもの抱える問題は、すべて、親の世代の大人たちが抱えている問題の写し鏡にすぎません。自分に都合良く物事を支配し操ることだけ考えて、人間そのものには関心がないのは、実は教師や父母といった大人たちの方なのです。それぞれの事件で、PTAが、一人の少女の死を無視してしまえるのは、親たちが他人の子に関心がないからです。

『大道廃れて仁義あり、知恵出でて大偽あり、六親和せずして孝慈あり、国家昏乱して忠臣あり』という老子の言葉があります。人間の自然な感情や生き方が廃れて、人々は人為的な道徳や正義を声高に叫ぶようになります。自分の知恵でなんとかできるという慢心から、物事を誤魔化し偽る心が生じ、嘘ばかりの世の中になります。家族の和合が乱れて、親兄弟が他人のようによそよそしくなると、親孝行や慈愛を求める声が世間にあがりはじめるのです。国家が乱れて、みな自分のことしか関心を持たなくなると、世を憂えてやむなく奉仕する人たちが現れるのです。
現代人の多くの人の心には、自分の判断と対策以外に頼るものはないという不信心があります。その不信感が、物事に対して常に支配的に振る舞う人の心の奥底にも巣食っているのです。その彼らの計算された振る舞いが、大道を忘れて小賢しい人為に頼るということです。
信仰なき〝知恵〟は、必ず他者を支配するための策略に陥ります。物質的な世界で目的を果たすための手段として、知識や情報がもてはやされます。こうして本来の意味とはかけ離れた利己的な計算、自己の目的達成の手段が〝知恵〟と呼ばれるようになるのです。老子が上の文章で批判する「知恵」も、実は同じ意味で使われています。
わたしたちはみな〝知恵〟がありすぎるのです。そして、わたしたちが〝知恵〟を追い求めれば求めるほど、ますます世の中の〝大道(自然な人の道)〟がすたれていきます。アドルノの言う〝道具的理性〟、手段としての知恵がもてはやされて、ソクラテスの〝無知の知〟の教え、真の叡智はすたれていくのです。
わたしたちが一番無知なのは、実は自分自身についてです。頭を働かせるのにいそがしすぎて、どれほど自分が人の自然な心の働きを失っているか、気づけないのです。つまり、自分がどれほど他者の心の内や生死にすら関心がない最低の人間であること、自分のことにしか関心がない冷血そのもののの人造人間(アンドロイド)であることに、気づかないのです。
「アンドロイドは電気羊の夢をみるか」の著者フィリップ・K・ディックは、「人間とアンドロイドの違いは共感能力があるかないかだ。人間には共感能力があるが、アンドロイドにはない。」と述べています。いたるところ、アンドロイドだらけの社会では、正常な人間は息をすることもできなくなって、ついには窒息死してしまうのです。
出水市米ノ津中学校では、勇気を振り絞っていじめの真実をアンケートに書いた子どもたちが、その自分たちの書いた真実を隠蔽し続ける大人たちの姿に、この社会で生きていく勇気を挫けさせられています。世間が頑なに一人の少女の死に関わる真実の公開を拒む様子を見せつけられ、自らも口をつぐんでしまい、「どうせ真実を言っても世の中では通じない」と確信して、利己的に嘘をついて生きることだけを教わり学ばせられる。これが鹿児島県の教育の姿なのです。ともかく鹿児島は、県教委自体の隠蔽体質が本当に深刻です。
その中でも、特に、この米ノ津中学校の闇の深さは、想像を絶するものがあります。この学校では、1994年にも中3男子が首吊り自殺し、両親が独自の調査によって、いじめを示唆する14通のアンケートを個人的に受け取ったものの、本格的に生徒へのアンケートを行なったはずの、学校側及び出水市教育委員会は、自殺に繋がるいじめの事実を否定したまま21年経ち、今日に至っています。
「いじめを知っている」とする生徒たちの証言が多数あるにもかかわらず、米ノ津中学校長もPTA会長も出水市教育委員会も、よってたかっていじめの事実をもみ消してしまいました。鹿児島県教委も、それを後押ししました。地元マスコミも、まったく記事にしませんでした。
「シャープペンを壊されたからと言って、それでいじめと言えるかね。ただのイタズラだよ。」校長は言います。自殺した男子生徒へのいじめに関して、学校側が生前にとったアンケートも、死後にとったアンケートも、現在に至るまで一切公表されないまま、おそらくは勝手に廃棄処分されています。そして、学校側は、厚顔にも「いじめはなかった」と断言し続けているのです。
子供の命よりも、自分や我が子の立場や外聞を守ろうとする利己的な親たちと、無責任で無神経で人の心のまったく通じない先生たちの営む、いじめの温床と化した破廉恥な米ノ津中学校は、もはやまともな人間教育の場として成立する余地がないように思えます。




🌠2015.4.23、奈良県橿原市教委の第三者委員会が、畝傍中学校での中1女子自殺事件の報告書を公開しました。この報告書についての報道はさまざまです。
報告書の内容について、まず時事通信社は、「いじめは自殺の直接原因ではない。親に対する不満や苛立ちも、自殺の背景として認められる」と、市教委・市長側に立って、かなり偏った報道をしています。なぜ、そうなるのか、記者の見識が問われます。
TBSは「いじめは自殺の要因の一つである。また、当初の調査委員会に、市の顧問弁護士が入っていたことは問題であり、市に有利な結論を出させようとしたと考えられる」と、報告書の内容を当たり障りなく伝えています。これも、かなりおとなしい当たり障りのない記事です。
毎日新聞では「学校、市教委(吉本重男教育長)、森下豊市長は、『原因は家庭』と即断した。いじめの事実に多くの教員が気づいていたにもかかわらず、誰も面と向かって取り組もうとしなかった」と、調査委報告の文章の一部を、多少踏み込んだかたちで紹介しています。とはいえ、この記事でも事後の対応のひどさにはまったく言及していません。
中日新聞では「学校がいじめを放置し、生徒の孤立を深めた。また、森下豊市長が、遺族と対立し、市に有利になるように調査委に働きかけたことが、真相究明を遅らせ、早期に再発防止策を講じる機会を失わせた。子どもの自死を、大人の汚れた論理でもてあそび、まことに許しがたい」と、遺族の立場に立って、報告書の文章を、より具体的に書き記しています。
以前、公正な調査委の発足を求める遺族に向かって「望むところだ」と言い放った吉本重男教育長は、おそらくこれまで散々叩かれてきたせいか、今回は腰の低い態度を見せているようです。しかし、初期の調査委に市の顧問弁護士を据えた森下豊市長は、「その理由は訴訟対策ではなく、早期に円滑に調査委を立ち上げるために、信頼している顧問弁護士に頼んだにすぎない」と言っています。他に公正な立場にある方で〝信頼できる人〟を、森下市長が探せなかったのは残念なことです。
さらに、もっと残念なのは、吉本重男教育長と森下豊市長の二人が、事件が明るみになって、これだけ経っているのに、いまだに悠々と権力の座に座っていられることです。
遺族は、第三者委員会の報告を検討して、その後、虐めた側の生徒らと学校側に対して、民事訴訟を起こしました。裁判は、2020年6月現在、まだ続いています。5月には、テニス部顧問の先生が、遺族側の証人として「生徒間で、いじめがあったこと」「担任ら、学校側が、いじめを認識していたが、放置していたこと」を証言しました。
(※吉本重男教育長と森下豊市長は、その後も、責任問題を問われたり、進退を迫られることもなく、2019年11月11日、任期満了まで務めて、円満に退任しました。人ひとりの命のなんと軽いことか。)


🌠2015.11.26、大津市では、いじめに関する学校側の生徒へのアンケートに際して、被害者への結果の開示の基準について、新たな指針を発表しました。それによると、被害者の保護者に、いじめの内容だけでなく、加害者側の氏名も開示するという、全国でも例のない踏み込んだものになっているようです。この加害者氏名に関しては、弁護士を除き、他人には知らせないという条件が付きます。もし、マスコミなどにいじめの内容を公表する場合は、氏名を隠した別資料で公表してもらうということです。
また、文部科学省の指導では、いじめによる自殺が疑われる場合に限り、アンケートを実施するよう要請していますが、大津市教委は今回、その他のいじめ被害に関してもアンケートを実施することと方針を定めています。県庁や市役所や市教委や中学校への連日の電話抗議も続いたことでしょうし、教育長が義憤に駆られた暴漢に襲われるという事件もありました。さすがに反省が促されたということでしょう。
このレベルの指針が、これまで全国に例がないという現状が酷すぎるのではありますが、とりあえず大津市は一歩前へ進んだようです。2012年2月に遺族が起こした民事訴訟において、今年2015年3月に3年ぶりに和解が成立し、市側がついに過失責任を認めた流れを受けて、市教委がより遺族に配慮した指針の作成を余儀なくされたという面もあります。この市側の譲歩も、遺族の方々の強い意志と支援者の厚い支え、そして国民からの激しい批判があったからこそです。
この自治体「悔い改め」の傾向が、橿原市や出水市でも生じると良いのですが、そのためにはやはり、もっと社会的に大きく問題が取り上げられ、県や市教委や学校への世間の批判や攻撃が、もっともっと強まらなければなりません。
ですから皆さん、ここに記した、いまだにほとんど悔い改める気配のない『奈良県橿原(かしはら)市畝傍(うねび)中学校』の〝中1女子いじめ自殺事件(2013.3)〟と、『鹿児島県出水(いずみ)市米ノ津(こめのつ)中学校』の〝中2女子いじめ自殺事件(2011.9)〟及び〝中3男子いじめ自殺事件(1994.10)〟について、県名・都市名・学校名・市長名・教育長名などを、しっかり脳裏に刻み込んでおいてください。


🌠2015.12.15、米ノ津中学校で自殺した中2女生徒へのいじめの実態アンケートの開示を求めて、遺族が出水市に対して起こしている行政裁判の鹿児島地裁一審判決が出ます。遺族が求める開示を、虐めた側の生徒の「プライバシー保護」を理由に断固認めない出水市が勝つのか、わが子の死の真相を明らかにしたい遺族の「知る権利」が認められるのか、注目すべき判決です。
また、この判決が、大津市のいじめアンケートの原則開示を明言した指針の発表の直後になされるという点でも、比較対照の観点から興味深いものとなるでしょう。
さらに、橿原市畝傍中学校で自殺した中1女生徒の遺族が、今だ責任を認めない橿原市や加害生徒に対して、2015.9に起こした民事訴訟にも、深く関わってくる問題です。

🌠2015.12.15、鹿児島地裁は「アンケートの原本は、たとえ氏名を黒塗りにしても、筆跡などから個人を特定できる可能性があるため、アンケート回答者のプライバシー保護のため開示できないという理由は理解できる」とした一方で、「アンケートの内容を氏名・性別・学年などを伏せて別に文書を作成し、遺族に開示することはしなければならない」と、つまり、アンケート結果をまとめた写しを開示するように出水市に命じました。
ここで問題になるのは、原本を遺族が見れない場合、学校側や出水市教委によるアンケート内容の改ざんをどうやって防ぐことができるか、という点です。地裁職員あるいは第三者機関が、原本と写しを照らし合わせてチェックするのでしょうか。その辺がはっきりしません。
「いじめはなかった」と断言しながら、ここまでアンケート開示を拒絶し続けてきた溝口省三委員長を、わたしはどうしても信用することができないのです。必ず何らかの隠蔽工作が行われるものと考えるのが妥当な判断と言えましょう。
現に千葉県館山市の第三中学校では、2008.9の中2男子学生の自殺に関して、校長の指示によるアンケート原本の違法な廃棄があり、再度のアンケートでも館山市教委が出した要約の内容に遺族が満足できず、氏名など墨塗りの原本のコピーを開示させて要約と照らし合わせたところ、要約では重要な内容がいくつも抜け落ちていることが発覚しました。館山市教委のいじめ隠蔽工作が疑われるため、現在第三者委員会の設置が協議中ですが、市教委と遺族の溝は深く人選が進みません。墨塗りの原本の中には、すべて真っ黒に塗りつぶされているものや、墨塗りが多過ぎて内容が判別できない(*)ものもあったようです。
同じような隠蔽工作が、出水市教委でも行われることは、容易に予想できます。しかし、たとえ墨塗りであっても、回答者の想いのこもった肉筆の原本こそが、遺族の求めるものでしょう。「筆跡から本人が特定できるから」との理由で、裁判所が肉筆原本の遺族への開示命令を出さないのは、どう考えても納得できません。
鹿児島地裁は、問題の本質から逃げたのではないか、という気がしてなりません。

*2014.1.14、大津地裁は、大部分黒塗りで内容のほとんどが判別できないアンケート用紙を遺族に開示した件で、「アンケートの意味をまったくなしていない」という遺族の訴えを認め、大津市に慰謝料30万円の支払いを命じる判決を下しました。全国各地の教育委員会によるアンケート不開示及び悪質ないじめ隠蔽工作の横行に警鐘を鳴らす判決であったと言えるでしょう。

🌠沖縄本島でも、去年(2015)の10月12日、小学4年生の男の子が首吊り自殺した件で、まだ生前の9月29日に学校側が実施したアンケートや聞き取り調査から、「持ち物を隠された」「服を脱がされた」「訳もなく殴られたり蹴られたりした」「転校したい」などという生徒本人からの訴えがあったにも関わらず、学校側は一切関知せず対処しませんでした。実施したアンケートを2週間も放置していたわけで、これでは年三回の定例アンケートの意味がありません。やるだけのやりっぱなしで、完全に形骸化していたわけです。
しかも、地元豊見城市教委が11月に設置した第三者委員会は、これまでの三回の会合で「自殺につながる重大ないじめはなかった」と判断していたことが、事件発生から3ヶ月も経った、年明けの1月9日になって、ようやく発表されました。しかも、この時の豊見城市教委の記者会見は、予定では、沖縄タイムス、琉球新報の県内二紙限定で13日に行われ、TVも、県外マスコミも、すべてシャットアウトされるはずでした。これに関しては、県内二紙と市教委との間で、何らかの申し合わせがあったものと考えられます。9日の二紙の紙面では、「事件については、8日にわかった」と書かれています。これが全国のメディアで報道されると、急きょ、翌日10日に、市教委からの情報公開が行われました。こうしたすべてに、そして、何よりも三ヶ月間一切報道されなかったというところに、複雑怪奇な裏の事情がありそうです。
出水市と同様に、あるいはそれ以上に、沖縄は教員の権力が際立って強い県です。マスコミと市教委の結びつきも強いものがあります。残念ながら、学校の不祥事を隠蔽する勢力の強大さは他府県の比ではありません。事件が発生した小学校では、未だ保護者説明会すら開かれておらず、事件発生後の聞き取り調査についての詳しい発表もないのです。市教委による保護者説明会は、12日に開かれる予定との報道もありましたが、実際に行われたのでしょうか。いずれにしても、この保護者会自体、本来は三ヶ月前に行われるべきものです。
また、いじめアンケートの実施や公開に反対する父母からの圧力も、非常に激しいと聞きます。我が子の問題でなければ、所詮は他人事であり、また、虐めた側としては、痛い腹を探られるのは迷惑ということらしいです。本当に酷い話です。
市教委は、県内二紙とも結託して(?)、「自殺後11月に実施したアンケートの複数の目撃証言から、いじめはあったと認識している」と認めつつも、「ただ、それが自殺につながるような重大なものとは考えにくい」という線で、何とか押し通したい様子がありありと見えるのです。しかし、彼らの意に反して、事件が全国ニュース化したため、うやむやにするのが難しくなって相当に困惑しているようです。

🌃2021.3.23、橿原市市立畝傍中学校中1女生徒飛び降り自殺に関して、遺族が虐めていた当時の同級生らを訴えた裁判で、同級生や市の主張を全面的に支持し、那覇地方裁判所の島岡大雄裁判長は、「クラスメイトの証言や調査委の報告から、いじめや仲間外しや無視があったとは認められない」として、いじめの事実自体を否定し、遺族の訴えをすべて完全に退けました。
そして、PTAや学校や市教委や市ぐるみのいじめ隠蔽の事実も、完全に揉み消したかたちです。メディアも、世間も、これに対して、なんの反応もしていません。
裁判長、あなたは当時の生徒たちのアンケートを読んだのですか?
橿原市は、いまだにアンケートを開示していませんよね。なぜなら、そこには、生徒たちの手で、いじめの事実が明記されているからです。
しかし、大人たちは、全てを隠蔽して、事件をなかったことにしようとしています。
これが〝無視〟というものです。
この国で、自殺が多いのも、無理はないと言わざるを得ません。